動的平衡
僕らは、ある流れの中で生きている。
生き物の細胞は常に生死を繰り返し、半年もすれば、すべて入れ替わってしまう。
細胞をさらに細かくしていくと、原子というものになり、ものを食べると、その食べ物を構成する原子が、即座に身体を構成する一部となる。
そうやって、日々、変わり続けながら、平衡を保っているのが生物の正体で、僕らは個体ではなく、揺らぎ続ける気体みたいなものだという。
それを動的平衡と言うそうだ。
そして、この世界の原子の総量というのは、古代から変わっていない。
つまり、僕が死ねば、個体は無くなったように見えるけれど、実は、この世からは何もなくなっていないのだ。
人間を構成している物質は、酸素、窒素、炭素、水素。
死ねば、それらは、アンモニアや二酸化炭素になって大気に溶ける。
雨になって、植物に吸収され、また誰かの口に入り、その細胞を構成する。
入れ替わっているだけなのだ。
この話を聞きながら、否応なく仏教に思考が行く。
諸行無常。空。輪廻。
すべての事は、一瞬も同じでなく、常に変わり続けている。
実態は何も無く、すべて流れ、回っている。
細胞の話でさらに面白かったのは、細胞ははじめは、どこの細胞をになるか決まっておらず、それは、細胞同士の動きや状態によって、まるで空気を読み合うかのように、自分の役割を決めていくのだという。
そして、例えば肝臓の細胞が、肝臓細胞という役割を忘れてしまったものが、ガン細胞だという。役割を忘れてしまった細胞は、増え続けることしかできない。
ここで、また思考は、移る。
最近僕はネット上で攻撃を受けることがある。
僕は自分を右だとも左だとも思わないが、例えば平和憲法の重要性を主張すれば左だと攻撃を受け、生活保護者の権利を主張すれば、弱いやつは死ねと言われ、女性被害者を守ろうとすれば、加害者を守ろうという攻撃に合う。
その人たちは、なぜか必死に論破しようとしてくる。
その必死さが気にかかっていた。この動きは何なのだろう。
自分なりに分析すると、それは、社会に居場所や自己肯定の場がなくなってきていることに起因するのではないかと思っている。
国家だ正義だ右だ左だと言わなければ、この世界で、自分の位置を見いだせない。
この世界を構成する重要な一部としての自分だという確信の無さ。
その不安の受け皿となっている可能性がある。
「在日」という共通の敵がいることで、安心は確保される。
彼らの理論に対して反対意見を述べることは、彼らにしてみれば、ただの反対意見ではなく、自分たちを排除する理論に等しい。
そういう必死さを感じるのだ。
自分の役割を忘れて増え続けるがん細胞。世界でヘイトが増えていることと、どうしても重なる。
この世界で、僕は何をやるべきだろうか。
この流れの中で、どう生きていくことができるだろうか。
変わり続けるということは、どういうことなんだろうか。
ここで、思考は、重なる。
僕が吐く呼吸一つ、言葉一つ、行動一つ。
それらが、世界そのものなのだ。
世界から孤立しているもの、人、など存在しない。
この世界は一つの中にあり、すべては繋がっている。
「在日」がいるのではない「安部」がいるのではない「北朝鮮」があるのではない。
僕の中にこそ世界がある。
僕が、何をして、どういう思考を持つか。
足元が一番大事だ。
自分がどのようなふるまいをして、どのような選択をしていくのか。
明日の僕のそれさえも、僕には分からない。
家族を抱えながら、そんなことでいいのかと思う。
しかし、それうあるべきだとも思う。
見えないものを感知しながら、目の前の事を整えていくしかない。
こうして書きながらもあらゆる思考は浮かんでは消え、どこか同じところに戻ってくる。