苦しみから始める
女性被害者とバックラッシュ
最近、気になっていることがある。
女性の権利運動に対する攻撃や、レイプ被害を訴える女性を非難するという人たちの存在。
人権運動という視点で見れば、いわゆるバックラッシュ。
それは、人権運動には付き物で、歴史上必ず起こっている現象のようだ。
強い怒りを伴い、黒人運動でもたくさんの人が殺された。
僕自身もレイプ被害を訴える女性の運動を応援し、SNSで記事をシェアしたら、とたんに攻撃を受けた。
「攻撃」と書いたのは、そこに議論の余地がないからだ。
彼らは「論破」という呪文を携え、悪である対象をやっつけようという様相を呈している。
しかし、勇敢な勇者には見えない。
彼らの論破という呪文は、弱者を守るためではなく、むしろ自分たちを守るために、弱者にさえ向けられているように見える。
そして、僕が最も感じるのは、彼らの本当の怒りの対象は、今、目の前で攻撃対象にしている人ではないのではないかということ。僕や女性に向けられているようで、実は違うところに向けられている。彼らは誰と戦っているのだろう。様々な言葉を並べながら、何か別の言葉を語っている。
それが、どういう言葉なのかが気になっていた。
結論から言うと、僕はこの現象は「不全感をジェンダーによって補わざるを得ない人達の怒り」という風に分析している。
「俺たちは強いんだ。だから堂々と生きていていいんだ。」
そう言っているのではないか。
男の子は強くあれと、家庭を持って一人前だと、例えばそういうジェンダー規範に対するバックラッシュを多く含んでいるのではないかと感じている。
ジェンダー不全感
ジェンダー規範があることによって、生まれる不全感というものがある。
例えば、「30過ぎて家庭を持っていない」、「社会的地位のある仕事についていない」
そんなことは、本来は自由であり、何も惨めに感じる必要はないのだけれど、現に社会にはそういうジェンダー規範は存在し、育った家庭によっては、強化されている。
人によっては、そういう目には見えない要請に答えられないことは、大きな不全感を生むだろう。
そして、その不全感は、やはりジェンダー規範に乗っ取って埋めるしかない。
その規範に強くさらされてきた人ほどである。
例えば、男の子は強くありなさいと育てられたが、強い自己として存在できないことで生まれる不全感があるとする。それを埋めるためには、自分は強い自己だと思いこむ必要がある。そこで必要となるのが「倒すべき悪」の存在だ。さらに「倒すべき悪」は強い方がいい。社会悪という大きな敵に仕立てる必要がある。そうやってある種の政治的アイデンティティを強化し「男性的」なジェンダー不全感(仮にそう呼ぶ)を補っている層がいるように思う。
そういうことを背景にした政治的主張は、他の意見と議論が成立しない。前提が世の中を良くすることではなく、自己の不全感を埋めることが目的だからである。議論というより、自分たちの安全圏を壊そうとする絶対悪を断固許さないというような、色合いを帯びる。
女性が権利を主張することに対して、「許せない」と怒りをあらわにする人たちも、そういったジェンダー不全感を背景にしていると考えられる。
今回の伊藤詩織さんに対するバッシングは、現政権にとても近い人物が加害者として登場したため、男性的ジェンダー不全感を、政治的なアイデンティティで埋めてきた人や、ジェンダー規範に対する潜在的怒りを抱えた人達の怒りを刺激した。
そういうことではないかと感じている。
では、僕自身はどうだろうと考えてみた。
僕は、被害を訴えている女性を中傷したり、怒りをあらわにする男性に、嫌悪感を感じていた。しかし、その正体というか構造が自分の中で合点がいった時、誤解を恐れずに言うと、彼らも僕も同じなのだと感じた。その言動を肯定するという意味ではなく(決して肯定はできない)、僕も彼らも多くの人々も、同じように不全感という苦しみを持つ一人なのだという気がしたのだ。
僕は、たまたま家庭を持つことができた。故にその領域でのジェンダー不全感を回避できた。だから、権利を主張する女性には腹は立たないし、むしろ応援している。
しかし、これが、僕が家庭を持たず、親や社会から「いい歳をして」という目にさらされ「なぜおれだけ」という不全感を抱いていたとしたら、同じように応援できていたかは分からない。
つまり、そのように、バックラッシュの背景には、いくら理論武装していても、その背景に、何らかの不全感を根拠にした極めて個人的な怒りが、隠れているのだ。
怒りというものは、反射的に沸いてくるものだから、沸いてくること自体は仕方ない。
しかし、沸いてきた時に、その怒りの正体を、冷静に見つける必要がある。
自分は何に対して怒っているのか、それを見つめない限り、無意味に人を傷つけることになる。例えSNSであっても、それは暴力であり、無差別殺人と質的には変わらない。
本当に戦うべき敵とは戦っていないのだ。
そのことを知る必要があるのではないか。
不全感を持っているのは誰か
僕にも不全感はある。
僕は社会活動を仕事にしている。仕事とプライベートの区別があまりなく、生き方がそのまま仕事になっている。
では、これは、僕が望んだ生き方かと問われれば、表面上はそうであるが、コアなところでは違う。
僕の両親は、障がい者運動の活動家だった。幼い頃、障がい者やその親や支援者たちの中で育った。「人生の勝利者になれ」とか「男らしく強くあれ」とは教えられなかったので、強くなくても、人生がうまくいかなくても、誰かを敵に仕立てる必要はなかったが、「弱い人にやさしくしなさい」と言われて育った。
必然と、そういう仕事を選んできたし、親に認められる生き方を選んできた。
しかし、30も半ばにして、これが、本当に自分の望む生き方かと問う自分が出てきて苦しくなってきた。
そして、僕は、このバックラッシュの問題を考える中で、はたと自分の存在に気が付いたのだ。
僕もまた、彼らと同じように、不全感を埋めたくて、あらゆる言動や生き方を選択してきたに過ぎないのだと。
人間は誰しも不全感を持っており、それを埋めようとして、強くあろうとしたり、やさしくあろうとしたり、社会的立場を得ようとしたり、欲を満たしたり、家庭を持ったり、宗教に入ったり、誰かを非難したり、罵倒したり、いじめたり、殺したり、サリンを撒いたりするのではないか。
僕はこの間の、オウム真理教の教祖含む7名の死刑執行のニュース依頼、名だたる凶悪犯罪者の背景について調べ、思いを巡らせている。
皆、誰と戦ったのだろう。
これまでの文脈で言うならば、誰も、本当の敵とは戦ってはいない。
虐待やDVなど、人格形成に大きな影響を与える時期の排除感は、拭えない不全感をもたらすだろう。
そして、排除は重なる。
重なる世の中になっている。
みな不全感を抱える一人である。そういう意味において、どんな凶悪犯罪者も、僕も、皆、変わらない。
その比重の問題だし、それを強化してしまう社会の問題である。
では、僕らは誰と戦うべきなのだろう。
苦しみから始める
僕は今、僕らが出来る戦いは「自分たちの苦しみを知る」という戦いではないかと思っている。
2500年前に始まり形を変えながら世界へ広まった仏教の基本原理は「人生は苦である」という教えである。
僕はこの意味がよく分からなかった。人生には喜びもある。そこを目指してもいいのではないかと思っていた。否定しなくてもいいのではないかと。
しかし、今回この問題を考えるにあたり、自分なりに納得できた。
つまり、僕ら人間の世界のあらゆる苦しみは、僕らの生にセットされている「不全感」や「苦しみ」の正体を見ようとせず、何かで埋めようとするがために、さらに膨らみ、傷つけ合う構図になっているのではないか。
だから、まず前提として、自分の苦しみの正体を知るということから始めたのではないだろうか。
欲望も執着も怒りも愛情も、すべて苦しさを生んでいく。
だから、それらの正体を知り、まずは自分たちは苦しさを持った存在なんだと正直に気が付くこと。
そして、湧き出てくるあらゆる感情を制して、自分を整えること。
それが大切だと初期仏教では教えているのではないか。
オウム真理教も最初は、純粋にそういうことを考えたのかもしれない。信者たちは真面目な人達だったのではないだろうか。
しかし、大きく間違えていった。人間とは恐ろしいものだと思う。なぜそうなっていったのかは、また別の切り口で考えなくてはいけない。
虐待や性犯罪や、連日、悲惨な事件が続く。震災も含め、人格形成の時期のトラウマを克服していくための、育ちなおす包摂的環境が、どんどんなくなっていることを、僕は強く危惧している。
その表れが、若者の自殺や引きこもり、今回のバックラッシュにも表れているように感じる。
僕は今、苦しみに帰るべきだと思っている。
僕たちは苦しいんだと、満たされないのだと、正直に語り合うことが、なによりもまず必要だと思っている。
このように、社会的なことを考え、何かアクションを起こそうとすること自体が、僕にとっては、僕自身の不全感を埋める行為であることを自覚しながらも、僕は僕の苦しさに正直になることから始めたいと思っている。