逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

独身弱者男性が全集中して編み出した、人間の無意識にあるもの全てを顕在化する技を伝授します。

Colabo叩きの背後に存在する「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という転移性ミソジニーについて

今日の朝、何となくはてぶでニュースをチェックしていると。
こんなのがホットエントリーになってた。

b.hatena.ne.jpまだやってんのか、この話。
俺はこの宇佐美典也って人の発言が、どうも好きになれない。
三浦瑠璃氏に抱く印象に似ている。

その話は前にもした。

gyakutorajiro.comColabo問題より五輪談合問題の方が額がデカいだろ?
なんで中抜き企業に、俺たちの都民税、税金を流してんだ!
オリンピックの会計どうなってるんだ、説明しろや。

って、思わないのかな?
なんでColaboの方に固執する?

宇佐美典也氏、まあ元経産省だからステークホルダーには矛先は向けられねえのだろうかね。

Colaboと五輪談合は、公金不正利用疑惑、公金チューチューという点で、同じスコープの問題だ。
その話も前にもした。

note.comにも関わらず五輪談合の方を追求せず、Colaboばかり。

「元経産省だから」ってのは、そう考える理由として弱かったな。
もちろん個人的な推測ではあるが、結局、五輪談合を追求しないのは、別にこの人に限ったわけではなく。
判りやすい理由がある。
それは、

五輪談合を追求するのは金にならないし、金を失うリスクが高まるから。

だろうよ。
例えば、宇佐美典也氏のWikipediaのプロフィールを見ると。

ja.wikipedia.org岡山県立大学の客員准教授になっている。

県立大学は、地方自治体や国家(文部科学省)と繋がりがある。

www.mext.go.jp
また一般社団法人、日本再生可能エネルギー事業者協議会(JSEC)の理事にもなってる。
そして、日本原子力学会にも寄稿しているように。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaesjb/61/6/61_436/_pdf/-char/ja


政権与党とはこの国の支配者だ。
そのため、国家や地方自治体といった行政と深く結びついている五輪の件に触れるのはタブーであり、糾弾しづらい。
国家や行政との繋がりが強い五輪は怖くて何も言えねえ。
なぜなら、先述したように職や金を失うリスクがあり、未来の職にありつける可能性も下がるだろうからな。

一方、Colaboという一つの一般社団法人だったら、全くステークホルダーではない。
この団体から仕事が舞い込むことなんてないし、仮に何か仕事が来たとしても。
団体の予算規模からして、貰える金額もあまり期待できないだろう。

そんな一つの団体に媚びを売るより、国や地方自治体に媚びを売った方が断然、大金を得られる確率は高まる。
だからColaboは、どんだけ追及したって自分の仕事とかリスクにはあまり関係ない。
だけど…

それがカッコ悪いと、思うんですよ!

本当の社会正義、評論家、コメンテーターとは。
自分の私利私欲は二の次にして、ファクトに忠実に、そしてファクトを積み上げて「これはおかしい」という問題提起を発信し、「皆さんおかしいと思いませんか?」と、民主主義を推進する役割を担う存在ではないだろうか?

それが、ステークホルダーや自分の経済的合理性等によって、怒りの矛先を変えていいのだろうか!?

それは公正公平な正義だと言えるのか!?

まあでも気持ちはわかるよ。
この21世紀の現代で生まれた人間は、資本主義の奴隷から逃れるのは難しい。
経済的メリットを考えれば、保守系の言説を垂れ流し、国や地方自治体に媚びを売るのが合理的といえば合理的。

政権与党を非難するような話をしたところで、何のメリットがあるんだよ?って話だよ。
まあ野党議員にはあるけどな。
別に政権交代とか起きなくても、年収4桁はキープできるんだから。

gyakutorajiro.com

b.hatena.ne.jp

そして、Colaboを追求することにはもう1つ、メリットがある。
それは、

ミソジニーもしくはその予備軍たちの人気を取れるから。

だろうね。

b.hatena.ne.jpこの記事は消されているが、女性を殴った男が称賛されるという事態に警鐘を鳴らすような内容だった。
動画は「男女平等パンチ 渋谷」で検索したら出てくる。

anond.hatelabo.jp気に入らない女を潰すときしか、こんな数千万の寄付金や、はてブのトレンドの半分埋めるような活動にはならない。それが本当に虚しい。

と。そう、ミソジニーは増えている。
それは恋愛離れや少子化問題とも関わってる。

ルッキズムが加速する中で、女たちの要求水準は高まっていく。
軽んじられる、身長170cm以下の男たち。

kai-you.net漫画やYoutubeやアイドル、あらゆるコンテンツにおいて、容姿のいい男女が活躍するルッキズム社会。

b.hatena.ne.jp零れ落ちていく男たちは増えていった。

虫けらのように扱われる男たち。眼中から外される男たち。

闇金ウシジマくん(10)[ 真鍋昌平 ]

かくいう俺も、スイーツハラスメント(お土産のお菓子を特定の人だけ配らない)のようなものを女性から受けたことがある。

それは30代前半の頃だった。俺はITエンジニアを派遣する会社に勤めていた。

そこには別会社からの、派遣の先輩女性がいた。
その女は、とにかく正社員のプロパーには媚びへつらい、派遣社員には厳しい感じの人だった。
だから俺はその女が嫌いだった。

決定的だったのは、飲み会だ。
イタリアンバルみたいなとこだった。
プロパーと派遣社員が混ざって行われた、その飲み会で。
その女は、俺にだけ…

アクアパッツァペンネグラタンを取り分けなかった

んだよ。なんだコラよ。

そんなんだから、独身なんだよテメーはよ!

って、言ってやりたくなった。
その女もたぶん独身だったから。

俺は仕方なく、皆が談笑している中で一人、魚とグラタンを取り分けてムシャムシャ食った。

だからグラタンを食べる時には、その時のことを思い出すこともある。
マドレーヌの香りで過去を思い出すプルースト現象ってやつか。
アクアパッツァは高いし食う機会ねえから、あんまないけど。

いや別に「女性が料理を取り分けるべき」といった、そういう偏見に満ちたジェンダーバイアスなんてのは持ってないし。
俺は「品性」について語ることもあるので、モラルとしては高い人間よ。

gyakutorajiro.comだから別にアクアパッツァも、勝手に食いたいやつが取ればいいと思ってるけどよ。

けど、自分から取り分け隊長になったんだよな?
だったら最後まで、派遣社員の俺も含めて、取り分けんかい!

って話だよ。
とんねるずの「どん底」を聴いて、自分を慰めた。

www.youtube.com「泥水飲んでも死なない~♪」「どん底から今はいあ~がれ、自分の腕で♪」「かっこ悪くていい♪汗が身に染みるぜ♪」と、自分を奮い立たせた。
まあそれでも這い上がれず、ダラダラと生きていく今の現実があるんだけどね。

そんでもう1つ、もう1つある。
あれは俺が、20代後半の頃、その時は別の会社にいた。
IT派遣会社よりも家族的な雰囲気の会社で、俺も溶け込んでいたつもりだった。

名古屋で働いていて、出張で東京の人間が来ていた。
世界の山ちゃんだったか風来坊だったか忘れたけどよ。
本社の人間と、名古屋支社の女性二人、合計四人で飲んだ。

まあまあ楽しんでいたと、俺は思ってた。
そんで、本社の人間が新幹線で先に帰るってんで。
「三人はゆっくりしてって」って言ったんだよ。
「いや見送りますよ、逆寅次郎くん会計お願い」って言って、女性二人も席外してよ。

俺は一人で、余った手羽先を、ムシャムシャムシャムシャと、食べたよ・・・まだこんなに料理残ってるじゃん・・・。
てか、普通、見送り終わったらさ、帰ってくるじゃん?
名古屋駅からすぐ近くの居酒屋だよ。

なんで帰ってこないの!?
宴は終わってない!
手羽先チューチューしようよ!!
そして、手羽先を食べて汚れた油がついた指を、お互いチューチューし合って綺麗にしないかい?
なんつって。

そもそも俺と飲みたくないのか?
だから戻ってこなかった。

帰る方向が同じだからか?
俺と一緒に帰りたくなかったのかよ!?
手羽先しかねえ、なんで手羽元がねえんだよ!!

ウウウ( ;∀;)


ってね。
まあそんな感じで、そういった女性からの仕打ちが、ミソジニーをもたらしていくのではないだろか?
ミソジニーの男、ミソジニー気味になっている男達は、自分の記憶や体験を探ってみろ。
過去のトラウマ的出来事や体験、それによってプチPTSDになったり、女性嫌悪感情が醸成されていく。

個人的なエピソードだったが、これはColaboの話と全く無関係ではない。
つまりこれは「転移」だということだ。

ジャック・ラカン精神分析の情報が豊富な、蚊居肢さんのサイトでPAUL VERHAEGHE(ポール・バーハウ)という方が紹介されている。


ポール・バーハウのプロフィール。

kaie14.blogspot.com

en.wikipedia.org

この方の著作に、興味深い記述がある。

kaie14.blogspot.comラカンの最初のエディプス理論とは次のような形で説明されている。母は子供を、ほとんど致死的な deadly 仕方で享楽する。主体は唯一、父の介入を通してのみ、母による潜在的に命取りのlethal 享楽から救われる。

同じ理屈が、三つの宗教書のなかに漸増する形で見出される。初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女への不安と憎悪、最後にムスリムのベール等への強制。

すなわち女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない、ということである。これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊することだ、と。

事実、享楽と他者とのあいだの、この発達的に基礎付けられる繋がりは、主体にとって享楽にかんする相克を外部化する道を開く。そうでもしなければ、自身の内部に留まったままになりうる。…

フロイトはくり返し言っている、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということである…。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

そう、つまり「内的な脅威」とは、自分を苦しめる存在である女性のことだ。
女性を求めるが、女性から受け入れられることがない。

身体は女性を欲する欲動の回路(享楽)を備えているがゆえに、その衝動は永続的に続くが。
それが達成されることがく、欲望(リビドーを向ける対象が限定された欲動)は未達となる。

だったらどうする。
その内的な脅威から逃れるために。

例えば、加藤智大は外部の世界に投影した。
「なぜ俺を愛さない?」と。

gyakutorajiro.com当時の彼の日記のメモがある。

「どれだけ金があったら友達になっともらえるんだろ」
「イケメソだったらお金なんかなくても友達できるのに」
「部屋の中に携帯のカチカチ音が虚しく響いてる」
「ぶっちゃけね、後輩に彼女ができたみたい。その幸せ自慢を毎日されてる。いい奴なんだけど、自分の中のどす黒い感情が抑えられない」
「スポーツカーに女乗せてる奴が居た 事故ればいいのに」
「助手席に女乗せてる奴に税金かければ日本の財政難は解決すると思う 女性にとって、彼氏は自分の価値を証明するもの 故に、不細工には彼女ができない」 
「他人に「○○さんの彼女」と認識されるのが嬉しい」

欲望の未達が伺える。
携帯に綴られたこれらの日記は、何の変形や歪曲もない、加藤容疑者の率直な心境が綴られている可能性が高い。

ポール・バーハウが「統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊すること」と言うように。

リビドーを統御するために、普通の人は、恋人を作ったり結婚したり子どもを作ることでそれを解消できる。

だがそれができない、モテない男達、非モテ、生涯独身者予備軍。

例えばアンデルセンのように、芸術的な方向にそれを発揮する、溢れるリビドーがポジティブな方向に向かうケースもある。

しかしネガティブな方向に向かうと、このような悲劇的な結末になる。
少しマイルドにすると、中西保志の「最後の雨」もそうかもしれない。

www.youtube.com本気で忘れるくらいなら
泣けるほど
愛したりしない
誰かに盗られるくらいなら
強く抱いて 君を壊したい

引用元:中西保志「最後の雨」

まあちょっと違うか。こっちはミソジニーというか独占欲や支配欲の類か。

話を戻すと、以上の実例と転移理論によって、主張したいのは。
Colabo叩きをしている人の中には、バーハウやフロイトがいう転移感情によってミソジニーが醸成されている可能性があるということ。
醸成されたミソジニーと私怨によって、糾弾する対象が無意識的かつ恣意的に選ばれている可能性が高いって話だ。
普通にファクトを優先すれば、五輪談合の方が重大なのに。
なぜ、Colaboなのか。
すなわちそこには、自分の記憶の中にある、女性からの屈辱的な経験や記憶が転移した「転移性ミソジニー」がある。

自分の性的に恵まれない不遇な境遇、過去の欲望の未達によって、ネガティブな感情が醸成され、その嫉妬・怒り・恨み・辛みが、関係のない女性へと転移する。
しかし、その感情を正当化するルサンチマンに一定の品性を纏わせるために「公金不正利用疑惑」という正義の仮面を被る。
だが、その仮面の下には「お前ら女達は俺を愛さなかったからお前らに金をびた一文も出したくない」という、醜い私怨に満ちた感情が蠢いている。俺を苦しめた女性が苦しむ姿に喜びを見出してしまうというシャーデンフロイデだ。

そんなんわけない、純粋に、私達の税金の不適切使用、公金チューチューを非難しているんだ!!

と言うか?
だったらなぜ、五輪談合を問題にしない?

400億円のうち、テスト大会で実際に現場で働くエッセンシャルワーカーに流れた金はどれだけだ?

news.yahoo.co.jp200億円のうち、オリンピック会場で汗を流して資材を運んだり設営業務を行う人々に流れた金はどれだけよ?

www.dailyshincho.jpこの記事を書いた現時点で、宇佐美典也氏や、その発言に共感している人達は、ファクトも、根拠ある仮説も試算も提示してない。

根拠薄弱であるがゆえ、正義は見出せず、単なるColaboや仁藤夢乃氏への私怨や、女性支援団体へのミソジニーを感じてしまう。

b.hatena.ne.jp俺はわかんないな。

仮に上記の五輪談合のうち、非生産的中抜き業務というブルシットジョブをしている公金チューチュー非生産的労働者に、何割かの金が流れたとしよう。

どれぐらいだろうか。情報がないので大雑把な試算しかできないが。
だが100億円ぐらいはあるだろう。

日給35万で計上されている件もあったんだ。

www.youtube.com600億円のうち500億円は有益に使われたとして、100億はブルシットワーカーに流れたと、少なく見積もったとしても。

同様にColaboは、100億円いくのか?
ちゃんと説明してみろ。

コラボの会計報告の21頁だ。

https://colabo-official.net/wp-content/uploads/2022/07/colabo2021.pdf

細かい会計は知らねえが、1億7625万88円という経常収益がある。

仮に、公金不正利用疑惑があったとして、上記の五輪談合の優しい見積もりと同じく6分の1、3000万が不正利用されたとしよう。
そんなバカでかい金額なわけねえけどな。

3000万と100億だ。

この大雑把な試算でも、五輪談合の方が大問題なのは、わかるだろうが?
「Colaboのスキームを全国展開すると大変」と言ってるやつは、何言ってんだ?って話だぞ。

全国展開すると大変だと思うなら、そのスキームの全体像と詳細も提示するべきだし。
それがなぜ、各自治体の審査を突破できるのかについて、根拠ある仮説ぐらいは話すべきだろうが。
印象論しか語ってない。

仮に47都道府県に1団体ずつ、公金チューチューする怪しい団体がいるとしよう。
それでも、3000万円×47=14億1000万。100億円には程遠い。

もちろん、あくまで仮定の雑な試算だけどよ、五輪談合と全然スケールが違う公金不正利用疑惑なのは、一目瞭然だろうが。

なんでColaboばかり追求するのか、答えてくれや。
俺に教えてくれよ。

自分の胸に手を当てて考えてみろ。
自分が振りかざしている正義は、自分の私怨やミソジニーが混ざり混くった不純物ではないのかってことをな。

反出生主義者は日本スゴイ論というルサンチマンで満足できる愛国者を見習おう

街歩きして船橋の残酷さを味わった話、まあまあ共感してくれたか。

gyakutorajiro.comよかったよかった。
反出生主義と絡めたコメントもあった。

b.hatena.ne.jp
心理学者ブレネー・ブラウンがいう「自分はありのままで愛される価値がある、と信じている」自尊心、があれば、反出生思想は想像にも上がらないかもしれない。

b.hatena.ne.jp

しかしgoldheadさんが言うように、この日本という資本主義社会に出生された人間においては、金を稼ぐために最適化された身体がデザインされていくだろうな。
それは小学校で、岡本真夜の「Tomorrow」が流されることで示されている。

gyakutorajiro.com

またアルチュセールは、国家のイデオロギー諸装置の中に「学校」を含めている。
学校では主に上部構造を、国家を担う国民として、労働者として相応しい教育が施される。

例えば岡本真夜の「TOMORROW」が流れ、涙の数だけ強くなろうよそしてアスファルトに咲く花のように強くなれ勉強しろそして働けと、子どもだちに発破をかける。

スガシカオの「労働なんかしないで 光合成だけで生きたい」が流れることはない。

www.youtube.com

つまり建造物と同様、人間も画一的な価値観(学び、富を生む人間になれ、働けよ)によってデザインされている側面はある。

しかしそれだと非人間的で人権を問われるので。
多様な価値観の尊重、ダイバーシティという美辞麗句を並べ立てるが、現実には支配的な価値観が立ちはだかっている。
まあそんな話はこのサイトで何度もしてきたけどね。

gyakutorajiro.com

相変わらず異性愛が尊重される。
子どもを産まない・育てない独身者も、労働力の再生産に貢献しないがゆえに、やんわりと、場合によっては直接的に、差別される。

支配的なロールモデルが存在している。

ロールモデル通りに生きられない人間に「落ちこぼれ」のレッテル等を貼る。
もちろん、この社会は優しさと多様性に溢れていると思わせるために、そんな残酷な言葉を口にしたりしないケースもあるが。

だけど反出生主義の話はあまりしてないな。
自分はこの辺は詳しくないので、現代思想を読んでみようかな。

goldhead.hatenablog.com関内関外、怪しいぞ~山下公園、象の鼻テラス…船橋市同様に、排除建築が沢山ありそうだな。
また行ってみるか。

そして反出生主義だが。
インド人の男性が両親を告訴したのか。

togetter.com

data.wingarc.com

この前提に基づくと、ある人が存在する(生まれる)場合には、1) 苦の存在(悪い)と2) 快の存在(良い)、ある人が存在しない(生まれない)場合には、3) 苦の不在(良い)と4) 快の不在(悪くはない)となり、比較した場合に存在しないほうが「正味の利益(net benefit)」がある、といえる、というのがベネターの主張です。

しかし、当然ですが、「苦痛と快楽の非対称性」はあくまで論理的な思考実験に過ぎず、個々人の思想や情緒はかならずしもこれに追従する必要はありません。

まあ確かに総量として、一切皆苦、艱難辛苦が続いた場合、「苦の存在(悪い)」がどんどん増えていくだろうな。

だがその苦しみを人間は誤魔化そうとする。
それゆえに文化が生まれた。

これはジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリが、「アンチ・オイディプス」で語った分裂症的負荷に抗う行為だ。

分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。
確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても、実は私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出すものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。
なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。
それはみずから極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリアンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』p70)

b.hatena.ne.jp

音楽、芸術、小説…あらゆる文化に、ルサンチマンが存在する。
スポーツもそう。祝祭空間の中で忘却する。

b.hatena.ne.jp

特に音楽については、散々、そのルサンチマンの存在をこのサイトで語ってきた。

玉置浩二「毎日何かを頑張っていりゃ 生きていくんだ それでいいんだ」と言ってるが、んなわけねー!

www.youtube.com

動物じゃないんだぞ。人間だ。
生きてりゃいいなんてのは動物の話よ。

(引用元:「最強伝説 黒沢 3 [ 福本伸行 ]」)

人間は、動物と違う・・・!
決定的に違う・・・!
生きてりゃいい・・・生きてりゃ十分なんて・・・
誰が思うかよ・・・!

理想があるんだよ・・・・・・!
みな・・・!
みんなそれぞれ理想の男像・・・・・
人間像ってのがあって・・・
そういうものを・・・

目指すから人間だっ・・・!

だから、明石家さんまがいう「生きてるだけで丸儲け」という価値観も、何も築けず生きることしかできない人間を肯定するための、慰めのルサンチマンでもある。

村上龍からすれば「美人は三日で飽きる」という慣用句もルサンチマンだ。


美人は三日で飽きるというのは言うまでもなくブスを自決に追い込まないための嘘であって、ブスは飽きられることさえないのである。

村上龍『すべての男は消耗品である』)

また、小説にもそういうルサンチマンが潜んでいる。
例えば又吉直樹の「火花」とかな。

iine-y.com

特に最後、主演の桐谷健太が演じる神谷、菅田将暉が演じる徳永の、ダイアローグが素晴らしい。漫才は二人でもできない…のくだり。

「この壮大な大会には勝ち負けがある。だからおもろいねん。でもな、淘汰されたやつらの存在って、絶対無駄じゃないねん。まあ”やらんほうがよかった”って思ってるやつもいてるかもしれへんけど。じゃあ、例えば優勝したコンビ以外はやらん方がよかったかっていうと、絶対そんなわけないやん。1組だけしかおらんかったら、絶対そんなおもろくなってないと思うで」「だから1回でも舞台に立ったやつは、絶対、必要やったんや。絶対に、全員必要やったんや」「だからこれからの全ての漫才に俺らは関わってんねん」「つまり何をやってても、芸人に引退はないねん」

このセリフのシーン、これは響いた。

と、俺は褒めたけどよ。
よくよく考えたら、これもルサンチマンでもある。

結局は芸人にはなれたものの、テレビで活躍して稼ぎまくる芸人、資本主義社会の支配的価値観の土俵では成功を収めることはできなかった。

それを納得させるために「俺らの存在は必要だった」と、神谷が語るのは、ルサンチマンではないだろうか?
成功しなかったのに、正当化したよな!?

おっ、韻を踏めたよ。
成功しなかった♪だけど正当化した♪
ってね。
「せい」で韻を踏んでる。
HIPHOPもそうだよ。

jassmazさんは力への意志だと言ったが。

b.hatena.ne.jpまあそういう曲もあるだろうけどな。
薬物問題や人種差別をテーマにしたしラップミュージックもあるように、社会に対して刃向かっていく、エクスキューズを提示していく力への意志を持ったヒップホップもあるかもしれないが。

wordonthestreet.jpそういうのではないヒップホップもあるとは思うよ。
最近では、チル系ラップってやつもそうだ。
ルサンチマンを含むラップミュージックもある。
それは「NO MUSIC NO LIFEは直線的時間を希薄化するルサンチマン」という話で、前にしたけどな。

gyakutorajiro.com

www.youtube.com

STUTS - 夜を使いはたして feat. PUNPEE 
フィルムみたいな朝もやが デジタル化された記憶を浄化していく。
映像のセピア化は、時代からの逆行だ。
「フィルムみたいな朝もや」のような質感によって、デジタル化された記憶、早さを求められる現代の時間軸に抗い、浄化し、過去に意識を馳せる。
また太極拳のじじいがむくり起きる」ように、ゆったりとした時間の渇望、先に紹介した時間を停止・滞留させたいルサンチマンも含まれている。

ライブバージョンのアレンジは、小鳥のさえずりなども含まれ、都会的な直線的時間からの逃走を促すプリミティブな雰囲気が演出されている。

俺が好きなハードコアな、現実を抉るようなラップはあまりヒットしない。

www.youtube.com

田我流のヒットした方、EVISBEATS feat. 田我流の「夢の続き」も悪くないが。

www.youtube.com
「得意のご都合主義と音とユーモアで 心を満たして」「音を止めずに 流れてく日々の上を 泳いでいたい」
と。
この曲も、以前紹介した「固体から流体になりたいというルサンチマン」でもある。

gyakutorajiro.com

資本主義社会に生きる人間、重力に支配されている人間は、常に固体として主体性を持ち、意志を持って勉強や仕事をして生きることを要求される。
それがしんどくなる。
だから流体になることが、救済であり、魂のルフランだった。
エヴァンゲリオンの旧劇場版はまさに、人類補完計画によって人間は固体から流体になっていった。重力の支配から解放された。

結局はチルくなれる曲を聴いて、現実の責任や他人との比較から来る艱難辛苦を希薄化するルサンチマンに浸ってる。

このように、ルサンチマンはありとあらゆるところに存在する。
決して妄想なんかじゃない。
それはドゥルーズガタリが語る、人間がその内面で生み出し、備え持っている抑圧機構でもある。

俺をルサンチマンを抱き続けてる末人(ラストマン)だと馬鹿にするか?
そうじゃねえんだよ。
あんたもだよ。

あなたは直視していない。
俺は直視している。

だが直視すると、危険だから、無意識に避けてる。
自分のつまらない現実を、冴えない日々を、ルサンチマンで隠蔽しているという現実に遭遇したくないからだ!

だってそうだろ?

一例を出そう。
例えば「日本すごい」というテレビ番組だの、そういう言説があるけどよ。

「東京はインドネシア、大阪はアラブ首長国連邦に匹敵」みたいな。
こういうの見て、安堵する。

ああ、日本人でよかったと。
自分自身で自尊心を傷き上げることができないから、誰でも備えることが出来る「日本人である」という、ちっぽけな民族主義選民思想国粋主義で自分を正当化したり自己愛を保つ。

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp

幸福感を感じる。

ヒミズに出てくるパチンコ屋のバイト先にいた内田のような、ただ国ガチャに成功したという事実により自己肯定する。
品性が欠如したシャーデンフロイデ(他人の不幸によって相対的に幸福感を得る)というルサンチマンに満ちた行為を無意識に行う。


(引用元:ヒミズ(3)[ 古谷実 ]

いや~~~~~ お互い日本に生れてよかったねぇ~~~~~

日本 先進国だよ 世界に国が何コある?
そのうち先進国が何コある?

その中の一つに生まれて来るなんてまさに奇跡!

ラッキーーーーーーー極まりないね!

なんてカッコ悪い、情けねえんだほんと。
自分自身で築き上げられないから、他人が作ったものや既にある環境を自尊心の拠り所にしちゃうんだ。
金属バットとは大違いだ。

b.hatena.ne.jp自分ら自身、自分の仕事を全く美化しないこの生き様。
これでいい、というサッパリ感。
これこそ、執着しない境地、無我の境地っていうんじゃないの。

自分の人生に折り合いをつける。

最強伝説 黒沢 9 [ 福本伸行 ]

一生懸命が報われない社会でも、サラリーマンは粛々と仕事をすればそれでイイ。

闇金ウシジマくん(12)[ 真鍋昌平 ]

だから私は一生会社にしがみつきます!何があっても絶対に!!

闇金ウシジマくん(29)[ 真鍋昌平 ]

それができないと希死念慮が高まり、反出生主義の方に傾いていく。

だから通常は、自分を正当する価値観やイデオロギー、すなわち、ルサンチマンの内面化によって安定的な精神状態を獲得したり維持する。自尊心を守る。

gyakutorajiro.com

浜田省吾の「MONEY」の主人公の未来予想図は、純白のメルセデス、プール付きのマンションに、最高の女とベットでドン・ペリニヨンだ。
しかしブラウン管の中から、それを現実に、自らの身体に、生活に、回帰させることはできるのか?

「パラサイト 半地下の家族」で、長男のキム・ギウ(チェ・ウシク)があの豪邸を購入し、半地下から出れなくなっている父親を救い出す未来を、現実に回帰させることはできるのか?
できない可能性が高いだろうよ。

永遠回帰を望むが、実際にはそれは果たせない夢として終わるのがほとんどだ。

だから人間はルサンチマンを抱いて、自尊心が引き裂かれないようにする。不満が生じればルサンチマンによって一時的に解消し、自分を正当化する価値観やイデオロギーを内面化し、現状に満足して力への意志を諦めてしまう。ニーチェがいう「末人」のようになってしまう人間も出てくる。

玉置浩二ルサンチマンがあり、植木等ルサンチマンがある。

gyakutorajiro.comゆいにしおのルサンチマンがある。

www.youtube.com「息を吸う ここで吸う 生きてく」という単純な生理現象を肯定する。

すばらしい、いい曲だと一瞬、思ったが。
よく聞くと、独身の自分に作用するルサンチマンではなかった。
だって「思い出の中にいつも あなたがい~て~」って唄ってるからね。
つまり愛する対象とか、Dear My friend等がいないとダメってことだよね?
菅原紗由理の「君がいるから」みたいな。

www.youtube.comそれが不在の人間には、どうやってネガティブな感情を抑圧すればいいのだろか?

このゆいにしおの曲は、「真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました」というアニメのOPらしいけどな。
辺境でスローライフをすれば、心は安定するのか?
たった一人じゃねえだろ?
このアニメ見てねえけど。ソロじゃねえぞ絶対。
働くおっさん劇場の野見さんみたいに、大晦日で一人で過ごすような回とか作ってみろや。

www.youtube.comぼっち・ざ・ろっく!のぼっちちゃんも、可愛いだろうが。
その顔面の造形に可愛さを残す、ルッキズムが支配的現実であることの証左。
無意味なんかじゃない。
「無意味」で話を終わらせて、現実を直視したくないからだろうよ。

togetter.comそこにはヒットさせるための意図、同一化対象としてキャラクターを愛させるために、嘘をつく。醜女を主人公にしてぼっちのリアリティを高めようとはしない。写実主義よりロマン主義の方が金儲けになる。

伊藤鬼作とかのオッサンを主人公にして、ベース引かせてみろや。

news.livedoor.com

b.hatena.ne.jpオッサンが音楽活動に励むアニメ、誰が観るんだよ。
そもそも企画段階でボツか。

「ぼっちでも充実した人生が送れる」「ぼっちでも楽しい音楽ライフが過ごせる」というルサンチマンを含む物語を提供し、その物語に共感して同一化することで、ぼっちである自分を正当化する。
だがそれは真実じゃない。

本当のぼっちに迫ってる、より真実に近いのは、山田花子の方だろうな。

(引用元:からっぽの世界 [ 山田花子 ]

だが山田花子の漫画は流行らない。
結局は商業的成功やグッズ販売等を考えると、かわいい顔面の造形という要素を捨てきることができず、金は美しい顔面に集まり、資本主義はルッキズムの支配から逃れられない。

だからアニメや漫画等のコンテンツの主人公は若い10代や20代が多いし。
そのため年齢を重ねる毎に、精神を安定させるルサンチマンとして、共感しにくくなってくる。

【続編あり】生涯オタクのつもりが… 漫画『36歳で突然漫画やアニメにはまれなくなった話』が刺さりすぎると話題に 

togetter.com

辺境でスローライフもそうだ、美男美女を主人公にするセオリーを捨てることはできない。

shinnonakama.com
その商業的縛りの中で、マネー資本主義に疲弊した現代人に刺さる行為を盛り込む。
このアニメではそれが、スローライフだとか、ロハスだとかいう価値観に根差したものなんだろうな。
しかしそこにルサンチマンはないか?
ロハススローライフを内面化することで、自分が資本主義社会で敗北したという現実を直視することを避けているのではないのか?

資本主義的支配的価値観を否定する、それを隠蔽するためのルサンチマンダイバーシティ
だからロハスフェスタが生まれた。

www.msp-office.comいやそれは違う、そういう一端もあるかもしれないが、それは言い過ぎだった。
何年か前に大阪のロハスフェスタに行ったが、金が無かったのであまりグッズも買えず楽しめなかったな。

すなわち、ルサンチマンとはありとあらゆる人間の内面に存在するし、物質として顕在化している場合もある。
以前、ルサンチマンは自分のネガティブな感情を抑圧するためのマインドフルネスでもあると言ったが。

gyakutorajiro.com上記に挙げた例から納得してくれただろうか。

そしてその、ルサンチマンを意図的に使って精神を安定させたり、人のルサンチマンを暴いて一喝するのが、自分の仕事。
北斗の拳で喩えると、前者はトキの優しさであり、後者はラオウのような厳しさだよ。
人間が無意識に抱いているルサンチマンを全部、見える化しようとしているつもりだ。

ルサンチマンの呼吸の柱として…と、このような中二病的発言も、現実の苦しみから逃れるためのルサンチマンかもしれない。

そういえば2月は鬼滅が公開だったか、観に行くか。

街づくりとは暴力性を含む行為であり「金が無いやつは来るな」という強欲さによってデザインされた街は排除建築にあふれ公共空間は排他的経済地域に変貌する

アローンの休日。
このような朝を迎える人は多いのではないだろうか。


最強伝説 黒沢 1 [ 福本伸行 ]

この最強伝説黒沢の主人公、44歳独身の黒沢のように。
自分も土曜日、こんな朝を迎えていた。

「何もやることねぇなぁ」と。
いや、自分は自営だから仕事しようと思えば出来るけど。
まあでも月曜から金曜まで、まあまあ働いたし。

今日は仕事はしたくない…でも暇だな…という休日。
やることないので「駅からハイキング」というのに行ってみることにした。

myfuna.netというわけで、南船橋駅へ。
10時から12時までの間に行かないと、ハイキングルートの地図を貰えないからな。
何とかギリギリ12時前に南船橋駅に到着し、改札外にいた係員から、ハイキングルートの地図を貰った。

地図についてはこっちにまとめてる。

iine-y.com南船橋駅船橋競馬場駅船橋駅周辺を散策したい人は参考にしてちょうだい。


そんで、地図を持ちながらソロ活ハイキング開始。
なんだけど、何だよ…

みーよ

つい先日、大寒波が来ていたんだからな。
その日ほどじゃないけど、この日もいい加減、寒い。
寒すぎてハイキングの気分じゃない。

一旦、腹も減ったし。

なんか適当にラーメンでも食うかと思い立ち。
美味そうなラーメン屋を調べたら、あった。

tabelog.com

よし、このラーメン屋に、南船橋駅からアクセスよ。

スマホで地図を確認しながら歩く。

しかし・・・ちょうど右折しようかという箇所で。
なんと、歩道がなくなっている!

どういうこと?
なんで右折できない?
ラーメン屋方面、船橋競馬場方面に行けない?

どうやら南船橋駅から「ド豚骨 貫」に向かうには、ららぽーとTOKYO-BAYに直結する歩道橋を渡らねばならないらしい。

ふざけるな!俺はららぽーとじゃなくて、ラーメン屋に行きたいんだ!!

と一瞬思ったが、まあ流れに身を任せて歩道橋へ。
土曜日なので、カップルや家族連れがぞろぞろとららぽーとに向かう。

この歩道橋は、ららぽーとに面した部分には歩道が整備されているが。
ららぽーとの向かい側は、さきほど俺が右折しようとした時に失敗したように、歩道が整備されてない。

これはつまり…

人間の強欲さ

と言えよう。

つまり、ららぽーとに誘導するように、ららぽーとでお金を落とすように、道が整備されているんだよ。

必ず高架橋を渡り、ららぽーとに向かうような導線になってる。

下道は、車道を利用するドライバーのために整備される。
JR南船橋駅周辺は物流倉庫が多く、都心部への物流拠点となっているのも一因だろう。
上道はショッピングモールで金を使う客のため、つまり「金を使ってくれる人間だけに道は用意してやる」という意図が見え隠れする。
さらにその上は高速道路、東関東自動車道だ。

つまり経済的合理性が最優先だということ、船橋市浜町二丁目にある若松第一歩道橋は、金を使ってくれる人間を選別し、金を使わない人間を排除して濾過するためのコーヒーフィルターのような排除建築だと言えよう。

ちなみに排除建築とは何か?
以前紹介した、伊勢崎駅の排除ベンチや排除アートを見てくれればわかる。

gyakutorajiro.comそのような排他的建造物は、ありとあらゆる場所に存在する。
決して、一個人の思い込みではなくて、ファクトだ。

いかにこの高架橋が残酷かが、「ららぽーとの反対側に歩道を設けない」というアンチユニバーサルデザインによって作られているという点で、示されているだろうよ。

という感じで軽く資本主義の残酷さを味わったところで、ラーメンを食べに行った。
「ド豚骨 貫」の感想は本題じゃないからサブサイトに書いた。

iine-y.com店を出ると、船橋競馬場が見える。

ラーメン屋に競馬カレンダーが貼ってあったのはこれが理由か。
近くに京成線の船橋競馬場駅もあるようだしな。

もちろん船橋競馬場に面した道には、歩道を用意してあげている。
金を使う人間には優しいみたいだな、船橋という街は。

だが持たざる者、金を使わない人間には、冷たい。

例えば、ららぽーとTOKYO-BAYの近くにあった、浜町2丁目公園。

排除ベンチがあった。
少し珍しい、手すり型ではなく突起型の排除ベンチ。

長居されないように、公共空間の無償利用はあまりしてほしくない思惑が伺える、手すり付きのベンチ。


また、すぐ近くにあるはまかぜ公園もそうだった。

伊勢崎駅の時と同様、街に冷たさを感じるよな。

その冷たさの洗礼を浴びて疲れたので、一旦、ららぽーとで休憩だ。
しかしららぽーとの中、意外とカフェが少ない…スタバはあるみたいだが…どうせ混んでるだろうし。
MAXCOFFEEソフトクリームとかいうアイスだけ食って、後はその辺の椅子に腰掛けて休んだ。

iine-y.com

休憩後は、

よし、せっかくハイキングに来たんだ、やっぱり一部だけでも名所めぐりするか!


と奮起し、船橋漁港の方へ向かった。

道中、「船橋港親水公園」という公園に寄った。
寒さの中、照りつける日差しは温かいが。

建造物に温もりはない。
ここでも、人間の悪意を垣間見ることができる。

残酷な手すり付きの排除ベンチ。

「ここで寝ることは許さないぞ」という強い意志を感じる。

そして、「波打つデコボコ排除ベンチ」もお出ましだ。

この石のベンチに座った人間は、何を思うだろう。
アーチ形に隆起した石が、臀部を刺激し、じわりじわりと痛みを伝える。
1時間も座ることが出来ないだろうよ。

狭小住宅ならぬ、狭小ベンチも発見だ。

冷たい石のベンチ。
ぬくもりなき要塞都市FUNABASHIってわけだ。

いや、くつろげる屋根付きの休憩スペースが…あるぞ!

と思って、歩みよるが。

結局は手すり付きだ。

横になるな、物を広げるな、くつろぐな、という悪意。
最低限のサービスとして設けてやった建造物。
こんなベンチに誰がしたよ。

もうハイキングする気も失せたので、水門橋を通って、船橋競馬場駅京成船橋駅を越えて、船橋駅から帰宅することにした。

海老川水門に架かる橋を過ぎて。

北に向かう道中、巨大な団地や大きなマンションが立ち並ぶ光景が見えた。

船橋は都心に勤務する人達のベッドタウンだからか、そのような住宅需要があるんだろうな。

船橋市役所もある。

巨大建造物、まさに要塞だな。
市役所の近くにまた「湊町2丁目公園」という公園があった。

相変わらず排除ベンチがお好きなようだな。

だが、1つだけ良心を残したベンチがあった。

その傍には、石碑がある。
「三田浜塩田 発祥の地」と。

この地はかつて、塩田だったみたいだ。

三田浜塩田
 明治初期から昭和四年(一九二九)にかけて、旧船橋町の海岸には四つの塩田がありました。その一つ、三田浜塩田がここ湊町二丁目のあたりにありました。塩田を開いた子爵(ししゃく)、仁礼景範(にれかげのり)が、東京の三田に屋敷を持っていたため、その名がついたといわれています。昭和四年、政府による製塩地整理(せいえんちせいり)の対象となり、三田浜塩田も廃止されました。
 
三田浜楽園
 塩田の跡地は、割烹旅館や遊園地のある三田浜楽園となりました。遊園地には、魚釣・玉突き・野球場・海水プールなどの施設や、猿・熊・鶴・孔雀などの動物を飼育すると所がありました。特に夏には、東京や地方から多くの人々がやって来てにぎわいました。
 昭和八~十年(一九三三~一九三五)頃には、作家、川端康成が割烹旅館三田浜楽園を訪れ、執筆の場として利用しました。「童謡」は、そこで描かれた小説です。作品の中に地名は出てきませんが、内容から舞台は割烹旅館三田浜楽園とされています。

川端康成船橋にゆかりの深い文豪らしく、かつての三田浜楽園があったこの地で、作品を執筆したとか。

川端康成明治32年(1899)―昭和47(1972))
 代表作「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」など
 日本人初のノーベル文学賞を受賞
 川端康成は小説を執筆するために昭和8年から10年(1933~1935)頃、湊町2丁目辺りにあった三田浜楽園に何度も足を運び、その旅館の一室で「童謡」など何篇かの小説を執筆しました。
 「童謡」は旅館に泊まって絵を描いている日本画家の滝野と半玉(見習い芸者)の金弥を中心にした話です。作品の中に名称は出てきませんが、内容から舞台は割烹旅館三田浜楽園だとされています。

だから「童謡」の石碑まで置いている。

川端康成「童謡」より

窓の下の舟を見た。この部屋の裏側にあたる遊園地の方からは、また夏の夜らしく、ラツパやハアモニカが聞えたけれども、こちらの窓はもう虫の声ばかりであつた。斜めに並んだ舟がほの白く浮んで、静かさを添へた。

しかし川端康成「童謡」で描かれた世界はもう、ここには無い。
窓から楽器の音色も、虫の音色も、聞こえない。
舟も海も見えず、無機質な建物に囲まれ、窓から見えるのはコンクリートの壁よ。
船橋に住んでないから知らないけどよ。
そもそもラツパやハアモニカを鳴らす空間なんて、どこにあるのよ。

あるのは、マンションや行政施設といった巨大建造物、金を持たない人間を排除する道路と高架橋、金を持つ人間の小休止のために用意された座り心地の悪い排除ベンチ、すなわち、排他的空間だ。

さらに、京成船橋駅に向かう道中もそうだった。

国道14号線の高架下は、駐車場にされており、金を持たない人間がたむろすること、敷地に入ることは、許されない。

犬猫やペットを遊ばせる空間なんて提供しない。

これも排除建築の一例だ。
高架下を経済的空間にすることで、金を持たない人間や金を落とさない人間を排除する。


去年の12月に見つけた、首都高速6号向島線の高架下にある石の排除オブジェと同じだ。

iine-y.com

金を持たねえやつは高架下でたむろすんじゃねー!
石のオブジェで邪魔したる!!


このように高架下も排除建築と化す。

街から公共性は奪われ、経済の論理で都市開発が推進され、街が拝金主義で覆われていく。

いや、「公共性」という言葉が、そもそも欺瞞なのかもしれないな。
公共性とは、容易に経済的合理性に取って変わられる。
公共性を優先するなら、ららぽーとの向かい側の道に、なぜ歩道を設けない!?

草木が薙ぎ倒され、焼かれ、人工的構造物が出来上がる時、その空間は公共空間から経済空間に変わる。

すなわち、

「街づくり」とは、経済的合理性による「暴力」である

とも言えよう。

いやもちろん、復興のための街づくり等は違うが、大体は金目当ての画一的な価値観で街はデザインされていくし。
その価値観には、金を持たない人間を排除していく暴力性が備わっている。

この記事タイトルにある「排他的経済地域」とはそういうことよ。
排他的経済水域に「この海域は我々のもの、邪魔するな」という排他性があるように。
排他的経済地域にも「金が無いやつ落とさないやつは街に来るな」という排他性がある。

その暴力に抗うために、長谷川白紙は「草木」という曲のPVで、草木が燃え盛る姿を描き、そして、その暴力に抗う草木萌動(そうもくほうどう)を願う唄を作ったのではないだろうか。

www.youtube.comアーミッシュは、文明の利器を使わない生活を選んだのではないのか。

宮崎駿は「もののけ姫」を作ったのではないのか。
どんな映画だったか忘れたけどな。

ハイキングが終わり、船橋駅近くのカフェに入ると。
小綺麗なマダム達が、

SAPIX入ったけどすぐに辞めたって人も聞くのよ~」
「キツイし、難しいし~」

という会話を繰り広げていた。


やはりこの船橋市という街は、金を持たない人間が住むには冷たく、厳しそうだな。