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HISTORY 2022.12.18

『吾妻鏡』 ~最終回より~

脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』徳川家康も愛読していたといわれています。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。最終回で描かれた主なエピソードをご紹介します。

承久3年(1221)5月21日条

大江広元が「上洛と決めてから日がたち、異論が出ていました。日時を重ねていては心変わりをしてしまいます。今夜中に北条泰時一人であっても出立すれば、東国武士は雲が龍になびくように従うでしょう」と進言し、北条義時が特に感心しました。

承久3年(1221)5月21日条

政子三善康信を招いて相談すると、康信は「関東の安否は今、最も重要な局面を迎えました。日数が経過してしまったのは怠慢であると言えます。大将軍一人でも、まず出発されるべきでしょう」と語りました。

承久3年(1221)5月21日条

大江広元三善康信の進言を聞いた北条義時は、「両者の意見が一致したのは神仏の御加護である」と語り、泰時に早く出発するように指示しました。

承久3年(1221)5月22日条

北条泰時平盛綱ら十八騎の軍勢を従え、京へ出発しました。その後、北条時房三浦義村らが出発しました。

承久3年(1221)5月25日条

先月22日からきょうの明け方までに、しかるべき東国武士はすべて上洛し、北条義時のもとでその名簿が書き留められました。軍勢は総勢十九万騎です。

承久3年(1221)5月29日条

北条時房泰時らが大軍を率いて上洛したことが、後鳥羽上皇のもとに伝わりました。朝廷では皆が驚き、肝を冷やしたようです。

承久3年(1221)6月5日条

夜になって、幕府軍が大井戸の渡しを渡って官軍に戦いを挑み、これを討ち破りました。藤原秀康三浦胤義らは警固していた場所を放棄し、京へ退却したようです。

承久3年(1221)6月14日条

宇治川を挟んで官軍と対峙たいじした北条泰時は、川を渡らなければ勝利できないと考え、浅瀬を調べるように指示。勇士を送り出すと泰時は、敵の矢が降り注ぐ中、民家を取り壊して作ったいかだに乗って川を渡りました。

承久3年(1221)6月14日条

北条泰時率いる幕府軍の奮戦の前に、宇治川を守っていた官軍は敗北しました。

承久3年(1221)6月15日条

とらこく(午前3時~5時)に藤原秀康三浦胤義らが官軍の敗北を報告。すると後鳥羽上皇北条泰時のもとに院宣を届け、「この合戦は私の意志ではなく、謀臣らが起こしたものである。泰時らの申請通りに宣下しよう」と伝えました。

承久3年(1221)6月23日条

去る16日に北条泰時が送った飛脚が鎌倉に到着しました。合戦が無事に終わり、世の中が静まった経緯が詳しく記された書状が開かれると、皆が大いに喜びました。

承久3年(1221)6月23日条

公卿殿上人の罪名をはじめ、洛中の事についての取り決めがなされました。大江広元が文治元年(1185)の先例(源頼朝による行家義経に味方した廷臣の処罰の奏請そうせい)を考慮して計らい、事書ことがきを整えました。

承久3年(1221)6月24日条

とらこく(午前3時~5時)に事書を託された安東光成が、関東を出て上洛しました。光成は北条義時泰時父子に近侍していた武士で、京で処置すべきことを義時が自ら光成に指示をしたそうです。

承久3年(1221)7月13日条

後鳥羽上皇が鳥羽の行宮あんぐうから隠岐国うつられました。

貞応3年(1224)6月12日条

たつこく(午前7時~9時)に北条義時が病気になりました。このところ体調を崩していましたが、特別なことはありませんでした。しかし、いまは危篤です。

貞応3年(1224)6月13日条

北条義時こく(午前9時~11時)<または、たつこく(午前7時~9時)>に亡くなりました。享年62。

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