また雨が降っている。
普段は英語世界のニュースは殆ど扱わない日本語ニュースでも記事になっているが、もともとが火山性の脆い岩と土壌のオークランドは、あちこちで、空前の数の崖崩れ/地滑りが起こっていて、いままでは一度も地盤に問題が起こったことがない、所謂「高級住宅地」でも、土地が崩れて、なかには建物が半壊になった家まである。
やれやれ、とおもうが、災害などは起きるときは起きるもので、仕方がないというか、世界中に散らばって住んでいる友人達で考えても、活動期に入った地球と温暖化で、朝起きてみたらヨットが庭に鎮座していたり、クルマが水没したり、なにしろフロリダなどは、温暖化で海水の温度が上昇するにつれて、ハリケーンのコントロールがえらくよくなって、毎年、ストライクの連続で、打てるだけの対策を打って、あとは神様をおだてて、災いが起こらないようにしておくほかは、ありません。
船にも乗れず、キャンプサイトにも行けず、ニュージーランドという国は、要するに、豊かどころではない自然が、そのまま、でえええんと広がっていて、あとは不便がないように文明が、ちゃんと設えてある、という性格の国で、考えてみれば、けったいな話だが、絶滅したはずのモアが目撃されたという報告が続く人跡未踏の森林に至る森公園の入り口から、クルマで5分ま町側に行くとcream bunやステーキパイがおいしいベーカリーがあって、
やる気になれば、お馴染みワークマンズクラブで、ビールも飲めるが、
天気が、ここまで荒天になって、ここまで長くつづくと、お手上げで、
地上のパラダイスの夏なのに、家にこもって、XBOXのHALOや、PS5の、もう四半世紀も続いているキャラクタ、SONIC The Hedgehogシリーズの最新作、Sonic Frontiersで遊んでいる。
エイサエイサと家中を歩いて、モニさんを訪問すると、モニさんも、ゲームがあんまり好きでないモニさんには珍しくOculusのヘッドセットを被って、なんだか、モダンダンスのように手を、足を踏み出して、やや下を向いて、何事か掴むようなジェスチャーをしています。
PCゲームベースのゲームソフトが多いVIVEやHPのVRヘッドセットよりも、初めからVRスタンドアローンを前提にしたOculus Q2のほうがVRソフトは、よく出来ていて、いきなり直ぐそばに人が現れて、ぎゃああああ、と叫んだり、すごい臨場感で、なるほど、こっちが主流になっていくだろうな、とおもう。
ゲームではないApp世界を目指すAppleのVRギアが秋になれば出て、このくらいからVR/AR世界は本格化してゆくのでしょう。
世の中は、シンテクノロジーにエンジンがかかり始めていて、やってみればすぐに判るが、OpenAIのChatGTPなどは茶飲み話の相手くらいは軽く勤まりそうで、ほら、大学のカフェで、学生達や、研究者たちが軽い運動のようにしてサンドイッチを頬張りながら会話をして遊ぶでしょう?
あのくらいの相手は、もう出来るようになっている。
こういうところは、やっぱりバカだな、とおもう部分もあるが、つまりは人間が相手なのとおなじことで、方向として、ほぼ「AIという新しい知性」がすぐにでもカテゴリとして現れてくるようです。
いまの世界には、知的な爽快さがあって、機知があって、物語性が高い小説はたくさんあって、また、高い評価を受けているが、残念ながらなのか、そう残念でもないのか、よく判らないが、いままでの伝統的な意味の文学は、死の床につきそうで、多分、見ていると、生き残るのは、笑ってはいけないが、「魂」がある文学だけであるとおもう。
当然、小説/物語のようなAIが得意分野にしやすい形式と異なって、「遠くのものを結び付ける」ことによって美を生む詩のほうが、ずっとあとまでAIに較べて人間が質的に次元が異なる作品を生みだし続けていくだろうことは簡単に察しがつく。
詩のなかでも短歌や俳句のような外型の定型の鋳型を持つものはAIが案外、いまの原始的な段階でも人間よりすぐれた作品を生みだすだろうが、
自由詩というのか、定型が外形でなくて語彙と語彙の結び付きによる、いわば「意味の定型」の側にある詩は、AIは最後まで苦手でありそうです。
同様に、人間が、不断に積み重ねる経験の多様さと複雑さにおおきく依存した哲学を中核に持つタイプの、例えばフォークナーやドストエフスキーのような小説は、小説といえど、AIが決定的に勝るのは、そう簡単ではないはずです。
多分、ソフト的にではなくハード的に量が質を変質させるほど計算速度が飛躍する量子コンピュータの出現の後に、枚挙速度という量が質の意味そのものを変化させるときが来て、そこから、人間の文明そのものが変質していくに違いない。
こう書くと、まるでSFの内容を書き出しているように思えるが、実際には、なあに、ぼく自身が健康ならば、生きているあいだに達成されてしまって、
いまと、そのときでは文明といい、文学といい、芸術という、そういう概念のひとつひとつが、いまとは、まるで異なったものになるのは、そういう言い方をすれば「火を見るより明らか」ではないかと考える。
むかし、日本でだったとおもうが、政治家の人だかなんだかが「二次方程式の解の公式なんて人間が生きていくのに必要ないのだから学校で教えなくてもいいのではないか」と述べていて、記事を見てしまったこちらは、ほぼ自動的に、古代の北インドでは上流であって、下衆でない人間かどうかは、最低限二次方程式の解の公式を理解して運用できるかどうかで判断されて、花嫁修業の最低限として、若い女の人たちは解の公式を使って二次方程式を解く練習に余念がなかった歴史を思い出して、ニヤニヤしてしまったが、自動車の運転講習じゃあるまいし、いま見ている世の中の需要から、役に立つかどうかを判定して学ぶかどうかを決めるという発想そのものが、文明に参加できない人の考え方で、こんな人を政治家として持つ社会や、夫として家のなかで付き合ったり、ましてベッドを共にしたりするのは、言葉が著しく悪いが、獣姦じみていて、気分が悪くならないものだろうか、と真剣に訝ってしまう。
巖谷國士さんという練達のシュルレアリストがいて、話してみると、「日本の」という枕詞がいらないシュルレアリストだった瀧口修造と懇意、というよりは本人は遠慮して、そういう言葉を使わないが、驚くべし、友人だった人がいて、日本語ツイッタの内や外で、内ならばDMやタイムラインで、話をしては、たくさんのことを吸収する。
この人は、日本の人には珍しく、understatementが自然に身についている人で、それだけでも自分が育った社会の匂いがして、安心で、リラックスして話が出来るのに、「諦めない」と繰り返し述べていて、わかりやすい知的誠実さを備えてもいて、そのうちには日本語世界全体が再評価しなおして、いまでも勿論名前が小さいわけではないが、誰かが真価をわかりやすいように書いて、日本語を考え直す縁(よすが)にしなければならなくなるだろう人です。
巖谷さんは、陳腐化した日本語の語彙を、もういちど使えるように仕立て直そうという、はっきりした意図を持って日本語を使っているようで、例えば、「それは教養の違いだ」と、はっきり述べて、びっくりしてしまったことがある。
教養という言葉は、衒いが多い、冷笑があちこちで待ち構えている日本語世界は、うまく隠された罠のように死語として存在していたからです。
教養がないと判りませんね、とは、なかなか言えない、隠秘な仕組みは、発達した言語世界ならば、どこでも存在するが、日本語も例外ではない。
そこで、巖谷さんにおんぶに抱っこで、教養という言葉を使わせてもらうと、現代社会を見透して、なにがどこで起きているか通瞰しながら毎日を暮らすためには、例えば20世紀とは比較にならないほど巨大な教養が必要で、象をなでる群盲ならば、トリビア雑学と見分けがつかないだろうが、
容赦のない言い方をすると、理系文系と分けてしまうような全体が栄養不足で貧弱な教育を受けてしまうと、そもそも、世界を理解するチャンスがない。
いまの世代のAIすら理解しないで、というか、水準への感覚がなくて、
文学を話していても、仕方がないところがあるようです。
AIの専門家に聞けば、まともにAI技術と向きあって暮らしている研究者ならば、「まだまだ、ちゃちなもんですよ。80年代の人工無能と本質は変わらない」と言うに決まっているが、騙されてはいけないので、この研究者の頭には「本質が変わらない」という日頃の悩みの種を述べているだけで、実際にいまのAIが「考えて解決する」ことが出来る事象は、80年代のラプターを共としたり、もっと遡ればエリゼが賢く見えたりしたころと較べれば、桁違いで、較べるのも無意味なほどの違いがあります。
AIが質的な転換を遂げて人間とおなじ/似た思考の形態で、人間よりすぐれたものになっていくのか、それとも人間の想像では及ばない枚挙速度にものを言わせて「創造的な思考」の意味そのものを変えてしまうか、そのどちらを行くか、ぼく自身は後者だろうとおもっていますが、いまはまだ、確かにこっちとは言い切れない曲がり角に立っている。
ただもう判っていることがあって、すでにコンラート・ローレンツが疑問を呈したような知性は、普通に、初級教科書のレベルでも否定されている。
「タコは鬱病になるほど高い知性を持っているが、鶏は知性が低いので鬱病にはならない」と述べたときの「知性」や、あるいは器質的に、
「ほら、ネコは額がないでしょう?だから額を持つ犬ほどの知能はない」というときの「知能」には、あんまり意味がなくなっている。
むかし、当時は、まだ日本では珍しかった、というよりも、ほぼ存在しないカヤックに乗って、かーちゃんと葉山の沖で遊んでいたら、アジの群れが頭上を跳び越えていって、「このあいだ読んだ本には、魚には遊ぶだけの知能はない」と書いてあったけどなあ、と訝しく思う事があった。
もっと決定的には、前にもたしか日本語で書いたことがあるが、深夜の3時頃、「ドンドンドンっ!」とものすごい音でドアをノックする音がして、寝ぼけ眼で部屋のドアを開けてみると、猫さんが、ちんまりと座って、こちらの顔を見上げている。
いいか、ついてこい、とでもいうような「間(ま)」をもって、くるりと向きを変えて歩き出すと、ときどき、「こっち」と言わんばかりに振り返りながら、階下へ下りていきます。
長い真っ暗なホールウエイを歩いていくと、普段は使わない来客用のシャワー室の前で、ふり返って、「みゃあ」とおおきな声で鳴く。
ところが、シャワー室の閉じられたドアの向こう側からも「みゃあ」と鳴く声がして、えええ、とおもって開けて見ると、もう一匹の猫が閉じ込められていたのでした。
事故の内容を理解して、二階にあがって、いつも世話になって可愛がってもらっているとーちゃんとかーちゃんを起こしては悪いので、あんまり役にたたないボンクラ息子のほうを選んで、起こして、救援させる、という複雑な計画を、咄嗟に立てて実行するだけの知性が猫にあるはずはないのに、と、そのときも考えた。
そういうことが切っ掛けになって、「ガッコで習った知能/知性は、見る角度がダメなのではないか」と考えるようになって、そのあと、気を付けていると、なるほどダメダメで、知能の定義だけではなくて、較べ方がひどいが、日本の教育制度などは、より本質的には、折角の聡明な国民性なのを、わざわざバカにするようなカリキュラムで学校を仕切っている。
いくら正座して「詩経」を学んでも火星に移住するロケットはつくれません。
特に日本には限らないが、新しい世界を人間として渡っていける能力を身に付けようとおもえば、まず想像力で、どういう能力の組み合わせが必要かを見いだして、その像に近づける教育を受けさせる仕組みをつくらなければいけない
日本の政権が「改革」として始めた方向とは、ちょうど逆で、20歳くらいまでは「役に立たない」学問だけを学ばせて、そのなかから、自分が特に向いている、というのは本人の側から言えば、いくら付き合っていても、まったく退屈しなくて、興奮しているうちに、あっというまに時間が経ってしまう分野を足場にして専門教育を受けてもらう。
ちょうどいまのバチェラーディグリーのところにPhDを持ってくるのがよさそうです。
3年(日本は4年だったかな?)の学部よりも、ずいぶんトウが経ってしまうが、それだけ理解して扱うべきことが複雑になっているのだから、やむをえない。
陰謀論者がなぜ発生するかというと、簡単で、世界の複雑さについていけなくなったひとたちが、ほぼ現実に眼を瞑るようにして楽ちんな仮説で「一刀両断」に理解しようとするからです。
世界を分析して理解するだけの知力も粘り強さもないので、バッファローのホーンがついたかぶり物を身に付けて自分たちの議会を襲う。
あるいは「左」の側でも、世界という現実から遊離した教条に合うか合わないかで、勝ち判断をくだすようになる。
日本でいえば、「大学」と名が付く上級学校の大半はポリテクにしか過ぎないでしょう。
年長の友人には、御茶ノ水にある医科と歯科のみがある大学に、歴史的な背景がある異常な競争に勝って入学したら、
「大学とは到底呼べない職業学校だった」とかで、怒りとともに中退して、京都大学に入り直したおっちゃんがいるが、これは特殊な場合で、説明によれば戦時中に促成栽培で医師を量産するためにでっちあげた学校が、大学を名乗って、いまでも、その名残で、あの大学を出た人間は教養がないのよ、と自嘲して笑っていたが、多かれ少なかれ、日本の大学は「教養」を軽んじていて、どうもそれがおおきな弊害を生んでいるように見えました。
東京大学の教養課程の教室で、映画で見ただけでもいいからアルゴー探検隊を知っている人、と手をあげさせたら誰もいなくて、
ではスチブンスンの「宝島」は、どうですか、と質問を変えたら、これもゼロで、ではグリム童話は、と訊いていって、あまりに誰も読んでいないので、怒って、授業を中断して帰ってきてしまった、という人がいたが、
話を聴く度におもったのは、いまでも十分、「余計なこと」や「役にたたないこと」は綺麗さっぱり知らない若い人が多いようであることで、
人間自体が、あらすじ化していて、ひどい人になると、意味がおなじなら、おなじことでしょう、という人まで、ほんとうに存在するらしい。
どうも、漱石の「三四郎」を読んでも、たったこれだけの主張なら、自分なら原稿用紙5枚で書ける、とマジメに考える人が、少なくない数で存在するらしい。
効率化は、一面、硬直化で、無駄を省けば、融通の能力も省かれる。
まして本質と現象に区別などなくなってしまう。
そうすると、どうなるか。
「AIに考えさせたほうが遙かにマシ」な社会が現出する。
高い生産性と効率を誇る日本社会は、次第に世界についていけなくなって、いまでは、身も蓋もないことをいうと世界に置いてけぼりにされた国と変じてしまっているように見えることがあります。
効率も、生産性も、もうそろそろ考えの枠組みとして捨てないと、AIと比較されるだけの社会になって、別に人間でも人間でなくても、どっちでもいい
「国民」であふれる国になってしまいかねない。
近代化の知恵というものは、どんな社会でも、往々にして浅知恵にしか過ぎないのは、日本でいえば、受験の勝者がcleverなだけでwiseなところが全然ないのと似ています。
豚のうまみは脂肪に宿る。
神は無駄に宿る。
は、冗談だが、
最も重要なことは余白に生まれる。
これだけは伝えたいということは行間に書かれている。
人間は、おとなになるにつれて、高い効率というものがなにを犠牲にして得られるのか自然に理解するが、その理解の機会を、日本の教育は、奪いつつあるように見えることがあるのです。
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