「愛してる」
母が子に告げるにはあまりにありふれた言葉。けれどその一言に人々は一体どれだけの意味を込めているだろう。愛をテーマにしたドラマがいくつあるだろう。愛を謳った歌がこの世にどれほどあるだろう。この言葉を聞いて、気分が悪くなる人間は少ない。
しかし、母の腕の中で抱きしめられた少年にとって、その一言は耐え難いものだった。
突き立てられたナイフから溢れる血。掠れた声、徐々に力が弱くなる手。その全てがこの愛しい人の命が消えかけていることを示していた。
───やめて、やめてくれ、アイ
星野アイ。音が鳴るのではないかと思えるほど艶やかな黒髪に星の輝きを想わせる強い瞳を宿した、ルックスは芸能界でも指折りの美しさを誇るドーム公演や映画の主演を控えた天才アイドル。彼女には秘密があった。恋愛禁止のアイドルが人知れず子供を産んだ事。男の子はアクアマリン。女の子はルビー。今時といえば今時の名前の双子だった。
そして今、それを知られてしまった狂信的なファンにナイフで腹部を刺されていた。
「ルビーのお遊戯会、良かったよー。ルビーもこの先、もしかしたらアイドルになるのかもなぁ。アクアは役者さん?いいよねぇ。アクアならきっとなれるよ」
───そんな、そんな……
「二人が大人になっていくのを……見たかったなぁ」
手から力がなくなる。抱きしめる身体から暖かさが、少しずつ、けれど確実に、抜け落ちていく。
「えっと……あ、コレだけはもう一度言わなきゃ」
──そんな別れの言葉みたいなの、言わないでくれよ!
「愛してる」
親が子につげる、ありふれた一言。しかしその言葉は、少年の心を壊すには充分すぎた。
「ああ、よかった。この言葉は、絶対嘘じゃない」
「あ、あぁ……あぁあアああアああ!!!?」
母の眼から星が消え、闇へと落ちる。少年の意識もそのまま消え失せた。それは、彼が出来た最大限の防衛本能だったのかもしれない。
▼
その少年はいわゆるギフテッドと言われる子供だった。幼稚園に入る頃にはなんと本すら読んでいた。絵本などではない。大人でも読むのが難しい本だ。
しかしあの事件からほとんど喋らなくなってしまった。まるで幼児退行したかのように。いや、まだ4歳なのだから年相応といえばそうなのかもしれない。けれど今まで信じられないほど早熟だった子が急に年相応になってしまったら誰もが動揺するだろう。
「アイ!アクア!」
救急車と警察が駆けつけた時、黒髪の美女はもう命を無くしており、抱きしめられた少年は気絶していた。女性は腹部をナイフで刺され、内臓を傷つけられたことで血を吐いている。
黒髪の美女の名は星野アイ。とある映画をきっかけにトントン拍子で売れ始めたアイドル。音が鳴るのではないかと思える艶やかな黒髪に星の輝きを放つ美しく、強い瞳を持つその容姿は、芸能界でも屈指の美しさを誇る。
そして抱き抱えられた少年は彼女の美を強く受け継いでいた。唯一の違いは髪色くらいだろう。少年の名はアクアマリン。親しい者はアクアと呼ぶ。二人は親子だった。
救急車に運び込まれたアクアとアイ。外傷がなかったアクアはすぐに隔離され、アイはICUへと入る。しかし残念ながら蘇生はできず、アイの死亡は確定した。
そして、アクアも未だ目覚めない。いや、目は覚めているのだが、まともに受け答えをしない。どこを見ているかわからない虚な目のまま、まるで魂を無くしたかのような抜け殻になっている。アイの死は世間的には一過性の噂で終わっていたが、関係者には多大な傷跡を残し、動揺の嵐の中だった。
「お兄ちゃん」
虚な目の男の子に華奢で可愛い女の子が寄り添い、話しかける。容姿は凄まじく良く似ている。異性であるため、判別はできるが、もし同性ならほぼ見分けはつかなかっただろう。それも当然。彼女は少年の双子の妹なのだから。
ルビーはアクアの変化に最も動揺した人間の一人だろう。お互い他人に言えない秘密を共有した、数少ない人物だったのだから。
「起きてよお兄ちゃん」
兄が茫然自失し、入院していた間、彼女は世間にキレ散らかした。アイドル殺人というセンセーショナルなニュースに対し、世間は好き勝手な噂を振り撒きまくった。中には真実に近いものも存在していた。
「アイドルが男作ったからってしゃーなしって何!?恋愛したら殺されても仕方ない!?ふざけんな!自分は散々アイドルにガチ恋しといて!キメェんだよ死ね!」
理不尽な暴力と現実に晒され、本人の現実が見えていなかったルビーは雪が積もり始めた頃に、ようやく隣に兄がいない事に気づいた。
そして今、少年の妹、星野ルビーは病院にいた。
「私、アイドルになれると思う?」
兄は答えない。それでも、妹は続けた。
「お兄ちゃんは止めるんだろうね。だってアイドルは理不尽だらけ。恋愛しただけでまるで犯罪者みたいにバッシングされるし、お金だって儲ける手段は他にいっぱいある」
でも。それでも。
「ママはキラキラしてた」
私はあの頃、病室から出ることさえ出来なかった。私にとって、健康な身体で人前で歌って踊れるというだけで奇跡だ。私の初恋の先生は今もきっとドルオタやってるだろう。あの人ならきっと私がアイドルをしているのを見てくれる。それだけで私にとっては充分過ぎる理由になる。
「お兄ちゃん。お前ならできるって。頑張れって言ってよ、お兄ちゃん」
暗い目で虚空を見つめる兄の胸が妹の涙で濡れる。掴んだ手に力が篭り、ベッドに座っていたアクアは倒れた。
「わわっ、ごめんお兄ちゃん」
ベッドから崩れ落ち、身体を打った兄を慌てて支える。けど幼児の腕力で自分以上の体格を起こすのは不可能だった。
「───いてて」
「えっ」
起こそうとした手に力が流れる。打ちつけた頭を押さえながら、少年は立ち上がったのだ。
「お……兄ちゃん」
「───ルビー?なんで泣いてるの?」
「私が、わかる?」
「?何言ってんの?ルビーでしょ?僕の双子の妹の」
キョトンとした目を妹に注ぐ。彼が口にした当たり前の事実は少年の自我を取り戻した何よりの証拠だった。
「せ、先生!先生!お兄ちゃんが!アクアが目を覚ましたぁ!」
妹が病室を飛び出す。あまりに唐突な事態だったため、妹は違和感に気が付かなかった。
兄の一人称が変わってる事に。彼がもっと粗雑な口調だった事にも。
「アイって、誰?」
両目に眩い星の光を宿していることにも。
▼
「解離性障害?」
意識を取り戻し、カウンセリングの中で、彼からアイの記憶がなくなっている事が発覚した。全てのカウンセリングを終えた後、精神科の医師が彼の症状を述べた。
「解離性障害は幼い頃の虐待、強いショックなど、心的な傷を残すような出来事が関わっています。彼はアイさんが殺害された現場に居合わせ、犯行の瞬間も、彼女の命が消える瞬間も目で見て、身体で感じてしまったのです」
先生に具体的に説明され、イメージしてしまい、ゾッとする。自分が同じ現場で、同じことを体感してしまっていたら、正気を保つことができただろうか。リアルな死の感触を身体から消すことができただろうか。心底から寒気が奔り、身震いを止めることはできなかった。
「大の大人でもPTSDを発症して、なんら不思議でないショックです。4歳の少年に受け止められないのは当たり前でしょう。自身の精神を守るため、彼は母親の記憶を忘却した」
医師の説明は的確だった。冷静で、客観的で、文句のつけようがなかった。だからこそ誰も言葉が出なかった。出せなかった。
「…………記憶を、戻す方法はあるんでしょうか?」
誰もが現実を受け止めるため、全力をつくしている中で、アイドル星野アイに代わり、母親を務めていた斎藤ミヤコが恐る恐るだが、ようやく一つの質問をした。
「ミヤコ」
「でもっ、はは──アイさんのことを思い出せないなんて、いくらなんでも酷すぎます!」
「アイの事を思い出す方が、あの子にとって酷なことかもしれないんだぞ」
「っ、それは……」
そう、記憶を取り戻す事で心的外傷が蘇り、またあの茫然自失状態に戻ってしまうかもしれないのだ。確かにアイの事を忘れてしまったのは悲劇かもしれないが、今の元気なアクアを見れば、今の方がまだいいと思うのも無理はない。
「流れに任せましょう。記憶というのは非常に繊細です。何気ないきっかけでフッと戻ることもあれば、何年経っても戻らないこともあります。けれど確かな治療法は残念ながらないんです。今はアクア君を支えてあげてください。記憶を取り戻した時、彼を守ってあげてください。それまでは見守りましょう」
▼
「元気そうだね、お兄ちゃん」
出された食事を勢いよく流し込むアクアの姿を見て、安心したような、心配してたのに裏切られたような、複雑な気分だった。
「なんか凄いお腹すいちゃって。僕何日まともにご飯食べてなかったんだろう」
「その僕って何なの?私の前なんだし猫かぶる必要ないでしょ?俺って言いなよ」
口に含んだうどんを呑み下す。どうやらルビーの前ではいつも俺という一人称を使っているらしい。
自分の症状について、さっきカウンセラーの人からある程度聞いた。僕はアイという人のことがすっぽりと抜け落ちてしまってるらしい。一人称が変わっているのはその影響なのだろう。そしてルビーの話から察するに、その人は僕らの母親のようだ。
記憶喪失について、ルビーは知らない。僕が放心している時、妹はとても不安がっていたそうだ。当然だ。彼女にとって僕は、唯一残された家族なのだから。
母親を忘れている事について、僕はそこまで動揺はしていなかった。世の中幼くして母親を亡くした子供なんて何人もいるだろう。僕もその一人というだけに過ぎない。覚えていない、顔も忘れてしまっている母が死んだと言われても、悲しくも、寂しくも感じなかった。
思い出せと叫ぶ自分もいる。忘れた方が幸せだと諭す自分もいる。どちらが正しいのか、どちらが冷酷なのかは分からなかった。
けどルビーは違う。この子は母親のことをハッキリと覚えていて、母を心から愛していた。だからこそ嘆き、悲しみ、涙し、兄に縋っている。
「お兄ちゃん、私……私ね?ママみたいなアイドルに、なりたい」
抱きついてくる妹の腰に手を回し、頭を撫でる。彼女の夢を安易に肯定も否定もできなかったが、それでも言葉をかける事はできる。
「頑張れ、ルビー。頑張れ」
「うん……うんっ」
この子が縋れる先は僕しかない。なら僕は……いや、オレは、この子の為に嘘を吐こう。
記憶の確認のため、星野アイの事はカウンセリングである程度聞いた。どんな性格だったか、どんな人だったか、大まかには掴んでいる。覚えてるふりくらい出来るはずだ。
記憶に関しては来るに任せよう。無理やり思い出す事はしないけど、忘れる事もしない。何かのキッカケで記憶が戻ったら、その時はしっかり向き合おう。怒りや憎しみに囚われるならちゃんと囚われよう。それまではただのアクアマリンとして生きていく。
ルビーのため、そして思い出せと叫ぶ僕と忘れろと諭す俺のために。
嘘だって貫き通せば真実だ。ならいつか、嘘がホントになるまで
オレは、嘘を吐き続けよう。
愛のために嘘を吐きつづけると誓った少年の瞳の中で、輝く星が暗く光った。
▼
「先に行ってるぞ」
「あー!ダメダメ!もうちょっと待って!あと5分!」
「長い。1分にして」
「あ、間違った。やっぱ10分」
「先行く」
「この制服可愛いけどフクザツなんだってばー!」
かくしてプロローグは終わり、メインストーリーの幕が上がる。
「いってきます、ママ」
自分に正直に生きる妹と嘘を吐き続ける兄を