「お兄ちゃんは役者になるんだよね」
カウンセリングが終わり、外傷もなかったオレは程なく退院。それから暫くが経ったころ、ダンスのレッスンをしていたルビーが唐突にそんなことを言い出した。どうやらオレは3歳の頃、アイのバーターで映画に出たことがあったらしい。いや、出演した事は覚えてる。ちょっと気味の悪い子供の役をやった。自分で言うのも何だが、けっこう上手くやれたと思う。けど、なんでその映画に出演する事になったのかを思い出せなかった。
「ママ、言ってたもんね。アクアならきっと誰より凄い役者さんになれるって」
出演した映画を見にいった時、アイがオレにそう言ったらしい。その事も全然覚えていない。しかし、ルビーにとって、役者を目指すオレこそが正しいアクア像なのだろう。
「ああ、そうだな。オレもルビーみたいにそろそろちゃんと芝居の勉強しようかな」
「いいじゃん。誰に教わるの?やっぱりあの監督さん?」
妹が口にしたあの監督さんというのが誰かはわかった。現場に来ていたオレを抜擢した壮年のオッサンで、あの後演技を褒めてくれた人だ。他に当てもない。オレはオッサンに連絡をとった。
「オレを、役者にしてください」
それ以来、オレはあの人の下で演技の勉強をしている。すぐに芸能界入りしたかったんだが、それは止められた。
「入ろうと思えば明日からでも入れる世界だけどな。あそこで長く俳優としてやっていくためには身につけておかなきゃいけない事がいくつかある。お前はまだ幼児と言えるガキなんだ。慌てる必要はねえ。ちゃんとレベル上げして耐性つけてから乗り出さねーと即死喰らうぞ」
というわけで暫くは下積みという地味でやたら長く感じる当たり前の修行から始まった。今日もそのうちの1日で、ちょっとした役をやらせてもらっていた。
「お前、変わったな」
いくつかレッスンをこなし、演じた後、監督はオレをそう評した。
「あんだけ早熟だったのが、いや今でも充分早熟の部類だが、少し年相応になった」
「…………監督それ褒めてんの?貶してんの?」
「どっちでもねえさ。だが、ちょっと精神が年相応になったおかげか、演じ方も変わった。お前は俯瞰型の役者だと思ってたんだが、今回は完全に没入型の演技をしてた」
没入型。作った役に精神ごと入り込み、まるで役そのものになったかのように演じる方法。
「…………なんか問題あるの?」
経験に照らし合わせ、役に入り込む。この方がやり易いし、何より対応しやすい。アドリブやアクシデントなどが起こった時、役の人間ならどうするかのアクションがイメージ出来るし、他の監督や役者に演技を褒めてもらう時、大体うまく役に入り込めた時だった。
「悪くはねーんだが、幅が狭いんだよ、没入型は。ハマればスゲェけどハマんなかったら泥沼に陥る事もある。監督の撮り方や作家の気分次第で役のキャラクターが変わるなんてザラだしな。それに、お前自分に経験あることでしか入り込む演技できねーだろ。メソッド演技の使い手は最初、自分にしかなれねーんだ」
「じゃあどうすれば良いの?」
「自分を俯瞰で観れるようになれ」
相手から見て自分はどう見えているのか。この舞台において、自分にはどんな役割が求められているのか。作者の、そして監督の意図を読み取れるようになれ、と言われた。
「演技全振りの役者のみが求められる訳じゃない。まずは監督のイメージピッタリの演技が出来るようになれ。没入するのはそれからでいい。もっと世界を、他人を、そして自分を知れ」
そう言われてからは映像編集やカメラマンの仕事を主にやらされた。といっても勿論助手以上のことはやらせてもらえなかったが。しかし演じる側から撮る側に回ることで学ぶことは沢山あった。カメラを意識した立ち振る舞い。求められる役割。場を繋ぐコミュニケーション。視点が変わるだけで世界はこんなにも変化する。演じるだけでは得られなかった勉強をさせてもらった。
「…………お前、超飲み込み早いな」
「そう?」
見られていることを意識する。簡単そうに見えてめちゃくちゃ難しい。当たり前だが、他人から自分がどう見えてるかなんて所詮はイメージの域を出ないし、何より目ん玉は自分の顔面にしかついていない。目から脳に伝わる映像はそのままに、他者からどう見えてるか、他者がどう見せたいかを汲み取り、自身に還元する。言語化するだけで混乱しそうだ。
しかしこの男はそれを平然とやってのけた。監督の立場やカメラマンの勉強をさせたとはいえ、この飲み込みの速さは尋常じゃない。
「オレだっていつも見えてるわけじゃないよ。調子がいい時とか、集中がいい感じの時って、なんか天井から全体が見えたりするでしょ?そういう時を、スタートに持ってきてるだけ」
さらりととんでもないことを言ってのける。鳥瞰視点、バード・アイといえば馴染みがあるだろうか?空間認識能力が高い人種が持つ特別な目。大抵の人間の視野は約120度が限界。しかしこの目を持つ人間は天の星から全体を除いているかのような、どデカい視野を持つことがある。無論常にではない。コンディションがいい、集中力が高まった、などの条件が必要になる。この少年はそのタイミングをカチンコが鳴る瞬間に持っていっている。いわゆるゾーンに入った状態を意識的にコントロールしているのだ。努力や知識などでは絶対に手に入れることのできない、神に愛された人間へのギフト。
───その瞳をコイツは持って生まれた。アイも調子いい時、似たような事言ってたな
超一流エンターテイナーやスポーツ選手でもこの目を持っている人間は稀。ましてゾーン。理想的な集中状態への没頭など、コントロールできる人間が果たして一体何人いることか。
───この顔立ち。強い自信の輝きを放つ瞳。精神性に若干のバイアスがあって、完璧主義者。そしてなんらかの秘密を抱えている、か。
目の前の少年の出自。概ね見当はついていたが、予想が確信に変わる。コイツは紛う事なく、あの天才の息子。変わったのではない。フタが開き、覚醒しつつあるのだ。この子の内に眠っていた才能が。
「俯瞰演技の習得は合格。次は出来るだけ多く人と関われ」
人間の心理というやつはパターン化できる。感情において共通する事項というのは絶対に存在するからだ。行動にセオリーがあるように感情にもセオリーがある。
「お前も経験あるだろ?あ、この人こーいうタイプの人だ、みたいな」
ある。ふるい分けが出来た方が接し方も難しくない。
「ドラマや舞台じゃ凄えスーパーマンやヒーローがいる事もあるけど、壇上に立つ役は大抵が凡人だ。そして役者が演じる役も圧倒的に凡人役のほうが多い」
「そりゃそうだ」
「お前は没入型も俯瞰型もどっちの演技もできるタイプだ。だが俯瞰型はソツなくまとまっちまう事も多い。ハマったメソッド演技と比べられたら平凡に見えちまう」
周りに合わせた演技というのは軋轢も生まないが、革新も起こさない。ドラマや舞台は役者同士の掛け合いがキモ。役者同士の化学反応が必ず必要になる。その時半端なPHではかき消されてしまう。
「だからこそ人間の思考パターンを学べ。お前の中にお前以外の性格を沢山入れろ。人間大なり小なり演技して異なる自分ってやつを持ってんだ。お前はそれを常人の百倍増やせ。そしたら監督に性格変えろって言われてもスムーズに対応できるようになる」
「なるほど」
「それに結局役者に一番大事なのはコミュ力だ。それを鍛えるためにはやっぱり人と関わるのが一番いい。お前はどんな役にも瞬時に入り込める。お前は百点満点の演技も、ピッタリの演技も、両方できる役者になれ」
それからアクアは学校生活に力を入れるようになった。勿論演技のレッスンもおろそかにはしていないが、小学校では男友達と積極的に関わり、交友関係の幅を広げた。女の子からはどんな趣味や価値観を持っているのかを知り、彼女達の習い事を教えてもらい、自分もやってみたりした。
小学校の6年間でアクアは人の心に入り込む術を大枠理解した。
まずはルックス。と言ってもこれはそこまで重要ではない。最低限清潔感があり、不快感を持たせない見た目でなければ、人は話くらいは聞いてくれる。
そして話をする際、絶対に目を見て話すこと。ここで変にキョドったりしては相手をしてくれない。なんだかんだ人間自分に自信のある人が好きなんだ。
話の中で、自身と相手で共通する事項をそれぞれの人生から見つけ、相手の経験談を引き出し、その人の話を面白くするために会話する。聞き上手とはこういう事ができる人を言うのだと知った。
そうしたコミュニケーションのノウハウを小学生で学び、アクアは中学に進学する。そして歳が変わればコミュニケーションの取り方も変わる。
男子とは一緒に遊ぶだけでなく、喧嘩や競争など、勝負事でコミュニケーションを取る機会が増えた。そして女子とは異性として接することが増えた。
良くない先輩に連れられ、夜の街に出る事もあった。と言っても、映画やドラマで見られるようなヤバい現場に鉢合わせることなど、現実ではそうそうない。精々酒とタバコで騒ぐくらいのことだ。
異性とのやりとりはそこで勉強させてもらった。女の口説き方。相手に応じて変える、異性として接するパターン。キス、性交渉。小学生の頃は神聖視していた行為だったが、所詮セックスもコミュニケーション手段に過ぎないと学んだ。そしてコミュニケーションには技術がいる。中学の3年間は演技の練習をしつつも、これらの技術の習得に費やした。
こうして義務教育9年間は役者としての下積みに終始した。嫌になることや会いたくもない人間に会わなければいけないストレスなどもあったが、たった一人の肉親を安心させるためなら嘘をつけた。
そして迫る高校生活。ようやく培った技術を頼りに、芸能界へと本格的に進出する。今までも端役で作品に出演したことは何回かあったが、敢えて仕事数は抑えた。いきなり芸能界入りするより、実力をつけてからの方がいいという監督の指示は納得できる物だった。
10年をかけて、実力とコミュ力は監督から合格点もらえる程度には身につけた。準備期間は終わり、遂に芸能界という大海原へと航海が始まる。本気で俳優をやるなら大学に行ける余裕はないだろう。恐らく
「で、なんでお兄ちゃん、一般科受けるなんて結論になるの?」
机に並べられた陽東高校入学願書を見たルビーが口にした素朴な疑問は当然のものだ。日本で数少ない芸能科がある中高一貫校。この芸能科は誰でも受けられる訳ではなく、芸能事務所に所属している事が必要となる。
アクアはかつて子役として映画に出演した際、苺プロダクションと契約しており、今も所属は苺プロだ。入学の条件は満たしている。俳優として本格的な活動を始めようと言うのに、障害が多い一般科を受けるのはリスクしかない。本気で芸能活動するなら休みとかに融通が効く芸能科の方が効率的だ。理屈はよくわかる。しかし……
「俳優が芸能科にいくなんて普通すぎてつまんないだろ」
理由の一部を伝える。せっかくの最後の学生期間。芸能界に本気で乗り出すからこそ、学校でくらい芸能人を忘れて普通の高校生もやってみたい。そういう理由も一部あった。すると妹は満足そうに笑って「つまんないか」と呟いた。
「お兄ちゃん、どんどんママに似てくるね」
「──そうか?」
「うん。ママもきっとつまんないならどんな合理的なことでもやらなかった人だから」
「…………そうかもな」
笑って肯定したが、内心では少し汗をかく。過去の映像とかを見て、星野アイについては観察したつもりだが、まだまだ掴みきれたとは言い難い。言動に破天荒な部分が良く見られる人だったし、なんとなく秘密主義者だ。故に家族に見せていただろう素の部分が掴めていない。今すぐ星野アイ役でカメラに立てと言われれば、映像上の彼女は演じられるだろうが、ルビーが見ているのは勿論そんなところではないはずだ。
───難しいな、星野アイ
この10年で人間観察の力は随分向上させたつもりだが、この人の才能と実力には底が見えない。今のところまだボロは出てないが、このままではいつかルビーと齟齬が出そうでこわい。
───オレ達以外の星野アイの家族、もしくはオレ以上の観察力を持った人間がいればなぁ
そんな人間がいれば、どんな手を使ってでも繋がりを作るのだが。しかし、そんな奴この10年で一人もいなかった。アイも調べた限り天涯孤独。交友関係も非常に狭い。
───あ、
一つ、可能性にたどり着いた。ついてしまった。ある意味星野家にとってのアンタッチャブル。あの事件から今まで10年間、一度たりとも話題に上がらなかった人物。それも当然。本来現役アイドルが持ってはいけない相手だからだ。
───父親
そう、アクアもルビーも木のまたから生まれてきた訳ではない。母親がいるなら父親も必ずいる。アイの葬式にも顔を出さなかった奴のため、会いたいとも知りたいとも今の今まで考えたことはなかった。
しかし、今は少し考える。アイのプライベートを知れるのなら、と。その為ならどんな手でも使うと思ったことも。
───でもなぁ
まったく、完璧なノーヒント。性別男くらいしかわかっていることはない。手掛かりゼロ。
ならば諦めて仕舞えばいいのに、アクアの明晰な頭脳は手掛かりゼロでも推理をしてしまう。
───アイは幼少期、施設で育った天涯孤独。人との繋がりができるのは芸能界に入ってから。なら相手の男は俳優とかプロデューサーとかの業界人。少なくとも芸能界に関係した誰かの可能性が高い。
ならいずれ出会うかも知れない。出会わなくても、オレが有名になればアッチからオレに近づいてくるかもしれない。
───上へ行こう。日本の誰もがオレの名を知っているようになるくらい、上へ
こうして少年に芸能界で戦う理由が増えた。嫌なことでも、やりたくないことでも戦い続ける準備ができた。できてしまった。
彼の歩く階段は高みへつながる道なのか、はたまた地獄への下り道なのか。
それはまだ、誰も知らない物語