手紙を書いた 時がとまるように
電話をかけた 忘れませんように


というのはぼくが高校生のときにかいた「犬にかみつかれても」という曲(7分ある)の冒頭の歌詞なのだけど、ここから今になって自覚できるのは高校生のぼくの、手紙に対する歪んだ感情だ。


ぼくは手紙というのは差し出す相手への卑屈な感情を込めればそのひとをコントロールできる呪いのようなツールになると思い込んでいたんじゃないだろうか、それこそ、時すらとめられるような。


最近熊本で行われた「HAPPY JACK」というサーキットフェスに出たので、ついでに数日帰省した。
自分の部屋の引き出しを漁るとそこから大量に出てくる呪いの手紙に、ぼくは思わず身体が凍るのを感じた。


呪いの手紙と言ってもキャラクターから想像されるような
「鍵の位置を変えましたね。危険な人が侵入してくるかもしれないと思い、前と同じ場所に置いておいたけど、気づいたかな?いつも見てます。」
みたいな、わかりやすい類のものでは決してない。


でも、引き出しを開けたとき、ほこりっぽいにおいと一緒に溢れてきたのは「はじめてお手紙を書きます」で始まる汚い字で書かれた手紙のいくつか。
それと、ぼくの持ったこともない綺麗な水色の蛍光ペンで書かれた女物の字の一枚の手紙だけだ。


その手紙は水色のくだけた文章のあとで、そこだけ別の人間が書いたみたいに流れに関係なく「ごめんネ」と結ばれていた。


引き出しを開けて眺めていると、とまった時間がまた流れて今にも朽ちてしまうようだった。
ぼくはこの引き出しをしめるだけでまた時間を止められるような錯覚に陥ってしまって、思わず閉めた引き出しに指を挟んでしまった。


ぼくは手紙をたくさん書いても一度も出せたことはない。


とあるバンドマンがツイートしているのを見た。詳しく覚えているわけではないが大体の内容はこうだ。
「ライブハウスにて懐かしい人と会う。自分は今まで自分のことを見つけてくれたひとのことを全部覚えているから、これからも君たちのことを忘れずに歌っていく所存」
という決意表明だった。


はっきり言うと、今まで挫・人間観に来てくれたひとのこと、ぼくは結構覚えてないと思う。


例えば強烈な格好でライブに参戦するひと(今の挫・人間Tシャツ着てるとただでさえ強烈な格好だけどな)とか、何度もライブで会って今でもまだ顔をみることができるひとのこととか、よくライブ来てくれて、ナイスな表情でこっちをみてるひととかはわりとわかる。


でも、長いこと会ってないひととか、ライブハウスで一度見て、面白かったから物販買ってってくれて、ってひとがいたとして、例えばそのひとがそれきりライブに来てなかったら、ぼくはそのひとが他のライブに来てくれるひとと同じような気持ちでぼくらのことを好きでいてくれても、「君たち一人一人のこと覚えてる」なんてぜったいに言うことはできない。それは、ぼくの場合嘘になるからだ。


どデカい嘘を突き通すならそれは本当になると偉大なバンドマンは言ったが、どデカい嘘とは騙す相手もどデカくあってほしいと思う。
そりゃ少し前はそういった、理想的な嘘つくヤツとか、何かに不満を持ってるフリをしてるヤツとか、そういったことが事実であるかどうかは関係なく、そう見えるってだけでワタクシ自らの手で粉々にしてやりたいと思っていましたが、今は各自いろはすで入水自殺してくださいって感じであります(エコ)


しかし、嘘をつくヤツに比べて嘘をつかないヤツが正しいかというと、別にそういうわけでもない。そいつの嘘が必要なヤツもいるし、「真実を言う」といういかにも全面的に正しいという体面をとったハラスメント的攻撃を仕掛けてくる人間(ぼくはちがいますね)もいるから結局全員クソみたいな話なんだけど、ぼくはそんな嘘では満足出来ないし、そんな嘘を信じてる自分がひどく惨めになるので、少なくともバンドではやりたくない(決意表明ですね)


そんなぼくにとって手紙というのは嘘に似ている。


ラブレターは宛名を書くと宛先で愛を愛で返せとせがむ乞食のようになるだろう。だからできるだけなんでもないような事を書きたかった。
「彼女ができました」
なんでそんな嘘をつくんだ?バカだな、もっとあるだろ。
「多分、今後もずっと君に会いたくないと思います」
それも、嘘だ。しかもすごく、卑怯な嘘。
「楽しかったこと、覚えてるかな、僕は全部覚えているんだけど」
本当のことだ、でも、嘘のあとにそれを言うのは、ひどい不誠実だ。
「いつか2人で牛乳をのんだりとか、くだらないテレビをみたりとかしたかったけど」
何が言いたいんだ?徹底的に惨めだ。絶望的だ。ぜんぜんそのこに相手にされたわけでもないって今では認められる。じゃあ、今は本当に本当だって言えるか?嘘をつかなければ本当なのか?ズルはしてないか?不安にまかせて都合よく振る舞うことを賢さだって言うなら、そこで生じるセンチメンタルに酔ったりするべきじゃない、0.01秒も省みるな、自分に耐えられなくなるからって罪を重ねたって何もゆるされないんだぞ、
それでも、それでも、それでも何度も書いてしまった手紙が引き出しの中からぼくを見ていた。
「君は僕を好きかい」「君のことは忘れると思う」「僕のことなんてどうでもいいでしょ」「今は大人の恋でぼくを忘れたかい」「もしも僕にお金があったら」「ごめんネ ってなんだったの」


……出せない。10年近く前の手紙は歳をとるほど出せないものになっていく。
出して、どうするんだ、どう思って欲しいんだ、愛してくれって言うのか。離れないでって言われたら満足か。ぼくのありとあらゆる思いが夜には卑屈さになって、ぼくの字で手紙になっていく。ぼくは手紙を一度も出したことがない。


ファンレターをよくいただく。ライブのときスタッフに渡してくれたり、あるいは事務所に送ってくれたり。すごくうれしいのですべて読んでいる。


例えば、あなたの歌が生活における自分の救いだとか、熊本も香川も挫・人間と一緒に遠征して観に行って良かった、とか。


「すごく嬉しくなるので返事を書きたくなるが、返事は出せないの」(上記のような理由ではないけど)
みたいなことを一度ツイートしたら、昨日いただいた手紙に
「むしろ手紙を出すことで下川くんから受けとったものに対しての返事を出している気持ちです」というようなことが書いてあった。


考えたことがなかったがそう言われると、今まで出さずに腐って風化していくだけだったぼくの手紙たちは歌になっていて、ぼくはそれをばら撒いているのだなと思えた。


嘘をつきたくないからなんて格好いい理由じゃない。格好悪い自分を嘘だと思ってほしかったからぼくは手紙を出さなかった。それでも手紙はうまれてどこかに行きたがる。人間ひとりぶんの手紙、その手紙には返事が届くのだ。同じように手紙の形で、或いはライブハウスのフロアからあげた声という形で、伸ばした腕という形で、時には直接目を見て。
今も別に何もわかってない、嘘ついてるかもしんない、でも「ほんとう」はある。「ほんとう」があるとしたら、ぼくはそれが欲しい。ぼくの「ほんとう」は常に限りなくニセモノみたいに見えるものばかりで、それでもそんな汚いとしか思えないようなものの中にだけきらめくそれをぼくは「ほんとう」だと信じてしまえるのだと思う。そしてその「ほんとう」だけを伝えていきたい。君が人混みに混ざってゆく、それでも、それでもおれは君に「ほんとう」を伝えたい。おれはきっと誰でも会えなくなったら思い出さなくなるような人間なんだろう。みんなのこと忘れずに歌ってくなんて約束はしたくない。でも守れなくても約束はしたい、守りたくなるような約束、
それは思わずニヒルに気取ってしまうような、クソみたいな真実ではない。そういう間抜けな真実や現実みたいなものの中で「ほんとう」があるということだけがまったき事実として地面と垂直にきらめきぶっ刺さっているということを言ってしまいたい、たとえそれが嘘だとしても突き通らないはずがない。何故ならぼくの歌が手紙だとするならば、引き出しの中で時間を止めた返事の手紙のように、忘れてしまっても、ぜったいに残り続けるからだ。