もう一年くらい前の話なのだけれど、心に残った出来事があったのを思い出した。眠れないし、ブログを更新するにはもってこいのモヤモヤとした夜なので、その少年の話をしようと思う。
その日ぼくはいつものようにやりきれないことがあって、家の近所をウロウロと散歩していた。
お天気の良い平日の昼間に20代半ばの男が目的もなく彷徨っているのはこのご時世、強盗、スリ、露出、空き巣、露出、辻斬り、不法投棄、露出、などが目的と疑われても仕方がなく、早く引き上げねば、と思いつつも両耳のイヤホンから流れるPUFFYの陽気な音楽にどんどん足はかろやかになり、向こうの川まで歩いてみようかしら、らんらん、などと思いながら歩いていた。
すると、目の前を幼い男の子が、母親と手を繋いで歩いていた。
男の子は幼稚園か小学校か判別つかなかったが、制服を着ていた、母親といるということは入学式のあとだったりするのかしら、と、気分を害すまいと、血走った目を隠すように俯いてその後ろを歩いた。
ふと、歩道の脇の無造作に放置してある花壇に男の子はサボテンを見つけた。
「これは?」
男の子が母親の手を引っ張り、もう片方の手でサボテンを指して言う。
「サボテン」
「サボテン……」
男の子はきれいな花でもなく、立派な幹のある木でもないトゲトゲのある植物が珍しかったのか、その場から動こうとしない。
「触ると痛いんだよ」
と男の子の母親が言った。そうか、トゲトゲは触るとちくりとするのか、と納得したような顔の男の子。
「触ると痛いよ」
それでもサボテンに手を伸ばす男の子に母親はもう一度言うと、男の子は一度戸惑ったように手を止め、自分の背丈くらいのサボテンを見つめたあと、そっと指で触れてから母親のほうを振り返ると「こんなのぜんぜんいたくないよ」と言って笑って見せた。
ぼくはその場から動けなくなった。
ぼくはサボテンを触るとちくりとすることなんてもう人生の色んな場面でよく知っているし、サボテンダーの針千本には痛い目を見せられてきた少年だった。それでも、少年のように、痛みがあるかどうか、そんなことは自分で決めることなんだよな。知らないことを知るときは自分で触って確かめて、感じたように思えばいいんだ。
痛かったことが良いか悪いかとか、そんなのは別の話なんだよ。
母親は男の子に微笑み、男の子は、こんなのなんてことないすよ、みたいな顔で歩いていく。ぼくは、小さなことかもしれないが、経験で危険を察知して傷つかない方へ傷つかない方へと進んできた気がする。
痛みを知ることは、痛い目をみることだ。だけど、本当に?今までと同じように痛いのか?もしかしたら、あの男の子みたいに本当に痛くもなんともないかもしれない。でも、本当に傷つくべきときがきたら?
傷ついてでも飛び込むべきことから逃げてしまうのは、傷つくのが怖いし、傷つくだけで報われないことも恐ろしいからだ。
苦い思い出がフラッシュバックする。その日友達が彼女にフラれた。
「あなたはバンドをつづけてくけど、私達にきっと未来なんてないもの。あなたのことは、好きだけれど」
二の句が出なくなる言葉だった、とそいつは言う。バンドマンというのは凡そ馬鹿で、不安らしい。未来なんてわからない。ヘッドライトの光は手前すら照らさない。でも、きっと、なんとか、とか言いながら生きていくことしかできない、その姿は生きていく、というには程遠く、じたばたしているというほうが正しい。希望を持たないのに期待だけはしてる、ぼくはそんな見苦しくて、救えない、バンドマンという生き物が大大大大大嫌いだ。
人間の傷つくべきときはきっとある、それは「しあわせ」とか「あいじょう」みたいな不可視な何かを求めるならぜったいにある。
未来があるかどうかなんてわからない、本当にサイテーの未来が待ってるかも。ていうか多分そうだ。でも、そうならないために、そうならないために?何が必要なんだ?お金?お金だって必要だし、何よりひとりぼっちはいやだ。ぼくらも君を守りたい、ぼくらが、守っていたい。きみのこと、金で守りたい。笑わせたい、不細工に生まれたぶん、笑わせるべき君に笑われていたい。さわりたい、ほんとうに夢なのかとか思ってしまうから、手でも、髪でもさわって、しりたい、生きていることを。なぜなら?わからないからだ、きみのあいじょうも、きみみたいなひとが本当に存在するという事実も、きみがどんな顔するのかとか、しりたい。
たとえば、ひとを好きになることや信じることは、裏切られることを怖がったり、受け入れてもらえない痛みに怯えることかもしれないが、傷つくべきなら、傷ついてしまったほうがいい。だって、さわってみるまで、誰もそれが痛いかどうかなんてわからないから。傷ついた痛みの先にだけその答えがある、だから痛みが、サボテンを触った少年の「痛くないよ」という言葉だけが尊くおれの中に残った。
「痛くないのか」
ぼくはひとり呟きそっと手を伸ばした。
もしかしたら、痛くないかも、だとしたら今までのこと、ぜんぶ覆せるかも。当たり前に笑いあったり当たり前に就職したり当たり前にデートしたり当たり前に愛し合ったり、そんな諦めてたことが叶うかもしれない。
「イテッ」
針はちくりとぼくの指を刺した。目頭が熱くなる。そりゃそうだよ、トゲトゲは、痛い……。
きっ!とトゲトゲの主を睨むと、サボテンに馬鹿にされてる気がしたので「ぜんぜん痛くない!」とサボテンにだけ聴こえるように言って、ソソクサと家に帰った。