「バガヴァッド・ギーターにおけるグル・バクティ」
オーム・ナモー・バガヴァテー・ヴァースデーヴァーヤ
われわれは、主クリシュナが、完全に至高なる神の意識であるにもかかわらず、いかにしてグルに仕え、グルの下で学んだか、ということを知っている。
彼が仰ったことを、彼は実行された。――彼が実行したことというのは、彼が仰ったことの解説なのだ。
ゆえに、彼が霊性の師に対しての態度について仰ったことを理解するために、シュリー・クリシュナの不滅の言葉――バガヴァッド・ギーターを見てみよう。
主クリシュナはこう仰っている。
「ナ ヒ ジュニャーネーナ サッドリシャム パヴィトラミハ ヴィディヤテー“Na hi jnaanena sadrisham pavitramiha vidyate,”」――叡智ほど広大で、気高く、純粋なものは存在しない。われわれはその叡智にいかにして到達することができるのだろうか?
この素晴らしい問い掛けに答える二つの言葉がある。
「シュラッダーヴァーン ラバテー ジュニャーナム“Shraddhaavaan labhate jnaanam”」――シュラッダー(信)を持つ者はジュニャーナ(叡智)を得る。
このシュラッダーという言葉は、定義するのが非常に難しい。――それは愛、信、献身、完全な無私、そして絶対的な明け渡しの完全な融合である。
もう一つの言葉は、
「タドヴィッディ プラニパーテーナ パリ・プラスネーナ セーヴァヤー; ウパデークシャンティ テー ジュニャーナム ジュニャーニナハ タットヴァダルシナハ“Tadviddhi pranipaatena pari-prasnena sevayaa; Upadekshyanti te jnaanam jnaaninah tattvadarsinah”」――「真我を直接知覚した偉大なる者に自らを投げ出して、質問し、奉仕することで、彼らはあなたにその叡智を授けるだろう、ということを知りなさい。」
この叡智を自力の努力によって得ることは不可能である。
この真理は、ヴィシュヴァルーパ・ダルシャナ・ヨーガ(「バガヴァッド・ギーター 第11章」)の中ではっきりと浮き彫りにされている。
アルジュナに自らの本性を明かし、そして再び愛らしい人間としのクリシュナの御姿をとった後、主はこう宣言された。
「今しがた君が見た私の姿は、めったに見られるものではない。
神々ですら、この姿を何とか見たいものだと、常々願ってはいるのだが。 」
主はすでにこう仰っていた。
「神々(デーヴァ)や大聖仙(マハーリシ)も私を知らない。
なぜなら、私は彼らの源だからだ。
しかし、アナンヤ・バクティ(唯一なる主だけに献身するバクティ)によって、私を知ることができるのだ。」
アナンヤ・バクティ(唯一なる主だけに献身するバクティ)を得ると、主は信者に自らをお明かしになる。ちょうど、彼がアルジュナに自らをお明かしになったように。
これは心に留めておくべき点である。――そのときでさえ、自らを明かすのは「彼」だと言うことを。
主がアルジュナにヴィディヤー・チャクシュ(明智の眼)を授けて初めて、アルジュナは「彼」を見ることができた。
同様に、「ダダーミ ブッディ・ヨーガム タム イェーナ マームパヤーンティテー“Dadaami buddhi-yogam tam yena maamupayaantite”」――つまり、求道者が智慧を得るための機が熟すと、「私は彼にブッディヨーガを与え、彼はそれによって私に到達する」と。
まさにギーターの最後を飾る宣言の中で、主はそれを極めて明快にしてくださった;「サルヴァダルマーン パリティヤジャ マーメーカム シャラナム ヴラジャ“Sarvadharmaan parityajya maamekam sharanam vraja”」「アハム トヴァー サルヴァ パーペーブフヨー モークシャイシャーミ マー シュチャハ“Aham tvaa sarva paapebhyo mokshayishyaami maa shuchah.”」――「心の底から、無条件に、完全に自己を私に明け渡しなさい。それが君ができるすべてのことである。そうすれば、私は君を罪から解放するだろう。君は自分自身ではそれをすることができないが、私には可能なのだ。さあ、恐れるな。」
「君はシュラッダーを育てさえすればよいのだ。私が君にジュニャーナを授けるだろう。
君は自己を明け渡しさえすればよいのだ。私が君に解脱を与えるだろう。」
これが主の最期の宣言である。
美しき真理が、ギーターの中のこれらの詩句から現れたのだ。
ある場所で、主はこう仰っている。
「私は求道者にブッディヨーガを与え、彼はそれを通じて私のもとへとやって来る。」
また別の場所では、こう仰っている。
「偉大なる者たち(霊性の師)のもとへ行きなさい。彼らを礼拝しなさい。彼らに奉仕しなさい。そして彼らに尋ねなさい。彼らは君に叡智を授けるだろう。」
この二つを合わせて読むと、われわれは、グルは地上における神の化身であるという偉大なる真理を垣間見ることができる。
この真理を理解することができれば、あなたは主の超越的無形の様相、あるいはあなたが唱えることができる御名を持ち、あなたが瞑想することができる形を持ち、あなたが見、触り、聞くことができる知覚可能な個性を持ち、そしてあなたを指導し、鼓舞し、不滅の真我の悟りに導いてくださるグルのような主の内在的様相において、主に対してアナンヤ・バクティ(唯一なる主だけに献身するバクティ)を培うことによって、悟りを得ることができるのだ。
このように、主は霊性の師(グル)と完全に一体化している。
そして、求道者は彼の無形の相、あるいは地上における内在的様相、すなわちグルに、シュラッダーとバクティを向けなければならない。
グルは間違いなく、大半の求道者にとって、前者よりもより実際的であるのだ。
グル・バクティとグル・セーヴァは、悟りに至った時に終わる。(そもそもそれが終わりといえればの話だが)
あなたは、グルに仕え続けなければなならないだろう。
グルは、あなたの自己の明け渡しが完全になり、時が熟したときに、あなたに真理を明かしてくださる。
しかし、それはあなたの関心事ではない。
アルジュナがヴィシュヴァルーパ・ダルシャナ(至高者の宇宙的様相の見神)をお与えくださるように祈り、主によってヴィディヤー・チャクシュ(明智の眼)を授けられるのを待っていたように、あなたは仕え、仕え、仕え続けなければならないだろう。そうすれば、グルはその機が熟したときに、あなたに叡智を授けるだろう。
ある迷妄な求道者は、数年間グルに仕え、愚かにも自分がチッタ・シュッディ(心の純粋性)に達したと勘違いして、グルへの奉仕を放棄する。
彼らは至高なる叡智を得ていないし、ゴールにも達していないというのに。
彼らは間違いなくいくらかのメリット(徳)は得ただろうが、悟りには達していない。これはまさしく、大いなる損失、重大なるミスである。
グル・バクティとグルセーヴァは、あなたに輪廻の激流の流れを渡らせてくれるサーダナーという船の二本のオールの如くである。
あなたは、彼岸に達さない限り、不死、永遠なる至福に至らない限り、ジーヴァーンムクタ(生前解脱者)にならない限り、それらなしではやっていけない。
そしてグル・バクティはそれそのものが、あなたの中に悟りとして顕現する。そしてグルセーヴァは、ローカサングラハ(世界を引き上げること)となり、あなたはそれに自動的に従事することとなる。
そのようなグル・バクティを持つ者、自己を完全にグルに明け渡した者、心の底からグルにお仕えする者は、悲しみ、苦悩、恐れ、痛み、苦しみ、迷妄を知らない。そして彼は一瞬にして神の悟りを得る。――なぜならば、グルと神は一つだからだ。
彼は瞬間的に、叡智と自性光明に達するのだ。
ゆえに、ウパニシャッドにはこう宣言されている。
「ヤシャ デーヴァ パラ バクティリャター デーヴァ タター グラウ;タシャイテー カティターヒャルターハ プラカーシャンテー マハートマナハ“Yasya deve para bhaktiryathaa deve tathaa gurau; Tasyaite kathitaahyarthaah prakaashante mahaatmanah.”」――「神に対して最高の信仰を持ち、そしてグルとマハートマにも神に対するのと同等の信仰を持つ者には、ウパニシャッドの真理が水晶のように明らかになるだろう。」
あなたたち皆が、グル・バクティの権化として輝きますように!
あなたたち皆がまさに今生で、ジーヴァーンムクタ(生前解脱者)として自由に歩き回れますように!
神が、健康、長寿、平和的な繁栄、カイヴァリヤ・モークシャ(真我独存解脱)で、あなたたちを祝福してくださいますように!