※読まないでください

※ 諸般の事情により、この回は公開されていますが、読まないでください。

読者の皆様には大変申し訳ありません。


※ この回は飛ばしていただき、第53話からお読みください。下記リンクより飛べます。


https://kakuyomu.jp/works/16817330650555091559/episodes/16817330652633155669


よろしくお願いします。



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以下、無意味な文字列があります。

読まないでください。


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     モミの木の塔


ぼくの住んでいる塔のまわりには、なにもなかった。なにもないといっても、近くに家や教会や水車がない、ということだ。塔の窓からは、ただ見渡す限りの草原と、モミの木しか見えなかった。春も夏も秋も冬も、その景色は変わることがなかった。たまに兵隊さんが塔の前を歩いてくる。完璧な行進……ぼくは声をかけることができなった。もしぼくが力いっぱい声をはり上げれば、兵隊さんの誰かに声が届いたかもしれない。ぼくのほうを、振り向いてくれたかもしれない。でも、ぼくは想像した。もし兵隊さんが完璧な行進をやめて、みんなが一斉にぼくの方を振り向いてしまったーーら、きっと遠くの世界へ行ってしまう。

毎朝、おかあさまはいつもキスして起こしてくれる。ぼくの額をなでながら言う。おきなさい、わたしのかわいい子。……おかあさまはなんていうか、ぼくに対していつ

もこの調子だ。最近は少し恥ずかしくなってきた。たぶん、恥ずかしいと感じないといけないんだと思う。だからおかあさまのキスを恥ずかしいという顔をして拒もうとする。ぼくの最大限の努力だ。でもおかあさまは全然気づいてないみたい。……ぼくは白いシャツに着替えて、おかあさまと一緒に長いらせん階段を降りて、塔の一階にあるホールへ向かう。お母様のドレスから石けんの匂いがする。これはね、シルクのいいものなのよ。……ぼくの手とつなぎながら言った。そう、おかあさまはいつもこんな調子なんだ。

一階のホールでおかあさまと一緒に朝食をとる。テーブルに並ぶ卵とパンとミルク。いつもおかあさまは右端に座って、ぼくは左端に座る。メイドさんはおかあさまの三歩うしろにいる。今日は全部ご飯を食べることができた。小鳥のさえずりが聞こえる。塔のどこかの窓に、巣を作っているんだろう。おかあさまと鳥のお話……ぼくは最近、おとうさまのことが気になって仕方なかった。おとうさまがぼくに会えないことはわかっている。ぼくはもう子どもではないのだ。ただ……おとうさまは、ぼくぐらいの歳の時、いったいどんな子どもだったんだろう? そう、気にする仕方が変わったのだ。おかあさまに聞いたら、そんなの知らないわ。おまえはそれを知ってどうするのかしら? たぶんね、今とおんなじだと思いますよ。

朝のお祈り、朝のご飯、朝のおしゃべり……ぼくにとって朝の最後は、おかあさまのお小言だった。おかあさまはお約束と言っている。でも、ぼくはもう子どもではないのだ。おかあさまに言われなくてもちゃんとわかっているんだ。……絶対に塔から出てはいけませんよ! お外は危ない。あたたかい暖炉も、おいしいお菓子も、優しいおかあさまもいません――おまえを助けてくれる人は、だれもいません。……おとうさまは? そんなことは聞いたことがない。単に聞こうと思わなかったからだ。理由なんてわからない。外は危ない。きっとそうなんだ。「お約束」のあと、おかあさまは外へ出て行ってしまう。おかあさまにはお仕事がある。それは立派なことらしい。でも、ぼくにはよくわからないところがあって、いつかメイドさんが「立派なことですわ、奥さま」と言った時、おかあさまはものすごく怒った。「怒った」と言っても、おかあさまはただ微笑を浮かべていただけだ。でも僕にはわかっていた。次の日、そのメイドさんはいなくなっていった。お暇を出されたらしい。おかあさまが塔から出る時は、そのことを思い出さないわけにはいかなかった。

「立派」――絶対に口にしてはいけない言葉だ。もし口にしてしまったら……。ある時、キッチンからそんな声が聞こえたことがあった。その料理人さんも、次の日にはいなくなっていた。朝が終わるとお勉強の時間だ。外から先生がやって来る。まずはラテン語、次にギリシャ語、最後に歴史を教えてくれる。授業のあと、先生はお話をしてくれる。毎日、違うお話を持ってきてくれた。……あるアラビアの国に、王族の兄弟がいました。2人の王子さまは、とても仲のよい兄弟でした。2人の王子さまは大きくなって、父王から王位を継ぎました。父王が亡くなる時、国の領土を2人で仲良く分け合いなさい、と言いました。だから2人は、王国を北と南に分けて治めることにしました。兄王が王国の北を、弟王が王国の南を治めたのです。……しばらくして、2人の王さまは結婚しました。どちらのお妃さまも、とても美しい女性でした。ある日、兄王は自分の国に弟王を招きました。その夜会で兄王は見てしまったのです。お妃さまが弟王と……お城の美しいお庭で、整えられた茂みの影で、2人はそれをしていました。兄王は怒りのあまり、お妃さまをその場で締め殺してしまいました。弟王は兄王に謝りました。兄王のお妃さまがあまりにも美しかったから、ついしてまったと。……兄王は悲しみのあまり、毎日、ラクダに乗って砂漠をさまよいました。ある時、砂漠の中にオアシスが見えました。オアシスで悪魔が兄王を待っていました。悪魔はこの世の者とは思えないほど美しく、その顔は、死んだお妃さまに似ていました。兄王は悪魔に誘惑されましたが、寸前のところでなんとか耐えました。その日の夜、お城の中で兄王はこう思いました。おれと弟王の絆を引き裂いたのは女だ。そうだ。美しい女は罪だ。……今日はここまでです。続きは宿題をきちんとやったらお話しましょうね。先生は帰る時、ぼくを抱きしめてくれる。これも最近、少し恥ずかしい。先生の胸がぼくの顔に触れて、いい匂いがした。……なんだか変な気持ちになってしまう。

お勉強の時間が終われば、ぼくは好きにしていてよかった。と言っても、塔の一番上の部屋……ぼくの部屋にいて、本を読んだり、トランプをしたり、ひとりで遊んでいた。また窓の外をじっと眺めて、鳥が飛んでいくのを待っていた。日が傾いてくると、太陽が机からベッドの中へ、そしてぼくの部屋のドアへ、ゆっくり移っていく。太陽と時計はぴったり動きが重なっている。天井のシャンデリアは今日もくるくる回っていた。……夜が来るのが楽しみだった。おかあさまが帰ってくるからだ。ぼくは机に向かった。今日の授業で習ったラテン語の詩を覚える。おかあさまが帰ってくる二時間前、一時間前、十分前……どうせ覚えられない。今日はどんな詩をつくろうかな。これが最近の秘密の楽しみだった。蝋燭に火を灯す時間に、おかあさまは帰ってくる。

ぼくはホールへ降りていく。おかあさまは青い羽のついた帽子をメイドさんに渡して、ぼくに目を向けた。おかえりなさい、とぼくは声をかけるけど、おかあさまは返事をせずに自分の部屋へ行ってしまった。最近はいつもそうだ。おかあさまは自分の部屋にしばらく篭ってから、ホールへ出てくる。その時、おかあさまはとびっきりの笑顔でぼくを強く抱きしめた。ぼくは恥ずかしいというか、なんだかいろいろ気持ちが一緒にこみ上げてくる。おかあさまにこの気持ちを聞いてほしかったけど、言えなかった。これもただ言いたくなっただけだ。言おうとすると、ぼくは喉になにかつまったように、言葉が出てこなくなった。もし本当にぼくの喉に、なにかつまっているのだとしたら、そのままにしておいたほうがいいんだ。

夕食は子牛とジャガイモとスープ。おかあさまは、最近うずらの卵を食べている。急に食べたくなってしまったの、本当に、急にね。……おかあさまは独り言のように、誰

に対してでもなく言った。夕食の最中のお話――今日の授業のことを話す。ラテン語、ギリシャ語、歴史……昔の王様の名前、星と人の運命について、ぼくは話した。おかあさまは笑顔でぼくの話を聞いてくれた。食べ終えると、今度はラテン語の詩を諳んじる。……今日はどこを覚えたの? ぼくはどきっとした。……ねえ、どこを覚えたの? おかあさまは知っているんですよ。おまえが最近デタラメを口にしていることがね。そんなことをしていると、立派な大人になれませんよ。……ぼくはいたたまれなくなって、下を向いてしまった。……嘘をついたわけじゃない――とっさに言ってしまった!おかあさまはぼくに近づいてきた。ぼくの頬を両手で優しく包みんだ。つめたくて小さな手だった。ぼくに笑いかけてから――右手でぼくの頬をひっぱたいた。

窓から外を眺めていた。今日は風が強くて、もみの木の葉っぱが揺れている。ぼくは右の頬を押さえた。じんじんして痛かった。ぼくは窓から首を少し出した。風が頬に触れて、くすぐったい。……おかあさまにぶたれたのは初めてだった。おかあさまはあの後、すぐに自分の部屋へ行ってしまった。ぼくは床に倒れていたから、おかあさまの顔は見えなかった。……なんであんな馬鹿なことを言ってしまったんだろう。もしあんなことを言わなければ、ぶたれずに済んだ。いつもなら、ぼくはこういう時に口をしかり噤むことができたはずだ。ぼくは口を噤むことにかけては、とても上手だとひそかに自慢していた。……さっきはなぜかうまくできなかった? たぶん、いろいろなことが間に合なかったんだと思う。

今日は満月だ。欠けるところのない月だ。まだ眠れなかった。……またあの馬がここへ走ってくるかもしれない。もみの木の葉っぱが怖かった。そう、ダメだ。このままだとひとりで眠れなくなる。今日はおかあさまのベッドへ行くのは嫌だ。遠くから足音が聞こえた。目をこらして見ていると、兵隊さんの行進だった。だんだんこの塔に近づいてきた。先頭の兵隊さんは白馬に乗っていた。こんなの初めてだ。白馬と銀の鎧、風に揺れるブロンドの髪……あの人は、他の兵隊さんと全然違う。月明かりが銀の鎧に反射して、鋭く輝いていた。ぼくは見惚れていた。でも……なぜか見てはいけないものだと思った。先生のお話に出てきた、茂みの中にいる弟王とお妃さまのように。……そろそろおかあさまが来る! ぼくはベッドに潜り込んだ。危なかった。ドアが開いた。ろうそくの細い明かりが部屋に入ってくる。ぼくは窓を閉め忘れたことに気づいた。今度は、左の頬をぶたれるんだろうか。……おかあさまは、ベッドの隣に椅子を置いて座った。ぼくは目を瞑って寝たフリをした。おかあさまはベッドの布団をめくって、ぼくの額をなでた。そしてキスをした。ぼくは冷や汗をかいた。……今日はごめんね。わたしのかわいい子。でも、おまえを思ってやったんですよ。おまえはうんと立派にならなければなりません。おとうさまのような、小人[しょうじん]になってはいけません。絶対に。……おかあさまは出て行った。

階段を降りる足音に耳を傾ける。少しもその音が聞こえなくなるまで、ぼくは全身を縛り上げるように、じっとしていた。……よし、聞こえない。もう大丈夫だ。ぼくは窓に駆け寄って外を見渡した。もう兵隊さんたちはいなかった。空はしみひとつなく澄んでいた。あの先頭の兵隊さんは、空へ飛んで行ってしまったのかもしれない。天使が羽を隠して、兵隊さんごっこをしていたのかもしれない。……どうしてかわからないけど、ぼくは先生の胸の柔らかさ、そして先生の髪の匂いを思い出した。音をひとつも出さないように、ぼくは部屋の中をゆっくり歩き回る。疲れて眠れるようになるまで――

あれからしばらくの間、あの兵隊さんは現れなかった。それどころか普通の兵隊さんさえ見なかった。毎日毎日、目を開けていられる限界まで外を眺めていた。あまり眠れていないから授業にも集中できなくて、先生は怒ってもうお話をしてくれなくなった。ラテン語の詩も覚えられない。けれどおかあさまはぼくが覚えてなくても、ぶたなかった。ただ悲しげにこう言うんだ。……立派な大人になれませんよ。ぼくも悲しくなって、泣きそうになるけど、なんとか堪えている。昔、ぼくが階段から足を滑らせて転げ落ちた時、ぼくは大泣きしてしまった。ぼくがまだ子どもだったころだ。……おかあさまはこう言った。泣くような弱い男は嫌いです! そしてお部屋に篭ってしまった。その時、ぼくはおかあさまの顔を見ていなかった。……眠いこと以外は、前と変わらない生活だった。ただ、先生のお話がないから、ぼくは好きにしてよい時間に、あの兵隊さんのことばかり考えるようになった。もし天使でなかったら、エンデュミオンが寝ぼけて山から降りてきたのか、それともオーディンが戦士の魂をヴァルハラへ導くところだったのか。……ぼくは窓ガラスにあの兵隊さんの正体を指で描いた。エデュミオンとオーディン以外にも、テセウス、イカロス、カエサル……イエスさまかもしれない。世界に剣を投げ込みに来たんだ。窓ガラスにイエスさまと剣と火と青い馬を描いて、すぐに消した。

そうやって毎日、窓ガラスに指で絵を描いていた。あの兵隊さんと世界と……そしてぼくを描いた。あの兵隊さんがテセウスならぼくはミノタウロス、あの兵隊さんがカエサルならぼくはオクタヴィアヌス――そうやって待ち続けた。夢を見ながら眠ることができた。これで今夜も外へ行ける。下のほうで音がした。かすかな音だ。ベッドのマットレスに耳を当て、音を拾い上げる。おかあさまの足音じゃない。トカゲでも、フクロウでも、カタツムリでもない。塔に住んでいる鳥たちでもない。……おかあさまじゃない。ぼくはベッドから出た。窓にすり寄って、塔の下を見る。何もなかった。さっきのあの音は聞いたことがなかった。ぼくは振り返って、部屋のドアへゆっくり近づいた。そうだ。こういうことにしよう。トイレへ行こうとして、ぼくは寝ぼけて外へ出てしまったんだ。……そういうこともあるんだ。ぼくはもう子どもではないのだ。なんだって起こるし、なにがあってもやっていける。ドアに手を当て考えた。それに、もし下にいるのがイエスさまなら、ぼくは会いにいかないわけにはいかない。おかあさまと先生に、そして全世界の人々に、これから起こることを伝えにいかないわけにはいかない。ぼくはもう子どもではないのだ。立派な大人だ。……ドアを静かに開けた。蝋燭を灯していないから、真っ暗でなにも見えなかった。見えなくてよかった。ぼくがどこにいるかおかあさまにわからないからだ。いつも降りる時、おかあさまは左側の窓があるほうに、ぼくは右側の石の柱があるほうにいた。……ぼくは左側に沿って降りていった。床に足がつく。やわらかい絨毯があった。軽く手を振ってみる。広いところに出たようだ。あのホールまで辿り着いたんだ。ぼくは真夜中にここへ来たことがなかった。ぼくはお別れを言わないといけない――さよなら、また会う日まで! 

ぼくはキッチンへ慎重に歩いていく。たいへんだ。ここから曖昧になってしまう。最後にキッチンへ入ったのは、ぼくがまだ子どもだったころだ。……男の子とキッチンでかくれんぼしていた。たぶんかくれんぼだったと思う。ぶどう酒の樽の裏に、ぼくは隠れていた。その子はいつも「おに」をやってくれた。その子はぼくを熱心に探してくれたけど、たまに手を抜いていた。キッチンにあったパンやりんごをこっそり食べたり、ぶどう酒の樽に指を突っ込んで舐めたりしていた。ぶどう酒を舐めはじめると、舐めることに夢中になるから、樽の裏にいれば見つからなかった。その日もその子は指についたぶどう酒を舐めていた。それはもう舐めすぎて、顔が真っ赤になっていた。ぼくはぶどう酒の樽の裏で息をひそめていた。樽の反対側からその子の声が聞こえた。……もう食べられないよ。おれはお腹いっぱいだ――さよなら、また会う日まで! ……その子はキッチンの裏口から出ていった。それから二度と帰ってこなかった。そうだった。あそこから出ていったんだ。ぼくはカエルみたいに両腕を動かしながら、暗い池を泳いでいく。いろいろなものにぶつかりながら、裏口の戸までたどり着いた。

ぼくは戸を静かに開けた。草の匂いがした。土の匂いがした。月が草原で走り回った。セイレーンの陽気な歌声が聞こえた。今度はぼくが「おに」になって探すんだ。……ぼくは数歩、前に進んだ。それから振り返って塔を見た。ぼくが想像していたよりも、ずっと大きい塔だった。ただ、少し古すぎて、今にも崩れそうに見えた。……月は空へ、セイレーンは海へ、帰ってしまった。イエスさまも天国へ帰ってしまった。ぼくも塔をひと回りしたら部屋へ帰ろう。そう思って、右から塔の裏へ回った。月明かりが完全に遮られたところに、あの兵隊さんがいた。

あの兵隊さんは、肩に矢を受けていた。鎧の間から血が流れていた。塔の壁を背にして座りんでいた。ぼくは動けなくなってしまった。あまりにも急で、あまりにも近いからだ。ぼくはもし神さまとばったり会ったら、今まで自分のした悪いことを、全部打ち明けるつもりだった。毎日その準備をしていた。悪い子は神さまの火で焼かれますよ……

「ねえ、きみ。大丈夫かい? なにか怖い目でも合ったのかな? ああ……これか。大丈夫だよ。死にはしない」

ぼくは返事ができなかった。

「ママは近くにいる?」

辛うじて首を横に振った。

「いないか。……これはまさかきみの家かい? もしそうなら、パンと水を少し分けてもらえないか」

塔のキッチンへ戻って、真っ暗な中でパンと水を探した。あの子とのかくれんぼを思い出して、パンを見つけた。ぼくは井戸がどこにあるか知らなかったから、水の代わりにぶどう酒をコップに入れて持って行った。

ぼくはパンとぶどう酒の入ったコップを、あの兵隊さんの前に置いた。

「ありがとう。きみは優しい子だね」

あの兵隊さんはぶどう酒を飲んだ。パンを少しかじってぼくを見つめた。きれいな鳶色の目だった。

「助かった。なにかお礼がしたいな。……そうだ。十日間後の同じ夜に、ここに来てくれないか。きみに見せたいものがあるんだ」

ぼくはうなずいた。

「……今日はもう遅いから帰ったほうがいい。ママが心配するよ」

あの兵隊さんは右手を出した。ぼくも右手を出して握手した。あたたかい、大きな手だ。

「おれは……ダミアン。またね」


十日後の夜……ぼくはまた外に出られるんだろうか。もしその時に行かなければ二度とダミアンさんに会えないと思う。……ぼくはあの夜から十日後の夜まで、真面目に毎日を過ごした。なにかとても悪いことをしたような気がして、そんな気持ちを打ち消すためだった。おかあさまか先生に、あの夜の出来事を話したくてたまらなかった。毎日、二人に抱きしめられて、二人のいい匂いがする時、なにもかも、打ち明けてしまいたくなる。もちろんその後、ぼくはきっとたくさんぶたれる。だけど、もし打ち明けてしまえば、ぼくはこのままずっと、この立派な塔に住んでいられる気がした。ぼくが大人になってからもずっと、ぼくが死んでからもずっと。……ぼくが真面目に授業に取り組むようになったから、先生はまた授業の最後に、お話をしてくれた。先生があの夜から九日後にしてくれたお話は、こんなものだった。……兄王は国中から集められた美しい乙女たちを毎夜一人ひとり、夜伽役として寝室に呼び出して、朝になると処刑していました。処刑は苦痛がないように、世界一の首切り役人のサンソンを、途方もない俸給で雇ました。兄王は乙女たちに苦痛を与えることは望みませんでした。しかし乙女たちの確実な死は望みました。国中の乙女たちは、臆病な男たちのように、明日、自分は死ぬかもしれない。……そんな恐怖に打ちひしがれていました。そこで、国の大蔵大臣の娘である、シェヘラザードが立ち上がりました。シェヘラザードはたいへん美しい娘でしたが、大臣の娘であったため、兄王の呼び出しから特別に免れてしました。しかし、勇敢なシェヘラザードは、国中の乙女たちを救うために、自ら兄王の夜伽役を買って出たのです。シェヘラザードは妹をこの偉大な行いに誘いましたが、妹は拒否しました。……おねえさま、お許しください。あたしは弱い女です。今、国中で震えている他の女たちも。みんながおねえさまのように、勇敢ではないのです。そんな非難がましい目で見ないでください! おねえさまの目は、残虐な王の目とそっくりですわ。……なんてかわいそうなシェヘラザード、ひとりぼっちのシェヘラザード! それでも、シェヘラザードはたったひとりで、兄王の寝室へ行きました。……今日はここまでです。続きは宿題をきちんとしたらお話してあげましょう。

ぼくは先生に近寄った。いつもみたいに抱きしめてくれると思ったからだ。そうしたら先生は一歩、ぼくから後ずさった。また明日ね……と笑いかけて、そのまま部屋から出ていった。ぼくは窓から先生が帰る姿を見ていた。先生が見えなくなるまで。

ぼくもシェヘラザードのように、ひとりぼっちになった。たったひとりで兄王の寝室へ行く。……シェヘラザードは寝室の中で、どうやって兄王と戦うんだろう? 兄王の寝首を……その後、王さまを殺した罪で、死刑になるんだ。ぼくは泣いていた。先生とも今日でお別れだ。そんな気がした。いや、間違いなくそうだ。ダミアンさんと明日会えば、ぼくも王さまの寝室へ行くことになる。もうすぐおかあさまが帰ってくる。ラテン語の詩を覚えなくちゃ……

夕食の時間、おかあさまは食事に手をつけなかった。今日は食欲がなくて……と誰に対してでもなく言った。おかあさまは最近、どんどん痩せてきているように見えた。もともとお身体が細かったのに、手も足も、子どもの力で折ってしまえそうなぐらい細くなっていた。お仕事が辛いんだろうか。おかあさまの後ろで控えていた、メイドさんと目が合った。メイドさんならなにか知っているかもしれない。いつもならぼくと目が合うと笑ってくれるのに、今日はまるで人形のように動かなかった。ぼくもあまり食べたくなかったけど、なんとか無理して食べた。食事の後、ラテン語の詩を諳んじた。おかあさまはぼんやりした顔でぼくの声を聞いていた。ぼくはいたたまれなくなって、なんとかしなくては……と思った。おかあさま。ぼくが作った詩をおかあさまに聞いてほしいです。……とっさに言ってしまった! おかあさまは、はっとした顔してぼくを見つめた。その時、ぼくはとてもまずいことを言ってしまったと気づいた。もっと別のことを言うつもりだった。もっとおかあさまを元気づけるような、立派なことを言おうとしていたのに。……おかあさまはぼくに近づいてきた。ぼくは目をつむって、頬を両手で抑えた。しばらくそうしていると、肩を叩かれた。目を開けると、おかあさまはいなかった。横にメイドさんが立っていた。……奥さまはお部屋でおやすみになれました。ご伝言があります。……立派な大人になれませんよ。

次の日、ぼくはひとりで起きた。メイドさんが着替えを持って来た。おかあさまは? ぼくはメイドさんに聞こうとしたけど、言葉を飲み込んだ。ぼくはもう子どもではないのだ。……メイドさんはぼくの顔をのぞきこんで、こう言った。……奥さまは体調が優れないため、今日は一日お部屋でおやすみなさるそうです。メイドさんは小さな紙をぼくに渡した。そしてこう言い添えた。……奥さまからのご伝言です。あの先生はもう来ません。おまえには今度、男の先生をつけます。アエネイスを全部覚えなさい。覚えるまでおまえは寝てはいけません。もし覚えていなかったら、鞭で叩きます。……ぼくがおかあさまの伝言を読んでいたら、いつのまにかメイドさんはいなかった。まるで幽霊のように物音ひとつ立てずに消え去ってしまった。

それからぼくはベッドに横たわって時計を見ていた。針の音が虫の羽音のように耳にまとわりつく。……やっぱり起き上がって、窓のほうに向かう。窓を開けると、春のあたたかい日差し、花のあまい匂い、小鳥の静かなさえずり。……古い岩のかたまりも太陽と一緒に笑い出した。……ダミアンさんは今、どこにいるのだろう? 頭に兜、首に花の首飾り、竜に乗って飛び回っている。だれも傷つけないし、だれも悲しませない世界をつくる。恐ろしいリバイアサンも、子どものころ見た夢の中で生まれ変わる。……夜まで窓のそばでそんなことを考えていた。おかあさまは夕食に来なかったから、ぼくはひとりで夕食を済ました。ぼくには珍しく、今日はおかわりもした。おかあさまと一緒の時は、おかわりもしなかった。

すべての準備を整えなければならない。ぼくは自分の左手を右手でぶって、鞭で叩かれる準備をする。ぼくはもう子どもではないのだ。どんなに痛くても大丈夫だ。部屋へ来たメイドさんは、ぼくの「準備」を見て笑いかけてくれた。……夜になって、キッチンの裏口から静かに外へ出た。月もセイレーンも、今日はどこかに隠れていた。塔の裏に回ると、ダミアンさんは十日前と同じ場所で立っていた。暗い森を見据えながら、剣の柄を握っていた。ダミアンさんもひとりぼっちのシェヘラザードなのだろうか。……ダミアンさんはぼくを見つけると、ぼくに手を振ってくれた。

「来てくれたんだね」

ぼくはうなずいた。

「今夜はね、この近くの村で婚礼をやるんだ。羊飼いの男と、農民の娘の結婚。真夜中だけどね。……きっと楽しいよ」

ぼくはダミアンさんと手を繋いだ。暗い森の中ではぐれないようにするためだった。おかあさま以外の人と手を繋ぐのは初めてだった。途中、小川があった。とても細くて狭い川で、水の流れる音がしなかった。だからいつのまにか足が水に浸かってしまい、ぼくはびっくりして声を漏らした。だけどダミアンさんはぼくを気にせずどんどん歩いた。ぼくは手を離さないように必死だった。この手を離したら、ぼくはずっとここにひとりで取り残されてしまうと思った。森を抜けると、ひらけた草原に出た。遠くに大きな木が一本見えた。それは草原の真ん中にあって、その周りを小さな光が囲んでいる。

「ほら、見て! あそこだよ。もう少しだ。もう始まっているから急ごう」

ダミアンさんは走り出した。その時、ぼくと手を離した。ぼくは走らないわけにはいかなかった。だんだん人々の歌声が聞こえてきた。風の神さまアネモイが助けてくれて、ぼくは早く走ることができた。このまま世界の果てまで行ってしまうぐらいに。気づくと、ダミアンさんはぼくの遥か後ろにいた。

「……きみは早いなあ。追いつけなくなるところだよ。なんとか間に合ったね。よかった」

ダミアンさんは息を切らしていた。きっと鎧が重いんだろうな。……ぼくは息を切らさなかった。ぼくはもう子どもではないのに、身体が軽すぎるんだ。最近はちゃんとご飯も食べていたのにな。……これから、花婿さんと花嫁さんが「めおとの契り」を結ぶらしい。壇上で花婿さんと花嫁さんがお互いに向かいあって、真ん中に神父さまがいた。人々はその周りを取り囲んで、神父さまのお祈りを聞いている。ぼくたちは一番後ろからその様子を見ていた。花かんむりをつけた花嫁さんに、花婿さんがキスをした。人々は一斉に拍手し、そして歌い出した。神父さまも一緒になって歌い出した。女たちは頭に花かざりをつけて踊る。男たちは腰に剣を帯びて踊る。四方にある松明が優しくぼくたちを照らした。……人々の歌はぼくにはわからなかった。知らない国の言葉だ。ダミアンさんにどこの国の歌か聞きたかったけど、聞かなかった。聞いてもわからないと思った。ダミアンさんは歌わなかったし、踊らなかったからだ。ただ、ぼくの手を握って、人々を見ていた。

「もう帰ろうか。あまり遅いとママが心配するよ」

ぼくがうなずくと、女の人がぼくたちめがけて走ってきた。さっきの花嫁さんだ。

「帰らないで! ここからが楽しいんだから」

「おれたちは、もう帰るよ」

「そう言わずに――」

「たまたま立ち寄っただけだから」

「……いくじのない男ね」

「おれたちはいくじなし。それで結構だ」

「お願い。わたしはあなたを気に入ったの。そうだ。……ここが嫌なら、近くの池でお話しましょう」

花嫁さんはダミアンさんの手を握った。ダミアンさんは顔を伏せた。それを見て花嫁さんは小さく笑った。松明の炎に二人の顔が照し出されると、アポロンとヘレナが愛し合っているように見えた。でもそうするとぼくはなんだろう? アポロンの竪琴……きっと違う。ぼくはそんなんじゃない。ぼくはせいぜい、パンかぶどう酒、岩のかたまりかモミの木、きっとそんなところだ。

ぼくたち三人は、婚礼の宴から離れて、近くの池のほとりまで来た。しんとした静かな場所だった。草むらのさざめきだけが聞こえる。池を取り囲むいちじくの木の下に、ぼくたちは座り込んだ。

「きみは……貴族だろ?」

「いいえ。あたしは農民の娘。朝から畑仕事しながら大きくなって、羊飼いの男と結婚する。子ども産んで育てて、それから死ぬだけ。この土地でね」

「嘘だ。なら――」

「そういう騎士さまはどうなのかしら? ずいぶん大きな謎をお持ちのようね」

「からかわないでくれ」

ダミアンさんは花嫁さんにキスをした。長いキスだった。花嫁さんはダミアンさんの手を取って、胸に押しあてた。

その時、ダミアンさんは花嫁さんを突き飛ばした。花嫁さんはよろめいて、池の中に落ちてしまった。花嫁さんは仰向けになって浮かび、花かんむりが水面に散らばった。

「気持ちいい。……ここからだと騎士さまが坊やに見えます」

「なんでこんなことしているんだ?」

「生きるために決まっているじゃない」

花嫁さんは池から上がってきた。麻のブラウスから身体が透けている。髪を握って水を絞った。濡れた手でダミアンさんの手を掴んだ。

「騎士さまも踊りましょう」

「おれは無理なんだ……」

ダミアンさんは震えていた。泣きそうになっていた。ぼくはやりきれなくなって、ダミアンさんに抱きついた。ダミアンさんがどうして震えているかぼくにはわからなかったけど、こうしてあげるしかなかった。

「かわいそうな人……きっとこれから先、立派なことはなにひとつできないでしょうね」

ダミアンさんは剣を抜いて、剣の切っ先を花嫁さんに向けた。しばらく花嫁さんを見つめていた。そのまま池の中へ剣を投げ入れた。剣は池の底へ沈んでいった。

「……おれたちは帰るよ」

花嫁さんは池に浮かんでいた青い花をすくい上げた。青い花をダミアンさんの手に握らせた。

「ああ……あたしの勇敢な騎士さま! この花をあたくしだと思って、大切に持っていてください。張り裂けそうな、あたしの心をどうか察してくださいまし!」

池の周りの木がゆれた。山犬の大きな遠吠えが聞こえた。

「早くここから離れよう。ここは悪い場所だ……」

ダミアンさんは顔伏せて言った。泣いているように見えた。いったいダミアンさんはどうしたんだろう? きれいな女の人からお花をもらう。みんなで歌って踊ってお祝いをする。ぼくはダミアンの手を強く握った。どんどん早く歩いて、二人が最初に出会った場所を目指した。人々が婚礼の宴を行っていた、大きな一本の木……もう誰もいなかった。跡形もなく、なくなっていた。ただ、このまっすぐ上の空にあったはずの月が、地上に落ちそうなぐらい迫ってきていた。

 途中、またあの小さな川を越えた。来る時よりも冷たかった。人々の笑い声、踊りのステップ、花嫁さんの青い花……ぼくの中に残っていたが、川を越えていくと、それらが去っていった。

 塔まで着いた。モミの木につながれた白馬がぼくたちを見つけて、大きくいなないた。……帰ってきたんだ! 塔の壁を背にして、二人で並んで座った。

「ここまで来たらもう大丈夫だね。今日は付き合ってくれてありがとう」

 ぼくはうなづいた。

「今日はもう遅いから……。ママが心配するよ。また会おうね」

 ダミアンさんは立ち上がって、ぼくの頭をなでた。それからモミの木につながれた白馬の縄を解いた。白馬は前足を上げて喜んだ。ダミアンさんは背中を優しくなでた。白馬はやがて大人しくなって、草原のかなた、水平線のむこうを暗い目で見つめた。ダミアンさんは白馬にまたがった。ぼくに手をふった。ぼくも手をふりかえした。白馬が走り出す。……ぼくはダミアンさんが見えなくなるまで、ずっと手をふっていた。



 あの夜のあと、ぼくはまたこれまで通りの毎日を過ごした。先生がいないことを除いて、すべてが元通りだった。おかあさまはまた朝にぼくを起こしに来てくれた。朝はあかあさまとお祈り、パンとミルク、最後に塔に住んでいる鳥のお話……それからおかあさまはお仕事へ行ってしまう。新しい男の先生は、先生と同じように、ラテン語、ギリシャ語、歴史を教えてくれた。それはとても楽しい授業で、ラテン語の詩もすぐに覚えることができた。だけど、男の先生は「お話」はしてくれなかった。もちろんぼくはもう子どもではないのだから、「お話」なんていらないなんだ……ぼくはそうやって我慢することを覚えた。男の先生が帰ったあと、アエネイスをずっと覚えていた。おかあさまの鞭が怖ったわけじゃなかった。ただ文字を目で追って、それが頭の中に流れ込んでくる。そうやって昼間の時間が過ぎてほしかった。ぼくはもう子どもではないんだ。だから、真面目に毎日を生きていくんだ。

 夕食の時間、おかあさまはぶどう酒を飲んでいた。でもその日はいつもとちがって、二杯以上は飲んでいた。お仕事がたいへんなんだろうか……ぼくはおかあさまを元気づけるような言葉をかけようとしたけど、ぼくはその言葉をなんとか押しとどめた。ぼくは立派な大人になったんだ。おかあさまの背後に立っていた、メイドさんと目と合った。今日はなぜか悲しい顔をしていた。……今日はたいへん嘆かわしい出来事がありました。恐ろしいことに、国王陛下がナイフで刺されたのです。宮殿の入口で馬車から降りた時に、ならず者が白馬に乗って衛兵をなぎ倒し、国王陛下にナイフを突き立てました。もう少しのところで、国王陛下のお命が奪われるところでした。このままでは、世界は消え去ってしまいます。正しい秩序を取り戻さなければなりません。ならず者は、八つ裂きの刑に処されることになりました。わたしのかわいい子、よくお聞きなさい。これで取り戻すことができるのです。……おかあさまは指を鳴らし、メイドさんに食器を下げさせた。

 その夜、ぼくはベッドの中でダミアンさんのことを思い出した。別れた後、白馬に乗ってひとりでどこへ行ったのだろう? ……兵隊さんたちの先頭で、遠い外国で正しい人々を救うために戦っているんだ。それとも……そんなことはありえない。あの時、ダミアンさんは剣を池の中に投げ込んだ。人を傷つけことなんてできないんだ。ぼくは起き上がって、窓から外を眺めた。あの夜から、兵隊さんの行進は見なかった。……さっきおかあさまが言っていた。一週間後の正午に、街の広場で刑が行われます。街の民衆は、みんなそれを見ることでしょう。ぜひとも見せる必要がありますわ、奥さま。メイドさんがぶどう酒を注ぎながら言った。その時、ぼくはつい「ぼくも見たい」と言ってしまいそうになったけど、なんとかその言葉を押しとどめた。もしそんなことを言ってしまえば、ぼくはきっと鞭で何度も叩かれてしまう。

 遠くから音が聞こえた。何かの足音だ。……あの白馬だ! ぼくは窓から身を乗り出した。白馬がこっちに向かって走ってくる。でも誰も乗っていなかった。背中の鞍が外れかかっていた。白馬は塔の前にあるモミの木の前で止まった。それからモミの木の周りをぐるぐる歩き回って、大きく三度、いなないた。それはひどく悲しい声で、あのデュオ二ソスもきっと泣き出してしまう。

 おかあさまが言っていた「ならず者」……それはダミアンさんだ。ぼくはそう思わずにはいれられなかった。ひとりで王さまの寝室へ行ってしまったんだ。ぼくの中ですべてつながった。……もしかしたら全然違うものかも? ダミアンさんとは何の関係もないかも? ぐるぐる同じところを回り続ける白馬を見ると、そうも思えてくる。本当はみんなサカサマで、今、ぼくが見ている白馬は、ダミアンさんのあの白馬ではなくて、どこかのだれかの……ただの白馬なのかもしれない。

 下へ行って確かめるしかない。そうするしかない。もっと近くで見ればわかるはずだ。ぼくはいてもたってもいられず、部屋から飛び出して、階段を駆け下りた。おかあさまやメイドさんがまだ起きていることを忘れていた。そんなことはどうでもよかった。後でどんな罰が待っていても構わなかった。一階のホールにはだれもいなかった。蝋燭が金色の燭台で溶けていた。もう寝てしまったのかな。……ぼくは急に冷静になった。心臓のどくどくが直に聞こえた。深呼吸して、慎重にキッチンへ向かう。裏口から出た。戸を開けると、白馬はぼくにすぐ気づいて、近づいてくるぼくを見つめていた。白馬の小さな耳が立っている。ぼくは白馬の背中をなでた。あたたかい背中で、ダミアンさんの冷たい銀のよろいが目に浮かんでくる。白馬は安心して、目を閉じて眠っているようだった。白馬は頭を垂れて、土の匂いを嗅ぎ始めた。なにかを探しているみたいだ。木の下にあったユリを見つけて、ユリを食べ始めた。ぼくは白馬の首に抱きついた。……ダミアンさんはどこにいるの? きみは捨てられた。ぼくも捨てられた。会いたいよ。どこにいるか知っているなら、ぼくを連れて行ってほしい。白馬は頭を上げて、ぼくの顔を舐めた。獣とユリの匂いがする。白馬は鼻を鳴らした。ぼくは背伸びして、はずれかかった鞍を元に戻した。皮の紐をしっかり結び直す。白馬は前足を折り曲げた――さあ乗れ! ぼくは白馬の背中に飛び乗った。白馬は立ち上がって、遠くを見ていた。……世界の果ての果てまで、たとえなにがあっても、ぼくは行くんだ。白馬は走り出した。

 


 夜の冷たい空気が耳に入りこむ。ぼくは白馬の首にしがみついていた。馬の乗り方は知らなかった。目を片方だけ開いて、前を必死に見ていた。ただ白馬が走る方向に進んでいくしかなかった。白馬はひたすら草原を走っていき、森へ入った。白馬は走る速度を落とし、木々を避けながら、じぐざぐに歩いた。ぼくは両目を開けた。濃い霧に包まれ、何も見えなかった。木の葉がときどき顔に触れる。ぼくはもっと強く、白馬の首に抱きついた。

 おかあさまはぼくがいないことに気づいたのかな。ぼくを追いかけてくれるとは思わなかった。……おかあさまはそんなことしない。ぼくにはわかっているんだ。きっとおかあさまはいつもの調子で、立派な大人になれませんよ、と言いながら、自分のお部屋に篭ってしまうに違いなかった。

 森を抜けると、狭い道に出ていた。道の両側にライ麦畑が広がり、小屋が点々とあった。だんだん日が登ってきて、空は薄明るくなってきた。人がいる場所へ来たんだ。白馬はまっすぐ走る。ぼくは白馬の首から身体を離して、目を凝らして遠くを見た。街の城壁、お城の屋根がぼんやり見えてきた。真っ黒な杭が海の中からぐいぐい迫ってくるようだ。でも実際、迫っているのはぼくのはずだ。これが「街へ行く」という感じなのかな。……おかあさまはお仕事のために街へ行く。先生は街から塔へ来てくれる。おとうさまは……おかあさまが言っていたんだけど、おとうさまはあの街よりもっと遠く、おかあさまも知らない外国の街にいるらしい。その街はひどい場所で、人々は心を失くしていて、隣人を騙し、盗み、奪う。神さまからもとっくにそっぽ向かれている。おとうさまはその街を救うために、人々の心を神さまのところへ返そうとしているらしい。……おかあさまはそう言っていた。それ以上、ぼくがおとうさまのことを聞こうとすると、その前に自分のお部屋へ篭ってしまった。

 太陽がはっきり見えてきた。小屋から人が出てきた。白い頭巾をつけた女の子が、小枝を拾っていた。そのあとを小さな男の子が着いてきた。女の子が枝を折って、男の子が籠に枝を入れた。ぼくはその光景を一瞬しか見ることができなかったけど、その子たちは、ぼくの目に焼きついて離れなかった。ぼくはもう子どもではないのだ。そう思っていたけど、実際ぼくはもしかしたら……あの子たちのように枝を拾ったり折ったり、そんなことをして毎朝過ごし、夜はおとうさま、おかあさま、兄弟たちと一緒にたき火をしたり踊ったりする。みんなでベッドに入り、みんなで同じ夢を見る。……街の子どもたちはいったいどんな感じなんだろう?

 だんだん街の大きな門に近づいていく。街は堀で周囲をめぐらせていた。橋は上がっていた。まだ街へ入ることはできない。ぼくは白馬から降りて、堀の前に立っている松明に白馬を繋いだ。ぼくは白馬のそばに膝を抱えて座った。堀の中を覗き込むと、水は澄んでいて、ぼくの顔が映った。塔にあった古い鏡よりも、はっきり映し出している。……ぼくってこんな顔していたんだな。そんなふうに堀の水面を見ていると、かかっていた橋の影が消えて、日光がまぶしく輝いた。ぼくは思わず目を覆った。ぎりぎり橋をロープで降ろす音が聞こえる。橋が堀にかけられた。

 橋を渡って街に入る。石畳の道が続き、狭い道で人々が行き交っていた。家、教会、学校……屋根と屋根の間は紐で結ばれ、たくさん洗濯物がかけられていた。風で白いシャツがくるくる回っている。ぼくは周りにあるものをひとつひとつ確かめながら、とにかく歩き回った。あれは、家のバルコニーにある花瓶、あれは、牛を引いて歩くおじいさん、あれは、お祈りをする子どもたち。……くさい! ぼくは鼻をつまんだ。今まで嗅いだこともないひどい悪臭に襲われた。ぼくが足元を見ると、近くに凍った生ゴミと、凍った馬糞と……たぶん人の出したものが固まって、山のように積み上がっていた。氷の山は春の暖かさで溶け始めて、悪臭をひどくしていた。ぼくは走って逃げた。でもどこへ行っても悪臭は消えなかった。ぼく自身に悪臭が染みついてしまったんだろうか。……ぼくはいつの間にか広場まで来ていた。広場の真ん中で必死に身体の臭いを嗅いでいた。同じ場所でぐるぐる回っていると、背中に鈍い痛みが走った。振り返ると、小さな石が転がっていた。男の子たちが数人、ぼくを見て笑っていた。彼らはぼくよりも身体が大きく、顔はそばかすだらけだった。ぼくがぼうっとしていると、彼らはまた石を投げてきた。今度はぼくの近くにいた女の人に当たった。女の人はおかあさまぐらいの歳に見えた。女の人は彼らをにらむと、彼らは逃げていった。そして女の人はぼくを見た。……ぼくのこともにらんだ。それからぼくに背を向けて、何もなかったかのように歩き出した。

 ぼくは寂しくなった。街までやって来て、ずっと高鳴っていたのに、凪のように静かになった。そういえば、この街にぼくの知っている人はひとりもいない。石を投げられても、馬糞を投げられても、だれもかばってくれない。さっきの女の人……もしおかあさまだったら、どんなによかっただろう! 視界がどんどん狭くなっている。真っ暗になってくる。ぼくは足を引きずりながら、広場からなんとか逃れた。狭い路地に入りこむ。路地をふらふら歩いていくと、行き止まりに突き当たった。そこはまた氷の山だった。ここはひどい悪臭がするはずなのに、ぼくは鼻が慣れてしまって気にならなくなっていた。そんなことよりも、落ち着けるような場所、安心していられる場所を探していた。氷の山の向こう側に、何か光るものが見える。人の目玉だ。見知らぬ人たちが、ぼくを見つめていた。ぼくは疲れてしまって、氷の山のふもとに座りこんだ。冷たくてなんだか安心できる。ぼくは目を閉じて斜面に耳を当てた。……鈍い音が聞こえる。ぼくが目を開けると、乞食たちが氷の山をスコップで壊そうとしていた。ぼくは驚いて逃げようとしたけど、足元の氷に足が取られて上手く立てなかった。だけど乞食たちは、まるでぼくなんていないかのように、仲間と話をしていた。

 ――百年ぶりに八つ裂きの刑が行われるらしい。

 ――だからこんなにうるさいのか。

 ――俺たちも見に行くか?

 ――ばかな! 外で何があっても出て行かないぞ。

 ――糞の山を溶かすのが俺たちの務め。

――これしか、ないからな。

 ――でも……もしなにか変わるとしたら?

 ぼくは氷の山からそっと立ち上がった。乞食たちから静かに離れて行った。ぜひともぼくは八つ裂きの刑を見に行かないわけにはいかない。ここにいるよりもさっきの広場にいるほうがマシだ。ここにいると立派な大人になれない。ズボンについたりんごの皮を払い落とした。太陽が真上にあった。もう正午だ。……ぼくは広場へ向かった。氷の山を離れると、だんだん自分に染みついた悪臭が気になってきた。もしかしたら、ぼくは元々こんなひどい臭いなのかもしれない。そうだ。ぼくは生まれた時からこんな臭いだったんだ。ぼくはお尻についていたダンゴムシをポケットに入れた。お守りになると思ったからだ。ポケットの中でダンゴムシが丸まった。

 広場へ戻ると、人々が集まっていた。こんなにたくさんの人を見たことはなかった。家の屋根の上にまで、ぎっしり人が立っていた。ぼくは人々をかきわけて、前へ前へと進んだ。するすると処刑台へ向かうことができた。さっき助けたミミズの魂が、力を貸してくれているのかもしれない。一番前まで出てきた。粗末な木で作られた大きな処刑台があって、その周りを兵隊さんが取り囲んでいた。処刑台の後ろに、大聖堂があった。石造の長い階段の果てに門があって、その上にマリアさまのステンドグラスがはめこまれている。ステンドグラスの両側に天使が並んでいる。……この広場のすべてを、これから何が起こるかを見ていた。神さまはどんなことも、きちんと見てくれるんだ。ぼくは深く息を吐いて、目を閉じた。おかあさまと毎朝しているお祈り……ぼくは忘れずにできた。人々の笑い声、叫び声、罵声、怒号……祈る声も押し寄せてくる。

 ――おい、あの女を見ろ!

 ――とってもきれいだねえ。

 ぼくは目を開けた。大聖堂の右端に、吊るされている女の人を見つけた。あの夜の、あの花嫁さんだ。頭に花かんむりをつけたまま、風に吹かれて身体を揺らしている。首はちょうど右に四十五度傾いて、ブルネットの髪がきらめいている。目を閉じて、笑っているように見えた。……幸せそうな顔だ。

 ラッパが鳴り響いた。処刑台の前へ、役人が出てきた。髪をきれいに巻いていた。役人は大きな巻物を広げて、声を張り上げた。

「偉大な国王陛下の名の下に、罪人に八つ裂きの刑を執行する。まず罪を犯した汚れた手を、硫黄で焼く。次に肉をペンチで引きちぎり、傷口に煮えた油を流しこむ。馬に手足をくくりつけ、バラバラに引き裂く。最後に火で全身を焼き尽くす。……灰は川にばら撒いて捨てる。さて、その前に、皆に己の罪を告白してもらおう――」

 大聖堂の門が開いた。真っ暗な中から、人が出てきた。2人の兵隊さんに挟まれて、男が力なく歩き出てきた。……でもよく見えない。顔を下に向けているから、あのダミアンさんのなのか、わからなかった。兵隊さんに支えられながら、一歩一歩、石の階段を降りてくる。ブロンドの髪は顔にはりついて、表情もわからない。でもぼくは信じていた。彼は、ダミアンさんだ。白馬も銀の鎧もブロンドの髪がなくても、間違いなく彼は――。ダミアンさんはどんな恐ろしいことも乗り越えてくれる。それがどんなに大きな過ちだったとしても、どんなに正しくないことだったとしても、最後までやり遂げてくる……。

 処刑台の前で、ダミアンさんは膝まずいた。広場の人々は一斉に静まった。兵隊さんも役人も、処刑台の後ろに下がった。たった一人で、神さまと向かい合っている。ダミアンは額を地面にこすりつけていた。……しばらくの間、広場は静かだった。兵隊さんがダミアンに近づいて、鞭を振りかぶった。でも、振りかぶった途中でやめてしまった。それから兵隊さんは膝まずき、大聖堂の上にいるマリアさまに祈った。ぼくも人々も、その姿を見て、同じようにマリアさまに祈った。判決文を読み上げた役人だけが、祈らなかった。役人は判決文を握りしめていた。真っ白で静かな昼さがり……街角にあった氷の山も、溶けてしまっているに違いなかった。

「……おれは、今、告白します。おれは、国王陛下を愛しています。夢の中で、国王陛下と寝ていました。おれは国王陛下を抱いていました。いえ、もしかしたら、おれが国王陛下に抱かれていたのかもしれません……。おれの国王陛下への愛は、純粋です。この国の誰よりも、どんな高貴な方々よりも、おれは国王陛下を愛しています。……おれたちは国王陛下とひとつになることはできません。国王陛下は、天上のお方、おれたち人間には、理解が及ばないのです。国王陛下は、おれたちにとって、遠くにあって、光輝くものなのです。そのはずでした。それが、真理のはずでした。……しかし、最近、人々は、国王陛下が、おれたちと近いもの、同じものだと言います。おれは、確かめずにはいられなくなりました。証[あかし]……を求めてしまいました。これが、おれの罪です。おれはここで、皆の前で、神さまの前で証言します――国王陛下の血は、青かった! おれたちのように、赤くて濁った血じゃなかった。国王陛下の血は、青くて、きれいな湖のように、おれの手が映るほど澄んでいた。……おれは罪を犯しました。青い血を見るまで、信じることができなかったからです。しかし、皆に問いたいのは、不信心という意味では、ここにいる皆が、おれと同じように、罪人なのではないか? ということです……おれは、身体をバラバラにされ、燃やされます。もちろん喜んで、喜んで血を流し、灰になります。皆のために、喜んで……」

 広場の人々は、涙を流しながら、ダミアンさんの告白を聞いていた。誰もヤジを飛ばしたり、トマトを投げたりせずに、ダミアンさんの言葉に耳を傾けていた。ぼくも泣いていたし、ダミアンさんの側にいた兵隊さんや、処刑台の後ろに隠れていた役人も、泣いていた。

 大聖堂の天使に止まっていた鳩が、飛び立った。国王陛下のいらっしゃる宮殿のほうへ、鳩は飛んでいった。役人は涙をふいて、処刑台の前に出てきた。兵隊さんの肩を抱いた。兵隊さんはうずくまったダミアンさんを立たせて、処刑台まで引きずった。その後ろから役人も処刑台へ上がり、右手を挙げた。するとラッパが鳴り響いた。……これから、始まるんだ。人々は「お慈悲を! 」と叫んだ。

「これより、刑を執行する――」

 役人がそう言うと、黒い頭巾を被った処刑人が、処刑台に上がった。いったいあの処刑人はこれまでどこにいたんだろう? ……とぼくは不思議に思った。ずっと近くにいたはずなのに、まるで気配がなかった。影のようにすらっと背の高い男の人だった。大きな剣を持って、ダミアンの隣に立った。すると男たちが大聖堂の影からたくさん出てきた。彼らはたちまち火を起こし、大きな鍋に硫黄を注いた。煮える硫黄の臭いが広場に漂ってきて、人々は鼻を覆った。ぼくは最前列にいたから、立っているのも辛かった。最前列を陣取っていた人たちは、この臭いに耐えられず、逃げ出した。……いつの間にか、ぼくの周りに人がいなくなった。

 ダミアンさんは処刑台に寝かされて、手と足を鎖で繋がれた。処刑人は、処刑台の上から硫黄の鍋を見つめていた。やがて十分に煮えたと思ったのか、下にいる男たちに合図をした。その時――乾いた音が聞こえた。処刑人が、処刑台から転げ落ちた。処刑人は硫黄を煮る鍋にぶつかって、硫黄がぶちまけられた。兵隊さんも役人も、みんなが逃げ出した。硫黄が処刑人の顔にかかり、黒い頭巾に穴が空いた。きれいな顔が見えた。……処刑人の胸から血が流れていた。

 黒い馬が処刑台めがけて走ってきた。青い羽のついた帽子をかぶった男が乗っていた。処刑台の前に黒い馬を止めると、人々の前に銃を掲げた。

「撃ったのは、このわたしだ!」

 ――なんだ? あの男は? 

 ――あれは、隣の国から来たのよ。服装が……この国よりもずっと派手ですもの。

 ――女でも、あんな格好しないわ。

 ――へえ……隣の国じゃ男もあんな……。

 あの男は、外国から来たらしい。帽子もコートも靴も、見たことのないものだった。もちろんぼくは今日初めて街に来たのだけれど、きっと、あれは、この国のものではないし、ぼくたちのものでもない。ぼくにも一目でわかった。

 黒い馬に乗った男たちが、広場へたくさん乗り込んできた。処刑台に向けて、銃を撃った。兵隊さんも役人も、処刑台の近くに人たちは、たちまち殺された。

 処刑人を撃ち殺した男は馬から降りて、処刑台に上がった。ダミアンさんの鎖を解いた。そして立ち上がって、広場の人々と向き合った。

「諸君もご存知のとおり、隣の国で、革命があった。民衆が、国王の首を落とした。わたしはそれを見てきた。……わたしは以前、貴族だった。妻子もいた。しかし、わたしは、すべてを変えなければならなかった。隣の国では、なにもかもが平等だ。貴族と民衆、金持ちと貧乏人、大人と子ども、男と女、一切の差異がなくなった。素晴らしい! この国も、変わらなければならない。諸君は、そんなことは無理だと思っている。たしかに、少しずつ、というでは無理だ。ものごとは、どんなことであれ、まったく一気に、劇的に、なにからなにまで、すべてを変えなければならない! 青い血を見た男の狂気を、讃えようではないか!」

 ぼくはこの男がなにを言っているのか、わからなかった。おかあさまが言っていた「かくめい」とは、こんな男たちが引き起こしたのかと思った。こんなに汚くて、卑劣で、なにもかも台無しにしてしまう。正しい秩序はぶち壊された。……あの男の手下たちが、拍手した。すると、広場の人々の中からも、拍手する人たちが出てきた。まばらな拍手だったけど、少しずつ、大きな拍手になっていった。

 男の手下のひとりが、吊るされていた花嫁さんの縄を切った。花嫁さんは担ぎ上げられて、処刑台まで運ばれた。革命を語ったあの男は、花嫁さんを持ち上げた。

「これを見ろ! この美しい女性を! 新しい国では、美しい女性が主役だ!」

 男の手下が、花嫁さんのドレスを剥いだ。胸が見えた。骨のように青白い胸だ。人々はどよめいた。男の手下が二人、処刑台に上って、花嫁さんの左右に立った。二人は、花嫁さんの手を取って、その両手を掲げた。十字架にかけられたイエスさまのように。……ぼくは目を背けてしまったけど、広場の男も女も、みんなが歓声を上げた。誰も花嫁さんを助けようとしなかったし、誰も怒り出すこともなかった。ダミアンさんは、いつの間にかいなくなっていた。ぼくは立っていられなくなった。処刑台の前で、うずくまってしまった。気分が悪くなって、吐いてしまおうと思った。だけど、吐くことはできなかった。そうだった。昨日の夜から、ぼくはなにも食べていなかった。

 処刑台へ向かって、人々が殺到した。男たちは死んだ兵隊さんの鎧や兜を剥ぎ取り、大はしゃぎしている。女たちは処刑台の上に立った。花嫁さんのように、胸を曝け出して、腕を広げた。

 ここで待っていても、誰もぼくのところへ来てくれない。もうここにいても仕方ない。ぼくは立ち上がろうとした。処刑台の上から、青い羽の帽子を被った、革命を語っていたあの男がぼくを見ていていた。なぜ、ぼくを見ているんだろう? 処刑台から降りてきた。明らかに、ぼくへ向かって歩いてくる。ぼくは立ち上がって、逃げようとした。だけど、足ががくがくして歩けなかった。どんどん近づいてくる。ぼくはあの男に対してなにもできない。……たとえば、ダミアンさんと出会って、一緒に婚礼を見に行ったこと、そして、今日、ダミアンさんの処刑を見に来たこと。あの男に、それらを全部言って、それから、あの男に殴りかかるか、泣きつくか、どちらにせよ、もう本当に、本当にどうしようもないんだ。

 そうやってぼくがもがいているうちに、あの男は、ぼくのそばまで来た。あの男は、ぼくの頬に触れた。冷たい、大きな手だった。ぼくは目を固く閉じていた。あの男の顔を見たくなかったからだ。

「目を、開けなさい。ここまで来たのなら、すべてを見てもらわないといけない」

 ぼくは目を開けなかった。

「そっくりだな。なにもかも、そっくりだ! わたしが拒絶したのではない。あいつがわたしを拒絶したのだ。むろん、あいつはわたしが拒絶したのだと、逆のことを言うだろうがね。女はいつもそうだなんだ。あいつはそれをわかっている。わかっていてわざと……どうかわかっておくれ! わたしも苦しんでいたのだと! いつも胸が押しつぶされていた。いつも不安だった。ねえ、いったい、あなたはなにがそんなに辛いのかしら? ……わたしは、イブではなく、アダムなのだ。それは神が決めたことだ。ただ言いたいのは、一緒に楽園を追い出された身なのだから、少しはわかってくれてもよいのだが。……今、言ったことは、だれにも言うなよ。本当に正しくない、完全に間違った考えだからな。しかしこういう正しさが、雨水のように溜まって、革命を中身から腐らせていく。最後には、腐り果て、中身はすからっかんになる。形だけ残してね。それがいつしか当たり前になる。そんなことは、ここにいる民衆だってとっくにわかっている。どうしようもない。ただ、子どものお前にだからこそ、こっそり、言うのさ……」

 ぼくはあの男が言っていることが、わからなかった。ただわからないだけではなかった。なんだか、とても嫌な気持ちになった。お腹が痛くなってきて、ぼくは吐きそうになっていた。ぼくはすっからかんになってしまった。いや、違う。たぶん元からそうなんだ。ぼくはなにか、間違ったことをしたのだろうか。おかあさまとの約束を破ったからかな。

 あの男はしばらくぼくをじっと見ていた。ぼくの返事を待っているかのようだったが、ぼくはなにも言えなかった。あの男は死んでいる。ぼくにはわかっていた。かける言葉なんてありはしない。ダミアンさんはどこへ行ってしまったのだろう。……手下の男の一人が近づいて来て、あの男の耳元でささやいた。あの男はぼくに背を向けた。辺りは暗くなり始めていた。広場の人々は飽きてしまったのか、もう誰もいなかった。兵隊さんたちもいなかった。諦めてしまったのかな。……青い雲の間から、夕日がかすかに見えた。あの男は、大聖堂に火を放った。乾いた風が吹いて、どんどん火を大きくした。マリアさまにも、後ろにいた天使たちも、燃えていた。あの男と手下の男たちは、燃える大聖堂の前で、ただ、ぼんやりその様子を眺めていた。どうして、彼らはなにもしないで、ただ、立っているんだろう? 火が強くなると、大聖堂から司祭さまたちが逃げてきた。ぼくが広場の真ん中で、たった一人でいた。逃げてきた一人の司祭さまが、ぼくに声をかけてきた。

「ぼうや、こんなところにいてはいけない。早く逃げなさい。ぼうやの家へ帰りなさい……おお、神よ!」

 司祭さまは二回も十字を切った。そして逃げるように、ぼくの前から立ち去った。だれかの視線を感じる。あの男が、またぼくを見ていた。手下の男たちが、あの男の耳元でささやいた。彼らは黒い馬に乗った。それからぼくのほうを振り返りもせずに、一斉に走り出した。彼らは闇の中へ、次々と消えていく。馬の足音さえ、小鳥の鳴き声のように、小さく、かすかにしか、聞こえなかった。広場はすっぽり闇に包まれ、冷たい風だけが吹いていた。どうしてなのか、わからなかったけど、なにもなくなった広場で、ぼくはとても安心できた。ぼくにとって、ぴったりと自分に寄り添ってくれる場所のように思えた。……あの氷の山にいた、あの乞食たちが、たくさん広場に来ていた。乞食たちは、広場で彷徨っていた。なにをするでもなく、燃えている大聖堂に目もくれず、自分一人で笑ったり泣いたり、走ったり座り込んだり……そうかと言って、おかしくなっているようにも見えなかった。乞食たちの目は、爛々と輝いていたからだ。ぼくは乞食たちの姿を見て、恐ろしくなった。八つ裂きの刑よりも、革命を語っていたあの男よりも、燃えるマリアさまよりも、乞食たちのほうが怖かった。……だんだん、眠くなってきた。起きていられなくなっていた。広場に端っこに、きれいな白い家があった。その家にだけ、灯がついていた。欠けるところのない完璧な漆喰と、立派な太い木の敷居があった。ぼくはふらふら、乞食のように、その家に近づき、玄関の前で倒れた。

 

 目が覚めた。ぼくはベッドで寝ていた。あの白い家の人が、ぼくを助けてくれたらしかった。小さなテーブルに、りんごが置いてあった。「食べろ」ということなんだと思う。そういえば、ぼくは昨日の夜からなにも食べていなかった。窓から外を見ると、真夜中で、雨が降っていた。……ぼくは気づかれないように、この家から出ていかないといけない。もちろん、親切にしてくれた人に、お礼もせずにこっそり出ていくなんて、悪いことだ。おかあさまも、きっとお許しにならないと思う。だけど、ぼくがあの塔まで帰るためには、だれも気づかれないように、神さまにさえ見つからないように……そうしなければ、辿り着けないと思った。ぼくは窓から思い切って飛び降りた。石の地面に落ちた。だけど不思議と痛くなかった。すぐに立ち上がることができた。振り返ると、大聖堂があった。マリアさまも、天使たちも、元通りになっていた。何事もなかったかのように。

 ぼくは、振り返らずに歩いた。広場を抜けて、まっすぐ街の門へ向かった。街は静かだった。昨日のことも、まるで何千年も前の出来事のように感じた。道に並ぶ家々は、たくさんの灯をともしていた。明るい話し声が聞こる。食べ物の匂いもする。ぼくはさみしくなって、走り出した。早くいかないと、街の門が閉まってしまう。この街にあと一日でもいたら……ぼくは消えてなくなってしまう気がした。

 門はまだ開いていた。外に出ると、白馬が松明の近くで待っていた。ぼくを待っていてくれたんだ。ぼくは白馬の首に抱きついた。ありがとう! 白馬は静かにいなないた。ぼくはたしかにここにいる。……白馬がいるのだから、ダミアンさんもきっとどこかで生きていると思った。ぼくはそう信じていた。

 白馬に乗って走り出す。雨は止んでいた。空気は暖かい。ぼくは急に楽しい気分になった。街が遠く離れていくにつれて、生き返ってきたような気がした。ぼくと白馬は、来た道を走り続けている。少しずつ、ライ麦畑が見えてきた。小屋もなく、水車もなく、なにもなく、ただ一面に、ライ麦畑が広がっていた。金色に輝くライ麦畑が、道に沿ってまっすぐに、どこまでも、続いていた。森は光に満ちている。枝には花がついていた。甘い匂いがする。白馬も嬉しそうに走っている。……セイレーンの歌声が聞こえてきた。ぼくは思い出していた。塔の中で過ごした毎日……おかあさまの朝のキス、先生の楽しいお話、窓から見える春の草原、あと少しで、あそこに戻れるんだ。

モミの木が見えた。帰ってきたんだ! ぼくはそう信じて疑わなかった。……だけど、ぼくが住んでいた塔は、塔だけがそこになかった。ただ、古い岩のかたまりがひとつ、草原にぽつんとあるだけだった。ぼくは白馬から飛び降りて、岩に駆け寄った。もしかして、道を間違えたのかな。……そんなはずはなかった。たしかに、ぼくは、来た道を正確に引き返したはずだ。このモミの木は、ぼくがいつも窓から見ていたモミの木だ。ぼくは周りを見渡したけど、たしかに、ここには、塔があったはずだ。ぼくは岩に触れた。ところどころ穴がでこぼこ空いている。きっと、とても昔からここにあったんだろう。

 ぼくは岩の前で座り込んでしまった。岩の下に、青い花があった。だれかが青い花を置いていったんだ。ぼくは青い花をつかんだ。まだ新しかった。こんな、なにもない場所で、ただの岩の下にどうして……。ぼくの後ろで、白馬が大きくいなないた。そして街と反対にある暗い森へ、走り去って行った。

 ぼくは街へ引き返した。一人で、ぼくは歩いた。

 

 

 「ルクレツィア・ファタール男爵令嬢、君と婚約を破棄する」

 ジョバンニ・バレンシア公爵から婚約破棄を言いたされるも、私は冷静だった。想定内の出来事だった。 

 昨日の聖女選定の儀式で、聖女に選ばれなかったからだ。私の魔力では聖女になれるかなれないか、確率は五分五分だった。ただ悪い方にサイコロの目が出ただけ。

 聖女になれなかった私と、結婚するメリットはジョバンニにはない。

 もともと政略結婚だ。大商人から成り上がったバレンシア公爵家は金で爵位を買ったと蔑まされていた。そこで由緒正しい家系からしか生まれない聖女と結婚することで、成金のイメージを払拭しようという腹だった。

「わかりました。婚約破棄を受諾します」

 受諾もなにも、私には選択肢はない。ただ形だけは「受け入れ難い屈辱をあなたのために受け入れてやった」と、ジョバンニに言いたかったからだ。

「よかった。君が騒ぎ出したらどうしようかと思ったよ」

 この鈍い男には何も伝わらなかったらしい。

「失礼すぎない?」

「君の妹の、シャルロットと結婚する。シャルロットは聖女だから」

 ははは、と乾いた笑みを浮かべながら、平然と妹との婚約を発表する。

「そうですか。もう私には関係ありませんので」

「これからどうするつもり?聖女にもなれず、婚約破棄された令嬢だぞ?ぼくは心配だなあ。何かできることがあればいつでも言って!力になるから!」

 そんなこと1ミリも思ったないくせに。

「聖女様とご結婚される立派なジョバンニ様にご迷惑をおかけするわけにはいかないので」

「あははは。可愛くないなあ?そういうとこ直さないと、本当にお嫁に行けないよお?」

 この男は自分が「クズ」だという自覚がないらしい。

 やれやれ。本当に疲れてしまった。

「はい。私は可愛くない聖女にもなれなかった出来損ないの女です。あなたの前から永遠に消えますので、我が妹とお幸せに!」


 ◇◇◇


 私は今、王都の大聖堂にいる。

 大聖堂の中庭のベンチで、私はぼんやりと座っていた。

 なぜ私がこんなところにいるのか?

 それは3日前、急に決まったことだった。

 婚約破棄され、さらに聖女にもなれなかった令嬢に貰い手はなかった。

 困ったお父様は「裏の縁談」を探した。

 この世界には表の縁談と裏の縁談が2つある。

 表の縁談は、令嬢が令息と結ばれること。世俗の貴族の結婚だ。

 もうひとつ、裏の縁談は、令嬢と聖職者の結婚だ。

 本来、神に仕える聖職者は、妻と子を持てない。

 しかし、高位の聖職者の中には、抑えきれない欲望から、禁じられたはずの妻を持とうとする。

 つまり、表の縁談で貰い手のいなかった私は、裏の縁談に回されたわけだ。

 私を貰った堕落した聖職者の名前は、ロドリーゴ・スフォルツァ大教皇。

 噂では、聖職者のくせに愛人が3人もいるらしい。

 大教皇になるために、ワイロも暗殺も何でもやったらしい。目的のためなら手段を選ばない男。貴族の評判は最悪だ。

 しかし、なぜか民衆には人気がある。優しい大教皇様だと。

 うーん……。ますますどんな人かわからないなあ。

 まあ、1番ありうる可能性は、油ぎった強欲爺ってところなんだよな……。

「ここにいましたか?」

 若い男の声だ。私が振り返ると、

「お会いするのは初めてですね。私はロドリーゴ・スフォルツァ大教皇です」

 金髪に青い瞳の、すらりとした細身。

 白いローブに、銀のロザリオを首にかけている。左手の小指にダイヤの指輪をつけて、キラリと光っている。

 全然想像していた姿と違って、私は慌ててしまう。

「あ、あの、私はルクレツィア・ファタール男爵令嬢です。はじめまして」

「わたしの影の花嫁になってくれるんですね?本当にいいですか?」

 影の花嫁??この立場は微妙だった。わたしはこの先一生、彼の妻であると人前では言えない。

 だけど、愛人とは違う。妻と名乗れないにも関わらず、妻の務めを果たさないといけない。

 要するに、この男が私に期待していることは、子どもを産むことだけだ。

 逆に彼が私にしてくれることは、子どもさえ産めば、一生面倒は見てくれる。

 別にそれでいい。いつも優秀で可愛い妹の影だったのだから、人の影にいることは慣れている。

「ええ。結構です。お互いの利益になります」

「ありがとう。今日から早速晩餐会があるから一緒に来てほしい」

「えーと、私は影なのでは?」

「我々、堕落した聖職者たちの晩餐会だよ。私の同僚たちの前であなたを紹介する」

 どうやら私と同じ運命を共にする「仲間」を紹介してくれるらしい。

 しかし、何を話せばいいのかわからない。

 どうして影の花嫁になることを選んだのか、なんて聞けないし……。

 影なんだから好きにさせてほしいのに。



              2



「これに入ってくれ」

 私の目の前に大きな木箱が運ばれていた。馬一頭を入れておけるくらいの大きさがある。 

「どうして?」

「君は影の花嫁だ。君が妻であると誰かに知られるとまずい」

 人に私と一緒にいる姿を見れたくないから、私を木箱に入れて馬車に積み込み、晩餐会の会場まで行くつもりらしい。

「だからって……これは家畜を入れる箱でしょう?こんなのに入るのは嫌よ」

「すまない。でもこれは君を守るためだ。私には敵がたくさんいる。君が私の妻だとわかれば、君の命が危ない」

 大教皇のロドリーゴには敵が多かった。大教皇の権威を利用しようとする連中は昔からいる。特に最近は腐敗した教会を批判する「異端者」たちが増えていると聞いたことがある。

「中はキレイにしているから」

 ロドリーゴは木箱に手を当て、にっこり笑った。

「そういう問題じゃないんですけど……」

 私が木箱を開けると、中にベルベットの絨毯が敷かれていた。かなりの高級品だろう。壁に穴も開けられていて、息苦しくならないようにしてある。

 これが妻への夫の配慮なのか。

 私は暗い木箱の中を見て、本当に自分は「影」なんだと思い知った。

「兄さん!そろそろ時間だぞ!」

 白銀の鎧を着た男がやって来た。

「すまない。……紹介しよう。こちらは私の影の花嫁、ルクレツィアさんだ」

「へえ……この人が。私はフアン・スフォルツァです。今日はあなたの護衛を務めます」

 フアン・スフォルツァ??ロドリーゴの弟で、大教皇軍の司令官だ。

 灰色の瞳とオレンジ色の髪が美しい。若いのに堂々として、威厳を感じる佇まい。

「あ、はい……」

 圧倒的な存在感に気圧されて、私は言葉が喉から出てなかった。

 フアンは膝をつき、私の手の甲に口づけをした。

「では、ルクレツィア様。木箱の中にお入りください」

 フアンは手を取って、私を木箱の中に入れてくれた。

「ルクレツィアさん。少々揺れますが、すぐに着きますのでご安心を」

 ロドリーゴが木箱の中を覗き込み、そして私の頬に触れた。暖かい、大きな手だ。

 私はロドリーゴの手を掴もうとしたが、すぐに手は私から離れて、木箱の蓋が閉められた。バタン――。 

 外から声が聞こえる。

 ……兄さん。あんな普通の女でいいのかよ?兄さんならもっといい女と結婚できるよに。

 ……いや、目立たない彼女がいいんだ。

 ……物好きだな。聖女でもないんだろ?

 ……聖女でないほうが都合がいい。

 いったい何よ?都合がいいって……。

 馬車が動き出した。けっこう揺れてお尻が痛い。

 影の花嫁と言っても、私はロドリーゴに買われたと言っていい。だからこの扱いは、ある意味当然に思えた。

 表の縁談なら持参金は新婦側が払うものだけど、裏の縁談では新郎側が払うことになっていた。

 ロドリーゴは私を貰うために、お父様に700万リラルもの大金を支払った。700万リラルは、我が貧乏男爵家の年収10年分に相当する。

 ロドリーゴにとってそれは端金だ。広大な大教皇領を支配するロドリーゴには、お金ならいくらでもある。

 ここにくる前に私は、お父様に散々プレッシャーをかけられた。「早く男の子を産め」と。

 ロドリーゴは700万リラルをお父様に払う代わりに、私に男の子を産むことを求めた。しかも、一人だと病気で死ぬこともあるから、最低二人は産むことが条件だ。

 ずっとロドリーゴはニコニコしていたけど、きっと腹の中では払った分を早く返せと考えているのに違いない。

 これじゃあ、ただの家畜じゃないか。鶏小屋に囚われた雌鶏と同じだ。はあ……。



 ◇◇◇



「ルクレツィア様、着きましたよ」

 フアンが木箱の蓋を開けてくれた。

「私の手を……」

 私はフアンの手を取って、木箱から出た。

 フェラーラ枢機卿(すうききょう)の屋敷だ。白いレンガ造りの立派な家だ。

 枢機卿は大教皇を補佐する12人の側近のことだ。神の代理人である大教皇に次ぐ地位にある。

「私の腕に捕まってください」

 ロドリーゴが私の隣に立って、腕を突き出してきた。

 これって……普通のカップルみたいに腕を組んで歩こうということなの?

 さっきまで家畜のように狭い木箱の中に押し込められていたのに、今度は、いきなり仲睦まじい夫婦のように振る舞えだなんて。

「……私は隣を歩きますから」

「嫌ですか?」

「正直申し上げて、嫌です」

「そうですか」

 ロドリーゴはあっさり腕を引っ込めた。そして何事もなかったかのような涼しい顔をして、

「では、私の隣を歩いてください」

「はい……」

 私に嫌だと言われても、何も気にしていないみたいだ。

 ロドリーゴと私は、並んで玄関へ入った。

「ようこそお出でくださいました。大教皇様、奥様」

 召使いに案内されて、2階の広間へ行く。

「よく来てくださいました」

 フェラーラ枢機卿と、その奥さんが迎えてくれた。

 優しそうな初老の紳士だけど、その奥さんだか愛人だかどちらかわかりかねる隣の女性は、私と同い年ぐらいだ。

 一歩間違えたら私も、超歳の差の婚をするハメになっていたかもしれない。

 一番奥の上座にロドリーゴと私は座った。

 テーブルに並んだ12人の枢機卿たちを見ると、みんなロドリーゴと私よりはるかに歳上だから、とても場違いな気がして恐縮してしまう。

「……全員揃いましたね。スフォルツァ大教皇とフェラーラ男爵令嬢とのご結婚を祝して、乾杯!」

「乾杯!」

 全員が盃を掲げた。

「え?」

「私たちは公に結婚式をすることができないから、ここでささやかな宴を催すことになってね。影の花嫁たちは皆、この屋敷で夜に結婚を祝ってもらうんだ」

 たしかに私たち夫婦は公に結婚式をするわけにはいかない。だからこの晩餐会で結婚式の代わりをやるらしい。

「さあ、新郎新婦は立って」

 フェラーラ枢機卿が前にやって来た。

「こほん。申し訳ないが時間がないため、略式で婚姻の儀を行います。汝、ロドリーゴ・スフォルツァ。あなたは病めるときも健やかなるときも、ルクレツィア・ファタールを愛しますか?」

「はい。愛します」

 ロドリーゴはまっすぐ目を見ていた。

「では、花嫁に指輪を」

 私の右手の薬指に、指輪が通された。影の花嫁だから指輪は左手でなかった。

 プラチナの指輪で、大教皇の紋章である「鍵」が刻印されている。この鍵は、天国への鍵を意味する。天国への鍵を持っているのは大教皇だけだとされている。

「花嫁にキスを」

「いや、キスはちょっと……」

 いきなりのキスに戸惑う私。まだ気持ちの準備ができていない。

「ルクレツィアさん、あなたはもう指輪をはめてしまいました。立派な影の花嫁です。キスさせてください」

 ロドリーゴが私の耳元で囁いた。

「あとでお金を払います」

「でも、ちょっと、うん……」

 強引に唇を奪われてた。

 無理矢理だけど、それは優しい口づけだった。

 かなり端折った婚姻の儀が終わった後、枢機卿たちが結婚の贈り物をくれた。

 銀のゴブレットや、果物の詰め合わせ、あのフェラーラ枢機卿からは絵画をもらった。

 貝殻に座った裸の女性が、騎士に手を差し出している様子が描かれていた。

 うーん……こんな刺激的なインテリアをどこに置けというのか。

 高貴な者からの贈り物だ。ここは妻らしく、お愛想のひとつも言ったほうがいいのかもしれないが、なんて言えばいいのかわからない。田舎の貧乏貴族の私は絵画のことなんて何も知らなかった。

「これは、ピエロ・アンジェリコのものですね。この曲線と色彩が素晴らしい」

 横からロドリーゴが助けてくれた。

「そうでしょう?ぜひ玄関に飾ってください」

 玄関に飾るのは無理だ。

「ああ、そうするよ。ありがとう」

 ロドリーゴは微笑みながら、ぎゅっとフェラーラ枢機卿の手を握った。

 どんな相手に対しても、ロドリーゴは親切だった。いつもニコニコして笑顔を絶やさない。「微笑みの大教皇様」と呼ばれるだけある。

 でも隣にいて私は、ロドリーゴ自身の感情がまったくわからないことに気づいた。本当は何を考えているのか、その表情から読めない。

「絵画に詳しんですね」

 私はロドリーゴに話しかけた。

「あんなのは適当です」

「じゃあ、デタラメを言ったの?」

「フェラーラ枢機卿だって、有名画家の作品だから金に物を言わせて買っただけですよ。あの人が芸術のことなんてわかっているわけない」

「そういうものですか……」

 なんだか釈然としない。私がバカ正直すぎるのか。ここの人たちの考え方に、私は馴染めない気がした。

「あなたもついに堕落しましたね」

 私と同い年くらいの、若い枢機卿が話かけてきた。

 少し目が暗いが、顔立ちは整っている。かなり美形だ。

 この人はさっきの乾杯の時、ひとりだけ盃を掲げていなかった。

「ローヴェレ枢機卿、今日は来てくれてありがとう」

 ロドリーゴは眉一つ動かさず、笑顔で応じた。

「お祝いすることではないので、贈り物はありません。お気に触ったらお許しを」

「そんなことは気にしませんよ。それよりローヴェレ枢機卿には期待しています。今度、枢機卿団の長をお願いしたいと思っています」

「枢機卿団の長……」

 険しい表情をしていたローヴェレの顔が少しほころぶ。

「考えておきます。では、良い夜を……」

「あの人、お祝いしたくないなら、来なければいいのにね」 

 私がそうこぼすと、

「私に負けたのが悔しいのさ。何か言わなければ気が済まない。昔からそういう奴だった」

 ロドリーゴは笑いながら言った。

 ローヴェレ枢機卿は、神学校の同級生だった。秀才で、ロドリーゴといつも成績を競い合っていたそうだ。

 先の大教皇選挙でも、ローヴェレ枢機卿は、ロドリーゴのライバルだった。ローヴェレ枢機卿が優位だと最初から思われていた。しかし蓋を開けてみると、ロドリーゴの圧勝だった。

 ローヴェレ枢機卿は12人の枢機卿団の中で唯一、影の花嫁を娶っていない。愛人もいない。清廉潔白な聖職者だ。真摯に神に使えるローヴェレの姿勢は、特に聖女たちから支持されている。

「奴は、私が賄賂を使って票の買収をしたと触れ回っているようだ。でも私はそんなことしてない。枢機卿たちと神の助けがあったから大教皇に選ばれたのです」

 正直に言えば、私は信じられなかった。どうしても何かをやったとしか思えない。ロドリーゴも父親の前大教皇も黒い噂が絶えなかった。何か確信があるわけではないけれど、素直にロドリーゴの言葉を飲み込めない。

「楽しんでる?少し私とあっちで飲みません?」

 さっきフェラーラ枢機卿と一緒に出迎えてくれた女性が私を誘う。

「行ってきてください。私は枢機卿たちと少し仕事の話があるから」

「失礼します……」

 私はグラスを持って、その女性に着いて行った。

「ファルネーゼって言うの。歩きながら話しましょう」



 1階の柱廊をファルネーゼさんと私は歩いた。静かな夜だ。月光が白い柱に当たって美しく輝いていた。

「あの、ファルネーゼさんはフェラーラ枢機卿の、影の花嫁なのですか?」

「そうよ。私は彼の影。ルクレツィアさんと同じように、貧乏貴族の令嬢が聖職者に買われたの」

 やっと同じ境遇の人と話ができて、私は嬉しかった。

「ロドリーゴ様、いい人そうね。愛人も作っていないそうだし」

「え?噂では愛人が3人もいると……」

「それは弟のフアン様よ。噂って当てにならないものね」

 自分の旦那を思い切っり疑っていたから少し恥ずかしい。

 でも、悪い噂が多すぎるから信じてしまうのも無理ないじゃないかと、自分に言い聞かせた。

「ロドリーゴ様は珍しい人よ。私の旦那なんて毎日毎日、愛人を取っ替え引っ替えだから」

「そうなんですか……」

 あの優しそうなフェラーラ枢機卿がそこまで女好きとは驚いた。

「ま、私もなんだけどね……」

「え?愛人がいるんですか?」

「だって悔しいじゃない?こっちは影の花嫁で妻であることを公にすることもできないのに、あっちは愛人を作り放題なんて。だったらこっちも、やってやるって思ったの」

 たしかに私たち影の花嫁は、公に認められた妻ではないら、旦那が何人愛人を作っても何も言えない。

「若い騎士様と私も愉しんでいるの。でも旦那は何も気にしてないみたい。だから最近は堂々と家で会ってるわ。私なんか子どもさえ産めば、どうでもいいのね」

 ファルネーゼさんは笑っていたけど、でもその顔は、どこか悲しそうだった。

「私たちは影の花嫁になった時、大切な何かを失ったのよ。その何かは、きっと二度と取り戻すことができないものだと思う……」

「何かって?」

 私はおそるおそる聞いた。

「何かとしか、言いようがない。なんかね、ときどき黒い影に自分が飲み込まれてしまうような気がする……飲み過ぎちゃったみたい。今のは忘れて!」

 テヘっと笑うファルネーゼさん。

 でも今の言葉を私は忘れることができそうになかった。

「ぐああああああ!」

 誰かの叫び声!

「2階の広間から聞こえたわね……すぐに戻りましょう!」

 ファルネーゼさんと私は、2階の広間へ戻った。

 ローヴェレ枢機卿が広間の真ん中で泡を吹いて倒れていた。

「何があったんですか?」

「あのエールを飲んだら、急に倒れられたのだ。どうやら毒を盛られたらしい……」

 毒殺!

 まさか……いったい誰が?

「聖女だ!誰か聖女を呼んでくれ!」

 ここに聖女はいない。聖女が来る前に死んでしまう。

 私は解毒魔法を使うことにした。

 解毒魔法は聖女しか使えない高等魔法だ。

 でも……本物の聖女を待っている余裕はない。ダメ元だ。私は解毒魔法を詠唱し、ローヴェレ枢機卿の胸に手を当てた。

 どうせ、無理だと思った。

 聖女選定の儀式みたいに、いつも結果は良くないほうが出る。

 だけど、今回は違った。

「これは……解毒魔法!詠唱に成功している。すごい……」

 緑色の光がローヴェレ枢機卿を包み込んだ。すると、止まりかけていた呼吸が戻った。

「助かった!助かったぞ!」

 ロドリーゴが叫んだ。

 いったいどうしてなんだろう?

 私は聖女になれなかったはずなのに……

「うう……」

 ローヴェレ枢機卿の意識が回復した。

「ローヴェレ枢機卿、大丈夫ですか?」

 私はローヴェレ枢機卿の手を握った。

「スフォルツァ大教皇……貴様、毒を盛ったな!」



         3



「ローヴェレ枢機卿……何を言っているのです?私が毒を盛るわけないでしょう」

「貴様だろう!呼吸を止める毒……カンタレラはスフォルツァ家に代々伝わる毒薬。貴様はそれを使ったんだ」

 カンタレラ――それはスフォルツァ家が政敵を毒殺するのに使っていると噂の毒薬だ。スフォルツァ家秘伝の毒薬で、生成方法はスフォルツァ家の者しか知らない。

「我が家のことをよくご存知で。しかし呼吸を止める毒薬ならカンタレラ以外にもたくさんあるでしょう。何の証拠にもなりますまい」

 ロドリーゴは淡々と冷静に反論した。

「くっ……離せ!」

 ローヴェレ枢機卿は、手を握っていた私の手を振り払った。

「……失礼を承知で申し上げるが、私の妻はあなたを助けたのですよ。お礼ぐらい言えないのですか?」

「礼だと?どうせこの聖女も貴様が仕込んだんだろう」

 聖女じゃないんですけど……。

 でもとにかく助けてあげたんだから、お礼ぐらい言ってくれてもいいじゃない。

「兄さん、料理人が逃げたらしい」

 フアンさんが部下を引き連れて、広間へやって来た。

「そうか……。その料理人が犯人だな。捕まえて誰に命令されたか吐かせよう」

「茶番だな。やったのはスフォルツァ家の貴様らだ。どうせその料理人も貴様らが金で雇ったんだろう」

「なんだと!貴様!」

 フアンさんがローヴェレ枢機卿の胸ぐらを掴んだ。

「やめろ!」

 ロドリーゴがフアンさんを止めた。

「……ローヴェレ枢機卿は混乱しているようだ。とりあえず今日は解散しましょう」

「スフォルツァ大教皇、今日のことは決して忘れない……」

 

 ◇◇◇


 私は再び木箱の中に入った。

「ルクレツィアさん、今日はありがとう。ルクレツィアさんのおかげてローヴェレ枢機卿が助かった。ローヴェレ枢機卿の言ったことは気にしないで」

 ……気にしないことは無理だ。

 それよりも、私が気になっているのは、

「あの、ロドリーゴさんは本当に毒を――」

「今日は疲れたでしょう。屋敷に帰ったらゆっくりお休みください」

 ロドリーゴは優しく微笑んだあと、箱の蓋を閉めた。

 ……ちっ。あんな奴、死ねばよかったのにな。

 フアンさんの声だ。

 ……ああ。それもよかったかもしれん。

 ロドリーゴの声だ。

 ……兄さんは何を考えている?

 ……ローヴェレ枢機卿は、いずれ何とかするさ。

 「何とかする」って……いったい何をするつもりなんだろう。

 私は木箱の中で、膝を抱えながら考えていた。

 ……今の話ぶりからすると、ロドリーゴたちは毒を盛っていないようだ。

 でも、ローヴェレ枢機卿は、先の大教皇選挙で、ロドリーゴのライバルだった。しかもロドリーゴが選挙で不正をしたと非難している。

 だからロドリーゴには毒を盛る動機がある。

 ……でも、このタイミングで毒を盛るだろうか。これではロドリーゴがやったと疑われてしまう。

 揺れる木箱の中、私の思考はぐるぐると回る。もちろん考えたって私には何もわからない。

 暗くて狭い場所で1人でいると、私は世界から切り離されてしまった気がする。私はロドリーゴたちにとって蚊帳の外にいる人間らしい。

 もっと私にも、いろいろ話してくれてもいいじゃないか。 そんなに私は信用できないの?

秘密にされている感じが腹が立つ。

 私は妻なのに……。

 いやいや、訂正。それは違った。私は影だ。だからいない人間。いない人間に話をする必要はない。

 ファルネーゼさんの言っていた「黒い影」とは、このことなのかもしれない。自分がここにいてもいいのか、わからなくなってくる。

 ……スフォルツァ様。こんばんは。大教皇へのご就任、おめでとうございます。

 誰だろう?知らない男の声だ。

 ……ありがとう。

 ……ご結婚もされたようで、お祝い申し上げます。

 ……何を言っている?大教皇の私が結婚するわけないだろう。

 ……その木箱の中には、とても大切なものが入っているようですね。

 え?私のことがバレてる?

 ……貴様、なぜ知っている?

 フアンさんの声だ。

 ……神が私に教えてくださったのです。堕落した大教皇が罪を犯したとね。

 ……貴様は異端者か?

 ……異端者はあなた方のほうでしょう。信仰を汚すあなた方は、地獄に落ちるがいい!

 バンっ!

 木箱が大きく揺れた。異端者の男が叩いたみたいだ。

 ……貴様、殺すぞ!

 ……待て!フアン!奴はもう行った。お前がここを離れると危ない。早く帰ろう。

 ……ルクレツィアさん、大丈夫ですか?

 ロドリーゴの声だ。

 ……はい。私は大丈夫です。

 本当はすごく怖かった。

 ……怖いを思いをさせてしまって申し訳ない。もうすぐ屋敷に着きますから。

 ……帰ったら、教えてください。

 ……何を?

 ……すべてです。私が知らないこと全部。あなたの妻ですから、知っておく必要があります。

 ……わかりました。

 案外、私からちゃんと聞けば、いろいろと教えてくれるのかもしれない。

 私が来たばかりの人間だから、キツイ現実をわざと知らせないようにしてくれていたのかもしれない。

 ロドリーゴなりの優しさだったのかな……。

 でも、私には聞きたいことが山ほどあった。


◇◇◇


 屋敷に着いて、1階の食堂にロドリーゴ、フアン、私の3人が集まった。

 黄金の燭台に火を灯し、私たちは話し合うことにした。

「さっきの男は何ですか?」

「さあ……わからないなー」

 フアンさんは、やれやれと肩をすくめてた。

「真面目にお願いします!」

 私は机を叩いた。

 いつになく、私は真剣だった。

 影と言え、私は妻なんだ。自分が嫁いだスフォルツァ家にどんな危険があるのか、知っておきたかった。

 基本、好きにさせてもらいたいけど、何も知らずに暗殺されるのだけはごめんだ。

「……異端者ですよ。ヤン=ルター派と呼ばれています。我々教会の敵です。奴らは教会を公然と非難し、大教皇は悪魔の使いであると主張しています」

 ロドリーゴはため息をついた。

「我々スフォルツァ家の人間が、大教皇になったのも奴らは気に入らないのです。我々はここではよそ者ですから」

 スフォルツァ家は、大教皇領のあるロムレスの貴族ではない。隣国のレムスの出身の貴族だ。だからロムレスの市民から嫌われていた。

「もうひとつ、毒を盛ったのは……その――」

「私が毒を盛りました」

「え……」

 私の顔から血の気が引いた。

「ふふふ。嘘ですよ」

「はははは!」

 ロドリーゴとフアンさんは笑った。

「もう!からかわないでください!」

「ははは。兄さん、自分の妻から毒を盛る男だと思われていたのか。こりゃひどいぜ」

「まあまあ、疑うのも無理はないですね。たしかにローヴェレ枢機卿が消えれば得をするのは私です。ローヴェレ枢機卿はスフォルツァ家を目の敵にしてますし。状況を考えれば、私が犯人だと誰もが思うでしょう」

「いや、その、疑っていたわけじゃないんですけど……」

「いいんです。悪人にされるのには慣れています」

「じゃあ、毒は盛っていないんですね?」

「神に誓って、何もしていません」

 私はロドリーゴの顔を覗き込んだ。嘘を吐いているようには見えない。

 とりあえず、信じても大丈夫……かな?

「それにしても……誰がいったい毒を盛ったんだろう?」

「おそらく、フェラーラ枢機卿だろう」

「え?」

「なぜだ?兄さん」

「フェラーラ枢機卿は、先の大教皇選挙ではローヴェレ枢機卿に投票したが、見返りの約束を反故にされたらしい。だからローヴェレ枢機卿を毒殺し、その派閥の後釜に収まろうという腹だ」

「どこでそれを?」

「フェラーラ家の使用人の中に、スパイを潜り込ませた」

「すげえ!さすが兄さんだ!」

 フアンさんがロドリーゴの肩を抱いた。

 すごい殺伐とした世界だなあ……。

 田舎貴族でのほほんと生きてきた私には、ついて行けないことばかりだ。

「……スフォルツァ家には、野望があります」

 野望って……世界征服とか?

「私たち兄弟は、父上から言われました。自分の王国を作れと。大教皇の座を世襲することができません。しかし国王になれば、富と権力を子々孫々へ受け継ぐことができます」

「なるほど。だから私を娶ったんですね。力を受け継ぐ者を産むために」

「正直言えば……そうです」

「早く子どもを産めと」

「いや、そういうわけでは……」

 ロドリーゴは言葉を濁した。

「いいんです。私に求めることがあれば、はっきり言ってください」

「……私と恋をしましょう」

「は?」

 恋……今の私に最も似合わない言葉だ。

「大教皇になるまで、あまりにも忙しくてね。まともに恋をしてる時間がありませんでした。だから恋をしてください」

「でも、それって……何をすれば……」

「今日はもう遅いですから、寝ましょう。寝室へ案内しますね」

 ロドリーゴが私の手を握った。


 ◇◇◇


「一緒に寝るんですか……」

「夫婦ですからね」

 寝るときはべ

 

 


 

 


 

 


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