今日はURBANフェチのツアーファイナルを観に行った。
おれはURBANフェチを観るとたちまち一人称が「ぼく」から「おれ」になってしまう。
ニガミ17才も観。やっぱりすごい言語感覚!と感激した。
これしかできない、というのは一見必然に迫られているようで美しく聞こえるが、実はそれは全くの勘違いで、それが、できる、というか、やるしかない、たとえそれが憚られるようなものであっても、やる、というものこそが必然に迫られているものであり、その愚かさにも近い自分に対しての信仰心がそのひとの何かに美しい意味をもたらすように思う。
つきぬけ!を観ることが出来てとても良かった。
リコチェットマイガールの稲荷氏と一緒にライブを観ていたのだけど、URBANフェチで楽しくなっちゃって「ごめん、前行くね!」と行って人の群れの中に突っ込んでいくとき、光の中へ飛び込んでゆくような気持ちになった。まばゆい。
帰ってきて今朝七時
大島智子氏が「香菜」という二文字と一緒にモフモフとジャムパン食べている女の子の絵を載せていて、それを見てボロボロ泣いた。
おれは「香菜」と書くひとが大すきなの。「加奈」はいもうと。
「香菜、頭をよくしてあげよう」は筋肉少女帯による、自分のことをインテリであるとか、世の中のことについて何か気付いていると勘違いしてやまない男子諸君にとって永遠に色褪せないラブソングであるということは、このブログを読んでいるリテラシーの高い皆様には既に周知の事実であることと思われますが、オーケンさんが、
……と、ここまで書いて、「オーケンさん」って書いた自分にグッときてしまった……「オーケンさん」て、今まで「オーケン」て書いてたのに「オーケンさん」て、生意気だ……しかし、認知していただいているということはこの世界線において観測された揺るがぬ事実であるので、おれは敬意と愛情を込めて「オーケンさん」と呼びたい。ううっ……生きててよかった。
ぼく、14歳当時「頭をよくしてあげよう」って、それこそが自分がいつか出来るかもしれない彼女にあげられる最大限の愛情だって思ってて、いや今でもちょっとまだそう思ってるんだけど、
でも、似たような経験を思い出して「あー、ほんとオレって自意識過剰な勘違い男だったのだな」とか思う。
何故なら、弱虫は綿で怪我をする、と昔の弱いひとは言っていて、それが残念ながら真実だからなのだ。
弱虫は恋愛がスタートしたとき、同時にその終わりの光景も頭の中に芽生えてしまうのね。
だから、弱虫の恋愛というのは、最初から恋の終わりを想起しながら進んでいくの。
でも何か彼女を愛しく想うとき、1人で生きていけないような彼女が、この恋が終わったあとも、1人で生きていけるように、ぼくが頭をよくしてあげよう!と、言うわけです。
素晴らしいじゃないですか。自分のような人間にも出来ることがある!と当時は興奮したものです。
基本的にぼくは他人を見下すと同時に激しい自己嫌悪を抱えているので、好意なんて持たれても、なんて浅はかでセンスのない気の毒なひとかしら、とか思っちゃうのだけど、
モフモフとジャムパン食べている君をみたときとかに、ほだされてしまうわけでもないけど、そういうときに、男の子は何かあげられるのか?と悩んでしまうわけじゃないですか。
だからぼく、筋肉少女帯だとか、ぼくのそういう恋愛について大きな影響を与えた山本直樹先生のBLUEとか林静一先生の赤色エレジーとかがないと、生きていくことはできないと思っていたので、
ある時期ある女性に「新世紀エヴァンゲリオン」を観せたり、きっと役に立つとか言って「狂い咲きサンダーロード」観せたりしてたのだけど、まぁ彼女の頭の上には大きなクエスチョンマークが浮かぶばかりで。
ぼくも考えに考えて「星の王子さま」(池澤夏樹訳)とか買ってあげたりしたのだけど、これは今では「十五少年漂流記」と「蝿の王」を一緒に読ませるようなものだ、というクソウザいジョークになりくさったわ。
困った、これではぼくは彼女に何もあげられない!
と焦ったわけだけど、
ぼくのあげられるぜんぶ、なんてもの、もらわなくても生きていけるんだよね。
と、今ではそう思う。自意識過剰故に何か出来ると思い込んで頑張ってたなーとか、そういう風にから回っていたことを思い出してしまう。
そのこじれた恋愛はもちろん上手くいかないんだけど、終わった恋を思い出すときは、所謂ジャムパン食べている君のことを、無邪気な君の、仔犬のようなことを思い出すだろうなって思う。
だからその、大島智子先生の、何も知らずにジャムパン食べている少女の顔が、過ぎてしまった、すごく綺麗だった瞬間のように見えて、すごく切なくておれは1人で勝手に泣いてしまったのだった……。
でも過ぎ去ってしまったものでも、それが曲になるときにほんのすこしだけ救われて、自分がやっていることが何かとつながっているように感じる。
「チャーハンたべたい」なんか、今思うとこの曲がなかったら書けなかったんだろうな、と思う。すると、やっぱり何か血のように繋がっていくものがあるな、と感じるし、その流れをもっと大きくしたりしたいな、とか思う。何もかもが口惜しく、何もかも愛しているので。
夢に、いつもカッコよく見られようとしていたあのひとが散歩中に見せた無防備な鼻歌があらわれませんように、と思った。おやすみなさい。