久々の記事評です。今回取り上げるのはネットでも話題になっていた『藤田直哉のネット方面見聞録 集団で攻撃、ゲーム的運動の危うさ』です。Webでは有料記事だったので図書館で探してきました。

 本記事はこのブログでもたびたび取り上げてきたColaboへの攻撃を扱ったものです。いわゆる暇アノンを批判する内容と「ゲーム的運動」というフレーズから反射的な反応を呼び寄せていましたが、きちんと読めている人は多くないでしょう。

ゲーム的運動

 本記事で指摘されている「ゲーム的運動」とは、Colaboに対する行為が『不正を探すオンラインゲームを集団でプレイしているかのよう』であることからなされた表現です。事実、暇空自身も『ラスボス』などゲーム的なフレーズを用いていることが指摘されていますし、周囲を巻き込んで騒ぎ立てる「祭り」的な振る舞いはソーシャルゲームのレイド戦のような様相もあります。

 こうした状態は「暇アノン」という呼称のもとになったQアノンにもみられたものでした。ディープステート(ナニカグループ)という巨悪が背後にいて、それと闘う戦士になって敵を倒そう!全国には数万のプレイヤーがいるぞ!という訳です。気に入らない弁護士に懲戒請求したり暇空にカンパしたりするのは、いわばオンラインゲームのキャンペーンのようなものだと解釈できるということでしょう。

 ネットの反応を見ると、筆者がゲームを否定的に扱っているかのように読み取っているオタクが大量に出てきますが、全文を読めばこうした読解が誤りであることが分かります(まぁ、web検索すらまともにできないオタクが新聞の有料記事を読んでいるわけがないのですが)。筆者はあくまで、暇アノンたちの振る舞いの外形を指してゲームとの類似を指摘しているだけであり、そこに肯定も否定もありません。そこに否定的なニュアンスがあるとすれば、娯楽の手法を政治運動に持ち込むちぐはぐさに対するものでしょう。

荻野稔のゲーム的政治


 この記事に噛みついたのが自称オタク議員こと荻野稔です。彼はとりあえず気に入らないことがあると左派を腐そうとする典型的ネトウヨの特徴を有していますが、記事を読めば自明であるように、『アベ政治を許さないとか、太鼓を叩いたり、車で安倍氏の顔のマスクを踏み潰し』は別にゲーム的政治でも何でもありません。こうした政治手法はある種古めかしい独特の雰囲気を有してはいますが、それはここで問題となっているものとは違う話ですし、単に雰囲気の好みやセンスの問題でしょう。

 ゲーム的政治の特徴は、陰謀論でもって巨悪を創作し、自分をそれと闘う偉大な存在であると規定することです。言い換えれば、相手を巨大にすることでそれに対抗する自身もまた巨大であるかのように振る舞うという訳です。

 しかし、当時首相だった安倍晋三は、言うまでもなく行政の最終責任者であり、政府を批判する立場からすれば「巨悪」であるという認識はさほど的外れではありませんでした。どういう理路をたどるにせよ、政府の不祥事や愚策の責任が最終的に首相へ帰属されるのは当然の話であり、それを否定するのは単なる責任逃れでしょう。

 また、こうした運動には「巨悪と闘う戦士になる」類の高揚感はありません。事実としても運動にかかわる人々の自己認識としても、こうした運動は権利の侵害をどれだけせき止められるか、マイナスをどれほどゼロに近づけられるかという撤退戦的なものがあり、そのため、あまり運動全体として高揚感のようなものは見受けられません。例外があるとすれば、政権交代への望みがあるとか、選挙など短期的な勝利目標が存在する場合でしょうか。

 ここは不思議なところで、暇アノンの自己認識としても彼らの闘いは本来「撤退戦的なもの」になるはずのものです。彼らの理解では、「ナニカグループ」という妙な存在が「税金チューチュー」しているわけで、その公金の略取をどうにかして減らすというものであるはずだからです。本当に相手が政府に救う巨悪であれば簡単に勝てる相手ではなく、左派的な運動と同じような空気感になってもおかしくないところ、なぜあのような高揚感が生まれるのかは私にもまだわかりません。

 それはさておき、荻野がこの記事に反応せざるを得なかったのは、彼もまたここで批判されている「ゲーム的政治」の体現者だからにほかなりません。彼がかかわった全国フェミニズム議員連盟に対する公開質問状と署名は、まさに「二次元を弾圧するフェミ」という架空の巨悪を仕立て上げ、「署名を集めて相手を倒そう!」とレイド戦を仕掛けるものでした。これに乗ったオタクたちは単にレイド戦に参加したかっただけであり、真面目に問題を解決する気などなかったため、公開質問状の内容が支離滅裂であったり署名が送付されていなかったことなど気にも留めていません。

 そもそも、今回生じているColaboへの攻撃は、オタクの「二次元を批判した女性への攻撃」という文脈で繋がっています。荻野の扇動した攻撃が「政治的運動の形式を借りた攻撃」としての先鞭をつけ、こうした振る舞いがオタクに受け入れられる下地を作り、そのことがColaboへの攻撃が広まる一因になったことは疑いようがないでしょう。にもかかわらず、フェミニスト議連への攻撃についてすら何の反省もないのには呆れます。

そこを強調する意味は

 ただ、本記事も全く問題がないわけではありません。それは、記事中に『ただし、一部の精算には「不当な点がある」として都に再調査を勧告した。どちらの言い分が100%正しいとも言い切れないようだ』とする文章があることです。

 確かに、監査では一部不当であるとする結果が出ました。そのことを指して『100%正しいとも言い切れない』とするのは厳密には間違いではありません。ですが、この文脈でそのことを強調することにどれほどの意味があるでしょうか。

 そもそも、監査の結果は、暇空の主張する不正の内容がすべて否定されたというもの
です。無数のデマのほとんどが否定された格好であり、スコアにすれば99対1でColaboの勝利だったと言っても過言ではないでしょう。にもかかわらず、どちらも100点ではないからという理由で同点であるかのように表現するのは、評価の妥当性を超えて事実認識として誤っているとすらいえるものです。

 また、こうした表現はデマの非対称性を無視したものです。デマは内容の真偽を問わないことから、即座に無限に作り出せるものです。一方、その検証には時間がかかります。無数に作り出されたデマのうちごく一部が、おそらくまぐれ当たり的に正しかったというだけでColaboにも非があるかのように論じるのはデマゴーグの思うつぼです。

 コラムではあれ朝日新聞という媒体で、あたかもColaboにも問題があったかのような文章が掲載されれば、それは暇アノンたちの「ゲーム的政治」の正当化に寄与し、彼らの攻撃に拍車をかけることに繋がりかねません。ゲーム的政治を論じるのであれば、その程度の思慮は当然あってしかるべきであったと言わざるを得ないでしょう。

 また、本記事に限らず、この問題が報じられる際に、見出しなどで「一部不当とされた」という結果を強調する記事が見られます。が、この問題の本質はそこではないことは、まっとうに取材をすれば容易く理解できるはずです。このような的を外した粗雑な報道の積み重ねがメディアの信頼を損ねていることも心にとめる必要があります。