渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

絶滅危惧種 ~文化~

2023年01月31日 | open



戦後高度経済成長時代の人に
はお馴染みだが、現代の人た
ちにはちんぷんかんぷんの物
が今の時代には結構ある。
今ではマッチなどもその一つ
だが、もっと決定打がある。
完全絶滅
危惧種だ。
それが牛乳瓶と紙のフタ。
そもそも、牛乳瓶の牛乳がそこ
いらでは売ってない。
小学校の給食でさえ、私が小学
生の頃の1970年頃には三角の
透明パックになってストローで
飲んでいた。低学年の頃は給食
室から牛乳をケースで運んだ。
ビール瓶満載の火炎瓶2段重ね
ケースを慎重に運ぶように
二人
がかりで。
火炎瓶は化学反応による触発性
なので、落として瓶が
割れたら
その場で火だるま確実だが、

乳もそこらぢゅうが牛の乳まみ
れになる。
何よりも、生徒の飲む
牛乳が無くなる
事は避けなけれ
ばなら
ないので、給食当番の
牛乳係
は気合を入れて気を付け
ていた。低学年ながら。

当時でさえ、牛乳瓶は各家庭
への朝の配達牛乳や
駄菓子屋
のような店舗や銭湯
などにしか
無かった。

やがて三角ビニールパックは紙
パックに替わった。たしか1969
年ではなかったか。

そんな昭和40年代の時代には
ごく普通に存在していた牛乳
瓶と紙のフタ。
今ではマッチのように絶滅し
かけている。


牛乳瓶のフタは私は集めなかった
が、今ではコアなマニアがいる
らしい。
牛乳瓶のフィルムを剥がすのは
煙草のフィルム剥がしと似てい
るが、多少コツが要った。
そしてそのフィルムは画鋲を刺し
たら直進性が向上するので、手投
げ玩具となった。教室の壁に投げ
て刺す。
禁止になった。
ならばと技を向上させて、画鋲
のみ単体で投げてかなりの距離
でも刺さる打ち方を習得した。
ちょいと技が要る。手裏剣打ち

と同じように技で画鋲を打ち放
つ。投げるのではない。打つ、
のである。インジも手裏剣も
投げるのではなく打つのだ。
投げるのは石ね。当時市街地で
敷石剥がして投げていた全学連
や野次馬のサラリーマンの見学
連のように、石は投げる。イン
ジと手裏剣は打つ。

それも危険だからと禁止になった。
だったら本格的にだと、一斗缶の
蓋を平に叩きのばして、四角い
ギザを尖がり三角に全周鉄鋏で
カット
して手製手裏剣を作った。
人体に刺さると動脈を切ったら

死亡する。ブリキ板のフタの半
分くらいまでベニヤなどには刺
さった。
男たちの間で大流行した。
だが、禁止になった。
授業中に教壇に投げて刺した
バカ
がいて、学校で問題にな
った。

作ったのは誰だとなり、私は
校長と教頭に大目玉をくらい、
反省文を書かされた。指導内容
は、危険すぎるもので玩具とは
認められないとの趣旨だった。
有害な物を作るのは健全では
ない、とのことだった。
そうかえ?じゃあ今も原爆や
水爆作ってる物理学者は全員
極悪人だな、とガキなりに確
信した。
学級委員は辞任しなかった。
圧倒的得票で毎年学年全期の

うち二期は学級委員だった。
強制的に辞めさせる決まりは

整備されていなかった。戦後
民主主義が未成熟だったから
だろう。
今の時代はファシズムの時代
だから、学校当局の腰巾着の
ような奴しか学級委員とか
はならないみたいだけ
どね。
我々の時代は小学校から大学
まで、プロテストの時代だ。
反動権力への抵抗戦線こそが
人民の正義だった。
それは小学生においてさえも。


その後、日本酒の王冠のコルク

栓を蹴って外して王冠のみで
カーリングのようなビリヤード
を机の上でやる事を考えた。
大流行した。
禁止になった。バクチだからだ
との事で。
学校にメンコ、ベーゴマは持ち
込み禁止だったが、王冠は指定
されていないので、考え出した
教室での対戦ゲーム開催だった。
休み時間に。

かなり白熱した対戦が展開され
て面白かった。相手の王冠を指
定枠内
に当て落としたらいただ
き。

指でデコピンのように弾いて
相手の王冠を弾き飛ばす。
複数人でやった。ワーワーと
盛り上がりながら。
でも禁止。
またおまえか、となった。
学級委員は辞任しなかった。
バクチだからだめだってさ、と
の事で、校庭でワンバウンドの
ドッチボ
ールみたいなゲームを
二重の四角エリアでやる
ボール
ゲームとして考案した。

お先真っ暗だねという事で、
ガン
バコという名称にした。
大流行した。改良版の新ガン
バコ
も隆盛を極めた。
ただ、「光化学スモッグ警報」
発令されて、校庭から建物内
避難するのがたびたびだった。
子どもたちの休み時間は、公害

という公的な害悪によって阻害
され、さらに健康にまで被害が
及ぶのが現実社会だった。
国家と企業という国の行く末を
牛耳る日本社会の権力の欺瞞的
な大嘘により、子
どもを含む国
民全体が苦しめ
られていた。
それは小学生だろうとピシャリ

と見抜いていた。
我々は歌った。
「知らなかったよ 空がこんなに
青いとは」
と。
それは横浜の小学校の卒業式での
合唱曲になった。

人々は苦しめられていた。
老若男女を問わず。

誰に?
そこなのだ。

空がこんなに青いとは


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