パチンコ、競馬、麻雀…。ギャンブルや勝負事に関する有名経営者のエピソードは多い。実は「経営の神様」と呼ばれた稲盛和夫氏も、パチンコに行ってとんでもない衝撃体験をしたという。稲盛氏をもってして「私はなんと貧相でチンチクリンな男よ」とまで思わせた理由とは。(イトモス研究所所長 小倉健一)
サイバーエージェントの藤田晋社長が
「麻雀は経営に生きる」と語る理由
勝負事と経営は、意外に親和性があるものなのか。世間では美徳とはされない「ギャンブル」「勝負事」を過去にしていた、今もしているという有名経営者の告白は結構多い。
最もポピュラーなのは、麻雀(マージャン)だろう。近年、サイバーエージェントの藤田晋社長が、麻雀プロリーグ戦「Mリーグ」のチェアマンを務め、脚光を浴びている。インターネットテレビ「ABEMA」で生放送され、100万人以上が視聴することもある人気コンテンツに成長した。
クレディセゾン社長の水野克己氏や実業家の堀江貴文氏などが麻雀好きを公言していたこともある。
藤田氏は、麻雀が経営に生きたと語っており、その理由として次のように述べている。
「若いうちに勝負する場面そのものが減っているのかもしれません。だから、麻雀で感覚を学ぶのが良いと思います」
「仕事では、数字を把握できていないとしゃれになりません。数学の研究者みたいに突き詰めなくてもよいですが、ふわっとつかんでおくことが大事です」
「麻雀では、攻める場面(押し)と撤退する場面(引き)のバランスが大切で、8割勝てそうなら押した方がいいですよね。2割は失敗するかもしれないが、恐れすぎて前に行かないとチャンスを失います。社員を見ていても『今前に行かなくていつ行くんだ?』と思うときがあります」(朝日新聞GLOBE+『【藤田晋×水野克己】なぜトップ経営者は若手に「麻雀」を勧めるのか」、2021年12月28日)
藤田氏は他に競馬好きとしても知られていて、21年に「念願の馬主」となったことを文春オンラインの22年4月8日の記事で公言している。そこでは次のように話している。
「小学生のとき、友達のお父さんに手ほどきを受け、はじめて卓を囲みました。大学進学のため上京すると、雀荘に入り浸り、徹夜明けのその足で東京競馬場が定番コースとなりました」
「レース毎にジョッキー、調教師、厩舎のみなさんとチームを組み、勝ったら賞金を山分けし、負けたらみんなで悔しさを共有する。これが馬主の醍醐味です」
「いくつかの事業は私の趣味や得意分野と密接に結びついています」
やはりどこかで競馬を通して、仕事や人生に役立つものを探しているようだ。
続いて、ニトリホールディングス創業者の似鳥昭雄氏と、カレーハウスCoCo壱番屋の創業者である宗次徳二氏のパチンコにまつわるエピソードを見てみよう。
そして最後に稲盛和夫氏の“パチンコ通い”についてもご紹介したい。「経営の神様」と称された人物を、「私はなんと貧相でチンチクリンな男よ」とまで思わせたパチンコを巡る衝撃体験とは何だったのか。
「為替市場の相場師」
ニトリの似鳥昭雄会長はパチンコ好き
サイバーエージェントの藤田氏とは逆に、まったく仕事の役に立っておらず、ストレス解消や現実逃避の手段としてギャンブルを使っていたと思われるのが、大手家具チェーンのニトリホールディングスの創業者である似鳥昭雄会長だ。15年に話題になった日本経済新聞朝刊の連載「私の履歴書」には、このような告白が並ぶ。
「(大学在籍当時、スナックのツケを払わない客の取り立てをしながら)あとはパチンコ、ビリヤードにスマートボール。特にビリヤードには自信があり、ハスラーとしてずいぶん稼いだ」
「(大学卒業後、バス広告社に頼み込んで入社したが)相変わらず営業はさっぱり。やることもないので、映画館に行ったり、パチンコ屋に入り浸ったり、時間をつぶすのが大変だった。結局、「君は成長しないな」と言われ、6カ月で再びお払い箱になった」
「(似鳥家具創業後、似鳥氏の妻が必死で営業努力をしている最中)一方の私は腰が定まっていない。仕入れと配達が私の役目だが、レジから黙って金をかすめ、悪友たちと居酒屋で飲んだり、パチンコ屋へ行ったり。まともにパチンコ屋に行くとばれるので、店から100メートル離れたところに配達車を駐車していた。もっとも「似鳥家具」と書いてあるので、すぐに見つかり、どやされるわけだが」
このように、パチンコを巡ってロクでもないエピソードばかりだが、これは筆者のパチンコ観とも一致する。パチンコは、技術がほぼ不要な「運ゲー」という認識で、長い時間プレーすると期待値通りに負けることがほぼ確定しているギャンブルだ。過去に、パチプロに指示された台で打ったら随分当たったが、そんなことができる人は100分の1もいないだろう。
創意工夫のしようがないものを、どう経営に生かすのかさっぱり分からないが、パチンコ好きの似鳥氏は「為替市場の相場師」として知られている。そのすごさが、17年6月21日の日経新聞『為替最前線を行く(上)好調ニトリ、円高武器に』に表されていたので紹介しよう。
「今、市場が注目するのがニトリホールディングスだ。『「輸入さんから100本」と聞くと、ああニトリが動いたな、と』。あるメガバンクの為替担当者は証言する。1本は100万ドル。今のレートなら約110億円相当のドルの先物を買う注文だ。通常、数本から数十本単位の取引の中で、桁違いのオーダーだ」
『外国為替市場では米利上げ後に円安が進み、足元で1ドル=111円台。だが、ニトリの今期の決済レートは既に103円台で固まっている。1円の円安は約16億円の営業減益要因だから、単純計算で約130億円の減益圧力をはね返す」
似鳥氏は、想定レートのレンジや額など、為替予約戦略の全体像を判断し、大胆なオーダーに入る。16年に英国で実施された、欧州連合(EU)離脱の是非を問う国民投票で「離脱決定」というサプライズが起きたときも、急激な円高の際に大きくもうけた。ニトリは、海外で作った家具を日本で売るというビジネスモデルであり、似鳥氏の勝負勘は当時の業績を大きく上振れさせたのだった。
現実逃避としてのパチンコで勝負感が養われたのかどうかは分からない。ただ、「仕事においてはコツコツ頑張ってもダメなものはダメ、大きく張る」という心構えは、ギャンブルによって鍛えられた可能性があるのかもしれない。
CoCo壱番屋の創業者、宗次氏が
子ども時代に毎日パチンコ店へ通った理由
一方、「家族のためにパチンコ店へ通った」といえるのが、カレーハウスCoCo壱番屋の創業者、宗次徳二氏である。
宗次氏は、兵庫県内の児童養護施設から、子どものいなかった雑貨商の養父母に引き取られて育った。本当の父、母には会ったことがない。その上、引き取られた先の養父は、競輪にのめり込んでしまって財産を失い、夜逃げをするはめになる。養母は家を出ていってしまい、そのギャンブル好きで日雇い仕事をつづける養父に育てられた。お金がないときは道端の草を食べていたそうだ。
そんな中、宗次氏が養父に命じられたのは、パチンコ店で落ちているタバコの吸い殻を拾ってこいということだった。それで毎日、パチンコ店に通っていたという。「はた目にはひどい親でしょうが、唯一の家族だし、父のことは好きでした。喜ぶ顔が見たくて吸い殻拾いを頑張ったんです」(NIKKEI The STYLE 「My Story」」、22年8月7日)と宗次氏は語っているが、はた目どころか、本当にひどい親を持ったものだ。
そこで鍛えられた人間性なのだろうか。宗次氏は、まじめで愚直な経営者として知られている。
CoCo壱番屋にはアンケートはがきが設置されていて、店舗へのクレームや意見などを書き込むことができる。宗次氏が会長当時は、(最大)月間3万通ものはがきが寄せられ、それを毎日3時間半、15年もの間、宗次氏が会長を引退するその日まで読み続けたのだという。
また、毎朝6時から有志20~30人とともにボランティアで、本社周辺の掃除を30分以上行っていたという。用水路の底にたまっているヘドロをすくい上げたりするなどしていたのだ。
「会社の発展や利益とは関係なく、早朝から懸命に奉仕作業をする若い社員たちの姿はどれも美しかったし、すごいと思った」という宗次氏は、これが「私自身のパワーの源泉にもなった」(プレジデントオンライン『ココイチ創業者「店のまわりを掃除するなら、365日続けないと意味がない」』20年10月29日)というのだから、驚きだ。
パチンコ店でタバコの吸い殻を拾ってくるという理不尽に耐えられた人間の器の大きさを称えたい。
「経営の神様」稲盛和夫氏が
“パチンコ通い”で衝撃を受けたこと
贅沢(ぜいたく)を嫌い、投機やギャンブルを嫌っていた経営の神様・稲盛和夫氏も、鹿児島大学在籍時代に、実はパチンコ店に通っていた。ガリ勉で、講義のないときは図書館で勉強だけをしているような人物だった稲盛氏を、遊び人だった友人が強引にパチンコへ連れ出したのだという。
当時の状況を、稲盛氏自ら「盛和塾中部地区合同塾長例会」(1999年6月2日)で振り返っている(プレジデント、22年12月2日号)。
行きたくもないパチンコに連れ出され、落第もしていたので若干軽蔑もしていた友人に対して内心、「パチンコなんかに行くから落第するんだ」と思っていたようだ。そんな中、友人は「100円だったか200円だったか、『あなたもしなさい』と私(稲盛氏)に渡して」くれたのだという。
しかし、稲盛氏はすぐに負けてしまう。また違う日に同じ友人に呼び出されては彼の金でパチンコをし、すぐ負けるというのが3回ほど続いたそうだ。
これまでのように「帰るわ」と声をかけて帰路につこうとする稲盛氏を、その日は友人が引き止めた。「今いっぱい勝っているし、もうちょっとで終わるから、ちょっと待ってよ」と。
稲盛氏は待っている間、「パチンコなんて楽しくもないし、早く帰って勉強したい」と思っていたそうだが、その友人は待っていた稲盛氏にうどんをおごってくれたのだという。当時としてはなかなかのごちそうだったそうだ。そのことで、稲盛氏は考えが変わったという。
「自分のお金を渡して、『あなたも楽しみなさい』と楽しませてくれているのに、人間ができていないガリガリ亡者のガリ勉の私は、自分だけがやって、面白くないわと思っているわけです」
「毎日学校と図書館しか行き来していない、下駄を履いてウロウロしている奴を連れてきて、お金を出して社会見聞をさせてくれる。挙げ句の果ては、2回までは見過ごして、3回目には『それがわからんのか』と言わんばかりに、『ちょっと待てよ』と待たせる。わからないものだから、ますますイヤになってくる私に、最後、自分が勝ったお金でうどんをご馳走する。今まで軽蔑していた男が、みるみる大きな人物に見えてくるわけです。私は少しぐらい勉強ができても、なんと貧相でチンチクリンな男よと、衝撃を受けたことがありました』
CoCo壱番屋の宗次氏ほどではないが、そのロクでもない友人からも、学ぶべきことを吸収してしまうというところに、稲盛氏の「謙虚に他人から学ぶ姿勢」というものが垣間見える。
一流の人物であればどんなところからも学びを得てしまうというものならば、凡人たるわれわれは彼らに追いつきようもないのかもしれない。しかし、何事にも興味を持ち、謙虚に学ぶという姿勢は持ち続けたいものだ。