ソ連とは何であったか
ブヌコボ空港に着いたのは、午後5時45分すぎだった。車でここまで送って来てくれた古くからの友人に「ありがとう」とお礼を言った。76歳で歯が一本もない彼を見ていて、何だか涙が出てきた。次にまた彼と会えるだろうか、と。
トルコ航空のチェックインはスムーズで、その後に陰鬱なパスポートコントロールが待ち構えていた。その若い男は、パスポートをパラパラめくって「お前はロシア語が話せるか」と聞いてきて、さらに「何でウクライナに行ったんだ?」と言ってきた。僕は正直に「今回は個人の観光旅行だが、ウクライナとベラルーシはジャーナリストとして行った」と答えたら、彼はどこかに電話をしだした。こりゃあ、最悪の場合は別室=拘束かもしれないな、と思っていたら、電話の相手が出ないようだった。その男はとうとうあきらめたのか、パスポートにスタンプを押して「行け」と言った。よかった。僕は別に何ら悪いことなんかしていないのに、救われたような気分になったのだから本当に不思議なものだ。
無事20時10分発のイスタンブール行きのトルコ航空便に乗ったら、ロシア人だらけだった。彼らは国外で流れている自分たちの国に関する情報をどんな気持ちで受け止めているのだろうか。それこそが今本当に知りたいところだ。
風邪をひいたことは間違いないな、これは。鼻水が止まらない。咳も出ている。高熱がないのがせめてもの救いだ。でもまあ不調であることは否定しようがない。自分の年齢と体力と好奇心のバランスを少しは考えみろよと言われているような気がする。でもなあ、ごめんだな、調整しながら用心深く生きるのなんか。
モスクワからイスタンブールへの便で隣り合った女性は、ハンガリー人だった。多国籍企業に勤務していて、ロシアから事業を撤退するためにモスクワに滞在していたのだという。英語を流暢に話す。これからロシアは大変なことになるでしょうと、言っていた。以降は、鼻水とのたたかい。イスタンブールのラウンジでトイレットペーパーを一捲き入手して、それで鼻をかみ続けた。
■2023年1月6日(金)
午前2時50分発の東京羽田行きのトルコ航空は満席、ぎゅうぎゅう詰めでまいった。これから11時間あまり、この席で耐える。まいった。鼻水とのたたかい。機内のテレビをみていたら「BBCワールド」が、プーチン大統領が1月7日から36時間のクリスマス休戦(ロシア正教では1月7日がクリスマス)を提案したことを報じていた。ゼレンスキー大統領はこれを拒否。BBCの記者は、キーウからの中継で、プーチン大統領の休戦提案を「シニカルな提案だ」と一蹴していたが、何の何の、プーチン大統領は案外大まじめに、クリスマス休戦をロシア正教のお祝いの日にちなんで兵士らのためにやってやるんだ、と考えているのだろう。
となりのトルコ人男性はあまりフレンドリーな人ではなさそうだった。けれどもやたらと威厳だけは保っている。とにかく鼻水とのたたかい。この苦しい時間を何とかまぎらわすためには、音楽か映画か読書だ。
本の方は日本を出る時に持って行った本が一冊だけ。重田園江氏の『真理の語り手 アーレントとウクライナ戦争』(白水社)。この本では何しろ僕が『報道特集』で行ったガルージン前駐日大使へのインタビューも執筆のきっかけのひとつに挙げられていたので、是非とも読もうと思っていた本だったが、最近の大学の先生が記した本の中では突出して、学識、教養、想像力が真理に行き着く最善の道だということを教えてくれるような本だった。副題にハンナ・アーレントだけがあげられていたが、内容を読むと、「アーレントとロズニッツア」の方がふさわしい。それくらいウクライナ出身の映画監督セルゲイ・ロズニッツァに触発されて書かれた文章が多く、この点でも大いに共感した。こういうまともな学者がまだ生き残っているとは奇跡に近い。なぜならば、そうではない学者たちには、いやになるほど会ってきているからだ。
機内で読了したが、まだまだ時間がある。それで一度見た映画だが『Summer of Soul』をもう一回みることに。これはとてもいい映画だ。励まされる。マヘリア・ジャクソンやMavis Staples らのゴスペル、スライ&ファミリーストーンのカッコよさ(I'm everyday peopleとかHigherの歌に魅了される)そして何と言ってもこの映画での大収穫は、ニナ・シモンだ。こんなすごいシンガー&アジテーターだったとは。
羽田空港に到着してからが大変だった。とにかく乗客は歩かされるのだ。ここはエルドアン空港じゃないはずなのに、防疫システムが人間にではなく、建物に合わせてつくられているので、飛行機から降り立った乗客は延々と歩かされる。僕は4回コロナワクチンの接種を受けているので、スムーズに行くかと思いきや、延々と歩かされて閉口した。
最後の最後の税関チェックポイントで、パスポートをみせたら、スーツケースを開いて見せろと言われる。おそらくロシアに行っていたことが記録されているのだろう。それで帰国の際も「開扉検査」というわけだ。ロシア以上に徹底している。スーツケースの中は、衣服類のほかは、モスクワで買ったジョージ・オーウェルの『1984年』、『動物農場』の本以外には、ウォッカ2本(いただきもの)くらいしかないのに。
新横浜行きのバスに乗って、あとは駅から自宅にタクシーで移動。いやはや何とか無事に帰宅できた。それとともに体調の方は絶不調に向かいつつある。
今回の短いモスクワ滞在で、はっきり浮かび上がって来た問いがある。それは、「ソ連とは何であったか」という問いだ。それはフランスのジャック・アタリが言っていた「今起きていることは冷戦終焉の最終章だ」という指摘にも通じるものだ。「ソ連とは何であったか」という問いは、より大きな問い=「ロシアとは何か。スラブ民族とヨーロッパとの関係とは何か」におそらく包摂される関係にあるのだろうと思う。ウクライナ戦争の行方を取材しながら、この大きな問いに自分なりの答を出すことを、今年の大テーマとしたいものだ。
(連載了)