こころ

日本が世界の現実から自分を切り離してから、30年以上が経っている。

同じ30年の間尺をスライドさせて、1945年からの30年の日本社会の、まるで別の国家に変貌を遂げた変化をみれば、30年、世界の動向に別れを告げて、漂流の途を選んだ日本と世界のあいだに、いま目の前にある、ぶっくらこいてしまう違いが生まれたのは、当たり前といえば当たり前なのでしょう。

経済的には、日本の人は、現況、50年前のビンボに戻っていて、息せき切って上った70年代の上り坂を、今度は逆に、ぶらぶらと鼻歌を歌いながら下っているところです。

ビンボ洪水の水位がだんだんにあがってきて、継母に橋桁にくくりつけられた、おぎんの話を書いたことがあったが、

https://james1983.com/2023/01/25/el-corazon/

貧困も、洪水に似ていて、一定の線を越えてしまうと人間を溺死させるので、そこまで行ってしまうと困るが、ビンボでもいいや、楽がしたい、という日本のひとたちの選択は、悪い考えだとばかりは言えなくて、

英語世界や中国語世界を見渡せば、すぐわかる、

そもそも社会が繁栄すると個人は不幸になる上にストレスがたまるので、

ニュージーランドのようなド田舎英語国でさえ、先頭のクルマが一回信号を見過ごして動かなかったからといって、狂ったようにクラクションを鳴らす、BMWX5に乗ったおばちゃんがいる。

あんまりうるさいので、性格が悪いタワシとしては、

ホームローンが、きつすぎるんちゃうか?と考えたりする。

最近、オフィスワーカーが1億円借りるなんて、普通だものね。

オークランドには、目の下に隈をつくって、ピリピリしているおばちゃんやおじちゃんがいっぱいいる。

相変わらず、益体もなく、正体もなく、デヘヘへな、ぶったるんだ顔のわしなどは、そのうち理由もなく、平手打ちを食いそうな気がする。

バカ野郎、幸福そうな顔をさらしてんじゃねえ、みっともねえ、と、ばーちゃんに蹴られるのではないか。

第一、日本でいうと「イオン·モール」かな?

どこもかしこも、町並も文化も、テレビ番組さえもWestfield Shopping Centreみたいになって、並ぶ店もH&MStarbucksKFCで、世界中おなじになって、基準の幸福の度量衡まで統一されて、似たり寄ったりで、

みいーんなノッペラボーになってゆく世界のなかで、神戸市長田区にそそりたつ鉄人28号像のごとく、あるいは新宿ホテルグレイスリーに絡みつくゴジラのごとく、東映映画の巻頭の砕け散る波に小動ぎもしない巌のごとく、

ただひとつ、すさまじくヘンテコな国として存在する日本は、そのうち国がまるごと世界遺産になるのではないか、と噂されている。

そしたら、世界中のヘンテコ好きな人からお布施をもらって国を運営できるのではないかしら。

自分の家、英語に帰ってきてみると、あんまり日本語世界に変わって欲しくない気持ちのほうが強くなってくる。

デカ目デカ胸ミニスカでもいいですよ。

全部、そうなっては困るけど。

わし兄者である登希彦さん @ishikitokihiko twitterを使って、職業マンガ家の方法論を公開するという、すごいことをやっている

https://twitter.com/ishikitokihiko/status/1617061295655903232

画面の構成という、マンガにおいて最も重要なことを、わしみたいなマンガ音痴にも判るように、これでもかこれでもかと、ひとつの物事を考え抜いた人特有の判りやすさで述べている。

こういうものを読むと、マンガというものの生命力が、どこから生まれて来ているのかが判って、丁度、戦前の子供が、日の丸をつけた飛行機や戦車が華々しく戦うマンガを挙って描いたのと似たデカデカミニは、そのうち消滅するのではないかとおもわれるが、まあ、最近は、好きな人は好きでいいや、とおもってます。

コンビニで見たくもないお下品絵が無理矢理眼に飛び込む私の身にもなってくれ、という意見もありそうだが、前にも書いたが、わしガキのころは、ドイツの国境の町でKIOSKの、子供の目に入るコーナーで、同性恋人の、でっかいペニスを咥えた若いおにーさんが上目遣いに相手を見上げる表紙の雑誌が堂々と売られていたわけで、社会が進歩すれば、子供の目には触れないところに移動するのだけど、いまでは日本語では相手を嘲笑する言葉になりさがったらしい「表現の自由」と折り合いをつけながら、公共空間を市民全体が納得できるものに変えてゆくには、やはり時間がかかって、時間がかかるほうが、案外、健全なのかもしれません。

あんまり日本に変わってほしくないなあ、とおもう。

それとね。

現実の問題として、30年、エンジンを停止して、漂流してしまうと、いまさら、元の航路には戻れないんですよ。

先週から、こっち、トヨタの2022Q1Q3の売り上げが急減したのが話題になっていた。

売り上げ減の実際の理由は判りません。

自動的にトヨタに人気がなくなったということにされているが、

製造に必要なパーツが、コロナパンデミック以来のロジスティック障害で、集まらなくて、売り上げをつくるための製造台数に満たなかったのかも知れない。

あるいは、クルマ業界では、よくあることで、単に「売れ行きのタイミング」なのかもしれない。

トヨタの売り上げが明瞭に落ちるなんてことは過去にはなかったので、話題になっただけなのかもしれません。

でもね。

言われて見ると、次は、どんなクルマを買うの、という近所のおっちゃんたちとの立ち話でも、パブでも、トヨタという名前が出なくなった。

やっぱりEVのラインナップがないのがおおきいかな?

あるいは、いまの時点でもEVの目玉商品に押し出そうとするテクノロジーなり、ラインアップなりが用意されていない「手堅い」企業方針が退屈に感じられるのでしょう。

ちょうどニュージーランドでは、それまで「六本木カローラ」と呼ばれたというバブル日本時代に似て、右をみても左をみてもBMWだったのに、そのBMWをテスラが売り上げベースで抜いたのがおおきな話題になっているところで、形が変わってもクルマは「夢」を買うものなのだ、という説が実証されたところでした。

スーパーチャージャー施設が、オークランドでさえポンソンビー1箇所しかないのに、テスラが最も売れるクルマに名を連ねている。

気が早いアナリストは、トヨタは長期低落の時代に入ったのだと述べているが、仮にそうなると、困るなあ、と隠しているわけではないが隠れ日本ファンのわしは秘かに考える。

そうすっと、日本の立場に立つと、売るものがなくなるでねえか。

キャノンのカメラとコピー機では、いくら売れても、日本みたいな図体がでかい国は養えないでしょう。

減った減ったと言っても、まだ一億人いるんですぜ、旦那、とおもう。

ニュージーランドの20倍の図体です。

「新世代石炭火力発電」を売り込もうとして、首相が世界を行脚して、行く先々でヒソヒソされた挙げ句、まったく相手にされないどころか、お節介とドマジメを持って鳴るドイツ人には、言葉にして「バカじゃないの。いまどき石炭発電なんて国家として不誠実だろう。そんな考えなんだったら日本への投資全体をやめるように働きかけざるをえない」と怒鳴られて、すごすご、シオシオ、見込みがないのを悟った日本政府は、噂では最近は兵器産業を伸ばそうとしているらしい。

ほら、潜水艦を買ってもらう口約束にオーストラリアの投資会社に日本の退職したオカネモチたちの資産への交渉アクセス権を与えちゃったでしょう?

びっくりすることに、相手国政府の口約束を、そのまんま真に受けて、投資契約のほうにはサインしてしまって、結局、代償なしに利権をせしめたオーストラリア政府に、

「あ。潜水艦はフランスどんにお願いすることになりましたから。悪しからず、悪いね」と言われて、泣き寝入りだったんだけど。

これも前にも話した、どうやら輸出も視野にいれていたらしい62式機関銃は、結局、紙の上のスペックは良いことずくめだったが、現実に出来てきた機関銃は、無理矢理使わされることになった自衛隊員からは「言うこと機関銃」「無いほうがマシンガン」と綽名されて、ほんとに購買テストやってんの? オカネ握らされてテストなしで採用しちゃったんじゃないの?という不穏な声まで出た。

二言目には、「零戦をつくった国だから」って言うけど、

いまのところロクな兵器をつくれてなくて、なんだかトヨタの代わりにはなってもらえなさそうな気します。

文化も、ですね。

さっきの登希彦さんのtweetを追っていけば如実にわかるが、同じ「マンガ」と名が付いていても、いま声が最もおおきいという意味で主流を占めて「表現の自由」「日本の文化はこれで持ってるんだ。恐れ入ったか」のひとびとが印籠として示している「マンガ」と日本文化のおおきな部分を支えてきた「マンガ」では片方がキャラクター依存、片方が構成力命(いのち)で、異なるものではないか。

マンガ音痴なんですけどね。

どうも、あらためて較べてみると、キャラクタ依存の「マンガ」は現代日本の一地方文化で、一歩日本語の外へ出ると、「痛車」マーケットみたいなものはスペインやフランスにも波及しているんだけど、そういう商品意匠の外へは踏み出していないように見えます。

最近は、日本語で、英語や欧州語の世界と共通の話題を見いだすのが難しいと感じる。

ゆいいつの共通の関心事は「日本」です。

これは考えて見ると、なんだかヘンテコリンなことで、日本語人も英語人も、生活から分離された「日本」という存在について、ああですね、こうですね、と言って和気藹々と話し合っている。

なるほど世界でかけがえがないほどユニークな存在である日本について面白く話をするのは楽しいが、ときどき、ふと、「日本の人は、ほんとにそれでいいのかな」とおもうことがある。

日本は、いまのままでいいし、いまのままでいて欲しいとおもう一方で、自分がいまの日本人のように暮らせと言われたら絶対に無理だとおもっている。

特に女のひとたちの立っているところに立ってみると、「わっ」と叫んで逃げ出すか泣き伏したくなるくらい、人間として生活していけるpathがない。

頭の中では「自分たちは日本人とは異なって、自由でいたいし、誰にも邪魔されずに、やれるところまで思い切りやってみたい」と思っていて、なぜ日本の人は自分たちと異なっていることになっているのかについては、なあんとなく曖昧模糊の、アイモイになっているに違いない。

この世界で、これから、「かけがえがない日本」の役回りをやらされる日本の人は、どんな気持ちなのだろう、と考える。

考える、と言っても、あんまり長続きしないんだけどね。

やっぱり日本の人にとっても、ほんとうは無理なんじゃないかな、と心のどこかで考えているのだとおもいます。



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