グリンデルバルドが撤退して、ハリーがハーマイオニーと合流出来た事を確認すると、トムは己の世界に戻って行った。
ハリーの精神世界とは正反対の黒い世界。キングス・クロス駅である事だけは共通している。
「……何故だ?」
「ん?」
いきなり、不機嫌そうな顔を向けられた。
「何故、貴様はハリー・ポッターの肉体を奪わない? すでに、その気になれば主導権を握れる力を手に入れた筈だ」
「うるさいな」
トムは不快そうに顔を歪める。それまでは快適とまでは言えないまでも、静かで過ごしやすい世界だったのに、コイツのせいで喧しくなった。
「挙句の果てには小僧を助けるような真似をして、何を考えているのだ!?」
「助けるような真似じゃない。助けたんだよ」
「なんだと!?」
鬱陶しい。トムは心底思った。
「負け犬は大人しくしてろよ」
「負け犬だと!? 貴様、負け犬と言ったのか!?」
激昂している。けれど、トムは怯まない。どんなに威勢がよくても、彼には手を出す事が出来ないと分かっているからだ。
この世界のトムのものであり、目の前の彼のものでもある。けれど、どちらも主ではない。
ここで争う事は許されていない。
「……欲しいものは手に入ったんだ。誰にも奪わせない。ボク自身だろうと……」
トムは指輪の分霊から離れていった。すると、今度はニコラスと名乗っていた分霊が現れた。
「君もかい?」
「……違う」
ニコラスは躊躇うような表情を浮かべた。
「ダフネの事?」
「……ああ、そうだ」
分霊の中でも、彼は異端だ。
「ハリーはダフネに真実を告げる気だ」
「みたいだね……。なに? 本当の自分を彼女に知られる事が怖いわけ?」
「そうではない!」
ニコラスの顔には苦悩が浮かんでいた。
「彼女ならば間違えないと信じているが……しかし、人の心とはわからないものだ。もし、彼女がハリーを攻撃すれば……」
「ハリーは彼女の攻撃を受け入れると思うよ」
「ああ、受け入れてしまう。だが、それは彼女の心を傷つける……」
トムは溜息を零した。これが未来の自分自身である事が信じられない。
「君、年の差を考えろよ……」
「妙な勘違いをするな! わたしは彼女に敬意を抱いているのだ。優れている。卓越した存在だ。だからこそ、彼女の道は清廉であるべきなのだ。出来れば、わたしの存在を忘れて欲しい。なあ、ハリーに忘却術を使うように言ってくれないか?」
頭が痛くなってきた。指輪の分霊の方が、まだ共感出来る。この男は個性が強過ぎる。
「馬鹿言うなよ。言った所でハリーが使うわけないだろ」
「ならば、お前が使うのだ!」
「嫌だよ! なんで、ハリーに恨まれるような事をしないといけないんだ! お前の自業自得だろ! 手紙くらい遺してないのかよ!?」
「遺す筈がないだろう! 将来、彼女がダンブルドアのようにスキャンダルに苦しめられる事になったらどうする!? 忘れる事が最善なのだ!」
「……付き合いきれないよ」
トムはニコラスから遠ざかった。
すると、今度は蹲っている少年がいた。彼も分霊の筈だけど、様子がおかしい。
いつも蹲っていて、心ここにあらずと言った感じだ。話しかけてみても、うんともすんとも言わない。
「相変わらず、不気味だな……」
トムはその分霊からも離れた。
かなり離れた場所に、彼はいた。この世界の主だ。
「……やあ」
話しかけると、彼はトムに視線を向けた。
「不思議なものだね。同一の存在である筈なのに、どいつもこいつもボクとは違う」
「……人の精神は移ろいやすいものだ。環境が異なれば、心も変わる」
「それなら、どうしてボク達はヴォルデモート卿になってしまったのかな? 生きている間、ボクは変われなかった。だからこそ、闇の帝王になったのでは?」
トムの言葉に彼は肩を竦めた。
「変わる機会は幾らでもあった。けれど、見て見ぬ振りをして来た。逃げていたのだ。だが、死は終着点だ。逃げ場など、もはやどこにもない」
「だから、ボク達は変化したのかい?」
「その通りだ」
「それは……、なんとも情けない話だね」
「ああ、まったくだ」
彼は苦笑を漏らした。
「あの子を頼むぞ、我が分霊よ」
「言われるまでもない。ボクは彼の友達だからね」
トムは彼から離れていく。
彼はこの世界の主であり、始まりの存在だ。
第九十五話『ダフネ・グリーングラス』
気がつくと、夜が明けていた。ルーピン先生の容態も安定して、顔色が良くなって来ている。汗も引いて、呼吸や脈拍も正常だ。
目が覚めたら、ニュート先生から貰った人狼検知器が反応するかどうかを確認する事になる。反応が無ければ成功だ。
血の呪いと同じく、長年に渡り、多くの人々を苦しめてきた呪いが解かれる。
「……今度はわたしだけじゃない」
彼が何者であれ、これほどの功績を無視する事は出来ない筈だ。足りなければ、ダリアの水薬の開発者の一人である事も明かせばいい。
これから幾千、幾万の人々を救う事になる。怨嗟の声は感謝の声に塗り潰される。
正しい事ではないのかもしれない。不純な動機かもしれない。だけど、わたしは彼と共に歩んでいきたい。
「先生……」
アステリアの為に必死に研究を重ねて来た。だけど、わたしの力なんてちっぽけなものだから、一人では大人になっても完成させられなかったに違いない。
彼がいてくれたから、わたしの悲願は成就された。
彼を想うだけで息が苦しくなる。彼ともっと研究がしたい。彼の傍にいたい。
いつの頃からだろう、わたしは彼に恋をしていた。優しくされる度に、見つめられる度に、愛おしさは強くなっていく。
「ニコラス先生、だーいすき」
ルーピン先生が寝ている事をいい事に、少々大胆な事を呟いてしまった。
一人でクスクス笑っていると、扉をノックする音が聞こえた。
「先生!?」
まさか、このタイミングで戻ってくるとは思わなかった。
聞かれていないか不安になる。聞かれていたとしたら、どんな表情を浮かべているか気になる。
わたしはドキドキしながら扉を開いた。
「……あっ、ハリー」
ところが、扉の先に立っていたのはハリーだった。
部屋に入って来ると、彼はルーピン先生を見た。
「……すっかり、安定しているようだな」
「うん。後は起きるのを待つだけだよ」
「そうか……」
ハリーにいつもの覇気がない。
「どうしたの? もしかして、優勝出来なかったの?」
「ん? ああ、いや……、優勝はしたよ」
どうでも良さそうに、彼は言った。三大魔法学校対抗試合に優勝するなんて、とても名誉な事なのに、彼にとっては取るに足らない事というわけだ。
相変わらず、ハリーは規格外だ。
「あっ! もしかして、パーティーが始まってるから呼びに来てくれたの?」
主役が直々に呼びに来るなんて妙な話だけど、ハリーならあり得る。
「……いや、パーティーはやらない。出来なくなったんだ」
「どうして!?」
目を丸くすると、ハリーはわたしを真っ直ぐ見つめて来た。
決意を込めた眼差しだ。
わたしの心臓は高鳴った。けれど、それは情熱的な眼差しに恋心を揺るがされたわけではなかった。
嫌な予感に、心臓の鼓動が早まっている。
「どうしたの……?」
「ニコラスを殺した」
わたしは口をパクパクとさせた。
言葉なんて、何も出て来なかった。思考は真っ白だ。何も考えられない。
ハリーはじっとわたしを見つめている。
「…………ぅ」
ハリーは何も言わない。わたしの言葉を待っている。
やがて、わたしの中の時間が戻って来た。
涙が零れ落ちる。
「……せん、せぇ」
殺された。死んだ。もう、彼はいない。
立っていられなくて、崩れ落ちた。
「ダ、ダフネ……」
ハリーは嘘なんて吐かない。そういう人だと知っている。
だから、本当の事なのだ。
もう、先生はわたしを見てくれない。
もう、一緒に研究する事が出来ない。
もう、会えない。
「ぁぐ……、ぁぁ」
あまりの喪失感に頭がおかしくなりそうだ。
「ぁぁ……、ぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
声が枯れるまで叫び続けた。
涙が枯れるまで泣き続けた。
わたしの悲願を叶えてくれた人が……、わたしが愛した人が……、死んでしまった。
もう二度と手の届かないところにいってしまった。
◆
泣き叫ぶダフネをハリーはジッと見つめていた。
これが人を殺した結果だ。その人を想い、悲しむ人がいる。
分かっていた事だ。ダーズリー家のテレビで、殺人犯に殺された人の遺族のインタビュー映像を見た事があった。
会いたい人に会えなくなる。その苦しみは想像を絶する。
何も悪い事などしていない彼女にその苦しみを味わわせた。それは紛れもない罪だ。
「……ダフネ」
元々、徹夜をしていて疲れたのだろう。泣きつかれた彼女は眠ってしまった。
代わりに、いつの間にかルーピンが目を覚ましていた。
「何かあったのかい?」
ハリーは溜息を零した。彼の目覚めは祝福されるべき瞬間だ。本当なら、彼女は大喜びではしゃぎ回り、その疲れから眠りに入るべきだった。
彼女に対して、酷い事ばかりしている。
「ごめん……」
ハリーは涙を零した。
「ごめん……、ダフネ」
謝ったところで意味などない。それに、ダフネは眠っている。だから、これは無駄な事だ。
無駄な事は嫌いなのに、それなのに、ハリーは謝らずにはいられなかった。
「……ルーピン教授」
「ハリー……?」
困惑している彼にハリーは言った。
「ダンブルドアが死んだ」
「……え?」
「ゲラート・グリンデルバルドが忍び込んできて、死の呪文を使ったんだ。今、葬式の準備が進められている。あなたも身支度を整えて行った方がいい」
「ダ、ダンブルドアが……。グリンデルバルドって、なんで……」
「その辺りの疑問はスネイプ教授にでもぶつけてくれ」
「あ、ああ……」
ルーピンは何度も心配そうに振り向きながら部屋を出て行った。
ハリーは杖を振り、ルーピンが寝ていたベッドを整えると、そこにダフネを寝かせた。
そして、近くの椅子に座ると、彼女が目覚める時を待った。
外ではダンブルドアや競技場でヴォルデモートに殺された闇祓いの葬式が始まろうとしている。それに、行方不明になっている者の捜索も行われている筈だ。
行方不明者は七人。その中にはジニーの名前もあって、ロン達は青褪めた表情で走り回っていた。
「……ジニー。無事だといいが……」
それから数時間が過ぎた。何度かノックの音が響いたが、ハリーは出なかった。この空間はニコラスの術によって閉鎖されている。外からは開く事が出来ない。
「ん……、んぅ……?」
ダフネは目を覚ました。ぼんやりした顔で辺りを見回している。
「あれ……? わたし……、なんで……」
「落ち着いたか?」
ハリーが声を掛けると、ダフネは目を丸くした。
そして、ゆっくりと眠る前の事を思い出し始めた。
「……ニコラス先生、もう居ないんだね」
彼女は哀しそうに呟いた。けれど、泣き叫ぶ事は無かった。
「君にはオレ様を裁く権利がある」
ハリーは言った。
ダフネは目を見開きながら彼を見た。
「死ねと言うなら死のう。他にオレ様に出来る事があるならなんでもする」
その言葉にダフネは枯れた筈の涙を零しながら微笑んだ。
「裁きは罪人が受けるものよ、ハリー」
「ああ、だからこそだ。君を苦しめた。その罪は贖わなければならない。償いきれるものではないが……」
「償う必要なんてないでしょ……」
ダフネは抑えるような口調で言った。
「しかし……」
「先に殺そうとしたのはニコラス先生の方なんでしょ!?」
ダフネは叫んだ。
ハリーは目を見開いた。
「……ダフネ、まさか、気付いていたのか?」
ダフネは鼻をすすりながら拳を握りしめた。
「わたし……、あの人の事が好きだった」
彼女は言った。
「だから、知りたかったの……」
ニコラス・ミラー。彼ほどの能力を持っている人が無名である筈がない。
たくさんの著名人の名前が記載された本を読んだ。けれど、彼の名前はどこにも無かった。
だから、ホグワーツの卒業生の年鑑を見た。彼がホグワーツの卒業生である事は、彼自身から聞いていたからだ。
だけど、居なかった。ニコラス・ミラーという名前は僅か二人しかいなくて、その二人の年代も明らかにニコラスの年齢と合致しなかった。
研究の合間に彼から聞いたプロフィールを下に調べてみても、やっぱり彼の素性はわからない。
決定的な証拠は何もない。けれど、ダフネの明晰な頭脳は一つの可能性に行き着いてしまった。
正体不明の男。
異国の魔法や闇の魔術に深い造詣を持ち、天才的な閃きを持つ人。
ハリーを三大魔法学校対抗試合に参加させる為の罠を仕掛けた死喰い人が現れた年に現れた人。
死喰い人はヴォルデモートの分霊の指示で動いていたとハリーが言っていた。
それなら、分霊もすぐ傍に居た可能性がある。
「ニコラス先生はヴォルデモートだったんでしょ?」
「……ああ、そうだ。だが、誓って言うが、彼の君に対する献身は本物だった! 君を尊敬していた!」
「それでも、彼はあなたを殺そうとしたんでしょ……」
ダフネの言葉にハリーは「違う!」と叫んだ。
「アイツは……、ニコラス教授はきっと、後悔していたんだ」
「後悔……?」
「ヴォルデモート卿になった事だ。己の行為を、彼は悪だと言っていた。だから……、だから……」
「ハリーも……、ニコラス先生が好きだったのね?」
「……ああ、嫌いではなかった。ヴォルデモートだと分かっていても、見逃すつもりだった」
ハリーの言葉にダフネは項垂れた。
「わたしがルピナスの水薬を作ったのは、彼の為だったの」
彼女は言った。
「ヴォルデモートだとしても、彼の悪名が霞むほどの善行を積めば……、もしかしたらって……」
「ダフネ……」
彼女は涙を零した。
「バカよね……。そんな事で許される筈がないのに……。でも、わたしは彼と生きて行きたかった……っ」
「すまない……」
ハリーが頭を下げると、ダフネは鼻をすすった。
「ごめんね……、ハリー。少しだけ、一人にして……」
「……ああ、わかった」
ハリーは静かに部屋を後にした。
一人になると、ダフネの心には悲しみの波が何度も押し寄せてきた。
いっそ、彼の後を追いかけようかと思った。
「せんせぇ……」
簡単なことだ。窓から飛び降りてもいい。薬の調合の為に使ったバジリスクの毒を使ってもいい。
アステリアの血の呪いは解呪され、ドラコが彼女を支えてくれる。
ニコラスはいない。
もう、ダフネにはどうしても生きなければいけない理由が無くなっていた。
「わたし、あなたと一緒に……っ」
その時だった。部屋中に光がほとばしった。
彼女の考えは、彼女の命を危険に晒すものだった。
それがトリガーになって、部屋中に仕掛けられていた防衛術が発動したのだ。彼女の身の回りに真紅の光が集まり、強固な盾を生み出した。そして、彼女の疲れは消えてなくなり、目元の腫れも引いた。癒やしの魔法を掛けられたのだ。
「あっ……、ああ……」
それはニコラスが遺した想いだった。
何が起きても、彼女の無事を祈っていた。これは、その為の魔法だ。
―――― 生きろ。
その魔法は彼女にそう囁いていた。
ダフネは泣いた。そして、彼のために生きようと思った。
すると、ニコラスの防衛術は徐々に消えていった。
残された彼女はゆっくりと立ち上がると、部屋の外に出て行った。
「さようなら……、先生」