「ポーズ」弁護士増加の嫌な兆候
最近、ある弁護士から、どうも若手に増えている「困った弁護士」のタイプについて聞きました。
彼は、その弁護士は「戦闘的弁護士」と言っていました。こう書くと、「戦闘的な弁護士は大いに結構じゃないか。弁護士が闘わなくてどうする」という方もいらっしゃるかもしれません。
それはその通り。ただ、彼がいったこの「困った弁護士」とは、正確にいうと、意味もなく、やたらに戦闘的なスタイルをとる弁護士のことなのです。民事裁判で、とにかく話し合いに応じない、和解にももちろん応じることなく、一貫してファイティングポーズだけをとり続けるのだというのです。
これを話してくれた弁護士は、「こういうタイプの弁護士が相手だった場合には絶対に負けることはない」と言いました。なぜなら、実は弁護士からみて、その弁護士が、どう考えても負ける闘いであるがゆえに、こうした姿勢をとっていることが分かるからだそうです。
どうして、そんなことをしているか、というと、どうもそれは、この「ファイティングポーズ」で依頼者の気持ちをつなごうとしているから、らしいのです。
これは、非常に問題です。いうまでもないことですが、これは紛争の最良の解決を求めるという姿勢とはいえないからです。たとえ依頼者の気持ちがつながっても、それは依頼者のためにならない結論が待っている可能性があります。
弁護士同士が話し合い、その落としどころについて、回れ右して、双方の依頼者を説得する時に、依頼者の不満や不信感が生まれることがあるのは、既に書きましたが(「弁護士に関する苦情(1)『うちの先生はやってくれない』」)、ただ、依頼者にとって、最良の解決のためには、もちろん説得は弁護士の仕事です。
そう考えると、もし、本当に前記したようなタイプの弁護士が若手に増えているという現象があるとすれば、それはやはり「質」の問題として考えなければなりません。これを話してくれた弁護士も言っていましたが、やはりこれは心得違いもさることながら、能力の問題ともとれるのです。
それは大きく二つの能力に欠けているといえます。一つは当該紛争での妥当な決着点、依頼者にとって現実的に最良の解決を認識していないこと、もう一つは、それに向かって依頼者の説得する力がないということです。もちろん、心得違いというのであれば、そういう解決を目指すことと、厄介と思われる依頼者の説得に当たるのも弁護士の仕事である、という自覚に欠けているという言い方もできます。
やはり弁護士としては、レベルが低いといわれてもしょうがありません。
先日のこのブログで、道理に反していることに対して、怒りをもって立ち向かう「義憤系弁護士」が依頼者の信頼をつかむ話を書きました(「義憤系弁護士のすすめ」)。本当に憤るべきものには、決して妥協せず、徹底的に争うことは必要です。その点で、依頼者との強い絆も生まれます。
ただ、前記問題のタイプは、これとは区別しなければなりません。「義憤系」としたタイプは、決して感情的なものではなく、正義感から法律家として主張すべきことを主張する存在です。
実は、弁護士の面白いところは、こういうタイプについては、敵対しているとはいえ、相手方の弁護士もそれなりに、その立場からの主張は理解し、時に尊重していたりするものなのです。それでも、弁護士の立場で、自分の依頼者の有利になるような主張は展開するわけですが、分かっている以上、この場合の評価も前記のような「困った弁護士」ということには、大概なりません。もちろん、例外もありますが。
前記ブログのエントリーをお読み頂いた方は、そこで引用した元最高裁判事の色川幸太郎弁護士のスピーチをご記憶だと思います。色川弁護士は「一人前の弁護士の資格・条件」の一つとして「徳目」を挙げ、それは「他人の不幸に対する感応力」であり、「不正に対して憤る力」だとして、「義憤系」を加えていました。
ただ、それにはただし書きがあり、分別のない憤りをもった「匹夫の勇」ではあってはならない、とされていました。前記「困った弁護士」の姿は、まさに色川弁護士が忠告した、それのように思います。
若手弁護士の「匹夫の勇」は、やはり「質低下」を示す嫌な兆候のように思えてきます。
ただいま、「今、必要とされる弁護士」についてもご意見募集中!
投稿サイト「司法ウオッチ」では皆様の意見を募集しています。是非、ご参加下さい。
http://www.shihouwatch.com/

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彼は、その弁護士は「戦闘的弁護士」と言っていました。こう書くと、「戦闘的な弁護士は大いに結構じゃないか。弁護士が闘わなくてどうする」という方もいらっしゃるかもしれません。
それはその通り。ただ、彼がいったこの「困った弁護士」とは、正確にいうと、意味もなく、やたらに戦闘的なスタイルをとる弁護士のことなのです。民事裁判で、とにかく話し合いに応じない、和解にももちろん応じることなく、一貫してファイティングポーズだけをとり続けるのだというのです。
これを話してくれた弁護士は、「こういうタイプの弁護士が相手だった場合には絶対に負けることはない」と言いました。なぜなら、実は弁護士からみて、その弁護士が、どう考えても負ける闘いであるがゆえに、こうした姿勢をとっていることが分かるからだそうです。
どうして、そんなことをしているか、というと、どうもそれは、この「ファイティングポーズ」で依頼者の気持ちをつなごうとしているから、らしいのです。
これは、非常に問題です。いうまでもないことですが、これは紛争の最良の解決を求めるという姿勢とはいえないからです。たとえ依頼者の気持ちがつながっても、それは依頼者のためにならない結論が待っている可能性があります。
弁護士同士が話し合い、その落としどころについて、回れ右して、双方の依頼者を説得する時に、依頼者の不満や不信感が生まれることがあるのは、既に書きましたが(「弁護士に関する苦情(1)『うちの先生はやってくれない』」)、ただ、依頼者にとって、最良の解決のためには、もちろん説得は弁護士の仕事です。
そう考えると、もし、本当に前記したようなタイプの弁護士が若手に増えているという現象があるとすれば、それはやはり「質」の問題として考えなければなりません。これを話してくれた弁護士も言っていましたが、やはりこれは心得違いもさることながら、能力の問題ともとれるのです。
それは大きく二つの能力に欠けているといえます。一つは当該紛争での妥当な決着点、依頼者にとって現実的に最良の解決を認識していないこと、もう一つは、それに向かって依頼者の説得する力がないということです。もちろん、心得違いというのであれば、そういう解決を目指すことと、厄介と思われる依頼者の説得に当たるのも弁護士の仕事である、という自覚に欠けているという言い方もできます。
やはり弁護士としては、レベルが低いといわれてもしょうがありません。
先日のこのブログで、道理に反していることに対して、怒りをもって立ち向かう「義憤系弁護士」が依頼者の信頼をつかむ話を書きました(「義憤系弁護士のすすめ」)。本当に憤るべきものには、決して妥協せず、徹底的に争うことは必要です。その点で、依頼者との強い絆も生まれます。
ただ、前記問題のタイプは、これとは区別しなければなりません。「義憤系」としたタイプは、決して感情的なものではなく、正義感から法律家として主張すべきことを主張する存在です。
実は、弁護士の面白いところは、こういうタイプについては、敵対しているとはいえ、相手方の弁護士もそれなりに、その立場からの主張は理解し、時に尊重していたりするものなのです。それでも、弁護士の立場で、自分の依頼者の有利になるような主張は展開するわけですが、分かっている以上、この場合の評価も前記のような「困った弁護士」ということには、大概なりません。もちろん、例外もありますが。
前記ブログのエントリーをお読み頂いた方は、そこで引用した元最高裁判事の色川幸太郎弁護士のスピーチをご記憶だと思います。色川弁護士は「一人前の弁護士の資格・条件」の一つとして「徳目」を挙げ、それは「他人の不幸に対する感応力」であり、「不正に対して憤る力」だとして、「義憤系」を加えていました。
ただ、それにはただし書きがあり、分別のない憤りをもった「匹夫の勇」ではあってはならない、とされていました。前記「困った弁護士」の姿は、まさに色川弁護士が忠告した、それのように思います。
若手弁護士の「匹夫の勇」は、やはり「質低下」を示す嫌な兆候のように思えてきます。
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