Nゲージレイアウト国鉄露太本線建設記

運転よりシナリー重視コンセプトで、昭和40年代後半の風景再現を目指しレイアウトを製作中です。映像・画像を交えながら、製作記に加え、随想や旅行記も発信します。2016年9月より延伸線建設に着手しました。

半世紀前の鉄道P誌1963年2月号➋C55特集

同号のC55特集です。

【鉄道P誌1963年2月号表紙】


◆C55特集
C55は花型の東海道・山陽での活躍実績がなく地味な存在ですが、後の国鉄近代型蒸機の礎となった数々の新機軸を確立した形式です。

C55の設計や保守に係った多くの方が寄稿されており、評価が分かれる部分もありますが、明治期輸入機から蒸機設計技術を学び取り、大正期にそれを真似た9600/8620/C51/D50を国産化し、それらの運用実績を基に100%国産技術適用の集大成がC55で一致してます。

【蒸気機関車スタイルブックb1962年版より】
つまり、大正末期に機関車の改良と標準化を目的に設立された車両研究会には、国鉄だけでなく満鉄や鮮鉄、更には車両メーカー設計者、使用者、保守者が一堂に会し、その成果が盛り込まれたのがC55なのです。

C55は昭和10年から昭和12年にかけて62両が製造されてます。 主に老朽化が進むC51置き換えを目的とし、更なる増備はC57に譲りました。 棒台枠による強度アップと信頼性向上、スチームドームとサンドドーム一体化などは後続蒸機の標準仕様になりました。


蒸気圧力16kg/cm2を採用したのもC55が最初で、18kg/cm2まで耐えられる設計になってました。 従来蒸機の弱点だったスポーク動輪は強度アップのフィンが付けられ、『水かき付き動輪』と呼ばれてました。 ボックス動輪が標準化する前の過渡期仕様の動輪でした。

流線形車体は当時の世界的流行でC55 20-40の21両が流線形で製造されました。 高速域で空気抵抗減少が理論的裏付けですが、100km/h未満でその効果はほとんどなく、気流変化で排煙が車体に纏わり付くのを防止する副次的効果が実用上のメリットでした。

保守・整備現場から流線形車体の評判は芳しくなく、昭和25年に全車通常型への改修を受けてます。 その時の改修費用が300万円/両、現在の価値換算でザッと1億円/両、現場の声優先ですが、そこまで金を掛けて改修する意味があったかと疑問視する関係者も居ました。

流線形C55と言うと前出写真のフルカバーしか知らなかったのですが、改修前の23号機は上部だけ流線形です。 保守点検性向上の目的で下部カバーを外してたかもしれません。


★C55流線形機関士の印象
正に経験者が語るC55流線形機(宇都宮区)機関士の話が残ってます、評価はNGです。

➊始業点検時に頭をぶつける事が多い。
➋運転室に風が入らず、夏は非常に暑い。
➌通過列車の場合のタブレット授受がやりにくい。
➍ボイラーハンドレール位置が高く、点検・清掃時に危険。
保守・整備から不評だった流線形車体は、機関士からも不評でした。

C55の昭和20年と昭和37年の配置表です。 特筆すべきは製造された62両全てが戦災にも事故にも逢わず活躍してる事です。 昭和37年では九州に32両と半数強、北海道に12両と福知山/豊岡の11両が目立ち、九州北海道と山陰本線/関西本線に集中配備されてます。


◆各地のC55
それでは全国で活躍するC55の姿を追って行きます。

室蘭本線の旅客列車を牽くC55です、夏場はスノーブロワ外してたのでしょうか。 筆者のC55初対面は1969年2月の深川駅です、水かき付き動輪を見る目的で札幌から足を延ばしました。 その数年後夏に列車ホテル利用の『利尻』牽引してたハズですが見てません。

前掲配置表によると昭和20年には小樽築港、昭和37年には室蘭に所属してたC55ファーストナンバーが昭和32年には旭川所属だった様です。

関西本線上り弥富付近です、オーバークロスする電化路線は近鉄名古屋線でしょうか。

流線形から改修されたラストナンバー40号機は名古屋所属機で、亀山で憩ってました。

山陰本線もC55集中配備路線でした。 配置表では豊岡所属ですが、次項播但線運用から見て、和田山にも機関区があった様です。

C55ラストナンバー62号機は配置表によれば豊岡所属です。 撮影地は姫路近郊、播但線も守備範囲に入ってた様です。

九州に半数以上のC55が集結してました。

【日豊本線 杵築-大神間 C55 34】
門鉄型デフに九州の香を感じます、架線も架線柱もないスッキリした築堤が好きです。

【日豊本線 大分-西大分間 C55 15】
C55はC51後継で増備をC57に譲った旅客列車用の性格から、1964年に廃車が始り、60年代末までに2/3に当る42両が廃車されました。 その後も廃車が進みましたが、最後の廃車は無煙化達成の1975年初めの北海道と九州の3両で、40年近く生き永らえました。


ではまた。