「信じて祈るなら」田森茂基牧師
新約聖書「マタイによる福音書」21章18~22節/新共同訳【朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」】
いま私たちは様々な課題を抱えています。しかもその多くが、一人の人間では抱える事も、解決に向かう事も適わないと思えるほどの大きな課題です。そんな中で私が出会ったのが、先ほどお読みした主イエスの言葉でした。今この時、私たちはこの主イエスの言葉をどのように聞き、どう受け取ったら良いのでしょうか。
物語は、主イエスが“過越祭”を祝う為に、エルサレムに訪れていた時の出来事ですので、時期的には3月末から4月頃という事になります。実の成るいちじくの木であれば、1年で2回、即ち6月頃と9月頃に収穫されましたので、この物語に登場するいちじくの木は、本来は実の成らない時期であるにも拘らず、まるで実をならせるかのように葉を茂らせていた事になります。
この木に対し、主イエスは「今から後いつまでも、お前には実がならないように(新共同訳)」と言う、空腹であったとは言え、極めて厳しい言葉を投げかけられるのです。このことの背景には、直前の12節以下にあるエルサレム神殿での出来事があるとみられますし、さらに思いを拡げると、十字架の直前である事や、その様な主イエスの思いとは裏腹に、周囲が浮かれていたこと、更には当時のユダヤ教の腐敗に対する悲痛な思いなどが影響していると考えられます。そして、そのような状況を踏まえることで、先の主イエスの言葉をそのまま受け取ってきたのですが、今回、改めてこの言葉とであった時に、一つの疑問を抱きました。それは、「何故、主イエスは、このいちじくの木に対して、実が成るように命じなかったのか」という疑問でした。そしてこの疑問は、続いて語られる主イエスの「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。(新共同訳)」という言葉の中にある「信じて」が、何を指しているかと言う新たな疑問を生み出すのです。
もし仮に、ここで主イエスが語る「信じて」が、「神の全能」であるならば、いちじくの木を枯らすことだけでなく、いちじくの木に時期はずれな実をならせることも出来たのではないでしょうか。そして事実として、ここではいちじくの木が枯れる事を求めた主イエスですが、あの十字架の場面では、敵対する人々の滅びを求める事はありませんでした。その事から、ここで主イエスが弟子達に教えようとされたのは、「神の全能」への信頼によって、自己の願望が実現可能であるという話ではないと気付かされます。その事は、現在に至るまで、世界中で多くの信仰者が、様々な困難な課題の改善や、平和の実現を祈りながらも、現実化していない事からも明らかです。
では、ここで主イエスが語られている「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。(新共同訳)」とは、どういう事なのでしょうか。一つの可能性として、信じるの対象が「神の全能」ではなく、「神の正義」であるという事が考えられます。つまり、「神には出来ないことは何もない」と信じて、自己の願望の実現を求めるのではなく、「神は正しい事を為される」と信じて、すべてを神に委ねるという事です。祈ることで、内在する自己の欲望から解放され、神の働きに任せると言い換えても良いかも知れません。ゲツセマネで主イエスが祈られた「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。(新共同訳)」という祈りは、正にその様な信仰の顕れだと読まされるのです。
繰り返すようですが、いま私たちはとても厳しい現実に直面しています。人の力では、どうにも成らないかもしれません。だからこそ、「神の正義」を信じ、神の御手による働きを祈り求めて行きたいと願うのです。それが、私たち人間の知恵で思い描く未来と違っていたとしても、正義の神が最善へと導いてくださると信じ、委ねつつ、神の御手による働きを祈り求めて行きましょう。
(2022年3月6日 主日礼拝メッセージより)