2015年12月18日午前4時頃、ソウル大学の男子学生(19)がソウル市冠岳区新林洞の4階建ての住宅の屋上からSNSなど「私の遺書を広めてください。」と題した遺書を投稿してから、自殺した。新林洞の4階建てというところから、地方から上京してきてワンルームで生活していた大学生と思われる。遺書を訳してみようと思う。

--- (訳文ここから) ---

私の遺書を広めてください。

 ミョンファン先輩がこの世を去ったのは去年の今頃だったっけと思い調べてみると、やはりこの日でした。
 額学部生命科学学科は12月18日に、何か因縁があるのでしょうか。
 僕も先輩のあとについていきたいと思います。

 苦しく、また辱めばかりの20年でした。 私のことを苦しめたのはこの社会であり、私のことを辱めたのは私自身です。しかしもう、大丈夫です。これ以上の苦しみも辱めもありません。今は私の人生で、もっとも安らかな瞬間なのです。

 多くの人たちはこう言いました。「遺された人間のことを考えたら、死ぬのはよくない。」両親も、友人もそう言いました。しかし、私にとってこれらは、早く死になさいという過激な表現に他なりません。私のことを苦しめたのは誰なのでしょうか。この社会、そしてそれを構成する「遺された人間たち」であります。死ぬという選択ですら自由にさせてくれないのです。僕のことを苦しめた彼らのためにも死ぬことすら、許されないとは。

 また、死ぬということはみなさんが考えるほど、非合理的なことではありません。 このことを論題として書いた文章が「作文の基礎」の授業においてよい評価を頂いたので、私の遺書に書いても申し分ないことだと思います。私の知っている限りにおいては、自殺は、「生」の苦痛が「死」の苦痛よりも大きい時に起こるものです。なかなか経済的な思考の所産でしょう。

 こうは書きましたが、だからといって、どうか私のことを血も涙もない人間とは思わないでください。 20年間もの間、世の中に挫けることなく生きながらえることができたのもまた、僕と僕の周りの人たちへの愛情によるものなのです。まだ、巣立ちもできていない僕のことが忍びなく思われて、蚕室大橋(注釈:ソウル市内にある漢江にかかる橋)から踵を返したこともありました。僕がこの世を去ったら悲しむであろう兄弟と友人のことを考えて、屋上から引き返してきたことも、一度や二度ではありません。

 しかしもはや、あまりにもつらいのです。同時に、非常に恥ずかしく感じられるのです。僕に、それとこの世に対する怒りがあまりにも大きな苦しみとなって私に立ちはだかって来るのです。もう、挫ける時がやってきたのです。

 何が僕をこれほどにつらくさせたのでしょうか。

 僕が一生の間、追求してきた価値観は「合理性」です。僕は合理性を、論理演算の結果だと考えています。ある行為が合理的だと判断するのは、ある論理において合理的だと規定されることにそれが相応するからです。
 しかしこの世の中が合理的か否かということは、私の考えとは全くもって異なるものでした。 だからといって、私がそれを非合理的なものだと審判することができるかといえば、それもまた違いました。それもまた厳格な、論理の所産であります。まず生まれた者、それから持てる者、さらには力のある者の論理に屈服するということがこの社会の合理性に適っているのです。私が個人的にそれが非合理的だと思ったとしても、社会ではその非合理性が模範解答なのです。

 私とはあまりにも価値観が異なる世の中に、耐え忍ぶ理由など無いのです。 

 振り返ってみれば、いい思い出が無かったわけではありません。一番、幸せだった思い出を挙げるとしたら、ふたつあります。一つ目は、昨年の秋、何も考えずにパスポートを取得してひとり、日本に行ってきたことです。そしてもうひとつは、今回、済州島から帰ってきた次の日のことでした。楽しかった旅行を終え、日常に戻るということはふつう、しんどいことです。しかし、その日、聞いた授業はとても興味深いものでした。まず、生物学の時間に人間と微生物の共生関係について知り、感銘をうけました。人間と微生物は本当にありとあらゆる分野において深く相互作用を成していました。そして次の西洋史の授業で、ヴェーバーの『職業のとしての学問』において、学問をするということは精神的な貴族になるという表現と接したことでした。その時ばかりは、僕がその精神的な貴族になったような、そんな気持ちがありました。お互い、生まれついた環境について、それを匙の色に例えながらその人は金色だとかあの人は銀色だとか、はたまた土色だとか不平不満を言い合っている中、僕はひとり、金の前頭葉を持っているかのごとく思われました。
 しかし実際のところ、僕は金の前頭葉なんか持つことはできなかったし、生存を決定するのは前頭葉の色などではなく、匙の色でした。

 おいしいものを食べたいと思います。この文章を書いていたら、喉が渇いてきたので、ビールを飲もうと思ったのですが、 ピルスナー・ウルケルはなくギネスビールしかなかったのでやめました。ヤンニョムチキン(訳者注釈:甘いタレで味付けをしたフライドチキン)も食べたかったのですが、食べてしまったら、メタノール(訳者注釈:致死量は0.3-1.0g/kg)の吸収速度が落ちてしまうような気がして、食べられそうにもありません。

 もし私が失敗したとしても、僕はみなさんのことを視認することはできないでしょう。失明するからです。どうぞ
僕のところにやってきて、手を握って慰めてください。僕はもっと、苦しむでしょう。

 もし私が成功したとしたら、無理矢理でもいいから、喜んでください。私はそれまで心から望んできたことを成し遂げ、苦痛から解放されたのです。そして、扶助をお願いします。愛する兄弟、○○が、チキンをもう一本でも食べられるようにしてやってください。

 最後に感謝の言葉をお伝えしなければなりません。鬱病はカウンセリングと薬によって緩和はされます。カウンセリングでは患者の言葉によく耳を傾け共感することもよいのですが、もっと「実質的」な慰労をすることが重要だと思います。根拠もなく「きっとうまく行くさ」というやり方だけでは、むしろ、毒にしかなりません。皆さんの愛する人が鬱病で苦しんでいる時に、そのような言葉は決して口にしてはならないということを、どうか心に留めておいてください。

 実質的な慰労をくれた人としては2人、思い出されます。ひとりは、○○姉さんです。「つらい時は電話してね。私たち、近くに住んでるじゃん。」この一言で僕は何か月の間、耐え忍ぶことができました。電話をしたことはないけれども、電話をかけられる人がいるという事実、それもあんなに素敵か人が僕のことを励ましてくれるんだという事実が本当に力になりました。お姉さん、本当にありがとう。でも、ごめん。結局、電話できなかったね。
 
 もう一人は○○です。○○もいい人でした。質問ひとつ、しに行くたびに、調子はどうかと聞いてくれ、あれこれ助けてくれました。本当にありがたかったです。そして僕が薬学部の入学試験を準備する時に、教材を貸してくれ、結果発表の日時を忘れないように言ってくれるなど、物心両面で助けてくれたました。薬学部に合格したら、おいしい寿司をおごってあげることにしたのに、おごれませんでしたね。ありがとう、ごめん。お幸せに。

 いろいろなところに広めてください。肉体は死んでも、精神は生きていたいです。
 
--- (訳文ここまで) ---
 
 メタノールを飲みながら書いた文章ということで、やや読みにくいところがあるかもしれない。薬物自殺を図ったはずが、結局は屋上からの投身自殺をしていることについて、どういう経緯があったのかは、それは分からない。
 僕もソウル大学に在籍したことのある身だから、他人事のようには思えない。彼は彼の抱える問題を、ソウル大学をやめることではなく、この世で生きることをやめるという極端な手段によってカタをつけようとした。なぜ、そのような選択に走ったのだろうか。やるせない気持ちになる。
 個人的にこの手の自殺はバカだとおもう。それは、周りの人間の気持ちを考えろだとか、そういうことをいいたいわけではない。肉体は死んでも精神は生きていたいとはいうけれども、よっぽどの人ではない限り、遺書なんてすぐ忘れられてしまう。ブログの記事をひとつ書いて、インターネットの海に放るのとさして変わらないのだ。たしかに死んでしまえば楽になれる、だから死を選択する方が合理的だというのは分かる。けれども、若い人の自殺はまだ、最終的な結論を下すには早すぎるように思う。まだ、時間があるのだから。
 僕もどちらかといえば厭世観の強い人間だけれども、この社会のどこかにきっと、信じるに値する人がいることは知っている。そういう人に会えずにしてこの世の中からドロップアウトしてしまうとは、本当に不幸なことだ。

<原文(韓国語)>
0001

0002
0003