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HISTORY 2022.12.04

『吾妻鏡』 ~第46回より~

脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第46回で描かれた主なエピソードをご紹介します。

建保7年(1219)2月15日条

さるこく(午後3時~5時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が去る11日に多勢を率いて、奥深い山に城郭を構えました。これは宣旨を賜って東国を支配しようと企てたものです」と報告しました。

建保7年(1219)2月22日条

派遣された御家人たちが駿河国安野郡に到着し、阿野時元とその一党を討ち取りました。

建保7年(1219)2月23日条

とりこく(午後5時~7時)に駿河国から鎌倉に飛脚が到着し、「阿野時元が自害した」と報告しました。

建保7年(1219)閏2月12日条

京から鎌倉に使者が到着し、「親王の下向について今月1日に審議があり、後鳥羽上皇が『(雅成まさなり親王と頼仁よりひと親王の)二人のうち一人を必ず下向させよう。ただし、今すぐにというわけにはいかない』と同4日に命じられた」と報告しました。

建保7年(1219)3月9日条

後鳥羽上皇の使者が政子の屋敷に参上し、源実朝の死について後鳥羽上皇が特に嘆き悲しんでいると伝えました。またその後、北条義時と面会し、摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を停止するように命じた後鳥羽上皇院宣を届けました。

建保7年(1219)3月12日条

北条義時北条時房北条泰時大江広元政子の屋敷に集まり、後鳥羽上皇院宣について、「『追って回答します』と返答したため、速やかに決定しなければ後鳥羽上皇の機嫌を損ねることになるかもしれない」と審議があったようです。

建保7年(1219)3月15日条

政子の使者として、北条時房が千騎を従えて上洛しました。これは、後鳥羽上皇院宣について回答し、親王の下向について催促するためです。

承久元年(1219)7月19日条

左大臣・九条道家の賢息・三寅が関東に下向しました。これは政子が亡き源頼朝との深い縁を重んじて京から新たな鎌倉殿として迎えようと朝廷に申請していたもので、先月3日に宣下がありました。

承久元年(1219)7月19日条

とりこく(午後5時~7時)に政所まんどころはじめが行われました。三寅が幼いうちは、政子が裁断することになったようです。

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