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HISTORY 2022.11.27

『吾妻鏡』 ~第45回より~

脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第45回で描かれた主なエピソードをご紹介します。

建保7年(1219)1月27日条

源実朝が鶴岡八幡宮の楼門に入った際に、供奉ぐぶしていた北条義時は急に気分が悪くなり、御剣ぎょけん役を源仲章に譲って退出しました。

建保7年(1219)1月27日条

夜になって神拝の儀式が終わり、しばらくして退出したところを、鶴岡八幡宮別当阿闍梨あじゃり公暁が石段の近くに隙を見て近づき、剣を取って源実朝を殺害しました。

建保7年(1219)1月27日条

源実朝を殺害した公暁は、「別当の阿闍梨公暁が、父(源頼家)の敵を討った」と名乗りを上げたようです。

建保7年(1219)1月27日条

源実朝を殺害した公暁は、追手をまいて鶴岡八幡宮から離れると、三浦義村に使者を送り、「自分こそが鎌倉殿にふさわしい。速やかに手はずを整えるように」と指示しました。

建保7年(1219)1月27日条

三浦義村が勇敢な者を討手に指名して公暁を討ち取ると、その首を北条義時のもとへ持参しました。

建保7年(1219)1月27日条

きょうの不祥事については、前々から異変を示すような出来事があったようです。そのひとつとして、源実朝が縁起の良くない和歌を詠んでいました。

いでていなば ぬしなき宿やどと なりぬとも 軒端のきばの梅よ 春を忘るな

建保7年(1219)2月8日条

北条義時が大倉薬師堂を参拝しました。先月27日に源実朝に供奉していた際、白い犬を見たあとに気分が悪くなり御剣役を源仲章に譲って退出しましたが、公暁が御剣役を襲い仲章が首を斬られました。このときいぬ神は堂の中にいなかったそうです。

建保7年(1219)2月9日条

京から使者が鎌倉に帰ってきました。去る2日に入京し、源実朝の死去を朝廷に申し上げたところ、洛中が驚きあわて、武士が武装して行動を起こそうとしました。しかし、後鳥羽上皇から禁じられたため、しずまったそうです。

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