HISTORY 2022.11.13
脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。第43回で描かれた主なエピソードをご紹介します。
政子の命により、園城寺から鎌倉に到着した公暁が鶴岡八幡宮の別当に補任されるようです。
公暁が鶴岡八幡宮の別当に補任されてから、初めて神拝が行われました。また宿願のため、きょうから千日の間、鶴岡八幡宮寺に参籠さんろうされるそうです。
<建保5年(1217)11月8日条>大江広元が病気にかかり、目を患い、腫物はれものなどもできたようです。<建保5年(1217)12月10日条>大江広元の病気が治りました。しかし、視界が暗く、黒白を見分けることもできないようです。
政所で政子の熊野山参詣さんけいについて審議がありました。
源実朝が、讃岐の国守を推挙するので速やかに朝廷へ注進するようにと京都守護へ伝えました。北条泰時を讃岐守に任じられるように審議があったためです。
政子が上洛し、これに北条時房が付き従いました。これは熊野山参詣のためです。
京から鎌倉へ戻った波多野朝定が、去る6日の除書を持参。源実朝が左大将を兼任することになりました。
北条泰時は、源実朝から讃岐守へ叙されることを聞くと、私には過分であるとこれを辞退しました。
政子が熊野山参詣を終えて鎌倉へ戻りました。在京の間に思いがけないことがあり、去る14日、政子が従三位に叙するとの宣下があったようです。
去る15日、後鳥羽上皇から対面しようという仰せが政子にありました。しかし政子は、「片田舎の老尼が天子様に拝謁するのは恐れ多い」とこれを辞退しました。
昨日鎌倉へ戻った北条時房が御所へ参上し、「先月14日に初めて朝廷の鞠庭まりにわに参りました。15日、16日以後も引き続き参ると、蹴鞠しゅうきくの道をよく心得ていると後鳥羽上皇が何度も感心しておられました」と源実朝に報告しました。
左大将家の直衣始のうしはじめが、鶴岡八幡宮で執り行われました。左大将となった源実朝が、初めて直衣をまとって参拝する儀式です。
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