HISTORY 2022.11.06
『吾妻鏡』 ~第42回より~
承元4年(1210)11月22日条
御持仏堂で聖徳太子の御影(南無仏像:2歳のときの聖徳太子が緋の裳を着けて合掌する姿の像)が供養されました。これは源実朝の日頃からの祈願によるものとのことです。
建保2年(1214)6月3日条
諸国では日照りを愁えていました。このため、源実朝は栄西に依頼して雨乞いのために自ら八つの戒律を守り、法華経を転読しました。
建保2年(1214)6月13日条
将軍家領の年貢について、源実朝が「この秋から三分の二を免除する。おおむね毎年一箇所を順番に免除するように」と命じたようです。
建保4年(1216)6月15日条
源実朝が陳和卿を御所に召して対面しました。陳和卿は三度拝礼するとたいそう涙を流し、困惑する実朝に「前世において、あなたは宋朝の医王山の長老で、私はその門弟でした」と語りました。
建保4年(1216)11月24日条
源実朝が、前世に住んでいた医王山に参拝するために中国へ渡航することを思い付き、陳和卿に唐船を造るように命じました。北条義時と大江広元がしきりに実朝を諫めたものの受け入れられず、造船が決定したようです。
建保5年(1217)4月17日条
陳和卿の指示に従い、午の剋(午前11時~午後1時)から申の剋(午後3時~5時)の終わりまで力の限り船を引きましたが、海に船を浮かべることができませんでした。
建保5年(1217)4月17日条
唐船を海に浮かべる作業を見守っていた源実朝ですが、頓挫したため御所に帰りました。船はそののち、むなしく砂浜で朽ちたようです。