備中杜氏のふるさと~倉敷市玉島黒崎 南浦地区の旧赤澤酒造②岡山県随一の酒どころ

旧赤澤酒造のある倉敷市玉島地区は、かつて岡山県随一の酒どころだった。
『たましま歴史百景』(玉島テレビ放送株式会社著、萌友出版発行)によると「昭和32年、玉島税務署管内の酒造場は36あり、税務署の総税収約8割の内、酒税が6億円を占めていた」と記されており、往時の隆盛をしのばせる。

玉島はその昔、多くの杜氏を輩出したかつての浅口郡に属していて、明治30年(1897年)に浅口郡酒造組合が設立された折には事務所を同市に設置。
昭和28年(1953年)に浅口酒造組合から玉島酒造組合へと名称を変えると、その拠点を同市中央町の玉島酒造会館へ移転するとともに、岡山県杜氏組合連合会も玉島酒造会館に置かれたという。
とりわけ旧赤澤酒造がある南浦地区(倉敷市玉島黒崎)は「一番多いときで二十何軒あった」と、五代目当主の赤澤一治さん。
同地区の七社神社(七神社)内には「日本第一酒造神」で知られる松尾大社の分社も建立されたそうで、往時はまさに岡山の酒造りの中心地であったようだ。

南浦地区にある酒蔵から瀬戸内海をのぞむ。
備中杜氏のふるさとは、おだやかな海岸線沿いに広がっていた。

ただ、備中杜氏組合寄島支部では現在、浅口市寄島町の大浦神社境内にある松尾大社の分社で醸造祈願を行っており、七神社の松尾様については「今も残っているかどうかわからない」と赤澤さんは話す。
玉島酒造会館も昭和63年(1988年)に岡山県杜氏組合連合会が玉島から岡山へと移されると、建物自体もその後売却されてしまったそうで、なんともさみしい限りである。

ところで、なぜ岡山のいわば酒造りの中心地が この玉島をはじめ海岸沿いの地域に集まっていたのだろうか。
それを赤澤さんに尋ねてみたところ、複数の要因がプラスに作用し発展した背景が見えてきた。

1.海運・水運
高梁川の河口に位置する玉島は港町として栄え、酒蔵で造られた酒がここから灘などへと船便で出荷されていた時期もあったという。
また、玉島地区は水路も発達していたことから、原料米の調達にも至便だったようだ。

2.恵まれた水資源、良質な米
多くの蔵が海に面していたが、地下水は山から湧く良質な水が得られたようだ。
米については、いわずもがな。
田畑が少ない黒崎地区で酒造業を営むことができたのは、備前、備中からよい米が比較的容易に入手できたからだろう。
赤澤さん曰く「この地域は大地主が多かったんかな。だから酒屋が多いし、分限者が多かった」。

3.備中杜氏
なんといっても「これ(備中杜氏の技術)が一番」と赤澤さん。
元禄年間、現在の笠岡市大島出身の浅野弥治兵衛が乗る船が難破したのち、たどり着いた灘の酒蔵で酒造りを学んだことに端を発する備中杜氏はその後、大島(現在の笠岡氏)から黒崎、そして寄島に至る沿岸地域へと拡大。
夏場は農業や漁業を生業にしていた人が農閑期を利用して地元はもとより県外の酒蔵へも出稼ぎに行ったという。
杜氏の仕事が高給取りだったことも拍車をかけたようだ。

ちなみに、備中杜氏の酒造りについては、岡山県工業試験場(当時)の小出巌氏が日本釀造協會雜誌61巻6号(1966年 日本醸造協会発行)に寄稿した論文「備中杜氏」にこう記されている。

粗白米を原料として薄口で飲みやすい,いわゆる淡麗な酒造りに特別な技術をもち,全国的に有名であった。また進取の気性にとみ,新技術の導入が早かった

さらには酒母造りや製麹、もろみ管理に至るまで当時の技術が仔細に残されているが、このあたりについては往時の備中杜氏の技を知る現役の造り手を中心にあらためて取材を重ねてみたいところだ。
1966年当時の論文に記されている技術と現役の造り手が受け継いだ備中杜氏の酒造りでは、設備も違えば求められる酒質も大きく変わっているはずで、その違いを比較してみたいという思いもある。

続いて、今回話を聞かせていただいた旧赤澤酒造のことについても記録に残しておきたいと思う。
聞いた話をまとめ、さらに知りたい項目を洗い出して、少しずつでもモノクロの記憶がカラー化できればうれしい限りだ。

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