幕間 大魔法使いとの生活
2016.6.9
ニーナ視点です。
2016.6.18
挿絵を追加。
―――まるで世界が下に落ちていくかのように景色が流れ、次の瞬間には目の前の景色が変わっていた。
「……これが転移……
私は今、もはや伝説にしか残っていない筈の、転移の魔法を体験したのだ。
「ああ。もう南の山の中だ」
独り言のつもりだったが、返事が返って来た。
声に顔を上げれば、隣には先ほどと変わらずに師匠が立っている。
私より頭一つ分高い背。
白い髪とそれに近い不思議な肌の色を持つ、どう見ても17~18にしか見えない青年。
私は彼が23であることを既に知っているが、その一般人臭い言動もあり、気を抜くと同年代に錯覚してしまう。
そんな彼の手は、それが転移の魔法に他者を巻き込む条件なのか、私の左手をしっかりと握っている。
体格の違いもあって、私からすれば大きな手だ。
男らしさを感じるが、その手は一切荒れることがなく、むしろ女である私よりもきめ細かく感じる。
「あれが一応、この数日だけ使ってる仮の家だ」
そう言って師匠は私の手を握っていた右手を離し、斜め前に建っている不思議な建物を指差した。
私の左手は空気に触れ、急速にその温もりを失う。
「先ほどの倉庫と同じで、見たことも無い建築様式ですね」
「俺の故郷風……ってのが一番近いかな」
師匠の故郷風の建築様式だというその家屋は、一目見ただけでも非常に技術力が高いことを印象付ける出来だ。
屋根には完全に均一の形をした黒い板が鱗状に美しく並べられ、灰色の壁は石をくり抜いたみたいに繋ぎ目が見当たらない。
(組積造ではなく、架構式でしょうか)
貴族の屋敷の物より優れた技術であるように思える。
師匠の故郷とはどのような場所なのだろうか。
師匠に招かれた玄関は、なぜか取っ手を回さなければ開かない作りになっているらしい。
よく観察すると、隣の接触面から取っ手と連動して飛び出す鉤爪が見えている。
なるほど。こうすることで閉じた時の扉の固定を実現すると共に、ごく小さな手間でその固定を外すことも出来るという仕組みのようだ。便利さと効率が突き詰められている。
扉を開け中に入ると、屋内の床には灰色の薄い絨毯が張られており、それぞれの部屋が玄関と同じ扉で隔てられているようだった。
真っ直ぐ1つの部屋へ向かう師匠について行き、開けられた扉から師匠、私の順で中に入る。
そんなに広くはないが、隙間一つ見当たらない完璧な作りの部屋であり、床にも壁にも一切の劣化が見られない。
壁の1面には非常に高級そうな美しい幕が張られており、その他の家具も完全に高級品だ。
とくに中央に置かれた皮張りの椅子が凄い。
綺麗な黄緑色の皮が全体に張られたそれは、一目見て王侯貴族の所有するそれをも上回ると思わせた。
「さて、そんじゃこの部屋を今日1日お前の部屋にする。 ちょっと
そう言って師匠は部屋の隅に1つの寝台を作り出した。
先ほど村の広場に一瞬で倉庫を建築したのと同じだ。
作り出された寝台は、上質の塗料で黒く塗られた鉄の棒で作られた台座に、汚れ1つ無い真っ白な寝具が納まっている。
それを包み込む皺1つ無い布団は、以前アウストラーデの女帝に招かれた際、無理やり宿泊させられた部屋のあの豪華な布団に並ぶ美しさだ。
師匠の身なりで予想はしていたが、この人の生活水準は国の頂点に立つ人間達に比肩する。
彼らの住居と違い、こちらは機能性を重視した装飾過多でない物で揃えられているのが唯一の救いだ。
それでも、この寝台にかけられた布団だけでも、売れば金貨十数枚に届こう。
1つ1つの家具を構成する全ての素材が目を見張る繊細さであり、この1部屋だけでも金額など想像もできない領域にある。
「あ、そうだ。デンキ……灯りの点け方を教えておこう」
そういって師匠が私に見せたのは、壁に埋め込まれた不思議な突起により、点いたり消えたりする謎の照明だった。
しかも魔力でも炎でもなく、第三の力である『デンキ』と呼ばれる物で操られているらしい。
私はその仕組みを是非とも解説して欲しかったが、師匠は食事を食べながら話すと言って、別の部屋に私を招いた。
その部屋に置かれた大き目の机に、師匠の対面になるように着く。
席に着いた私に、師匠がこれまで通り空中から何かを生み出し手渡した。
受け取ったそれは、暖かく湯気の上る赤褐色の液体だった。
白く美しい陶器の桶に注がれているが、その陶器の薄さが尋常ではない。落としたりして割ってしまわないかと思うと恐ろしい。
師匠の手にも同じ物が握られている。なるほど、この桶は取っ手を持つのか。
私が師匠を見やると、師匠はその桶に口を着けていた。どうやら飲み物らしい。
私は師匠の人間性、というかこれまで私達に対し貫いてきた友好的な態度を理解している。まず変な物ではないだろう。
口を着ける瞬間、色から想像したのと違って、甘くかぐわしい芳香が私の鼻を優しく撫でた。
そして口にした途端、まずとろけるように甘く、そして香ばしい香りが後味に残る。
外の寒さで冷えた体が、芯から温められるようだ。
これは凄く美味しい。素晴らしい物だ。
私はこれだけで師匠の弟子になって良かったと思ってしまった。
更にその後に出された食事も、驚きに値する豪華さだった。
料理自体はありふれた物なのに、そのどれもが人生で食べた中で一番美味しいと断言できた。
数と見た目は貴族の食事に軍配が上がるが、1つ1つの味では完全にこちらが上だ。
その中でも私が一番驚いたのはパンだ。
普段庶民が食べる固いパンと違い、高級なパンはとても柔らかく、一々スープでふやかす必要も無い。
私も毎日ではないが、自炊する時には数少ない贅沢としてそちらを購入させて貰っていた。
だが師匠が出したこのパンは、柔らかいなんて物じゃない。
これは指で軽く摘み、左右に引っ張るだけでふわりと裂けるのだ。
口に入れれば柔らかい甘さが舌を楽しませ、その食感に至ってはまるで雲でも食べているかのようだ。
これを知ってしまうと、今まで最上だと思っていたあのパンですら固く思えてくる。
他の料理は味付けさえ研究すれば再現もできるだろうが、このパンは絶対に真似できる気がしない。
私達の知るパンという物とは、基本的な製造法からして確実に違うだろう。
いつの間にか当初の目的を忘れ、食事を楽しむ事に集中してしまっていた。師匠の出す食事は美味し過ぎるのだ。
その後気を取り直し設けられた場で師匠から最初に授かった『電気』の知識は、想像を絶する物だった。
使う人間に左右される魔力ではなく、自然界に元々存在している力を操ることで、安定した力を一定に生み出し続ける。
師匠の故郷のその考え方は非常に合理的だ。
師匠の高等な『世界の知識』は、今すぐにでも魔法や技術に応用できるだろう。
これではどちらが賢者だか分かった物ではない。どうりで知らない魔法を使うわけだ。
やはりこの人に師事したのは正解だ。
確実に今、私は時代の始まりに関わっている。
師匠にとっての常識は、この大陸の常識を簡単に塗り替えるだろう。
私を置き去りにする魔法の力だけでなく、この上知識においてまで私達クラリカ師弟を凌駕しているとは。
……きっとこのお方の足手纏いにならないようにするのは、並大抵の苦労ではないだろう。
師匠は私に「嫌になったらいつでも出て行っていい」と言ってくれたが、私はむしろ彼の許にいる為ならば、私に払えるどんな代償でも払う覚悟を決めていた。
そうして私が人知れず決意を新たにしていた時だ。師匠は私を見つめ、その言葉を放ったのだ。
「あ、そうだ。とりあえずお前、今すぐ風呂に入れ」
「今すぐお風呂に入れ」。
どういう意味かなんて決まっている。
でも私は一般的な水浴びだけでなく、魔法で水と火を生み出せる分、気軽にお風呂にも入れる。他の人達よりも遥かに清潔な筈だ。
旅の最中にも土の魔法で岩の湯船を作り、そこにお湯を張って入浴している。
万が一裸を人に見られない為、夜の暗闇の中でになるが。
毎日の水浴びだけでなく、上位貴族と同じく数日に1度は必ずお風呂に入っているのだ。
……だが、言われてみれば、師匠は清潔どころか埃1つ付いてないんじゃないかというぐらいに綺麗だ。
そんな師匠からは、私が今日1日どう見えていたのだろうか。
不意にあの繋がれた左手から感じた、師匠の手の滑らかな感触を思い出した。
「その、もしかして、私が臭いからでしょうか?」
「ぶっちゃけるとそうだ」
これには人生で一番傷ついた自信がある。
私が師匠が近くに寄る度、ふわりと良い匂いがすると思っていた時、師匠は私のことを臭うと思っていたのだ。
自分の中の何かが傷付いた。
未だ男も知らぬ乙女の私にとって、師匠のその言葉は大魔法に匹敵する威力を持っていた。
師匠の故郷では、誰もが毎日お風呂に入るのだという。
文化の違いだから仕方ないと師匠は私を慰めたが、ことここに至ってはそんな話じゃないのである。
心の中で屈した地面から立ち直れずにいると、それを見破った師匠がもっと大変な事を言った。
「気にしなくていいと言ってるんだ。大体お前は自分で風呂に入ってるからか、他の女の子達より遥かに綺麗だ。髪も割とサラサラだし」
(!?)
私は思わず師匠の顔を見つめてしまった。目が合って思考が止まる。顔と耳が熱い。
動揺しっぱなしの私を置いて、師匠は何食わぬ顔で布と着替えを用意し、部屋を出て行った。
私はなんとなくしばらくの間そこに立ち尽くしていたが、未だ火照る頭を冷やす意味も込め、服と下着を脱ぎお風呂に入った。
浴室に入り、師匠に教わった順番で体の隅々まで念入りに洗う。
師匠が置いていったこの布は凄い物だ。石鹸のせいもあるかもしれないが、汚れの落ち方が全然違う。
伸びるしザラザラしているし、一体何の糸で出来ているのか見当も付かない。
2回も体を洗い直してから、ついでにさっきまで履いていた下着も洗っておいた。
上がる時は、鞄に替えの下着がもう1枚入っているので大丈夫だ。
ちょっと師匠を待たせ過ぎているかもしれない。私は風邪を引かない程度に体を温め、早々に湯船から出た。
今私の体を拭いている、大量の糸で異様に柔らかく作られたこの布も、他と同じく汚れ1つ無い新品だった。
本当に金銭感覚の狂った空間である。
鞄から替えの下着を取り出し、師匠の用意した服に身を包んでみる。
モコモコと柔らかい肌触りで保温性が高く、これまたどういう仕組みなのか、伸びる生地で出来ていて着心地が最高だった。
一旦自分の部屋に戻り支度を済ませ、先程の部屋で待つと言っていた師匠の元に出向く。
こちらを振り返った師匠の顔を見て、思わず変じゃないかを訪ねてしまった。
「……あの、どうでしょう」
「ああ、可愛いね」
(!!!?)
これはもしかしなくても口説かれているのではないだろうか。
師弟で恋に落ちるというのはよく聞く話ではある。英雄色を好むとも言うし。
でも私のような子供っぽい女を口説くなんて、師匠は少女趣味だったのだろうか。
もしそうだったらどうした物だろう。
無論師匠は命の恩人であり、この数刻の間ですら既に養ってもらった身である。
これからのこともあるし、求められれば拒絶するのは良くないかもしれない。
それに結婚相手として考えれば、師匠は至上の男性の1人だろう。
師匠は強大な力を持ち、頭も良く、お金持ちだ。
顔の方は造形が私達と違い過ぎ、良いのか悪いのかの評価に困る。
(いや、結婚相手として考えるのは自惚れか。師匠の方は一時の遊びぐらいの気持ちかもしれない)
でも初めての自分に相手が務まるだろうか?
そんな様々な考えと想いが一瞬で頭を駆け巡ったが、師匠は何事もないように家の中を案内し出した。
どうやら勘違いの方だったらしい。恥ずかしい。
その後少しだけ明日の予定についての説明を受け、明日に備えて眠ることになった。
就寝の挨拶は済ましたが、私は最後にもう1度だけ、彼に今後の挨拶をしたかった。
彼は今日から私の恩人であり、師であり、…………とにかく特別な人になるだろう。
「ん? どうかしたか?」
動かないでいた私に、師匠の方から声をかけてくれた。
今日1日で思ったのだが、彼は私に非常に柔らかく接してくれる。
外見も言動も若く見える彼だが、時折こうして歳相応の頼りがいが垣間見える。
「その………………これからよろしくお願いします。師匠」
「ふふ…………こちらこそよろしく頼むぞ。我が弟子よ」
言葉は冗談めかしていたが、苦笑を湛えた顔には、私への慈しみが込められていた。
彼は不思議と心が穏やかになるような雰囲気があると思った。
◆
目が覚めて、部屋が少し明るくなっていることに気付く。
どうやら寝台の寝心地があまりに良いせいで、いつもより長く寝てしまったらしい。
師匠との暮らしは魔性の魅力を持っている。
部屋が薄明るい原因。
壁に引かれた幕から透けている、その仄かな明かりに目を向ける。
(外の明かり……?)
どうやらあの幕の向こうには窓があったようだ。気付かなかった。
幕を触ると滑るみたいにサラサラしていて、物凄く触り心地が良い生地だった。この家の大抵の物は触り心地が良いらしい。
そして幕をめくった私は驚愕する事になる。
窓には大きな2枚のガラスが使われていた。
いや、驚いたのはそのガラスの大きさではなく、完全に透明で平らだった事だ。
まるで向こうの景色と部屋の間に何も無いかのようだ。
こんな精度のガラスは見た事が無い。
窓枠を見ると、寝台と同じく鉄製だった。真ん中辺りに謎の部品が取り付けてある。
その部品の構造を調べてみるに、どうやらこれは鍵らしい。
容易く破られるであろうガラスの窓に、無駄に鍵を付けるのはなぜであろうか。
この家の物は大抵がその形状や様式に意味を持つが、これだけは完全に謎だ。
師匠に朝の挨拶をする前に、先に身支度を整えておくことにした。
師匠の前に出るならば、いつ何時修行が始まってもいいよう構えておかねば。
恐らく師匠の人柄なら事前に声をかけて下さるとは思うが、それを甘受するようでは弟子として失格だろう。
服を着替え、部屋に干していた昨日の下着を畳んでいて気付いた。
そういえば下着の替えはどうした物か。
新しく欲しくなった場合には、師匠に作って貰う事になるのだろうか?
それは流石に恥ずかしい。
その内近くの都市にでも買いに行く必要がありそうだ。
着替えを済まして髪を結い、師匠の部屋へ向かった。
昼。
師匠に連れられ、
今私の眼下には雄大な山脈が東西に広がっている。
師匠はこれを魔法で消し飛ばすと言うのだ。
どうやら師匠は、そういった範囲魔法に特化した魔法使いらしい。
本気を出すと世界が何度か滅ぶという。
私はその話を聞いて、久しぶりに師匠を怖いと思った。
普段の様子が穏やかなので忘れそうになるが、彼は個人で一国の軍と戦える大魔法使いなのだ。
「よし、そんじゃ手っ取り早く『
その魔法には聞き覚えがあった。
土の魔法の魔法陣が出ていたのに、私が知らない魔法だったので、強く印象に残っているのだ。
聞けば、正体は物の重さを操る魔法なのだという。
それでどうやって燃え盛る炎を消したのか。どの辺りが土の魔法に属するのか。
「あー、その辺は…………。これは、実は太陽が大地の周りを飛んでるんじゃなく、大地の方が太陽の周りを飛んでいるという話と繋がってるんだ。説明すると長くなるから夜にしよう」
大変な事を聞いてしまった。
『世界の真実』。
それは賢者が代を重ね追い求めている、最大の謎の1つ。
この世界は大陸を中心に周りを海が囲っており、海の水平線の先は世界の終りになっているという。
当然その世界の端からは水が零れ落ち続けていると言われているが、実際に世界の端に辿り着けた人間は誰もいないのだ。
人間の目では確かめることすらできない、世界の真実。
それを師匠は知っているのだろうか。
―――大地の方が太陽の周りを飛んでいる。
それは神への冒涜とも取れる発言。
しかし、私の中の予感が「師匠が言うのだから本当なのだ」と告げている。
先代クラリカにも是非教えてあげたい話だ。きっと私より大喜びするだろう。
師匠はその
しかしその魔法が世界にもたらした結果は、師匠のその様子とは正反対で壮絶な物だった。
ほんの一瞬。
ほんの一呼吸の間に、山が黒い穴に引きずり込まれ、消え去ったのである。
―――戦慄。
そう言う他無いだろう。師匠が自分より遥かに優れた魔法使いだとは知っていた。
だが、これは。
これは、神の所業だ。
一国の軍と張り合えるなどという次元ではない。
この大魔法使いは、人間が長い歴史をかけ作り上げてきた物を、容易く滅ぼしてしまえるのだ。
本気を出せば、世界が滅びる。
それがまさしく真実であることを、理解してしまった。
今私は師匠が家を作るのを見ている。
どうやら師匠は、今回の家は自分で一から作ることにしているらしい。
あの一瞬の間に家屋が誕生する魔法ではなく、粘土を生み出しながらそれを壁にしていっている。
どんな違いがあるのだろう。
師匠の作業から完成形を予想していると、不意に師匠がこちらに振り返った。
「すまん、お前の家から先に作るか」
え?
私はこの瞬間まで、師匠と私は一緒の家に住むのだと思っていた。
だがどうやら、師匠は私との同居が嫌らしい。
「大体お前も男と一緒に住むなんて嫌だろ?」
その意味は私だって分かっている。
男と女が1つ屋根の下に生活を共にする。
そうなれば、間違いの1つや2つも起きるだろう。
だが私は既に昨日の時点で、その辺りの覚悟は完了している。
「私はそれで構いません」
言った。
言ってやった。
私は自分の顔が熱くなるのを自覚したが、師匠から目を逸らす事はなかった。女の覚悟だ。
……それなのに。
師匠はそれでも、私を拒んだ。
「じゃあ駄目」
「え!?」
そんなに私と一緒に住むのが嫌なのだろうか。やっぱり私が臭いからだろうか。
昨日の夜、師匠は私に欲情しているのでは、なんて考えていたことが馬鹿みたいだ。
はっきり言って拗ねた。
私は家を見てこいという師匠の指示に渋々頷き、隣に建てられた家の中を見て回った。
今朝までの家とほとんど同じ作りの家だ。正直言って1人で住むには広過ぎる。
お風呂場に入ると、洗濯用の桶や縄などの親しみある道具も揃えてあった。
湯船の上には昨日のお風呂と違って『蛇口』という水の出る道具も付いている。
恐らく私でも生活し易いよう、考慮して下さったのだろう。
蛇口がなぜか2つあるので両方捻ってみると、片方は水で、もう片方はお湯が出た。どういう仕組みなのだろうか。
……家から出ると、師匠の家が宮殿に変わっていた。
白い石を極限まで磨き上げたような美しい壁。
それに師匠が金細工を施して回っている所だった。
私が1人で生活できそうであることを伝えると、師匠は何の感慨も無さそうに適当に頷いた。
やはり私の事なんてどうでもいいのだろうか。
「昼になったが、何か軽い物でも食べるか?」
そういえば師匠の故郷では朝昼晩の3食が基本らしい。
だが朝食からはまだそんなに時間が経っていない。私が起きるのが遅かったせいだ。
しかしその朝食は昨夜と打って変わり非常に軽い物だったので、一応食べられるだろう。
恐らくその辺りも師匠は気を遣ってくれていたのだ。
師匠は頷く私を見ると、少し離れた場所に白と金の豪奢な机を出した。師匠はこの色の組み合わせが好きなのだろうか。
続いてその上にお茶の道具と、たくさんの見たことも無いお菓子を並べて見せた。
「これは……まさに貴族のお茶会ですね」
そう評した私に師匠はなぜか苦笑を見せた。
そして周りを見渡し、それにしては殺風景だと零す。
なるほど、確かに私達の周りには土が剥き出しの地面しか無い。
華やかなのはこの机の上と、師匠の作りかけの家ぐらいだ。
「ちょっと待ってろよ」
そう言って師匠は、演技がかった仕草で両腕をゆったりと広げて見せた。
その直後だ。
褐色の地面を埋め尽くすように、鮮やかな緑の芽が息吹いた。
その芽は瞬く間に成長し、色とりどりの花々を満開に咲かせて役目を終える。
辺り一面の大地から、辺り一面の花畑に変わったのだ。
見渡す限りの花、花、花。
風に運ばれた爽やかで甘い香りが、私の鼻をくすぐった。
まるでお伽噺の一幕のようだ。それも、乙女なら誰だって1度は夢見る類いの。
その光景を、私とのお茶会の為に用意するという師匠の行いに、顔が上気するのを抑えられない。
「…………し、師匠は……おとぎ話の、素敵な魔法使いのようです」
私のその言葉に、師匠は心なしか顔を赤くしたようだった。珍しく照れているようだ。
「ま、まあ俺は植物の栽培に関しては自信があるからな」
照れた彼がそんなズレた事を言う。
この時ばかりは、本気で彼が同い年の男の子になったかのように感じた。
お茶会でただでさえそんな心持ちだったのに、彼はその後も何度も私を気遣うような素振りを見せた。
こんなに大切にされたのは母親ぐらいだ。
この人は私を離したいのだろうか、それとも近くに置きたいのだろうか。無論言われずとも近くにいるつもりだが。
……まあそんな好感も、この後の畑作りで幾分か下がることになるのは内緒だ。
畑と向き合うと師匠は人間が変わってしまうらしい。変な欠点を持つ人だ。
でも目の前で大量の小麦が一陣の風となり収穫されていく様は、確かに見ていて面白いと思った。
それにしても「家から眺めたいから」という理由だけで、新しく育てた小麦を放置していくのは変質的過ぎるが。
夕方。
今私は、離れた場所から師匠と向かい合っている。
ついに師匠との修行が始まったのだ。
内容は、戦士として行動してくる師匠から逃げ続け、少しでも多くの魔法を叩き込むこと。
既に師匠に私の魔法が効かないのは分かっている。全力で胸を借りる所存だ。
「いいか! 今からこいつを空に投げる! 地面に落ちた瞬間から戦闘開始だ! さっきと同じで殺すつもりで来い!」
師匠はそう言って手に握った棒を見せた。
あれは武器にするのだと思っていたが、開始の合図の為だけに用意したらしい。
師匠の言葉に了解の意を示した直後だ。
「………………」
「―――っ」
師匠はただ、ほんの僅かに腰を低くしただけ。
そんな構えとも言えないような構えを取った師匠だったが、そこから放たれ始めた圧力は、私の肝を縮み上がらせた。
先程の試験でもそうだったが、師匠は私の修行に対して正真正銘本気で取り組む姿勢を見せている。
師匠が応えてくれているのだ。弟子ある私は、誠心誠意ぶつかる他あるまい。
師匠は棒を頭上に高く放り投げた。
その直後、覚悟を決めていた筈の私は、この場から逃げ出したい一心になった。
途轍もない『嫌悪感』が私の体を舐める。
師匠はただ、変わらぬ構えで私を凝視していた。
―――そう、凝視しているのだ。
落ちてくる棒なんて完全に見ていない。
ただただ私を瞬きすらせず見つめているのだ。
他の事なんて一切がどうでもいい、ただ私という『敵』を排除する事のみを目的にした目。
観察されている。
まるでどんな小さな事でも見逃さないと言わんばかりだ。
その漆黒の視線に射抜かれ続け、私は本能的に理解した。
一瞬で負ける。
―――コォン!
地面に落ちた棒が、以外にも高く響く音を鳴らした。
遠くて分からなかったが、どうやら棒ではなく筒だったらしい。
師匠に言われた「距離を取れ」という指示もあるが、一刻も早くこの場から逃げ出したい恐怖によって、飛行の魔法を発動させた。
いざ逃げ出してみると、想像と真逆で師匠は明らかにやる気が無かった。
武器すら持っていない。完全な素手だ。
いや、手加減してくれているのだろう。
距離は徐々に離れ始めているが、私の本能は大音量で逃げろと叫び続けている。
恐らくは魔法を使わずとも、師匠が本気を出せば、一瞬でこの距離も詰められる。そんな予感がするのだ。
私はまず様子見に氷の魔法を師匠に放った。
本来なら人間を数十人まとめて貫くであろうそのつららは、師匠が適当に振った右手に容易くいなされ、弾かれる。
その間師匠は、1歩たりともその脚を緩めなかった。
その光景に私の勘が確信に変わる。
―――最後の瞬間は時間の問題。
私は師匠が空を飛べない今だからこそ効果を発揮する魔法を選んだ。
私が『土の賢者』と呼ばれる所以。土の最上位魔法『
大地に一瞬で谷を作り上げるこの魔法は、師匠の整地の魔法にだって劣る物ではない自信がある。
……だが。
師匠は地面に裂け目の前段階、ヒビが入ったのを見た瞬間に、風のような速さで斜め左に飛んだ。
そのままヒビが裂け目になり、裂け目が谷になるのを置き去りにして、この魔法から逃げ切ったのだ。
もう何度目か分からない戦慄。
完全に私が使った魔法を知っていた者の動きだ。
それも本職の戦士にすら出来ないであろう速さを持った。
こうして何度も背筋が凍る感覚を味わい、一方的な攻撃を10度ほども繰り返した時だろうか。
師匠は私が死角から放った土魔法を逆に踏み台にして、一気に加速して突っ込んで来たのだ。
それと同時、『彼』から世界を汚さんばかりの暴風のような殺気が叩きつけられる。
死ぬ
私は慌てて魔法を連射したが、当然『彼』には一切の効果が無い。
あれほど離れていた距離は見る間に縮み、最後の抵抗で無詠唱で出した土の壁も、その素手の片腕に粘土のごとく薙ぎ払われてしまった。
残りの距離をたった1歩で詰めてきた『彼』は、先程岩の壁を容易く薙ぎ払ったその手刀で、斜め上から私の胴体を切り裂こうとしてきた。
死ぬ!
咄嗟に私は、それと逆方向に逃げるように地面に体を押し付け、少しでも被弾面積が小さくなるよう縮こまった。
……いや、本当は怖かっただけだ。
「はい、終わり~」
思ったより辿り着くのが遅い手刀の感触を想像していると、そんな場違いな声が聞こえた。
いつの間にか瞑っていた目を開けると、先程まで私を両断しようとしていた右手が、こちらに差し出されている。
『師匠』だった。
死の恐怖から解放された心臓は、未だ早鐘を打っている。
荒い息を整えてから師匠の手を握り、昨日と同じようにして立たせて貰った。
立ち上がってから気付いたが、下着がちょっと冷たい……。
「怪我させないって言っただろ?」
そんなことは完全に忘れていた。
もはやいつからかは覚えてないが、本気で殺されると思っていた。
どうやら師匠は自分が発している殺気に気付いてなかったらしい。
誰かの殺気を感じたことも無いという。
まあそうかもしれない。
絶対強者である師匠に、殺気を感じ取る能力など必要無いのは間違いない。
私とてヒト近親種の魔法使いとして見れば最上位だが、世界にはドラゴンなどのもっと強い生物がいる。
それらとの接触経験から多少の殺気ぐらい感じられるが、師匠の場合は上位者がいるとは思えない。
魔力を大幅に失った私を、師匠は失伝した光の魔法で癒してくれた。
そしてその直後にポーションの話になり、観念してポーションを持ってないと告白した私に、師匠は珍しく罵声を吐いた。
一切言い返すことができない。
私は師匠の前で、1つも良い所が見せられない。今なんて17にもなって失禁してしまっている。
急速に機嫌を悪くした師匠は、舌打ちしながら1本のベルトを作った。
そのベルトに縫い付けられた細長い穴に、人差し指ほどの大きさのポーションを4本詰める。
「ほら、これからはこれを常に着けておけ」
どうやら私にポーションを常備させる為の装備らしい。
ポーションは最低でも1瓶で銀貨2枚もする。4本だと金貨1枚弱だ。
それにその内2本は伝説の魔力回復ポーション。
金額なんて付けられないほどの、歴史的価値を持つ。
尻込みしかけた私だったが、すぐに「これは師匠から与えられた守るべき指示である」と思い直した。
それに金額だけで見れば、ついさっき師匠に渡された20本近くのポーションの方が遥かに上だ。
これを売れば私は孫の代まで遊んで暮らせるだろう。
大体師匠の言っている事にこそ正当性があるのだ。
その好意と正しさを無下にする権利は私には無い。
私の表情に何か思うことがあったのだろうか。
師匠は暗い影を顔に落とし、それを呟いた。
「一つ言っておく。お前が俺の弟子だというのなら、死ぬな。他を全て犠牲にしてでも、自分だけは生き延びろ。……それが、お前が師と呼ぶ俺の生き方だ」
それは……正直言って、容易く頷けない生き方だ。
私だって世の中の不条理さは理解している。
だが私はどちらかと言えば、その中でも正しく生きようとしてきた部類の人間だ。
それにその言葉には、有事の際には師匠は私を平気で見捨てるという意味も含まれている。
周囲の誰かを、見捨てて生きる。
―――そんな生き方では、最後には自分しか残らないに決まっている。
果てにあるのは『孤独』だ。
「はいそうですか」と頷くことは出来ない。
それなのに。
そう言った彼の瞳にあったのが、親愛であり、信念であり、罪悪感であり、そして。
溢れんばかりの、『絶望』だったから。
「………………はい」
私は無意識の内に頷いてしまっていた。
何かは知らない。
何かは知らないが、彼の人生には、その結論に至るだけの何かがあったのだ。
それを容易く批判する意志が、私には湧かなかった。
その後は、師匠から助言をいくつも頂き、私に与えられた方の家に2人で帰った。
当然真っ先に下着を交換した。
昼間は私と一緒にいるのが嫌なのかと思ったが、こうして師匠の方から来てくれた事で、いくらか不安も落ち着いた。
そして私が作った不味い料理を、美味い美味いと言って食べてくれる師匠になんとも言えない気持ちなった。
私としては腹をくくり、「不味かったら不味いと素直に言って貰おう。事実なのだから」という気持ちで、変な事はせずいつも通りに作ったのだが……。
彼はその全てを匙一杯分すら残さず食べ切り、最後に「ありがとな」と言った。
……不思議だ。不思議な感覚だ。
この胸中を何と表現すればいいのか。賢者と言っても未だ駆け出しの身である私には、分からなかった。
ただ一つ、言える事は……。
(料理はもっと、勉強しよう)
そうして隣の家に帰る師匠を見送り、今日もお風呂に入ってから寝台に潜る。
柔らかい寝具と布団に包まれ急速に眠りに落ちていく中、私は突然「そういえば黒穴の魔法の話を聞いてなかった……」と思い出したのだった。