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2018年3月19日 (月)

タターガタ・アビダンマ

真理勝者 絶対最勝の法則
 
■序
皆さんは、「タターガタ」という言葉をご存じだろうか。このタターガタとは、「真理勝者」という意味 である。では、真理勝者とはどのような人を指すのであろうか。この真理勝者とは、グルやあるいは霊的指導者なしに、自力によって悟り、解脱をし、そして、 多くの衆生を済度する魂のことである。
では、仏陀とはどのように違うのであろうか。仏陀とは、その真理勝者の一面を表わしているのである。 つまり、真理勝者とは、グル、霊的指導者なしに、悟り、解脱をした魂を指し、その悟れる部分、これが仏陀なのである。ということは、わたしたちが日々仏陀 に対して帰依をするという言葉をよく使っているが、これは正しくはない。つまり、わたしたちが真に信を持ち、帰依の実践を行なわなければならないもの、そ れは真理勝者なのである。
今回、わたしがこの本を刊行したいと思ったのは、あまりにも今の日本には正しい真理の教えが存在しておらず、その正しい教えを説き明かすことによってのみ、今の日本人を、物質的満足はしているものの精神的に貧しい状態から解放させることができると考えたからである。
この本はズバリ、最勝、最強、絶対の教えであると考えてよろしい。この教えは、仏教的見地から見ても 正しいし、原始ヨーガ的見地から見ても正しいし、キリスト教的見地から見ても正しいし、ユダヤ教的見地から見ても正しいし、あるいはイスラム教的見地から 見ても正しいのである。なぜならば、今まで登場したいろいろな真理勝者や、あるいは予言者たちは一つの法則のもとに真理を知り得たからなのである。そし て、かくいうわたしも、クンダリニーの覚醒から始まり、多くの霊的、神秘的、そして精神的経験を通過し、今に至っている。
この本が、皆さんの日々の生活の経典として生かされ、そして皆さんが真に真理と強い縁で結ばれますように。
一九九一年十月二十日
麻原彰晃
第一誦品 大宇宙の実相
 
■第一章 全宇宙の構造
●一、全宇宙の構造
◎全宇宙の分類
 それでは、これから世界観について話そう。この全宇宙は、愛欲界、形状界、非形状界、そして大完全煩悩破壊界に分類することができる。
◎熱優位の愛欲界
 愛欲界とは、今現在わたしたちが生きているこの世も含まれ、熱優位の粗雑な物質でできている世界である。
◎音優位の形状界
 形状界とは、音優位の微細な物質でできた世界で、上位形状界と下位形状界に分かれている。そのうちの下位形状界が、愛欲界と重なっている。重なっているとは、通じ合っているという意味である。
◎光優位の非形状界
 非形状界とは、光優位のデータの世界である。これは、上位・中位・下位と三つに分かれている。そのうちの下位非形状界が愛欲界、下位形状界と重なってお り、中位非形状界が上位形状界と重なっている。上位非形状界となると、他のどの世界とも重なっていない。上へ行くほど、透明な光が強くなり、光が情報とし て存在している。
◎魂の密度
 これらの世界は、どこも下から上に行くに従って、そこに存在する魂の密度が低くなっている。
◎仏教的宇宙観
 ここで述べておかなくてはならないことがある。仏教的アプローチは、心の成熟を主体とし、霊性の向上を従と考えるがゆえに、下位形状界、下位非形状界、 中位非形状界を経験しない。しかし、タントリズムとヨーガは、心の成熟よりも霊性の向上に重きを置くがゆえに、下位形状界、下位非形状界、中位非形状界の 経験をするのである。
●二、愛欲界
◎愛欲界
 愛欲界は六つのパートからなり、下から順に激苦地獄、動物界、低級霊域、人間界、意識堕落天、そして戯れ堕落天に分類することができる。この愛欲界の六つのパートは、下から順に、上に行けば行くほど、苦しみが少なく喜びの多い世界である。
◎激苦地獄
 では、この愛欲界の一つずつについて検討していこう。
 まず、初めは激苦地獄である。激苦地獄は、大きく分けて三つに分けることができる。その第一番目の激苦地獄は熱地獄であり、第二番目の激苦地獄は寒冷地獄であり、第三番目の激苦地獄は痛みの地獄である。
◎熱地獄
 そして、この熱地獄には超期間激苦地獄や号叫【ごうきょう】激苦地獄などが存在する。
 この超期間激苦地獄とは、熱にものすごく長い間侵されるのである。その長さといったら、それはこの宇宙が、何回となく、何十回となく、何百回となく、何千回となく、創造され、破壊される期間を繰り返す間、熱にさいなまれるのである。
 もう一つの熱地獄は号叫激苦地獄である。ここの号叫激苦地獄では、その熱のために、熱の苦しみのために泣き叫ぶというところから、この地獄の意味合いが説かれている。
 そして、この他に大地獄等の地獄があるわけだが、その細かい検討については、別の本にて述べることとする。
◎寒冷地獄
 そして、第二番目の寒冷地獄、この第二番目の寒冷地獄は、できもの激苦地獄、これ以上にないできものの激苦地獄、大期間激苦地獄、悲痛苦痛の叫び声激苦 地獄、地獄徘徊流転激苦地獄、黄蓮華のような状態になる激苦地獄、白睡蓮のような状態になる激苦地獄、青蓮華のような状態になる激苦地獄、白蓮華のような 状態になる激苦地獄、紅蓮華のような状態になる激苦地獄に分類することができる。この期間は熱地獄以上に長いといわれている。
 それでは、この一つ一つについて検討しよう。まず一番目のできもの激苦地獄は、これは氷を長い間当てるとその部分が凍傷を起こし、そして水泡が生じる。 この状態を考えてほしい。そして、それが長期間経つと、これ以上にないできものの激苦地獄、つまり、大きな水泡が形成される。そして三番目が、大変長い 間、その寒冷の地獄をさまよわなければならない激苦地獄である。もちろん、この大変長い間、大変な寒冷地獄を歩き続けるわけだから、悲痛苦痛の叫び声を上 げることはいうまでもない。よって、この地獄の名前があるのである。
 ここで一つ皆さんは考えなければならない。それはこの寒冷地獄の特徴は、その悪業が蓄積されればされるほど、冷たく、そして長い間、その地獄にいなければならないということなのである。
 そして、この次に来る地獄は、地獄徘徊流転激苦地獄である。地獄は心の現われを中心として形成された世界である。よって、その人の冷淡さ、その人の冷た さが世界を形成することになる。そして、そこで腫れ物ができては死に、あるいはその寒さのために泣き叫んでは死に、またその世界へ生まれ変わると。これ が、地獄徘徊流転激苦地獄である。
 そして次に、寒冷のためにできた水泡、この水泡が少し裂ける。裂けると、その身体から黄色い汁が出てくる。この汁をもって黄蓮華激苦地獄というのである。
 この黄蓮華激苦地獄から先の地獄は、その状態のひどさを表わしている。
 その黄色い汁の出る状態から、次はもっと裂け目がひどくなり、個数が増え、そして白睡蓮のように、内側から白いものが出だす。これが白睡蓮激苦地獄であ る。そして、冷たくなった血液が少しずつしみ出すようになり、この状態を青蓮華のような状態になる激苦地獄というふうに描写しているのである。そして、完 全にこの静脈血が出なくなった後、その内側に白いもの、つまり皮下脂肪が見え、白蓮華のような状態になる激苦地獄が形成される。そして、それよりもう一歩 進むと、その脂肪が取り除かれ、そして赤身が見えてくる。この赤身が見えてくる状態が紅蓮華のような状態になる激苦地獄なのである。
 これは激苦地獄の概略である。これは追って地獄編をもっと詳しく書くつもりでいるから、そのとき詳しく皆さんにお教えしたいと思う。
◎動物界
 次は動物界である。この動物界は、皆さんも知ってのとおり、皆さんの視覚的にとらえられる動物すべてだけではなく、この宇宙には多く動物が遍在してい る。その動物の特徴は、根本的無智であり、実際、動物の世界から高い世界へ転生する場合、それは積極的に高い世界へ転生することはできず、消極的な形でい いカルマを持っている者のみがそこから脱却することができるのである。
◎低級霊域
 下から第三番目が低級霊域である。この低級霊域は、貪りのカルマの強い魂の行く世界であり、これは動物界と人間界の間に存在している。
 例えば、人間の形状をしていても、生まれながらにして全く物を食べることができない、あるいはガンその他にかかり、死ぬ前に物が食べられなくなり、腹がパンパンに腫れ上がって死ぬ等は、これは低級霊域へ転生する現われなのである。
 そして、この低級霊域はお互いがお互いを遮断し、自分の利益のみを考える魂が存在している世界ということになる。だいたい人にものを施さないで独り占めし、そして生きた魂は、次の生この世界へ転生するのである。
◎人間界
 第四番目は人間界である。この人間界はもう皆さんも知ってのとおり、このわたしたちの世界ということになる。よって、ここの人間界について説明をすることは省かせていただきたい。
◎意識堕落天
 第五番目は意識堕落天である。この意識堕落天は、一般的に現代ではUFOブームだが、このUFOに乗っている魂、この魂が意識堕落天であると考えるべきである。
 この意識堕落天の世界は、大変科学が発達している。ここで要求されるものは、純粋な論理性であり、そして自分自身の観念の中において認められるものに対してのみ、積極的に生きる姿勢である。
 この意識堕落天の世界は、わたしも何度となくその世界の王として君臨したことがあるからよくわかるわけだが、そこに住む魂は、否定的であり、そして排他的である。しかし、自分の得意分野に対しては、大変優れた才能をそれぞれが持っている。
 今の意識堕落天は、大変宗教性が発達し、特に密教や仏教が大いに発達している世界なのである。しかし、ここの魂は他人を尊敬することをせず、そして、自 分の担当する役割にだれかが干渉しようものなら、即闘争を挑む。よって、ここの世界を闘争の天界と呼ぶこともある。例えば、後期『旧約聖書』などの世界に おける天の描写は、まさにこの意識堕落天ということになる。
 そしてこの意識堕落天は、交わった剣、その周りに炎という象徴で表わされている。
 この世界の寿命は、だいたい二百年から千六百年ぐらいの間である。
◎地上愛欲神天
 人間に最も近い天界で、地上に住む神である。ただし、身体は人間より微細であるがために、肉眼で見ることはできない。
 次の戯れ堕落天の第一天界の支配下に属している。
◎戯れ堕落天
 戯れ堕落天は、大きく分けて六つのパートに分けることができる。そして、下から順に、第一天界、第二天界、第三天界、第四天界、第五天界、第六天界という形で描写されるわけである。
◎四大王天
 この第一天界は、四大王天ともいわれている。四大王天は、堅固王国天、統治変化自在天空天【とうちへんげじざいてんくうてん】、成長天、守庶民外傷天【しゅしょみんがいしょうてん】の四つに分けることができる。
 第一番目の堅固王国天、これはだいたいにおいて、神を信奉する国、一国一国に一人ずつの担当の神が存在している。その担当の神が、この堅固王国天の中に統括されるのである。堅固王国天は、天界に対して崇拝している国をしっかりと守る働きがあるのである。
 第二番目が統治変化自在天空天である。ここの中心的神はナーガであり、つまり龍であり、これは天候その他を担当している。
 そして、第三番目が成長天である。これは、花や木等の生長、生き物の成長等を司っている天界である。そして、この御使いは妖精たちである。
 第四番目は、守庶民外傷天である。これは、天界を崇拝する魂が、ケガ、あるいは病気などにかからないように守護する天界である。
 そして、これらの四つの神々を四大王といい、この天界を第一天界というのである。
 それでは次に、この四大王天の侍神の話をしよう。
 まず、堅固王国天の侍神はガンダッバ(花香居半神音楽神)である。ガンダッバは、鳥のような羽の衣をつけ、そして音楽を担当している。これが堅固王国天の侍神たちである。
 第二番目の統治変化自在天空天の侍神はナーガ(龍)である。ナーガは自在に変化――まあわたしはこの世界の王であったこともあるわけだが――このナーガ にも侍神が存在している。ナーガの侍神は白龍、白い蛇たちなのである。白い蛇たちは、大きなナーガの木で戯れ、楽しんでいるのである。
 そして、第三番目の成長天の侍神は、クンバンダ(所有壺形強力生殖器妖精)と呼ばれる。このクンバンダは、現代でいうところの妖精であると考えてよろしい。
 そして、第四番目の守庶民外傷天の侍神は、人食い鬼神である。この人食い鬼神は、悪業を積む魂を食べてしまうのである。
 これが四大王天、つまり第一天界の内容である。
 そして、この四大王天は、それぞれ東西南北を守護している。南の守護神が成長天であり、北の守護神が守庶民外傷天であり、西の守護神が統治変化自在天空天であり、東の守護神が堅固王国天なのである。
◎三十三天
 次は三十三天である。この第二天界に属する三十三天は、中央の有能神と、そして四方に八神ずつ配置し、つまり四×八=三十二の神々の、計三十三の神々で構成されている。
 そして、第一天界は、完全無欠山の裾野で生活し、第二天界は完全無欠山の頂上で生活しているのである。なぜ彼らの住んでいる山を完全無欠山というのかと いうと、この山は宇宙の創造のときでき、そして宇宙の破壊のとき完全に灰になるまで、決して壊れることがないから完全無欠山というのである。
 ここで、有能神について少し説明しよう。有能神は、愛欲天界の王といわれている。彼は智慧に長け、そして耐える力が優れている。
 この三十三天界と意識堕落天とは絶えず闘争を繰り返し、優劣を競い合っているのである。もちろん、若干徳の高いこの三十三天の方が意識堕落天に比べて勝率が高いことはいうまでもない。
◎支配流転双生児天
 次は、第三天界の説明に入ろう。第三天界の神の名前は、支配流転双生児天といわれている。この支配流転双生児天は人間界を含め、自分たちの下の世界、つまり有能神の世界までの生と死を司っているのである。
 日本でいわれている閻魔【えんま】大王は、この支配流転双生児天の「優れた支配流転双生児天子」なのである。彼らは、魂の善業と悪業の量を量り、そして次の生を決定するのである。
 そして、彼らには獄卒がついている。獄卒とは何かというと、支配流転双生児天の意向により、激苦地獄へ魂を連れて行ったり、あるいは動物の世界へ突き落としたりしている魂のことである。
◎除冷淡天
 第四天界、ここは除冷淡天【じょれいたんてん】である。つまりこの世界へ転生するためには、煩悩【ぼんのう】は有していても、四無量心が存在しなければ 転生しないのである。そして、あの偉大な布施をサキャ神賢に対してなしたアナータピンディカ長者も、この除冷淡天へと転生したのである。第三天界の支配流 転双生児天までは、冷淡さがあっても徳があれば転生することができた。しかし、いくら徳があっても冷淡さが存在していれば、この除冷淡天には転生しないの である。
 一般的に仏教徒において、在家修行の場合、三十三天や、あるいは第一天界の四大王天に生まれ変わるか、この除冷淡天に生まれ変わることが多い。あまり、 支配流転双生児天へは生まれ変わらない。なぜならば、仏教では「裁き」という言葉が存在しないからなのである。そして、この第三天界、第四天界は、完全無 欠山の上に雲のような形でその空間が形成され、そこで魂は生活をしているのである。
◎創造満足天
 次は、第五天界である。ここは創造満足天と呼ばれ、自分の欲しいものを神秘的な力によって創造し、楽しむ天界である。ここは、煩悩を満足させるために修行する魂が行きやすい天界なのである。
◎為他神以神通創造欲望満足従事天
 次は、第六天界である。この第六天界の名称はやや長い。為他神以神通創造欲望満足従事天【いたしんいじんつうそうぞうよくぼうまんぞくじゅうじてん】で ある。この第六天界へ至るためには、自分自身の神秘的な力、いろいろな才能等を、グルやあるいは徳の高い魂に供養した者が行く世界である。この世界では、 自分自身が欲したものを、自分にかしずいている神々が供養する形で生じてくる。
◎マーラ
 そして、ここまでが愛欲界である。そして、この愛欲界の王、彼こそはマーラ(破滅天)と呼ばれる。このマーラとは、日本語で訳すると悪魔である。つま り、このマーラはすべての神通を持ち、そして、だれもまねのできない大いなる欲望を持ち、それを満足させ、欲望を完成させることを魂に与えることによっ て、その魂たちを支配する魂なのである。そして、このマーラに打ち勝たない限り、神聖世界へ没入することはできないのである。
戯れ堕落天
┌─────────────────────────────┐
│第六天界│為他神以神通創造欲望満足従事天 │
├──────┼──────────────────────┤
│第五天界│ 創造満足天 [...]
●三、上位形状界
◎上位形状界
 それでは、上位形状界の説明に入ろう。上位形状界は、大きく四つに分けることができる。その四つは、修行者がどのような心の訓練をしたかということが、分類の目安となるわけである。
 まず、上位形状界の最も下の世界は聖慈愛が根本となる。この聖慈愛とは、煩悩を滅却した魂が、すべての魂の成長を願う心である。そして、この上位形状界の天界に属するものは四つある。
 第二番目の聖哀れみを実践した魂の行く上位形状界の天の世界は三つある。
 そして、嫉妬心を完全に捨断し、すべての魂のすべての善行に対して心から称賛できる心を実践し、成し遂げた魂の行く世界、この世界は上位形状界に四つ存在している。
 そして、いかなるカルマのリアクションに対しても、つまり、いかなるカルマの流れに対しても、そのカルマに対して全く頓着しない心を有している魂の行く上位形状界の世界は六つ存在しているのである。
◎四無量心
 それでは、この四無量心について少し説明をしよう。四無量心は、真理の実践者が煩悩を滅却した後、実践しなければならない四つの偉大なる心の実践である。この実践は、聖慈愛、聖哀れみ、聖称賛、そして聖無頓着の四つから形成されている。
◎聖慈愛
 この聖慈愛は、キリスト教でいう愛と全く同じ意味合いである。つまり、すべての魂の成長を願う心。例えば、あなた方の隣人、あなた方の知人、あなた方の 友人、あなた方の親族等が、一人一人が本当に真理を知り、そして真理を実践することにより、心が浄化され、言葉が浄化され、行為が浄化され、高い世界へ 至ってほしいと願う心、これが聖慈愛なのである。
 ここで、愛情との区別をしなければならない。愛情とは煩悩である。つまり、相手を好きになりたい。あるいは、その相手が物質的に豊かになってほしい。あ るいは、好きな相手が出世してほしい等である。しかし、これらはすべて見返りを求める心が対象となっている。よって、慈愛と愛情とは違うのである。これ は、詳しく『キリスト宣言』という出版物にて説きたいと考えている。
◎聖哀れみ
 第二番目の偉大な心の実践、これは聖哀れみである。聖哀れみというのは、悲、悲しみという言葉で表現される。この悲しみという言葉でなぜ表現されるのか というと、哀れみの心と、そして悲しみの心とは大変似ているからである。しかし、大きな違いが存在している。聖哀れみは、自分自身の不幸、あるいは自分自 身の苦しみについて悲しむのではない。これは、すべての魂の苦しみに対して悲しむ偉大な心なのである。
 例えば、皆さんの周りの魂が、真理に気づかない、あるいは煩悩で苦しんでいる、それを見て悲しむのである。では、なぜ悲しみ、哀れむのかと。それは、そ の魂が迷妄なるがゆえに悲しんでいることを知っているから、迷妄なるがゆえに苦しんでいることを知っているから、悲しみ、哀れむのである。これが、第二番 目の聖哀れみなのである。
◎聖称賛
 第三番目は、聖称賛の偉大な心である。この偉大な心は、その心を実践する魂を偉大な人物へと変えてくれる。もちろん、この上位形状界に入るような魂に成 長していくわけだから、当然偉大な心を有しているといってよいのである。この偉大な心とは、わたしたちがわたしたちのライバルを否定せず、そしてそのライ バルを心から称賛する心であり、それにより、ライバルの持っている要素をわたしたちも内在できるようになってくるわけである。
 例えば、ある人が偉大なる功徳を積んだと。ところが、自分はまだ功徳を積むことができないと。それに対して称賛する。そうすると、相手の偉大な功徳を積 むという実践を称賛する心から、自分もそれをまねようとする心が出てくる。そして、いずれ、称賛の対象となった功徳の実践、これを自分自身も行なうことが できるようになるのである。
 あるいは、ある魂が不殺生の戒を徹底的に守ったと。いかに他人に傷つけられようとも、じっとそれを耐える。あるいは、いかに他の生き物が自分を害そうと も、それをじっと耐えると。それに対して称賛の心が生じると、その称賛の心の生じた人も同じように、じっといろいろな生き物や、あるいは人から被害を被る ようなことがあったとしても、それに対して耐え、そして不殺生の戒が守れるようになってくるわけである。
 このような形で、称賛というものは、わたしたちの心を、知能を、そして智慧を増大させるのである。
 逆に、嫉妬心というのは、相手のいい要素をねたみ、そねむがゆえに、自分自身もその努力ができなくなってくる。そうなると、このそねみ、ねたみは、対象 に対する妨害の心を生起させるだけではなく、自分自身の知能や智慧の阻害にもつながるわけである。よって、この聖称賛の心の実践は大変難しいということに なる。
◎聖無頓着
 そして第四番目、これは聖無頓着の実践である。聖無頓着とは、いかなるカルマの解放に対しても、それに対して頓着しない実践ということになる。
 カルマの解放に対して頓着しないとはどういうことであろうか。
 わたしたちの構成要素は五つである。これを「五つのとらわれの集積」といっている。この五つのとらわれの集積は、まず外側から順に、形状-容姿、感覚、表象、経験の構成、識別である。そして、これらはすべて、過去および過去世のカルマの蓄積なのである。
 ということは、当然わたしたちが修行に入る以前は、大きな悪業をいろいろと積んでいるわけだから、修行の途上、善業をいくらなしたとしても、あるいは徳 の修行をいくらなしたとしても、あるいは心を平安にする修行をいくらなしたとしても、あるいは宇宙の大法則にかなった修行をいくらなしたとしても、過去に おいてなしたカルマが当然返ってくる時期があるわけである。そのカルマの返りに対して全く頓着しないという修行なのである。
 このカルマに対して全く頓着しないということは、どういう結果をもたらすのだろうか。
 例えば、わたしたちは苦しいからそこから逃れたいと思い、逃れたいがために新しい悪業を積む。これを繰り返しているわけである。
 しかしもし、ここに真理の実践者がいて、その真理の実践者が、悪業の結果として苦しいことが今生じていたとしても、それに対してとらわれず、ひたすら行 為において善行をなし、言葉において善行をなし、心において善行をなしていたならばどうだろうか。悪業は必ずその終焉を迎え、そして善のみの集積になるわ けである。そして、この善のみの集積の完成の段階が、上位形状界最後の六つの天界なのである。
◎五つのとらわれの集積
 ついでにここで、五つのとらわれの集積について説明をしよう。五つのとらわれの集積とは、まずこの肉体、形状-容姿である。第二番目の感覚。そして第三番目の表象、イメージ。第四番目の経験の構成。そして第五番目の識別である。
◎形状-容姿
 この第一番目の形状-容姿というのは、わたしたちの姿形を表わしている。そして、わたしたちの言葉がいかに綺麗な言葉であるかが、わたしたちの形状-容姿の美しさを決めるといわれている。
◎感覚
 第二番目の感覚は、これは強い感覚、弱い感覚、全く感覚がない状態の三つに分類することができる。
 ここでなぜ、フィーリングのいい状態、フィーリングの悪い状態、つまり感覚のいい状態、感覚の悪い状態が取り上げられていないのかというと、感覚は元来良い悪いは存在しない。これは、鋭いか鋭くないかだけなのである。
 そして、例えばわたしたちが感覚を強く求めようとすればするほど、いい感覚を強く求めようとすればするほど、必ず悪い感覚、嫌な感覚も強く感じなければならない仕組みになっているわけである。
 それはちょうど、大きな波と小さな波を考えていただきたい。大きな波は、その波の高い部分がある代わりに逆に低い部分が存在する。感覚もこれと同じなの である。そして、真理の実践は、この波を少しずつ平坦にしていき、最後は真っすぐな一本の線にする。つまり、いっさいの感覚を捨断できる状態をつくってい くわけである。これによって、苦楽が捨断されるのである。
◎表象
 第三番目が表象、イメージである。これは、わたしたちがいろいろなものをイメージする。そのイメージすることによって内在するデータ、これが三番目の表象である。
 そして、これはダイレクトに心の影響を受けるといわれている。心の影響を受けるとはどういうことかというと、例えばわたしたちは日々の生活において、心 にいろいろな想念を生起させる。しかし、その想念のすべてを実践するわけではない。ところが、この表象にはそのすべてが投影されるのである。
 そして、このイメージの世界は形状界の世界と通じており、わたしたちが心において偉大なる心を実践するならば、十七上位形状界のどこかへ転生することが できるし、あるいは、悪い、不徳のイメージを、不徳の心を訓練するならば、わたしたちは、愛欲界の低い世界へと生まれ変わらなければならないのである。
◎経験の構成
 第四番目は、経験の構成である。これは、わたしたちは、身【しん】・口【く】・意【い】、身の行ない、言葉の働き、そして心の働きという三つ、この三つ の経験を日々培っているわけだが、その培っている経験がデータとなってインプットされ、次の経験を呼び起こす、そういう集まりなのである。
 例えば、ここにアイスクリームがあったとして、このアイスクリームを一回食べると。おいしいと考えると。二回食べると。もっとおいしいと考えると。そし て三回目が食べたくなると。あるいは、一回目アイスクリームを食べると。下痢をすると。二回目アイスクリームを食べると。また下痢をすると。よって、三回 目はアイスクリームを食べないと。これがなぜ起きるのかというと、一回目、二回目のアイスクリームを食べたときの喜び、あるいは苦しみ、これがデータと なって内在し、そして三回目を決定させるわけである。これが第四番目の経験の構成なのである。
 そしてこれは、漢訳仏典では「行」と訳されている。なぜ行と訳されるのかというと、もうおわかりと思うが、つまり経験の構成が、次の動きを決定するからなのである。
◎識別
 そして第五番目は識別である。この識別作用がもしなければ、わたしたちはこの愛欲の世界へと転生することはない。
 では、いったいこの識別とは何かというと、対象に対して、これはいいとか、これは悪いとか、これは美しいとか、これは醜いとかいったような心の働きの背 景となっているものである。つまり、四番目の経験の構成は行動にダイレクトに影響を与え、五番目の識別はわたしたちの心の働きにダイレクトな影響を与える わけである。
 そして、これらの五つの要素をすべて浄化し、捨断したならば、当然わたしたちがこの愛欲の世界に、あるいは他の世界へ生まれ変わることはないのである。
天界の寿命
┏━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━━┯━━━━━━┓
┃非│非認知非非認知境          │計算不可能 ┃
┃ ├──────────────────┼──────┨
┃形│無所有境              │6万カルパ ┃
┃ ├──────────────────┼──────┨
┃状│識別無辺境             │4万カルパ ┃
┃ ├──────────────────┼──────┨
┃界│空間無辺境             │2万カルパ ┃
┣━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━━┿━━━━━━┫
┃形│偉大果報愛欲本質神天&清潔居住天  │500カルパ ┃
┃ ├──────────────────┼──────┨
┃  │美天                │ 4カルパ ┃
┃状├──────────────────┼──────┨
┃  │光天                │ 2カルパ ┃
┃ [...]
●四、上位非形状界
◎無と空
 それでは、次に上位非形状界の説明に入ろう。
 最初に、よくいわれる無と空について説明しておきたい。
 日本の仏教など、無と空を混同しているようなところがあるが、それらは全く違う状態である。
 無というのは、下位非形状界に入ってしまったときの状態で、功徳を積まずに、行のみを一生懸命やった場合などに起こる。そこは真っ暗で何もないところである。
 それに対して、空の方はこの上位非形状界に入った状態である。そこは、まさに光の海である。光しかないから空という表現がぴったりなのである。おわかりかと思うが、こちらは無などと比べものにならないほど、修行ステージが高いのである。
◎上位非形状界
 上位非形状界には四つの世界が存在している。下から順に、空間無辺境、識別無辺境、無所有境、非認知非非認知境である。これらは順に、心の実態の世界ということができる。
◎空間無辺境
 まず、空間無辺境は心の広がりが無辺である世界である。わたしたちの心というものは、ちょうど空気のように自由に広がったり、あるいは自由に縮まったり することができる。そして、その状態を体験した魂が、そのカルマによって徐々に空間を大きく大きくしていくとこの世界へと内在するわけである。つまり、こ れは四無量心における発展的段階ということができるわけである。
 例えば、ある人たちが慈愛の実践をしているとしよう。しかし、その人たちの慈愛の段階は違うわけである。それは何に影響を与えるかというと、この空間、 心の空間に影響を与えるわけである。より偉大な慈愛の実践をしている人は、より偉大な心の空間を所有するのである。これが、この空間無辺境の意味合いなの である。
◎識別無辺境
 次は、識別無辺境である。わたしたちの心は経験により、例えば対象に対して邪悪心を抱いたり、あるいは迷妄を抱いたり、あるいは愛著【あいじゃく】を抱いたりする。この愛著とはとらわれのことである。
 しかし、偉大なる四無量心の実践を行なっている魂は、その愛著、迷妄、邪悪心といったものがどんどん弱められ、識別の力が弱められるのである。よって、 苦しみを苦しみと感じなくなったり、あるいは悲しみを悲しみと感じなくなったりするのである。この識別無辺境はその終点ということができる。つまり、この 境地に達した魂は完全に苦楽を捨断しているのである。
◎無所有境
 第三番目の無所有境である。わたしたちは何かに対してとらわれて輪廻を繰り返している。しかし、この無所有境に到達すると、とらわれ、外的とらわれとい うものが存在していないのである。しかし、存在はしていないが、過去の経験からまだこの魂は身・口・意の働きというものを完全に止め切っているわけではな い。あくまでもこれは、サマディに入っているときのみ、その無所有境の境地へ入るのである。
◎非認知非非認知境
 第四番目の非認知非非認知境は、すべての対象に対していっさいの認知をしない状態ということができる。つまり、非認知とは認知にあらず、非非認知とは認知にあらざることがなしという意味なのである。つまり、どの世界へいてもこの状況になると一緒なのである。
 
●五、認知経験滅尽
◎認知経験滅尽
 そして、これらの上位非形状界の四つのステージを通過した後、最終の解脱へと至る。これが、認知経験滅尽、つまり大完全煩悩破壊界へと至ることなのである。
◎ニルヴァーナ
 ここまでお読みになった読者は、あれっと思われるかもしれない。なぜマハー・ニルヴァーナと、ニルヴァーナが存在するのかと。そのとおりである。
 それは、例えば認知というものは個人個人によって違う。小さな世界しか知らなければ、その認知も当然少ないわけだし、あるいは小さな経験しかできなけれ ば当然経験も少ないわけである。しかし、その魂が自分の経験やあるいは認知を滅尽したとするならば、その魂はその瞬間大平安の境地へと至るであろう。これ がニルヴァーナなのである。
◎マハー・ニルヴァーナ
 ところが、ここに偉大なる魂がいて、その偉大なる魂の認知は全宇宙に及んでいる。偉大な魂の経験は全宇宙に及んでいると。この魂が完全にそれらの認知や 経験を滅尽した場合どうだろうか。これは、偉大な認知、偉大な経験の滅尽ということになる。これが、マハー・ニルヴァーナなのである。
◎マハー・ボーディ・ニルヴァーナ
 では、ここにより偉大な魂がいて、この偉大な魂は生、つまり生きることそのものを、完全なる真の智慧へ至る実践として生きていたとしよう。この魂の経 験、この魂の認知は、すべて真智に到達するための認知ということになる。よって、大到達真智完全煩悩破壊界(マハー・ボーディ・ニルヴァーナ)へ到達する のである。つまり、これはニルヴァーナ、マハー・ニルヴァーナ、マハー・ボーディ・ニルヴァーナの違いを説明したのである。
●六、三界の寿命
◎三界の寿命
 わたしは、愛欲の世界、上位形状の世界、そして上位非形状の世界を説明した。次は、これらの世界の寿命について説明したいと思う。
 まず、意識堕落天の寿命については、前項で触れたので、これから愛欲天界、そして上位形状界の天界、上位非形状界の天界の寿命について説明をしたいと思う。
◎愛欲天界の寿命
 第一天界の四大王天の寿命は九百万年である。そして、第二天界の三十三天の寿命は、三千六百万年である。そして、第三天界の支配流転双生児天の寿命は、 一億四千四百万年である。そして、除冷淡天の寿命は、五億七千六百万年である。創造満足天の寿命は、二十三億四百万年である。第六天界の為他神以神通創造 欲望満足従事天の寿命は、九十二億一千六百万年ということになる。
 ここで、皆さんはあれっと思われるかもしれない。この地球の寿命と第六天界の寿命は大変近いのである。つまり、地球の寿命の二分の一とかあるいは四分の 一とかいう長さがこの第六天界の寿命なのである。とすると、宇宙の創造および破壊までの期間が、大神聖天の寿命と一致するとするならば、これらの数字はな かなか興味深いといわざるを得ない。
 しかし、神々も人間の寿命と同じように、ちょうど人間の寿命が八万歳から今わずか八十年になったのと同じように、短くなってきている。よって、今の天界の寿命は、これよりかなり差し引いて考えなければならないのである。
◎マイトレーヤ真理勝者
 ところで、中国の仏典にマイトレーヤ真理勝者が五十六億七千万年後に、第四天界から降誕し、そして人類を済度するという教えがある。この五十六億七千万 年というのは、確かにその数字はそうかもしれないが、その間中ずっと除冷淡天にマイトレーヤ真理勝者が存在しているということは、この寿命からもわかると おり、ないのである。もちろん、マイトレーヤ真理勝者は、真理勝者であるから第四天界でずっと生き続けることはできる。しかし、彼は偉大なる救済者であ る。よって、第四天界だけにとどまるのではなく、多くの世界へわざわざ生まれ変わり、そして多くの世界に絶対的な真理を説き明かすのである。
◎上位形状界の寿命
 では、次に上位形状界の寿命へと入っていこう。まず、神聖衆愛欲神天から大神聖天までの寿命、これは一カルパである。そして、光愛欲神天から無量光愛欲 神天までの寿命、これは二カルパである。そして、美愛欲神天から総美愛欲本質神天までの寿命は四カルパである。そして、偉大果報愛欲本質神天から超越童子 愛欲本質神天までの寿命が五百カルパである。
◎上位非形状界の寿命
 そして、空間無辺境に存在する魂の寿命は二万カルパであり、識別無辺境に存在する魂の寿命は四万カルパであり、無所有境に存在する魂の寿命は六万カルパであり、そして非認知非非認知境に存在する魂の寿命は計算不可能であるといわれている。
◎カルパ
 では、次にカルパについて説明しよう。カルパとは、宇宙の創造から、破壊、そして完全なる虚空までを表わす。これがカルパである。よって、例えば一カルパという場合、宇宙が創造され、破壊され、虚空に至るまでの期間だと考えていただきたい。
 そして、このカルパは、再生期、継続期、還元期、そして虚空期の四つに分けることができるのである。
17形状界と4非形状界
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│非│ 非認知非非認知境    [...]
■第二章 魂の落下のプロセス
●一、真我と三グナ
◎真我の特性
 魂の落下には二つのプロセスがある。
 もともとわたしたちの本質である真我は、無始の過去においては、そのものは自由で、幸福で、歓喜であった。この、まず真我の特性についてお話ししよう。
◎絶対自由
 真我の特性の絶対自由とは何かというと、これは、非形状界、形状界、そして愛欲界の三つの世界に対して、自在に身体をつくり、現われることもでき、あるいは、そこから自在にまた元の世界へ帰ることができたという意味において自由だったのである。
 当然、この自由は、死の自由を意味し、また生の自由を意味した。これはどういうことかというと、例えば愛欲界に身体を創造し、その身体が必要がなくなる と、自分の意志によってその身体を捨て、そしてまた元の完全煩悩破壊界へ帰ることができるという意味において自由だったのである。
◎絶対幸福
 そして、第二番目の絶対幸福だが、これは、いっさいのカルマの制約を受けないということにおいて幸福だったのである。
 この愛欲の世界、あるいは形状の世界はカルマの法則から脱却することはできない。このカルマは、わたしたちをがんじがらめに縛り、そのカルマの力によっ てわたしたちは幸福を奪われているのである。例えば、わたしたちが好もうと好むまいと、病の制約を受けることは事実だし、老いの制約を受けることは事実だ し、あるいは過去の経験から来る苦しみ、悲しみ、哀愁、愁い等の経験をさせられることも事実である。
 近ごろの若者たちが、ギャグっぽく生きているという実態がある。これは、明らかにギャグのデータをたくさん入れているがために自分の人生をギャグ化して生きているのである。
 つまりこのように、情報からわたしたちは自由ではないのである。そしてこれは不幸なのである。
 ところが、真我の特性は、いっさいの情報の影響を受けないのである。確かに、瞬間瞬間経験はしているのだが、この経験が根づかない。根づかないことに よって、一つ一つの行為や言葉や心の働きだけが存在し、過去の経験からいろいろな感情が動くということはないのである。つまり、真我の特性の幸福とは不幸 でないという意味において幸福なのである。
◎絶対歓喜
 では、絶対歓喜とは何であろうか。歓喜とは何かというと、もともとわたしたちの真我は、喜びのエネルギーというものを内在しているのである。そして、こ の喜びのエネルギーを漏らすことによって願望をかなえていく。つまり、願望がかなうということは喜びのエネルギーが減っていくということである。そして、 喜びのエネルギーが減る代わりに、苦しみのエネルギーが増大してくる。これが、わたしたち人間なのである。
 そして、これらの三つの状態、本来これらの三つの状態に安住していることが幸福であるはずなのに、三グナの干渉を受けることによって、そこへ巻き込まれてしまったのである。
◎三グナ
 三グナとは何であろうか。これは、ラジャス、タマス、サットヴァといわれている三つのエネルギーである。ラジャスとは熱エネルギーを意味し、タマスとは音のエネルギーを意味し、サットヴァとは智慧、光のエネルギーを意味している。
 これら三つのエネルギーが真我に干渉した。そしてこの三つのエネルギーのダイナミックな動き、美しさ、光に感応した真我は、その中へと没入する。そのとき、ものすごい大きな爆発が生じた。これが、現代物理学でいうビッグバンなのである。
●二、十二の条件生起の段階
◎十二の条件生起の段階
 ところで、これは一回目の宇宙の創造である。宇宙は、何度も創造され、維持され、破壊している。これら一回目の経験をした真我は、どんどんと高い世界から低い世界へと移行する。これを仏教では「十二の条件生起の段階」という形で表現している。
◎非神秘力→経験の構成
 つまり、まず第一に、非神秘力ありて経験の構成がある。この非神秘力ありて経験の構成があるとは何かというと、内側の神秘的なもの、つまり絶対自由・絶 対幸福・絶対歓喜ではないものに対して向かうがゆえに、三グナと干渉する。そして、それは真我が独存位になる以前の経験の構成というものを生起させるわけ である。
◎識別
 そして、この経験の構成の生起が動きをかもし出し、そして識別作用が生じてくる。この識別作用とは、五つのとらわれの集積の項でも述べたとおり、例えば美しいと醜い、あるいは強い弱い、良い悪い等の観念である。これは、すべて経験によって裏づけされているのである。
◎心の要素-形状-容姿
 この識別作用が生じるがゆえに、よりいっそう具体的な経験、具体的な欲求を充足する方向に真我は動き出す。それによって、心の要素-形状-容姿をつくり 出すのである。しかし、このときの形状-容姿は、あくまでも形状界の形状-容【+姿】であり、粗雑な肉体を有しているわけではない。しかしこの形状-容姿 には、感覚、この肉体で感じる感覚よりずっと強い感覚が内在している。それと意識が同時に存在しているわけだから、わたしたちがこの粗雑な世界で経験して いる経験と同じレベル、あるいはそれ以上の経験をしているといってもよい。
◎六つの感覚要素と対象
 この形状-容姿と心の要素は、六つの感覚要素と対象を働かせることになる。この六つの感覚要素と対象というのは、眼識、耳識、鼻識、舌識、触識、意識の 六つである。この言葉をもっとわかりやすい言葉で表現するならば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして意識ということになる。
◎接触→感覚
 この六つの感覚の要素が対象と接触するようになる。つまり、このとき他の真我も同じように落下のプロセスをたどっているわけである。それによって、感覚が生起する。
◎渇愛
 感覚が生起することによって、渇愛【かつあい】が生じる。つまり、その対象を求めたいという心が生じるのである。
 なぜ初めから求めたいという心が生じるのか。これはもうすでに、十二の条件生起の段階の説明を理解すればわかるとおり、その前の段階で経験の構成、それ から識別という作用をわたしたちは内在しているわけだから、その識別の中でよいと思うもの、美しいと思うもの、あるいは感覚的に素晴らしいと思うものに対 して渇愛が生じるのである。
◎とらわれ
 そして、渇愛が生じるがゆえにとらわれが生じるのである。
 これは、例えばわたしの場合の例を挙げよう。わたしは、今生初めてコカコーラというものを飲んだ。初めてコカコーラを飲んだとき、コカコーラはわたしに とって大変刺激的な飲み物であった。決しておいしいという意識はなかった。しかし、それを二度、三度と飲んでいるうちにそれをおいしいと思うようになり、 飲みたいと思うようになった。これがとらわれなのである。
◎生存
 そして、いよいよ低位形状界へと落ちていくことになる。つまり、より具体的なものを求める状態が形成されてくる。そして、このとき対象に対してとらわれているから、もうすでにわたしたちは自由ではなくなっているのである。これが生存なのである。
◎出生
 そして、子宮に対して生存したがゆえに、そこから出生し、この愛欲界へと転生するのである。
 これが、十二の条件生起の段階である。つまり、十二の条件生起の段階とは、十二のわたしたちを落下させる条件を生起させるものという意味なのである。
◎苦しみ
 では、この生存、出産、そして現実の生活での生活、これに対して真理の教えではどのように考えているのだろうか。この生存は、そして出生は、わたしたちにとって苦しみであると考えるのである。
 では、なぜ苦しみなのか。それは、例えば形状-容姿と心の要素、つまり上位形状界で生活していたころに比べて自由が存在しないと。例えば歓喜が存在しないと、幸福が存在しないと。そういうことをしっかりと知っている魂は、この世が苦しみであると認識するのである。
◎死
 なぜ苦しみなのか。それは、例えばわたしたちがこの世に生まれて、いったい何歳まで生きられるだろうか。現実問題として、八十歳、あるいは百歳までと いった短い期間しか生きることができない。つまり、いかにこの愛欲の世界が楽しくとも、死ななければならないのである。これは、よって苦しみである。
◎老い
 あるいは、若いころはスポーツ、レジャー、恋愛等で自由である。しかし、年老いてくると肉体は動かなくなるし、感覚器官は弱ってくる。思考力はなくなる。よって不自由であると。つまり、老いという苦しみが存在すると説くのである。
◎病
 健康でいられるときは、わたしたちは快適な生活を送ることができる。しかしいったん病んでしまうと、わたしたちはその病によって苦しまなければならない。よって、病という苦しみは存在する。
◎悩み
 そして心においても、不運な出来事、悲嘆、苦しみ、激痛、悩み等の苦しみが存在する。
 もし、わたしたちが心の要素と形状-容姿の世界に安住することができるならば、これらの要素はずっと減少するし、あるいは真我の独存位の世界である完全煩悩破壊界に存在することができるならば、もっとわたしたちは自由で幸福で歓喜でいられるわけである。
◎苦しみからの解放
 よって、真理の実践者はその世界へ帰ろうと努力を始めるのである。
 では、何を努力するのか。それは苦しみからの解放である。そして、そのために真理のいろいろな教えが存在し、そしていろいろな実践が存在しているのである。
◎信
 そして第一番目には、その真理の教えに対しての信を持つことから始まる。つまり、苦しみありて信ありなのである。そして信を持つことにより、わたしたち が高い世界を経験するためのクンダリニーの覚醒、これに導いてもらえるように、クンダリニーを覚醒してもらえるように、グルに対して帰依をするわけであ る。
◎歓喜
 そしていろいろな修行法の伝授を受け、クンダリニーが覚醒する。クンダリニーが覚醒することによって歓喜が生じてくる。これは、肉体的な部分で歓喜が生じるわけである。
◎喜
 そして、この肉体的な歓喜によって、心に喜が生じてくる。この喜というのは、何もしないのに心が大変明るい状態を指すのである。
◎静寂
 そして、この心の喜びは心に静寂をもたらすのである。大変静かな心の状態をもたらすのである。
 ここで一つ注意をしておきたいことがある。よく外道の修行で寂静といっているのは、この心の静寂の状態を指している。しかし、実際この心の静寂は、まだ修行の途上なのである。
◎楽
 そして、この心の静寂は心身に楽を与えるのである。この楽の状態に入ると、煩悩が少しは生じるわけだが、その煩悩の量は普通の人に比べてずっと少ない。それによって、この現象界で与えられるものは大きくなるわけである。
 これはどういうことかというと、わたしたちの欲求が小さく、しかしこの現象界で与えられる喜びが大きい、つまり、わたしたちの欲求しているものより与え られるものが大きいわけだから、当然わたしたちは、それらの要素に対して満足し、そして心、肉体ともエネルギーに満ちあふれ、楽を経験するのである。
 この楽はわたしたちの真我をこの肉体から離脱させる方向へと向かってくる。
 そして、サマディに至るのである。
◎サマディ
 このサマディとは、五つのとらわれの集積に縛られている真我を解放するプロセスである。そして、それには四つの段階があるのである。
◎第一サマディ
 その第一段階のサマディは、種々の愛欲を遠離【おんり】する、つまり愛欲から離れることから始まるのである。そして、愛欲界の構成要素である不善の法則 を遠離し、思索し、煩悩を弱める。つまり、有熟考にして、有吟味にして、遠離からわたしたちは大変な平安を生じるわけだが、この平安、これこそが第一の静 慮【じょうりょ】といわれているステージなのである。
◎有熟考、有吟味
 この有熟考とは、対象に対して深く考えることであり、有吟味とは、対象に対してそれを選択し、データとして内在させるか、あるいはそれを捨断する作業である。
◎捨断
 そして、捨断とは必要でない心のデータ、心の働き、言葉遣い、行為を完全にやめ、二度と生じなくさせることなのである。
◎第二サマディ
 サマディの第二段階に入ると、思索を完全に止めてしまう。また、逆の言い方をすれば、思索が止まった段階、何も考えていないような状態、これが第二段階 のサマディなのである。このとき、雑念から完全に解放されているから、心の中は落ち着き、そして精神は一点に集中するようになる。このときは真我はより深 い状態に入り、熟考、吟味を完全にやめてしまっている状態である。この状態によって喜と楽が生起している状態、これが第二段階のサマディなのである。
◎第三サマデイ
 そして、第三段階のサマディは、心の喜びから離愛著することにより、諸現象に対して無頓着となる。ただ、このときはまだ記憶修習【きおくしゅじゅう】の みが存在している。そして、この記憶修習によっていろいろな世界を正しい智慧によって観察する。そして、このときは完全に肉体がリラックスの状態に至る。
 この状態に入った聖人たちは、一切の諸現象に対して無頓着である。ただそこには記憶修習のみしかなく、また、その記憶修習が心身にものすごいリラックスを与えるのである。これが、第三サマディなのである。
◎記憶修習
 この記憶修習について説明しよう。記憶修習とは、教えを記憶する段階から、より深い意識へと、記憶したデータを根づかせるために繰り返し記憶する作業なのである。
◎第四サマディ
 第三サマディの次は、いよいよ第四サマディの段階に入っていく。これは、感覚の生起のところでも説明したが、感覚というものは楽の裏側には苦しみが存在する。よって、最終的には平坦な水、波立たない水のように楽を捨断しない限り、苦しみも捨断できないわけである。
 よって、この第四の静慮においては、楽と苦しみを完全に捨断することになる。そして、楽と苦しみが捨断されたがゆえに、以前の幸福と落胆とを完全に全滅することとなる。つまり、この段階において経験の構成が静止したかのように見えるのである。
 このときの意識の状態は不苦不楽である。不苦不楽なるがゆえに、完全なる無頓着の状態が生じ、ただ記憶修習のみが存在している。そして、意識状態は完全に純粋でピュアな状態を形成している。この状態が、第四サマディなのである。
◎如実精通見解
 そして、この第四サマディを通過すると、如実精通見解【にょじつせいつうけんかい】へと至る。では、この如実精通見解とは何であろうか。これは、別名、五つの神通【じんつう】のことである。
◎神足通
 第四サマディの最終段階では、頭頂から別の身体を抜け出すこととなる。このときの身体は、幻影の身体とも、あるいは化身【けしん】とも呼ばれる身体であ る。そして、この身体はこの大地に足をつけることもできるし、大地から足を離すこともできるし、行きたいところに自由へ行くことのできる身体である。そし て、この形状-容姿を心の働きによって自在に変化させることのできる身体なのである。
 この身体の特徴は、一つの形がいろいろな形に変化したり、あるいはテレポーテーションをしたり、あるいは城壁や塀や山やあるいはビルや、すべてのものを 自在に越えることができるのである。そして、この身体はいっさいのものと接触をしない。よって、例えば壁を通り抜けるときも、それはちょうど空間のような 状態で通り抜けるのである。そして、この大地についても同じで、この大地の中に潜ることもできるし、あるいは大地の上へ浮き上がることもできる。これは、 ちょうど水の上のような状態なのである。また、水上を歩くこともできるし、空中を自在に飛行することができるのである。また、この身体はその世界に存在す る月や太陽についても直接触れることができ、すべての世界に対して、例えば形状界の世界に対してまでも自在に至ることができるのである。これが、初めに備 わる正精通なのである。
 わたしの場合も、渋谷に道場を開いて修行していた一九八四年に、この状態を経験した。実際に肉体の頭頂から身体が抜け出し、そしてドアを通り抜け、壁を通り抜けるのである。また、行きたいところへ自在に行けるのである。
◎天耳通
 次に生じる精通は、天耳【てんに】世界の精通である。これは、その人の持っている表象が完全に浄化されたときに起きる状態で、その浄化によってこの世界 やあるいは天耳世界が完全にクリアとなり、天の神々や人間、あるいは近くや遠くのいろいろな声をまさに間近で聞くことができるのである。
 ここで天耳通について、もう少し科学的に検証しよう。これは近ごろわたしが完璧に悟り得たことなのだが、この天耳通の原理というものは七万二千本のナーディーによるものと思われる。
◎ナーディー
 わたしたちの身体には七万二千本のナーディーが存在している。この七万二千本のナーディーとは何かというと、微細な身体を構成しているエネルギーの流れ道なのである。
 この七万二千本には二つの考え方があり、つまり血管等を含むという考え方と含まないという考え方があるが、わたしは含まないというふうに解釈している。
 そして、この七万二千本のナーディーは、外界のいろいろなヴァイブレーションを受けることによって振動し、それを真我が受け止めるのである。つまり、七 万二千本の弦がこの身体に存在し、その身体の弦が外界のヴァイブレーションを受けることによって振動する。そして、その音を聞いているのである。
 ところで、近ごろシンセサイザーで声のサンプリングができることを皆さんご存じだろうか。つまり、わずかに十二ぐらいのキーボードしかないのに、わたし たちの声を表現できるのである。ましていわんや、七万二千本という大量の、ここに弦楽器が存在しているならば、いかなる音、つまり声をも再現できるのは当 然のことと言わざるを得ない。
 もし、この弦の五割でも六割でもが振動しなかったらどうだろうか。当然、わたしたちはその声を正確に、あるいは音を正確にとらえることはできないのであ る。よって、ナーディーを浄化すること、管を浄化することは、正確に外界のヴァイブレーションを理解するために必要なことなのである。
◎他心通
 次に如実精通見解が生じるもの、これは他心通である。これは、先程の天耳通よりもう一歩深く突っ込んだナーディーの働きであると考えることができる。この状態は、例えば他の生命体や他の魂の心の働きを、その発するヴァイブレーションによって認識し、理解するのである。
 例えば、その対象が愛著を持っているとするならば、その愛著を愛著ある心として理解し、またその対象が愛著を持っていなければ、その対象が愛著を持って いない心であると理解するのである。また、その対象が他に対して邪悪心があるとするならば、その対象が邪悪心のある心であるということを理解し、また、邪 悪心をその対象が離れているとするならば、その対象が邪悪心を離れている心と理解するのである。また、その対象が迷妄を有しているならば、迷妄を有してい るというふうに理解し、迷妄を有していないとするならば、迷妄を有していないというふうに理解するのである。
 また、その対象の心が閉鎖的な心であるとするならば、それは当然閉鎖的な心であると理解するだろうし、その対象が心が散乱しているとするならば、その心 の散乱を当然理解することができるのである。また、その対象の心が広がりのある心であるとするならば、それを当然大いに広がりのある心であると認識できる し、その対象が広がりのない心であるならば、当然大いに広がっていない心であるというふうに理解するのである。
 例えば、その魂が徳性においてより優れたものを持っているとするならば、それを当然しっかりと見抜くことができるだろうし、例えば、その対象が最高の心を持っているとするならば、当然その対象が最高の心を持っていると理解できるのである。
 もし、対象がサマディに入っているならば、その対象を見てサマディに入っているということが理解できるし、もし、その対象がサマディに入っていないならば、それをサマディに入っていないと認識し理解することができるのである。
 また、対象がもし離解脱しているならば、その対象の心を見て離解脱しているということを理解することができるし、もし、その対象がいくら自分は離解脱し ているんだといっても、離解脱していなければそれを離解脱していない心であると認識し理解することができるのである。これが他心通なのである。
 よく日本の教えの中で、他心通イコール他人の心がちょっとわかるということがあるが、そうではなく、これだけ大きな幅が他心通には存在しているのである。
◎宿命通
 次は、宿命通【しゅくみょうつう】である。宿命通とは、わたしたちの前生を知る力である。これはもちろん、個人の前生をまず知る力であり、派生して他人の前生をも知ることができる力ということになる。
 これは、様々な前生の生き様を思い出す力ということができる。そして、これは修行の度合によって、一生、二生、三生、四生、五生、十生、二十生、三十 生、四十生、五十生、百生、千生、十万生、多くの還元期、多くの再生期、多くの還元期と再生期において、わたしはその生ではこのような名前であり、このよ うな家系に属し、このような身体とこのような顔つきであり、このような食物を食べ、このような苦しみと楽を経験し、そして、その生の最期はこのようであっ た、そして、その最期から死後、次の生は別のこういう世界であった、というふうに思い出すのである。
 そして、そこでもまたこのような名前であり、このような家系であり、このような体と顔つきであり、このような食物を食べ、このような苦しみと楽しみを経 験し、そして、その生の最期はこうであった、というふうに思い出すのである。そして死んだ後、この人間の世界へ転生したというような形で思い出すのであ る。
 わたしも実際、多くの生を思い出している。そしてこのときは、その状態と、そして光り輝く空間と説明との三つが存在しているのである。
◎死生智
 この宿命通まで終わると、次は死生智へと至る。この死生智とは何かというと、自分のカルマがどのようなふうに現われ、そして来世が形成されるのかということを理解する力ということになる。
 このときにポイントになってくるのは、より上のナーディーが浄化されていなければならないということなのである。それにより、「第三の目」の部分が完全に透明になり、その透明なナーディーと透明な意識状態によって天眼【てんげん】を生じる。
 そして、その生命体の死および転生を見て、その生命体がその死ぬまでの間に、どういう善業と悪業と、あるいは善業でも悪業でもないカルマを積んだかに よって、卑しい転生であったり、あるいは高貴であったり、あるいは器量が良かったり、醜い身体であったり、あるいは幸福な次の生であるか、苦しみの生であ るかをしっかりと見て、認識し理解するのである。
 それは、ちょうどこのような形で説明することができるのである。例えば、ある人がいたとし、その人は身において悪業をなし、言葉において悪業をなし、心 において悪業をなし、そして真に聖者を誹謗し、誤謬見解【ごびゅうけんかい】を抱き、そして誤謬見解を抱いたがゆえに、悪業の蓄積という誤謬見解の蓄積を なしたとしよう。この魂は、当然地獄へと転生する。地獄については前項で説明したから、ここでは触れないことにする。
 逆にまた別の人がいて、その人が身において善行をなし、心において善行をなし、言葉において善行をなし、そして真に聖者に対して布施や奉仕、あるいは言 葉の供養等をなしたとしよう。つまりその人の経験の集積は善行だけであったとしよう。つまり、これは正しい見解にのっとり、正しい見解の実践をなしたとい うことと同じことになるわけだが、この魂は、当然幸福だけの世界である天界へと転生するのである。
 これらのことをしっかりと見、理解する力、これが死生智なのである。
◎現世否定
 そして、この死生智まで到達すると、魂は、当然この現実生活がわたしたちにとって悪業を蓄積するものであるということを理解するようになる。つまり、ここで生じてくるのが現世否定なのである。
◎離愛著、離解脱
 そして、偏った愛著、とらわれは、わたしたちをこの愛欲の世界へと縛りつけ、あるいは上位形状界への道を捨断するということが理解できるようになる。そ れによって、現世否定、離愛著の状態が生じ、そして漏尽【ろじん】の状態へと至るのである。離解脱は別名漏尽ともいえる。
◎漏尽通
 では、漏尽通について説明をしよう。この離解脱には二つのプロセスがある。
 第一のプロセスは、智慧の離解脱である。智慧の離解脱というのは、まず心において現世否定、離愛著をなすのである。つまり、この現世否定、離愛著の記憶 修習を徹底的に行ない、心に生起したものを一つ一つ精神集中によって破壊するのである。これによって生じる解脱、これが智慧の離解脱なのである。
 そして、その後に来る心の離解脱は、完全にその心の中にあるけがれが破壊されてしまい、けがれが破壊されるがゆえに、心は完全に絶対的な空を経験するのである。これが、心の離解脱なのである。
 そして、この心の離解脱まで到達した魂を最終解脱者と呼ぶのである。
●三、下向と上向
◎クンダリニー
 では次に、わたしたちの下向と上向についての話をしよう。下向とは三悪趣【さんあくしゅ】を指し、上向とは天を指す。そして、このキーポイントとなるエネルギー、それがクンダリニーなのである。
 いったい、クンダリニーとは何であろうか。クンダリニーとは、わたしたちの尾てい骨のところに眠っている内なるエネルギーである。しかし、この内なるエ ネルギーはわたしたちの身体に大きな影響を与えることができる。つまり、内なるエネルギーは単なる精神的エネルギーだけではなく、肉体的エネルギーだとい うこともできるのである。
 では、このエネルギーがもし眠りから覚めたらどうなるのだろうか。当然それは、わたしたちの背骨に沿って存在するスシュムナーというクンダリニーの道を上昇し、サハスラーラへと到達する。このとき、七つの霊的センターであるチァクラを貫いて上昇するのである。
◎三悪趣へ、天界へ
 もし、この霊的センターが覚醒せず、わたしたちが悪業を積み続けていたら、どこへ至るのだろうかと。それは、三悪趣へ至るのである。では、三悪趣とは何かというと、これは激苦地獄、動物、低級霊域という三つの苦しみの世界を指すのである。
 もしわたしたちがクンダリニーを覚醒させ、そしてクンダリニーの道をしっかりと修行していったならば、どこへ至るのだろうか。それは、当然天界へと至ることができるのである。
◎神
 では、神とは何であろうか。
 この神というのは、大変な曖昧語である。しかし、神を定義するならば、意識堕落天から、非認知非非認知境までの間に住んでいる魂ということになる。これ らの魂は、前生における素晴らしい功徳の蓄積によって、わたしたちより高い世界へ生まれ変わり、そこで生命活動を営んでいるのである。もちろん、神という ものは徳の力によって、わたしたちより偉大な力を有している。
●四、創世期
◎光音天
 真我は、この宇宙の還元期のとき、徳のある魂として光音天界へと転生する。この光音天界とは、光天とそして美天とを総称した天界である。この光音天へ転生した魂は、中間的創造の世界へと転生を始めるのである。
 ここで少し、光音天での魂の生活を説明しよう。光音天の魂は、空中を飛行し、意識体として生活し、そして、純粋に清らかな素晴らしい喜びのフィーリングを与えてくれるエネルギーを食べる。その世界においての身分の上下というものは存在しない。
◎十字金剛
 しかし、この世界の状態が永遠に続くわけではない。還元期の一カルパ、あるいは二カルパの後、大虚空に緑色の金色に光る十字金剛が現われる。そして、この十字金剛の上にくびき型の雲が現われ、そしてものすごい量の雨を降り注ぐのである。
 このくびき型の雲は黄金色で、そしてこの緑色の十字金剛は風元素の集積である。つまり、強烈なる風のエネルギーの凝縮なるがゆえに、くびき型の雲から降り注がれた雨水はその十字金剛内に蓄えられ、そして大海のようになったのである。
◎オレンジ色の楕球
 次に、十字金剛を包むようにオレンジ色の楕球が現われる。そして、このオレンジ色の楕球にも同じように雨が降り注がれる。
 ところで、ここで一つ注意をしておかなければならないことがある。それは、この雨というのは実際には雨ではなく、水元素なのである。当然この世界は、成 分の劣悪なもの、つまり比重の重たいものが下へと沈み、成分の中等度のものが中間に存在し、そして上等のもの、つまり成分的に軽いものが上へと至る。そし て、この劣悪なものが大陸を形成する。その大陸の中央が、完全無欠山なのである。
◎四つの大陸
 そして、その四方に四つの大陸が存在している。この四つの大陸は、順に東から、「高貴なる身体を得る大陸」、南が「バラリンゴの大陸」、西が「願いがかなう牛の大陸」、北が「悪しき音の大陸」である。そして、これをオウム真理教では、プレートだと考えているのである。
◎八つの島々
 そして、この四つの大陸には、それぞれ二つの島が左右に存在している。そして、東は「身体」という島と「高貴なる身体」という島、南は「尾状の扇」とい う島と「別の尾状の扇」という島、西が「動き」という島、そして「完全な道を踏む」という島、北が「悪しき音」という島、そしてもう一つの島が「悪しき音 の月」という島である。そして、わたしはこの日本はこの「悪しき音」の島であると考えているのである。
◎完全無欠山
 次は、完全無欠山の説明をしよう。完全無欠山の頂上には、先程も述べたとおり三十三天の神々が生活している。そして、東のふもとには堅固王国天の神々が 生活し、南の面には成長天の神々が生活し、西側には統治変化自在天空天が生活し、そして北側には守庶民外傷天が生活しているのである。
 そしてこれは、海面から山半分の高さまでに四つの段が存在している。
 そして、完全無欠山の色は、東が水晶の色である。南がアクアマリンの色である。西がルビーの色である。そして北は黄金の色である。そして空はそれぞれの色をはっきりと反射しているのである。
◎完全無欠山の外輪山
 次は、完全無欠山の外輪山の説明に移ろう。内側から順に、くびきの形をした山、鋤【すき】の形をした山、「アカシアの木の場所」という山、「見て美し い」という山、「馬の耳」という山、完全に折り曲がった山、外周を形成する山。そして、それらの間の空間は湖を持っていて、そこには意識堕落天が生活して いるのである。
 この詳しい説明については、『創世期』に詳しく述べられているから参考にしていただきたいと思う。
●五、輪廻転生
◎輪廻
 輪廻とは、わたしたちが死に、そして中間状態を通過し、子宮に入るまでの、あるいは天界や地獄の身体を得るまでの状態をいう。つまり、生まれ変わりの状態を輪廻という言葉で表わしているのである。
◎四つの再生の仕方
 この再生の仕方には四つあり、第一は卵による発生、これは皆さんもご存じのとおり、例えば鶏、アヒル等の鳥類、あるいは爬虫類【はちゅうるい】などがこれに属している。
 第二は胎生である。胎生は、これは人間などがそれに属しており、子宮に転生するのである。そして、この子宮に転生するものは、動物、人間、低級霊域、そして意識堕落天がこれに属している。
 それから、第三番目は熱による発生である。この熱による発生は、昆虫その他がそれに属しているといわれている。
 そして、第四番目が奇跡的な発生である。これは地獄の一部や、あるいは戯れ堕落天などがこれに属する。ちなみに、戯れ堕落天は蓮華の花から生まれるのである。
 経典にはこのようにうたわれているが、わたしは実際経験から、肉体から死後抜け出した魂は、そのまま天界へ至り、天界の神として生活するように思われる。
◎バルドー
 次はバルドーである。
 バルドーとは中間状態を意味している。例えば、夢というのは今日から明日までの中間状態であり、例えばサマディというのは、サマディに入る前からサマ ディから出た後までの中間状態を指し、そして死というのは、今生の終わりから来世の始まりまでの中間状態を指す。これをバルドーというのである。
 ここで特に重要なバルドーは、死のバルドーである。死のバルドーは、上位非形状界のバルドー、そして上位形状界のバルドー、そして下位形状界のバルドーの三つに分類することができる。
◎上位非形状界のバルドー
 まず、わたしたちは死後、約三日から三日半、この上位非形状界のバルドーに安らぐことができる。これは、心の本質、そこには光、空間しか存在しない世界 に安らぐのである。しかし、現代の日本人は精神性が全く低いため、この三日間、あるいは三日半のバルドーを経験することはできない。この状態は、瞬間的に 通過すると考えてもよろしい。
◎平和の神々のバルドー
 そして、この次に来るバルドーが上位形状界の平和の神々のバルドーである。このバルドーは、わたしたちが死の前の生においてどれだけの真理の実践をなし たか、特にこれは上座部の教えを実践したかということがポイントになってくる。上座部の教えとは何かというと、これは原始仏教のことである。
 では、キリスト教、その他の宗教を実践した人はこの上位形状界の平和のバルドーを経験できないのかというとそうではない。この上座部の教えの一部は、当 然キリスト教やあるいはユダヤ教、イスラム教等にも存在しているから、その人がどれだけ真面目に、例えば戒律を守ったかだとか、あるいはどれだけ真理にか なった教えを実践したかによって決まってくるのである。これは約一週間続く。
◎恐怖の神々のバルドー
 次に訪れるバルドーは、上位形状界の恐怖の神々のバルドーである。これは、タントラの修行やあるいはヴァジラヤーナの修行を行なった者たちが経験するバルドーである。日本では、念仏修行などを行なった魂が経験するバルドーと考えてよろしい。
◎下位形状界のバルドー
 そして、これらの上位形状界のバルドーを通過した後、下位形状界のバルドーを経験するのである。この下位形状界のバルドーは、全くもってこの欲望の世界 の裏側に属する世界であるから、わたしたちがこの現実世界の経験、あるいは動物や低級霊域や激苦地獄の住人が経験している経験、あるいは意識堕落天や戯れ 堕落天が経験しているような経験、これがいろいろな形のヴィジョン、あるいは経験としてわたしたちを待ち受けている。そして、わたしたちはそのどれか一つ に巻き込まれ、生まれ変わるのである。
◎カルマ
 ところで、これらの生まれ変わりにおいて、絶対に知っておかなければならない言葉がある。それは、カルマである。では、このカルマとは何であろうか。
 このカルマとは、日本の一般的な意味合いでは悪い行為、悪い結果を指すが、実際はそうではない。カルマとは、いいも悪いもなく、因がその条件を満たした 段階で結果を招くということを意味しているのである。例えば、善因は果報として喜びを受け、悪因は果報として苦しみを受ける。善因でも悪因でもないもの は、善でも悪でもない果報を受ける。これがカルマであり、カルマの法則なのである。
■第三章 人間の構成要素
●一、五大エレメント
◎五大エレメント
 では、次に人間を構成するものに入っていこう。人間を構成するものにおいて、まず知っておかなければならないのは五大エレメントである。
 この五大エレメントとは何かというと、地【ち】・水【すい】・火【か】・風【ふう】・空【くう】を指す。まずこれには粗雑な地・水・火・風・空と微細な地・水・火・風・空が存在している。
◎地元素
 粗雑な地・水・火・風・空については、まず地とはこの肉体、肉のことである。例えば骨は地元素に属し、あるいはこの筋肉は地元素に属すといったような形で固定的な形を持ったもの、これが地、つまり地元素なのである。
◎水元素
 では、水とは何であろうかと。これは、例えば血液、精液、胆汁といった水分に属するものを水元素と呼んでいる。
◎火元素
 では、火元素とは何であろうか。これは、わたしたちの体温を形成しているものである。ということは、これは当然、酸素の燃焼というふうにとらえてもいいと思う。
◎風元素
 では、風元素とは何であろうか。風元素とは呼吸である。つまり、わたしたちは外界から酸素を吸収し、それを燃焼させる。高いエネルギーである酸素が肉体 に入り、ヘモグロビンと結合し、そして使われ、二酸化炭素となって排出される。この前段階の空気の取り入れ、これを表わしている。これが、風元素である。
◎空元素
 では、空元素とは何であろうか。これは空間である。例えば、鼻の穴、あるいは口の中といった空間が存在している。
 そして、わたしたちの肉体はこの五大エレメント、地元素・水元素・火元素・風元素・空元素によって構成されているのである。
◎微細な五大エレメント
 では、微細な五大エレメントとは何であろうか。これは、粗雑次元から微細次元へ移行する、エネルギーの低い次元から高い次元へ移行することを表わしている。
 例えば、固体を加熱するとどろどろの液体になる。液体を加熱するとそれが炎となり、プラズマ化される。そして、それにもっとエネルギーを加えるとそれが核融合を起こし、そしてそれに対してもっとエネルギーを加えると、それは純粋な光へと昇華すると。
 これは何を意味するかというと、地元素から水元素、水元素から火元素、火元素からから風元素、風元素から空元素へとエネルギーが昇華していることを意味している。つまり、微細な五大エレメントとはエネルギーのことなのである。
●二、五種の気
◎五種の気
 次に、五種の気について説明しよう。身体を動かしているものに、五種の気がある。この五種の気とは、アパーナ気、サマーナ気、プラーナ気、ウダーナ気、ヴィヤーナ気のことである。
◎アパーナ気
 アパーナ気は、へそから足の裏にかけてあり、色は煙色である。身体のけがれを取り去り、排せつ物を下降させたり、興奮状態を静め、精神安定や安眠をもたらすといった働きがある。
◎サマーナ気
 サマーナ気は、心臓からへそにかけて働いている。色は赤である。食物を消化し、養分を体中に巡らせるといった働きがある。
◎プラーナ気
 プラーナ気は鼻先から心臓にかけてあり、色は黄金色である。プラーナ(宇宙エネルギー)を呼吸とともに体内に入れる働きをする。
◎ウダーナ気
 ウダーナ気は、鼻先から頭にかけてある。色は青紫であるが、他の色に変化することもある。エネルギーを上昇させる働きがある。そのため、気分が沈んでいるときに、ここに精神集中をすると気分が高揚する。
◎ヴィヤーナ気
 ヴィヤーナ気とは、全身にわたって身体を守っている「オーラ」のことである。
●三、三体質と四つの体質
◎三体質
 では次は、わたしたちの体質について説明をしよう。わたしたちの体質は、胆汁【たんじゅう】、粘液【ねんえき】、風【ふう】の三つに分類することができる。
 粘液とは、例えば粘膜に付着しているどろどろしたものであり、あるいは唾等である。そして胆汁とは、これは明らかに胆のうから出ている消化剤である胆汁である。そして、風とはわたしたちの七万二千本のナーディーをかけ巡っているエネルギーを指すのである。
 これらの粘液、胆汁、風は、これは、タマス、ラジャス、サットヴァと関係しているのである。
◎粘液
 つまり、粘液質が強くなると当然わたしたちの水元素が強化され、そして粘りが強くなるがゆえに現象が動かなくなる。それにより病にかかると。例えば例を挙げるならば、知覚鈍麻だとか、あるいは健忘だとか、あるいは動きそのものがスローモーだとかいうことである。
◎胆汁
 そして、この第二番目の胆汁体質は、これは火元素と関係があり、わたしたちを活発に動かす力である。しかし、この粘液と胆汁のバランスが狂うと当然活発 化はするわけだが、その火の影響によってわたしたちの身体を焦がしてしまう。例えば、熱の病などが、あるいは炎症などがこの胆汁の障害によって起きると考 えられている。
◎風
 そして、三番目はサットヴァと関係する風の働きである。この風は、わたしたちの意識を動かすエネルギーであるともいわれている。この風の働きが阻害されると、わたしたちの智慧は低下し、頭痛、吐き気、あるいは痛み等にさいなまれなければならないのである。
 なぜ風の働きが乱れると痛みが出てくるのかと。それは、これを考えてほしい。ここに一本のホースがあったとして、そのホースの一部分を締めつけたと。す ると、水を流したとしてもその締めつけられている部分を通るとき、ものすごく大きな抵抗があるはずである。この抵抗こそが痛みの根本なのである。
◎ルン・トラブル
 そして、これがルン・トラブルである。ルン・トラブルとは、エネルギーの障害によって起きる様々な苦痛のことである。
◎ヒポクラテスの四つの体質
 それでは、参考までに、ここで三体質と大変似ているヒポクラテスの四つの体質を検討してみよう。
 ヒポクラテスは、紀元前四六○年~三七○年ごろに存在した偉大なる医者であった。彼は人間の体質を四つに分類した。第一は多血体質であり、第二は粘液体 質であり、第三は胆汁体質であり、第四は黒胆汁体質である。そして、当然この多血体質が風と関係あることは、読者の皆さんもおわかりであろう。
●四、五行と六淫
◎五行
 次は、五行について説明をしよう。
 五行とは、木【もく】・火【か】・土【ど】・金【ごん】・水【すい】を指す。この木・火・土・金・水とは何かというと、これは、エネルギーの相生【そうしょう】、あるいは相克【そうこく】、あるいは比和【ひわ】を指すのである。
◎相生
 例えば、木から火が生じ、そして、その木と火によって土が生じ、その途中には当然、その土の塊である金属が生じる。そして、金属を熱で熱すると、ドロド ロとした液体が生じる。これが、木・火・土・金・水の流れである。そして、この液体は、次にまた木の養分として使われる。これを相生という。
◎相克
 そして、相克とは、例えば木は土を抑えると。これは、木が土の中に生存すると、当然その土は養分を失い、力を失うということから表現されている。また、 ここに例えば、貴金属やあるいは宝石の鉱石があったとして、その鉱石や貴金属を強烈に熱するとそのものが熔け出し、そして全く価値をなさなくなる。例え ば、ダイヤモンドなどはその典型で、高熱で熱すると炭素となって消えてしまう。このような考え方が相克である。
◎五つの臓器
 そして、これらの木・火・土・金・水の五行の考え方が身体に当てはめられ、肝【かん】・心【しん】・脾【ひ】・肺【はい】・腎【じん】という五つの臓器における機能を表わすカテゴリーとして分類される。
 そして、例えば、肝機能を強めれば心臓機能が強まるだとか、心機能を強めれば脾臓の機能が強まるだとか、あるいは、逆に肝機能が強まりすぎると脾臓が弱まるだとかいう理論がそこから出てくるわけである。これは、現代医学的な考え方とも一致している面が多い。
 これらの五行の理論を理解することによって、わたしたちはより優れた肉体を構築することができるようになるのである。
◎六淫
 では次に、どのような条件によって病にかかるのであろうか。これは、東洋医学の根幹の一つをなす中国医学に目を向けることによって、はっきりとその原因を理解することができる。
 これは、特に六淫【ろくいん】論によって見ることができるのである。では、六淫とは何であろうか。これは、風邪【ふうじゃ】、火邪【かじゃ】、暑邪【しょじゃ】、寒邪【かんじゃ】、湿邪【しつじゃ】、燥邪【そうじゃ】の六つに分けることができる。
◎風邪
 これはどういうことかというと、まず風邪とは、例えば風に当たると風邪をひくだとか、例えば風に当たると脱水を起こす等なのである。
 そして、この風邪は、風の働きによって神経等に痛みが出る場合、あるいはエネルギーの障害等を指す場合もある。
◎火邪
 そして、火邪とは、例えばやけど等を挙げることができる。
◎暑邪
 暑邪とは、暑いところにいるとそれによって脱水を起こす等である。
◎寒邪
 そして、寒邪とは、例えば寒いところにいると体が冷えて冷えの病を起こしたり、あるいは体に痛みが出たりする。これが寒邪である。
◎湿邪
 そして、湿邪とは、例えば湿り気の多いところにいるとむくみの病等にかかりやすい。これが湿邪である。
◎燥邪
 燥邪とは、乾燥しているところにいると、神経に痛みが出てくる。これが燥邪である。
 これらの病の原因によって、わたしたちは病を起こすのである。
●五、チァクラと五つの身体
◎チァクラ
 それでは、わたしたちが修行に入ると、どのようなプロセスによって修行が進んでいくのだろうか。
 まず、それは前項にも述べたとおり、わたしたちの尾てい骨にある神秘的なエネルギー、クンダリニーが覚醒する。
 クンダリニーが覚醒することによって、ムーラダーラ・チァクラ、スヴァディスターナ・チァクラ、マニプーラ・チァクラ、チャンドラ・チァクラ、スーリ ヤ・チァクラ、アナハタ・チァクラ、ヴィシュッダ・チァクラ、アージュニァー・チァクラ、サハスラーラ・チァクラを一つ一つ解放していく。そして、この九 つのチァクラはそれぞれの世界へと通じているのである。
 チァクラとは、人間の身体にある霊的なセンターで、だれでもそれぞれの場所に持っている。しかし、普通の人はそれが眠った状態で働いていない。修行によるクンダリニーの上昇と共に開発されていくものである。
 主なものは、ムーラダーラ、スヴァディスターナ、マニプーラ、アナハタ、ヴィシュッダ、アージュニァー、サハスラーラの七つである。チャンドラとスーリ ヤは、この七つのチァクラに比べると五分の一程度の大きさしかない。チァクラは身体の下部に位置するものに比べ、上部へ行くほど次元が高くなっている。
◎ムーラダーラ・チァクラ
 それぞれのチァクラについて簡単に述べよう。
 ムーラダーラ・チァクラは、霊視をすると暗い赤色で逆三角形をしている。
◎スヴァディスターナ・チァクラ
 スヴァディスターナ・チァクラは八枚の花弁を持っている。花弁の中心は半月形が見える。色はオレンジ色で絶えず振動している。
◎マニプーラ・チァクラ
 マニプーラ・チァクラの形は四角形で、色は輝くような藍色である。
◎チャンドラ・チァクラ
 チャンドラ・チァクラは、白い満月のような色と形である。
◎スーリヤ・チァクラ
 スーリヤ・チァクラは小さな太陽のような形で燃えるようなオレンジ色をしている。
◎アナハタ・チァクラ
 アナハタ・チァクラは三つあり、一つは右乳頭、もう一つは左乳頭で、残る一つは左右の乳頭を結ぶ線と正中線が交わる点にある。左のチァクラは黄金色で、 正中線上にあるものはスカイ・ブルー、右は深紅である。形はそれぞれ、左が十二花弁を持った六角形、中心は十枚の花弁を持った五角形、右は花弁を持たない 円である。
◎ヴィシュッダ・チァクラ
 ヴァシュッダ・チァクラの色は灰色。十六枚の花弁を持っていて円形である。
◎アージュニァー・チァクラ
 アージュニァー・チャクラの花弁は大きく分けて二枚である。そして、それぞれが四十八枚に細分化されている。色は白銀、形は長円である。
◎サハスラーラ・チァクラ
 そして、サハスラーラ・チァクラは球状の薄いブルーの入った白銀である。
◎チァクラの解放
 では、この九つのチァクラが解放されると、どのようなわたしたちの煩悩が止滅していくのであろうか。
 まずムーラダーラ・チァクラが解放されると、わたしたちの邪悪心が止滅に向かう。スヴァディスターナ・チァクラが解放されると、わたしたちの性欲が止滅 に向かう。マニプーラ・チァクラが解放されると、わたしたちの食欲が止滅に向かう。チャンドラ・チァクラが解放されると、わたしたちのイメージによるけが れが止滅に向かう。スーリヤ・チァクラが解放されると、わたしたちの怒りが止滅に向かう。アナハタ・チァクラが解放されると、わたしたちの卑屈さが止滅に 向かう。ヴィシュッダ・チァクラが解放されると、わたしたちの嫉妬心が止滅に向かう。アージュニァー・チァクラが解放されると、わたしたちの現世の願望が 止滅に向かう。そして、サハスラーラ・チァクラが解放されると、わたしたちは解脱するわけである
 では、次はそこから現われる身体について説明をしよう。
◎五つの身体
 まず、身体には五つの身体が存在している。しかしこれは、派によって三つという場合もあるし、あるいは七つという場合もある。しかし、ここでは原則的に、五つの身体を挙げておこう。
 その五つの身体とは、変化身【へんげしん】、法身【ほっしん】、報身【ほうしん】、本性身【ほんしょうしん】、金剛身【こんごうしん】の順番である。
◎変化身
 まず変化身は、マニプーラ・チァクラから現われる。下位形状界の天界から地獄界までを体験することができる。また、愛欲界にも姿を現わすことができる。修行が進んでいる人が使える身体なので、感情もあまり動かない。救済者が人間界へ降りるときもこの身体を使う。
◎法身
 法身は、アナハタ・チァクラから現われる身体である。中位非形状界と下位非形状界で活動する。
◎報身
 報身はヴィシュッダ・チァクラから現われ、上位形状界で活動する身体である。
◎本性身
 本性身は、アージュニァー・チァクラから現われ、上位非形状界で活動する身体である。
◎金剛身
 そして、サハスラーラ・チァクラから現われるのが金剛身で、純粋真我の状態である。
●六、管・風・心滴
◎管・風・心滴
 わたしたちが、タントラ・ヴァジラヤーナの修行(これについては、第二誦品以降で詳述する)を行なう場合、三つの要素を昇華・浄化することによって解脱を速やかに得ることができるのである。それが、管【かん】・風【ふう】・心滴【しんてき】である。
 まず管とは何かというと、七万二千本のナーディーを指すのである。この管の中をエネルギーが流れている。このエネルギーが風なのである。そして、そのエネルギーに乗って動いているわたしたちの意識、これを心滴と呼んでいる。
◎管・風・心滴の浄化
 では、管の浄化とは何か。管の浄化とは、わたしたちの今までの経験におけるけがれ、これを止滅することである。
 では、風を上に向け、強めるとは何か。これは、わたしたちが善を行なうことや功徳を行なうこと、あるいは法則の実行を行なうことにより、より高い意識状態へ意識を向けること、これが風を上に向け、強めることなのである。
 では、心滴の浄化とは何か。これは、わたしたちが寂静の実行を行なうことによってのみ、心滴は浄化されるのである。
◎三つの管
 この七万二千本の管は、特に重要な三つの管を有している。この三つの管とは、中央のスシュムナー、左側のイダー、右側のピンガラである。
◎イダー管
 尾てい骨の左側から各チァクラを通過して、アージュニァー・チァクラの左側へと通っているのがイダー管である。この管は、迷妄のエネルギーを通す。つまり、この管が通っているとき、その人は迷妄に覆われるのである。
◎ピンガラ管
 同じように尾てい骨の右側から各チァクラを通過し、最後にアージュニァー・チァクラの右に至っているのが、ピンガラ管である。ピンガラ管は、わたしたち の邪悪心のエネルギーを運ぶ管である。この管が通っていると、わたしたちの身体は熱くなり、そして邪悪な心に支配される。
◎スシュムナー管
 そして、中央にあるのがスシュムナー管である。このスシュムナーは、わたしたちの愛著を通過させる管である。愛著とは、とらわれのことである。例えば性 的なことに対する愛著、食べることに対する愛著、こういうストレスのエネルギーがクンダリニーとなってここを上昇するのである。したがって、ここが通って いないと、クンダリニーの上昇は見られない。そして、愛著を招く。愛著を取り除くにはこのスシュムナー管を浄化する以外にはないのである。
◎三つの管の浄化
 スシュムナー管を浄化すれば、愛著が消える。イダー管とピンガラ管に関しては、迷妄のエネルギーと邪悪心のエネルギーが入っているときに、迷妄と邪悪心 が現われる。だから、この両管はどちらも詰まってエネルギーが通らないのが良いのかといったらそうではない。むしろ詰まっているのは最低である。なぜな ら、それは低次元の迷妄、あるいは邪悪心を意味しているからである。
 例えば、スヴァディターナ・チァクラで邪悪心のエネルギーが止まっていたら、その邪悪心は性欲に関係した邪悪心ということになる。一つ上のマニプーラ・ チァクラで止まっていたら、これは学問や才能に関係した邪悪心ということになる。つまり、このエネルギーは上へ行けば行くほど、質が高度になるのである。
 では、どうすればいいのか。修行のプロセスとしては、まずイダー、ピンガラの両管を完全に通して、迷妄も邪悪心も最高の質にまで高めてしまわなければな らない。そうした後、そのエネルギーをスシュムナー管へ移動して、愛著のエネルギーへと変えてしまう。これが、イダー管、ピンガラ管の浄化である。そし て、その時点で愛著というストレスのエネルギーが生まれる。それが、クンダリニーとなって上昇するというわけなのである。

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