生死を超える
■はじめに――幸福を求めて
「生きていくって、なんてつらいんだろう。」
ふと立ち止まっては、こんなことを思う。仕事がうまくいかない、生活が苦しい、現実に直面して夢敗れる、失恋、孤独……さらには逃れられない老い、病、そして死。どうしてこんなに苦しみが多いのだろう。まるで苦しむために生まれてきたみたいなものじゃないか。たいていの人間は、こんなことを考えるに違いない。でも、考えたからといって、それから離れることができるのだろうか。おそらくできないだろう。苦を背負ったまま、自分の心をごまかしながら生きていくのが普通であろう。
ところがわたしはそういう妥協ができなかったんだ。わたしだって、わたしなりの苦を持っていた。でも、自分をごまかすなんて、不器用なわたしにはできないことだった。普通だったら、死ぬしかないっていう状態だ。そこで何をしたかというと、「真の幸福」を探して、がむしゃらに精神世界に飛び込んでいったんだ。もともと物好きだったし、熱中すると我を忘れる性格だったからね。
それはもう、大変なことだった。なにしろ、だれも知らないことをやろうというのだから。文字どおり、暗中模索【あんちゅうもさく】の数年間だった。その途中では、人生のどん底に落ちて、辛酸【しんさん】をなめた時期もあった。苦をなくそうと始めたことが、いっそうひどい苦しみをもたらしたのだから、本末転倒だね。
しかし、わたしは「真の幸福」探しを放り出さなかった。なぜかというと、このころようやく手応えのようなものを感じていたからである。わたしはヨーガに巡り合った。そして、解脱【げだつ】によって生死を超越し、真の幸福をつかむことができると確信したんだ。
それからは黙々と、ヨーガ経典【きょうてん】を頼りに修行に励んだものだ。ヨーガというものは面白いもので、進歩を測るのに「超能力」を目安にする。つまり、どの超能力が身につけばどの段階か、ということがはっきりしているのである。もちろん、わたしも少しずつ超能力を獲得していき、いつしか超能力者と呼ばれるようになった。しかし、これはあくまでも付録で、最終目的は解脱だ。
やがてわたしは経典に書かれている、ヨーガの最終段階に到達した。ところが、それはわたしが求めていた解脱とは違っていた。まだまだ途中の段階だったのである。それを知ったときは、再び暗闇の中に放り出されたような気分だった。さて、どうしたものか。より高い段階へ行くには、どういう修行をしたらよいのだろうか。しばらくの間、停滞期が続いた。そして、あるときヨーガ発祥の地であるインドが、わたしを呼んでいるのを感じたのである。わたしは当時全く自分の時間がない状態であったが、意を決してインドへと飛んだ。何がしかのヒントを得られることを信じて。ところが、よっぽどわたしも気がせいていたんだろう。笑い話にでもなりそうな失敗をしてしまった。インドでわりと有名なヨーガ行者が、
「自分は解脱していて、解脱の方法を知っている。」
と言うのを信じて弟子になってしまったのである。彼をグル(導師)と仰ぎ、多額のドーネーション(布施)をし、教えを乞うた。しかし、何も教えてくれなかった。彼は、自分の豊かな生活を維持するために、なりふりかまわず奔走しているだけだったのだ。
しかし、二カ月以上に及ぶインド滞在が、結果的にはわたしに解脱をもたらす。わたしに必要だったのは、独りきりになることだったのだ(遠離【おんり】・離貪【りとん】の段階、その理由は第一章で詳しく述べてあるのでここでは省く)。ともかく、聖なるヒマラヤ山中で、独りきりで修行することができた。こんなことは、日本においては多忙を極めるわたしにとって、後にも先にもこのときだけだろう。これがインドに呼ばれた理由だったようだ。
まあ、このように紆余曲折【うよきょくせつ】の末、わたしは解脱を果たした。解脱とは期待に違わず、素晴らしいものだった。苦は滅し、生死を超越し、絶対自由で絶対幸福の状態――その表現には少しの誇張【こちょう】もなかった。あの釈迦牟尼仏【しゃかむにぶつ】も、この状態を得ていたのだ。ところで、わたしはここまで到達して初めて、釈迦牟尼仏が残した「縁起【えんぎ】の法」が実は解脱の方法であることを知った。わたし自身が自己流ながら行なってきた方法と、全く同じものである。もっと早く気づけばよかった、と少しくやしいような気もするが、仏教学者といえど知らないのだから仕方のないことだ。
しかし、今のわたしには「縁起の法」やわたしの体験をもとに、秘められていたその方法をご紹介することができる。まずは本書を読んでいただきたい。あなたの魂はそれを願っているはずだ。
■改訂の序
初版『生死を超える』が世に出てから、まだわずか一年半にしかならない。しかし、その間に、わたしとわたしの弟子たちとの修行プロセスにおいて大きな変化が起きたので、ここに改訂することを決意した。
今回の内容で、大きな変化はその体験談にある。それは、今までこの本のパートになかったタントラヤーナの修行者たちを載せるようにしたことである。またもう一つ重要な点は、初版においてわたしが記した前世からの修行者たちの特徴の中で、最も重要なポイントの一つである傲慢さによって、数人の弟子たちがわたしのもとを去ったことだ。これは大変残念なことである。
どのような修行にしろ、三つの修行プロセスがある。
まず第一に、自己の究極の悟り、あるいは解脱を目指す“ヒナヤーナ”といわれるプロセスがある。これは仏教では“小乗”というふうに訳されている。第二に、自己の修行もさることながら、他人の修行、特に他人の絶対的な自由や幸福を求めて修行する、“マハーヤーナ”といわれるプロセスがある。これは仏教では“大乗”と訳されている。そして第三に、その大乗の別パターンとして、“タントラヤーナ”といわれるプロセスがある。これは、一般的には千生以上生まれ変わらなければならないといわれている大乗のプロセスを、一生あるいは数生で短縮して行ない、しかも大乗の仏陀と同じレベルに到達する修行プロセスである。これは“マントラ密儀乗”と仏教ではいっている。
以上の三つのプロセスをすべて表現して、初めて本当の意味での修行形態、修行における全体の形態ということができるのである。
そして、この『生死を超える』の体験談には、その三つのプロセスが説かれている。あなた方の日々の修行において、例えば挫折感を味わったとき、例えば疑問が生じたとき、例えば苦悩が生じたとき、この本は必ずや座右の銘として、あなた方を励まし、そして最終のステージまで導いてくれることだろう。
なお、第一章については、一年半前からいろいろと加筆しなければならない点が増えたが、ここでは、それをあえて記さなかった。なぜならば、本によって学ぶ、本によって特に詳しく学ぶ場合、その状況あるいは個人差によって、錯覚に陥りやすい部分が出てくるからである。それゆえ、いにしえからの偉大なグルたちは口頭によって、それを伝授した。そして、わたしも現在それを行なっている。それは了承してほしい。
また、初版に登場した修行者たちの中で、十名の弟子たちが成就をした。彼らはこの一年半の間、だれもまねのできなかった激しい修行に耐え、成就というものを手に入れたわけである。しかし、彼らはまだ、修行がすべて終わったわけではない。そして、彼らがそれを一番よく知っている。最後まで、彼らが修行を貫徹することによって、最終ステージに到達し、マハーヤーナ仏陀、あるいはタントラヤーナ仏陀になることを、わたしは望んでやまない。
一九八八年四月八日
サキャ神賢(釈迦牟尼)の生まれた日、著者記す。
■増補改訂にあたって
『生死を超える』の改訂にあたってから、四年の月日が経った。この四年の月日は、オウム真理教にとって暴風雨を渡る船にたとえることができる。この暴風雨は、もちろん因なくして生じたわけではない。しかし、わたしはこの暴風雨を大変な喜びであると感じた。それは、これぐらいの激しいオウム・バッシングがなかったとするならば、オウムの新しい飛躍や発展は生じなかっただろうと考えているからである。つまり、カルマが落とされたわけである。
ところで、外的に見たら暴風雨にさいなまれていたように見える「マハーヤーナ号」の中で、いったい何が行なわれていたのだろうか。それは、わたしが十数年前から手がけてきた仏典の徹底的研究、そしてとうとう仏典の最も古いものである、スリランカの『パーリ三蔵』へと行き着き、その翻訳に着手し、かなりの経典を正しく日本語に翻訳することができたことである。もちろん、今まで仏教学者の先達方が多くの経典を残していたが、それはあくまでも『パーリ三蔵』を中国語的表記に置き換えたにすぎない。つまり、一般の日本人にとっては、パーリ語が難しい漢訳に変わったにすぎないのである。しかし、わたしと『サキャ神賢直説根本仏典』翻訳チームは、それを平易な日本語に置き換える努力をし、そしてそれにより、オウム真理教の仏教的瞑想体系も完全な形で確立することができた。
今回、改訂にあたって正師と呼ばれるステージの弟子たちの体験を皆さんにご紹介することにしたいと考えている。これは、原始仏典の四つの静慮を体験し、そして呼吸停止、あるいは呼吸停止から変化身を含めた仏教的体験を一通り通過した弟子たちの体験なのである。
わたしたちは、いつ死の軍勢に打ち負かされるかわからない。死の軍勢に打ち負かされないためには、今一刻一刻を大切に真剣に真理の法則にのっとって生きる以外ないのである。そして、この『生死を超える』を読んだ方が、瞑想の世界を信じ、サマディの世界を信じ、そして生死を超えることを祈りたいと思う。
一九九二年四月八日
サキャ神賢の生まれた日の夜、著者記す。
■第一章 絶対幸福の鍵を解く
縁起の法があなたを救う
1.本当の幸福を得たいあなたに
◎幸福を呼ぶクンダリニー
クンダリニー――。あなたは、この言葉を一度でも聞いたことがあるだろうか。はっきりいって、ごく普通に社会生活を送っている人には、全く縁のない言葉 に違いない。ところがどうだろう、ある世界では真っ先に出会うのがこのクンダリニーなのだ。それも、最も重要な位置を占めている。わたしはこれからあなた に、クンダリニーとその世界のことをお話ししようと思う。あなたはおそらくびっくりするだろう。この世にそんなことが実在するのか、と。しかし、それらは あなたの内側にも存在するし、あなたを取り巻いてもいる。計り知れない過去から未来永劫【みらいえいごう】まで、一貫して変わらない。虚像や錯覚で成り 立っているこの世の中で、それのみが真実だからだ。人間の肉体や精神、そしてエーテル体(霊体)などが透明で綺麗な状態に昇華【しょうか】されたとき、混 沌【こんとん】たる諸現象の中から真実がその姿を現わす。そして、その真実にまみえることのできた人は、必ずや永遠の幸福に浸れるのだ。
◎わたしは見つけた!
わたしは、そこへ至る方法を知ることができた。もちろん、簡単にそれができたわけではない。苦節八年、やっとのことで探し当てたのだ。日本で、いや世界 でわたし一人しか知らないだろう。普通だったら、こっそり秘密にしておくに決まっている。でもわたしは違う。一人でも多くの人に幸せになってもらいたいと 願っているのだ。だからこそ、ここに公表するつもりでペンを持ったのである。
そうだ、忘れていた。その前にあなたに確かめておかなければならなかった。あなたが今幸せであるか、それとも人生に何かしらの疑問や不安を抱いている か、ということを。この本を手に取ってくれた人に対して、こんなぶしつけな質問をすることをどうか許していただきたい。なぜなら、この本は読んだ人の人生 を一変させてしまう力を持っているからである。わたしは、現在の自分や人生に満足していない人にこの本を読んでもらいたい。そして、ぜひ知ってもらいたい のだ。本当の幸せがどういうものかということを。反対に、今幸せを感じている人は読まない方がよいと思う。なぜなら、これを読むことによって平凡な幸せ、 現実的なものに対する満足が消えてしまうからだ。
◎精神世界へのいざない
それでは、現状に満足していない、求道心を持つあなたと素晴らしい世界に旅立つことにしよう。
その素晴らしい世界とは、精神世界を意味している。ただ精神世界などといっても、あまりにも漠然【ばくぜん】としているので、少し例を挙げてみようか。 例えば密教ヨーガがこの中にある。その修行がある。そして、その最終目的として“解脱”がある。解脱とは、釈迦牟尼仏【しゃかむにぶつ】が得た“悟り”の ことだ。つまり、人間が人間でなくなり、生も死も超えた存在、絶対自由な存在になることなのである。その段階に到達することのできた者のみが、真の幸福に 浸ることができるのだ。
釈迦牟尼仏は確かに偉大だった。彼は厳しい修行の後、解脱を果たした。彼の尊い教えは、遥かな時を隔てた現代にまで伝わり、多くの人々の心の支えとなっ ている。だからといって、彼の解脱を特別視してはならない。解脱はだれにでも可能であるからだ。だれでも修行をすれば、絶対自由・真の幸福の世界に行き着 くことができるということである。ただ、その具体的な修行方法が明らかでなかったため、解脱というものがとても難しいことのように考えられていただけであ る。
かくいうわたしも、数年前はそう思っていた。解脱など雲をつかむような話だと思っていた。しかし、その思いとは裏腹に、痛切に解脱を願っていた。当時の わたしは、生きることが苦しくてどうしようもなかったからだ。この苦しみの人生から抜け出すには、解脱するしかない! わたしは、すべてをなげうって修行に没入したのだった。しかし、だれ一人教えてくれる人などいはしない。それこそ試行錯誤の連続だった(わたしの修行歴に ついては、拙著『超能力・秘密の開発法』オウム出版 に詳しい)。
◎釈迦牟尼仏が残した解脱法
そして、八年というつらく長い歳月をかけて、やっとの思いで解脱を果たしたのである。それと同時にがく然とした。わたしは、今まで気づかなかったのだ。 なんと、釈迦牟尼仏は、後世の修行者のために解脱への修行法を残していたのだった。「縁起の法」がまさにそれだ。もちろん、これはかなり有名なので、知っ ている人も多いことだろう。『阿含経【あごんきょう】』の中心となる教えである。釈迦牟尼仏の入滅後すぐ、高弟たちがまとめた釈迦牟尼仏の教えだ。した がって、経典の中では、最も忠実に釈迦牟尼仏の教えを表わしているといってよいだろう。だが、問題は今までだれ一人この深淵な意味を理解し得なかった点 だ。日本語訳はあっても、ただ表面的に訳してあるにすぎなかった。それが、苦労して解脱を果たした途端、この偉大な先哲が何を言いたかったのか理解できた のだった。彼は、必ず解脱できる具体的な修行法を残したつもりだった。が、だれも理解できなかった。そして今、このわたしがこの世でただ一人理解すること ができたのだ。かくなる上は、わたしが「縁起の法」を改めて世に出そう。真の意味を広めよう。わたしの思いは募った。「縁起の法」をわたしの経験を交えて 説き明かすことができたら、解脱を望む人たちへの何よりの贈り物となるだろう。それをやり遂げるのが、わたしの使命の一つであると自負している。
◎クンダリニーの覚醒なしには始まらない
さて、先程クンダリニーが最も重要だ、ということを書いた。クンダリニーについて説明しよう。それは、霊的なエネルギーで、人間の精神を高い次元へと押 し上げる働きを持っている。すべての人が、このエネルギーを持っているのだが、眠った状態だ。解脱を目指すのだったら、まずそれを目覚めさせなければなら ない。これがいわゆる“クンダリニーの覚醒【かくせい】”である。釈迦牟尼仏はクンダリニーを覚醒させた後、さらに修行を続けて解脱をした。わたしもそう であった。そして、クンダリニーの覚醒後は六種のヨーガの成就をもって、最終解脱が訪れる。六種のヨーガとは、
①熱のヨーガ
②バルドのヨーガ
③夢見のヨーガ
④幻身のヨーガ
⑤光のヨーガ
⑥意識を移し変えるヨーガ(成就のヨーガ)
であり、後に来るほど対応するチァクラも高次元となる。わたしはインドのヨーガ経典を中心にして修行を進めた結果、この考えに到達した。つまり、身をもっ て理解したのだ。ところが驚いたことに、チベット密教のカギュ派が同じ考えを持っていた。チベット密教は最も多くの解脱者を出しているといわれている。や はり解脱という最高の目的に向かっては、同様の修行方法になってしまうのだろうか。
◎超能力と精神レベルを支配するチァクラ
チァクラという言葉が初めて出てきたので、説明しておこう。チァクラとは、人間の身体にある霊的なセンターで、だれでもそれぞれの場所に持っている。主 なものは七種である。ただ、普通の人はそれが眠った状態で働いていない。修行によるクンダリニーの上昇とともに開発されていくものである。チァクラは、身 体の下部に位置するものに比べ、上部へ行くほど次元が高くなっていく。ヨーガ行者が持つシッディ(超能力)なども、実はこのチァクラが司っているのだ。今 述べた六つのヨーガに対応させてみると、
①熱のヨーガはスヴァディスターナ・チァクラ
②バルドのヨーガはマニプーラ・チァクラ
③夢見のヨーガはアナハタ・チァクラ
④幻身のヨーガはヴィシュッダ・チァクラ
⑤光のヨーガはアージュニァー・チァクラ
⑥意識を移し変えるヨーガはサハスラーラ・チァクラ
にそれぞれ関係している。例えば、熱のヨーガを成就したときには、クンダリニーはスヴァディスターナ・チァクラにまで昇り、そこを活性化させているわけである。そして、そのチァクラが高次元であればあるほど、人の精神レベルも高くなっていくというわけだ。
また、釈迦牟尼仏が持っていた六神通と呼ばれる超能力もこの六種のヨーガに関係している。彼は、解脱にあたって、当然六種のヨーガを成就してチァクラを支配していたからである。このことに関しては、後に詳しく述べたいと思う。
2.“楽”は“苦”から始まる
◎「縁起の法」しかない!
「縁起の法」の一番のポイントは、人が人生のすべてを“苦”だと感じることが解脱への第一条件だということである。詳しいことは後にして、だいたいの流 れを述べてみよう。“苦”を感じると、藁【わら】をもつかむ気持ちから解脱したいという強い思いが生じる。これを“信仰”という。信仰があると解脱への “修行”をするようになる。修行すると“クンダリニーが覚醒”する。クンダリニーが覚醒すると、“悦”が生じる。それがサハスラーラ・チァクラに到達する と“喜”が生ずる。喜がサハスラーラ・チァクラに満ちると“軽安【きょうあん】”が生じる。軽安が体を満たすと“楽”が生じる。精神的にも肉体的にも楽で 満たされると、強い精神集中を得ることができる。それによって“三昧【さんまい】”に至る。三昧によってすべてのことを完全に知ることができる。これを “如実知見”という。すべてのことが理解できたとき、この世が幻影だと悟り“遠離【おんり】”する。遠離すると“離貪【りとん】”する。離貪することに よって“解脱”する。自分でも解脱したという納得が生じる。
これが、釈迦牟尼仏が残した解脱法の概要だ。こう書くと、いかにも簡単なようだが実際はなかなか大変である。そこで、わたしの体験を交えて、わかりやすく説明していこうと思う。
◎“苦”あるゆえに“信”あり
人生が苦だと感じるのが解脱への第一条件だと釈迦牟尼仏は言った。まさしくわたしが修行の道に入ったのも、苦を感じたときである。九年ほど前のことだ。 それまではごく普通の生活をしていた。ところが、いつのころからか絶えず疑問にさいなまれ続けていたのだ。自分自身の人生に対する疑問であった。そういう 自分の内面をごまかそうとすると、自信とコンプレックスの葛藤が渦巻く。わたしは、次第に疲れ果てていき、精神的にも大変不安定になってしまったのだっ た。あるとき、わたしは初めて自分をごまかすことをやめた。そして考えた。いったい何のために生きているのだろうか、と。絶対のもの、真の幸福はこの世に 存在するのだろうか。わたしは、それを手にすることができるだろうか。このときわたしの魂が求めたものが解脱だとは知り得なかった。だが、いても立っても いられない。そんな気持ちが高じて、わたしの模索が始まった。強い思いであり、信仰だった。いうまでもなく、生活は一変してしまった。仕事などはそっちの けで、まず運命学に手をつけた。
自分の運命をはっきり知ろうというわけである。たとえ運命が悪くても、運命学によって何らかの操作をしたら幸せになれると信じていた。
それからというもの、わたしは「気学」「四柱推命」「断易」「六壬【りくじん】」「奇門遁甲【きもんとんこう】」……と、運命学の研究に没頭した。これ は何にでも一度はのめり込む性格によるところが大きい。しかし、それらは奥儀まで極めたものの、期待していたほどの効果がないことを知ってがっかりしたの だった。
◎クンダリニーの覚醒
それでもわたしはあきらめなかった。次にわたしは仙道【せんどう】へと目を向けた。このときから、本格的な修行人生を歩み始めたことになるだろう。仙道 は、以前から不老不死や仙術を得られるというイメージがあった。そのころ生命エネルギーが欠乏しているような状態だったので、これが現状を打開してくれる のではないか、という多大な期待をもって臨んだ。
結果的には、仙道ではなくヨーガを選ぶことになるのだが、なんとわたしのクンダリニーはこのときの修行で覚醒したのである。仙道において、わたしは小周 天【しょうしゅうてん】、大周天【だいしゅうてん】という段階を修めた。前者は、人体を宇宙と見なして、後ろから前に気(エネルギー)を回す技法である。 これによって頑強な体ができ上がるのだ。大周天は、尾骨にあるムーラダーラ・チァクラから頭上へと気を突き抜けさせる。これがクンダリニーを覚醒させるの である。わたしは、独学ながらクンダリニーを覚醒させ、解脱への第一歩を印した。超能力を得たのもこれと同時だった。
ところで、ここで断っておきたいことがある。それは、わたしは仙道でクンダリニーを覚醒させることができたが、読者の皆さんにはヨーガによる方法をお教 えするつもりだ、ということだ。なぜかというと、ヨーガの方が確実に速いからだ。わたしは、当時(今もそうだが)師もなく、ヨーガも知らず、全くの暗中模 索の状態だった。今になって考えると、ヨーガははるかに優れている。仙道での覚醒には四年もかかってしまったが、ヨーガを用いたならば数カ月ですむだろ う。現にわたしの弟子たちはいずれも短期間でクンダリニーの覚醒に成功している。まあ、わたしもシャクティーパットという技法を使って助けているが……。
シャクティーパットとは、わたしの持っている霊的エネルギーを直接相手に注入する方法である。その人のクンダリニーの覚醒を促すことができる。それでは、クンダリニーが覚醒するとどのような変化が起きていくか「縁起の法」に従って述べてみよう。
◎“悦”は最高のエクスタシー
クンダリニー覚醒後、さらに修行を続けると“悦”の段階に至る。これは、クンダリニーが上昇してものすごいエクスタシーをもたらす状態である。本来ここ に至るためには、瞑想が必須条件である。ところがわたしは瞑想がそんなに好きではなかった。すでにヨーガに転向していたものの、せいぜいやっても一日に二 時間程度のものだった。だったら何をやっていたかというとアーサナ(調気体操)、プラーナーヤーマ(調気法)そしてムドラー(霊的覚醒の技法)である。瞑 想で座ってばかりいてもしょうがないじゃないか。それだったら、神経系やホルモン系、大脳を刺激する行法をやっていた方がましだ。そう思っていた。だから この段階にまで来て、当然“悦”に入っていかなければならなかったのに、それができなかった。無智といえば無智だが、教えてくれるグルもいなかったし、わ たし自身科学万能主義に侵されてもいたので、どうしようもなかったといえる。
そのため、しばらく経ってから“悦”に入ることはできたものの、全くおかしな入り方をしてしまったのだ。きちんと瞑想していたなら、瞑想中に入るはずで ある。だが、わたしの瞑想時間が短か過ぎて、そのときは入れない。というわけで、わたしのクンダリニーも行き場がなくて困ったのだろう。
例えばムドラーを行じているとき、クンダリニーが突然上昇してわたしは“悦”に入った。何気なく立っているときや、歩いているときにもそれは起こった。 それが起こるときには、必ずムーラ・バンダ(肛門の締めつけ)と性器の締めつけが自動的に始まり、体を震わせながらクンダリニーが駆け昇る。その感覚たる や、この世で味わうことのできる、最高のエクスタシーだといえるのではないかと思う。どう表現したらいいだろうか。セックスの快感とは全く違う。とても優 しく柔らかく、溶けてしまいそうな感じである。“悦”に入っている間、その快感は強まることはあっても決して弱まらない。しびれも伴って、それがまた気持 ちいい。そして、数分間その快感に浸っていることができるのである。
最近はわたしも瞑想時間を長く取っている。だから瞑想によって何時間もこの状態を持続させることができるようになった。
◎不死の甘露を呼び起こす
この段階は重要な意味を持っている。クンダリニーは上昇して、頭頂にあるサハスラーラ・チァクラに到達するのだが、到達することによってサハスラーラ・ チァクラに隠されている不死の甘露を落とす働きをするのである。不死の甘露とはネクターともビンドゥとも呼ばれているもので、心を歓喜状態にすることがで きる。また、さらに修行が進んで、これが体中に満ちると意識が鮮明になり、かつ途切れることがなくなる。それは、眠っている間も死後も同様である。これが 不死の甘露といわれるゆえんである。
では、不死の甘露によって起こる心の歓喜状態について、さらに述べよう。
◎ここまでしかない経典の記述
わたしは、前にも書いたように、解脱をして初めてクンダリニーと「縁起の法」の関係を悟った。だから、今から書こうとする“喜”についての知識は、当時 全く持ち合わせていなかった。それもそうだろう。わたしが今まで読んだどの書物にも、その記述がなかったのだ。ヨーガの経典にしても、一つ前の段階である “悦”の状態までしか説明がない。バグワン・シュリ・ラジニーシという、大変有名なインド出身の宗教家がいるが、彼も“悦”までしか自著に書いていない。 しかも、“悦”ですべてが終わるとしている。したがって、“喜”の段階以上に到達した修行者というのは、ほとんどいなかったのではなかろうか。
いずれにしろ、これから先何が待っているのか見当もつかないまま、わたしは修行を続けていった。そして、だれ一人言い表わしてくれなかった段階に入ったのである。これは、クンダリニーがサハスラーラ・チァクラを刺激して滴らせる、不死の甘露が巻き起こす状態である。
ところで、ヨーガ経典にはクンダリニーがサハスラーラ・チァクラに到達する瞬間の記述があって興味深い。シャクティー女神(クンダリニー)がシヴァ大神 (サハスラーラ・チァクラ)と一つになったとき、すべてが完成すると表現しているのである。これは、バグワンがそこで終わるとしていることと共通してい る。
実際には、先程述べたようにそれ以上の段階があったわけである。経典でさえそんなレベルであったことを知ったら、どれほどわたしが苦労して解脱へと向かっていったか、おわかりになるだろう。
すべての段階が書き尽くされている仏教の「縁起の法」は、解脱するまでは理解できなかったので、当時は参考にしていなかった。そして、同様にそのころは 気がつかなかったが、日本の太古神道の修行者である川面凡児【かわづらぼんじ】の記述の中に“喜”のことが出ていた。それは、七つの鳥居という言葉で表現 されているが、そのヴィジョンは“喜”そのものである。また、仙道のチョー・サンポーが書いた『三峰金丹説要』にもその段階の説明がなされており、「この 状態にまで来たら仙人となる」とされている。しかしながら、両者ともここまでしか書かれていない。
要するに、この段階はそれほど高度なのだ。ヨーガ経典にここまでは書かれていないことしかり。神道、仙道がここで終わっていることしかり。ただ、出発点 も内容も違うはずのそれぞれの行法が、同一の道をたどっている点は面白いと思うし、それだけの意味を持っていると思う。わたしが教えるヨーガには、他の修 行法も取り入れられているのだが、このようなことが影響している。
◎至上の幸福“喜”
ちょっと話が横にそれてしまったが、元に戻そう。サハスラーラ・チァクラの上部から滴り始めた不死の甘露は、まずサハスラーラ・チァクラをそれでいっぱ いにしてしまう。次にヴィシュッダ・チァクラへと移りそこを満たし、アナハタ・チァクラへ、アナハタ・チァクラからマニプーラ・チァクラへと次第に下へ降 りていく。いうなれば、チベット密教でいうツァンダリーと同じものである。ちなみに、チベット密教ではここまでは経典に記されているが、これ以上は極秘に されて、ごく少数の選ばれた修行者によって受け継がれているらしい。このことを、わたしはアストラル体(異次元)でミラレパという昔の修行者から聞いた。 その理由は、技術の問題ではなくて心の問題であり、そのためにグルが弟子に密接にかかわらなければならないからだ。
さて、各チァクラを満たし終えた不死の甘露は、最後にスヴァディスターナ・チァクラを満たすとともに、そこに強烈な震動を呼び起こす。その震動に呼応し て、ムーラダーラ・チァクラから再び“悦”を伴ってクンダリニーが上昇する。サハスラーラ・チァクラまでクンダリニーが到達すると、このときもまた不死の 甘露を滴らせる。このプロセスが何回も繰り返されることにより、クンダリニー上昇時に生まれる“悦”に加えて、心の満足感である“喜”がつくられ、徐々に それは強くなっていくのだ。それはもう、これ以上にない満足感である。しかし、欠点もある。とにかくその状態が崩れやすいのである。ちょっと精神的に揺さ ぶられただけでも、あっさりと壊れてしまうのだ。大きな音を立てられても、壊れてしまう。だから、この状態に入るには、外的な環境のことを考えなくてはな らないと思う。
そんなこともあって、この段階にまで来た修行者は、二つの生き方からどちらかを選ばなくてはならないだろう。すべての障害から離れて、隠棲生活を送るこ とが一つ。もう一つは、自分の状態を保つために、周囲の環境が良くなるように努めることである。わたしは、真の宗教を広めて環境を良くするという意味で、 後者を選んだことになるが……。
“喜”に入ることのできる人間は、他の人に必要とされる。普通の明るさとは違う、心が満足して解放されきった明るさなので、相手を安らがせるからだ。そ して、人の喜びを増大させ、苦しみや悲しみをなくすことができる。たとえ、失恋したばかりの人がいたとしても、その悲しみを消してくれるだろう。ただ、そ ばにいるだけでそれだけの好影響を与えるのである。したがって、“喜”に入った人は、自分が自分自身のものではなくなってしまう。多くの人間のものとなっ てしまうのだ。必要とされるがゆえに。ここに供養を受ける資格ができ、その人にはお金や物、名誉などが集まってくるだろう。ここで、そういうことに満足し 執着してしまうと、堕落してしまうので要注意。せっかくこの段階にまで来ても、何にもならない。解脱に比べたら、ちゃちな満足であり幸福である。解脱はす べてを超越したところにある真の幸福だ。幸いにも、わたしは前世において解脱を経験していたため、ここで惑わされることなどなかった。
また、この段階では満足しているので、心に雑念がなくなる。そのため、強い精神集中(凝念【ぎょうねん】)を習得することができる。
◎“軽安”は瞑想の条件
あなたは、不思議に思うことがなかっただろうか。瞑想のためとはいえ、よく長時間座りっ放しで平気だなあ、と。ごく少数ではあるが、ヨーガ行者の中に は、何日座り続けても平気な人がいる。釈迦牟尼仏も七日ずつの瞑想を七回行なった、と伝えられている。わたしも実は不思議だったんだ。自分が長くは座れな かったからね。座ることが、苦痛で苦痛でたまらなかった。足はしびれてしまうし、腰は痛くなる。全体的に体が重くなってしまうし、雑念はわく。そうすると イライラしてしまって、やたらとトイレに行きたくなってしまうんだ。あるときなど、「ああ、今日は長く座れた」とうれしく思って時計を見たら、なんと十五 分しか経っていなかった。それほど苦痛であった。だから、長時間の瞑想というのは、わたしの修行における七不思議の一つだったのだ。
ところが、この“軽安”に至った途端にすべてのナゾが解けてしまったのである。ここでは肉体的な痛みを感じなくなるのだ。そうして、解脱にどうしても必要な長時間の瞑想が可能になる。
その他の特徴としては、日常生活において体が軽くなって、歩いているときなど浮いているような気さえすることが挙げられる。
ところで、どうしてこのようなことが起こってくるのだろうか。まず“喜”の状態を思い出していただきたい。それは、心が非常に満足した状態だった。その 満足した心が、肉体的に素晴らしい影響を与えるのが“軽安”である。肉体のコンディションが、心の状態に影響されることはだれでも知っているだろうし経験 もあるだろう。あるニュース番組で、音楽と血圧の関係を調べていた。それは、好きな音楽を聴いているときは血圧が正常になり、嫌いな音楽を聞くと状態が悪 くなってしまうというものだった。好き嫌いという心の問題が、ストレートに数値に影響するのだ。それと同様に“喜”が肉体に影響してつくり出すのが“軽 安”なのである。
◎無限のエネルギーの源“楽”
“軽安”の次に来るのが“楽”である。これは、ものすごいエネルギーを持っている。この段階に到達したときからわたしは、一日に十六時間から十七時間も の修行が平気になった。もはやどんな体力自慢でもわたしにはついてこられない。これは、“楽”によってエネルギーが満ちあふれているからだ。自分がやらな ければならないこと以外、意識が向かわなくなる。このことがエネルギーのロスをなくし、エネルギーを体内に充実させるのである。
“喜”の満足に対して、“楽”は安定である。外界の刺激に反応しなくなる。また、高いレベルのヨーガ行者の言葉に「解脱のためには、最低六時間の瞑想が 必要である」というものがある。“楽”に入ると、長時間の瞑想に苦痛を感じないどころか、瞑想のために座るのが一番楽な状態になるという、大幅な変化が起 こる。これが次の三昧の重要な準備なのである。だから、必ずここを越さなければ解脱に至ることができない。
3.すべてを思いのままにする“三昧”
◎三昧とは何か?
三昧の説明はわたしにも難しい。参考のためにと思って、『広辞苑』で引いてみた。すると、「心を一事に集中して他念のないこと。一心不乱に物事をするこ と」とある。仏教から出た言葉であるはずなのに、どうも違う。本当は、心を集中した結果得られる状態を三昧というのだ。では、その三昧とはいったい何か。 一言でいえば、主体と客体の合一なのである。主体とは自分自身のことであり、客体とは相手や対象物を指す。それが合一するとは、強い精神集中をすることに より、自分が相手や対象物に溶け込み、一体となることなのである。
例えば、木に精神集中して凝視する。少なくとも三十分以上その精神集中が持続するなら(つまりこの段階まで来ていることを意味するのだが)、木に溶け込 み、木と一体になることができる。しかも、一体となることによってその木のすべてを理解できる。これが三昧なのだ。相手の心に精神集中したなら相手の心と 一体になり、相手の感情も考えもわかるだろう。神に精神集中したなら、神と合一するだろう。
この三昧には、外的なものと内的なものの二種類がある。前者は周囲のものと合一することであり、後者は自分の内側のものに集中して、それと合一することである。自分の内側とは、チァクラ、心、器官等のことで、その中で真我と合一するのが、内的三昧の究極ともいえる。
わたしもそうだったが、外的なものから三昧に入る訓練をしなくてはならない。その方が精神集中しやすいからである。それに習熟してから内的なものへと移り、さらに訓練を続けると次の段階である“如実知見”の状態に入ることができる。
それではここで、わたしが体得した三昧の話をしよう。これは例の六種のヨーガと関係している。三昧の段階は大変重要であって、六種のヨーガのうち実に五 種類が含まれているのだ。チベット密教のカギュ派もこれと同じ見解に立っていることを後に知ったのだが、当時のわたしは無意識にこの過程をたどっていた。
◎熱のヨーガ――内なる炎
わたしは自分のスヴァディスターナ・チァクラに精神集中をした。すると下腹部で強烈な熱が発生した。その熱は背骨を伝わって上がっていった。わたしはこの過程を毎日繰り返して練習することにした。
わたしがそう決めたのは、密教の火界定がヒントとなった。この行法と火界定が同じものではないか、と思ったのだ。火界定は煩悩【ぼんのう】を焼き尽くすといわれている行である。
また、こうも思った。「熱が背骨を伝わるということは、背骨にある交感神経と副交感神経に尋常ならざる影響があるのではないか。神経が突然変異でも起こ してくれて、スーパーマンにでもなれたらいいなあ」――というわけで一生懸命やったら、スーパーマンにはなれなかったものの次のような変化があった。
まず、背中全体が熱くなるようになった。そして、どんな寒さの中にいても平気になった。たとえ、氷点下の寒さでも、裸でいられるほどである。また、精力絶倫となった。わたしはこの行法を“熱のヨーガ”と呼ぶことにした。
◎バルドのヨーガ――死の体験
次にわたしはマニプーラ・チァクラに精神集中をしてみた。この行でわたしはバルド(死)の体験をした。
だれでも「死ぬ瞬間はどういう気持ちになるのだろうか」とか「死んでからは、どうなるのだろうか」などという、疑問を持ったことがあるんじゃないかな。 そして、それぞれの人がそれぞれの漠然とした結論みたいなものを、心に抱いて生きているのだと思う。かといって、その考えが本当の死と一致しているとはい えないだろう。例えば、「死んだら土になるだけだ」と思っている人もいるだろうし、「天国へ行く」つもりになっている人もいる。あるいは、この世で結ばれ ることのできない恋人と「生まれ変わったら一緒になろうね」と来世を信じて誓い合う人もいるかもしれない。このように、死については、いろいろな考え方が あるからね。
だいたい、死んでみなければ実際がわからない、というのが不安であり恐怖でもある。反対に死んでしまったら、「本当はこうだったんだよ」と遺された人に伝えたくてもその術【すべ】がない。生あるものは皆、遅かれ早かれ死を迎えるというのに、不都合この上ない。
ところが、わたしはマニプーラ・チァクラに精神集中をするこの“バルドのヨーガ”を実践することによって、死と転生のプロセスを何回も何回も体験するこ とができたのだ。だれでも三昧に入ることができるようになったら、自分で体験することができるだろう。しかし、これから修行に入るという皆さんにはまだ無 理だろうから、参考のためにここでお話ししよう。
◎死の瞬間
まず、死の瞬間から。死の直前には、感覚器官が働かなくなってしまう。よくテレビなんかの臨終シーンで、明るいのに「暗いから電気をつけて」などという ことがある。あれは本当だ。音が聞こえなくなることから始まって、何も見えなくなってしまう。そして、嗅覚【きゅうかく】も味覚も触覚も次々と衰えていっ てしまうのだ。
それから、意外なことに、まだ生きているうちから身体を構成している要素が分解し始める。分解されて、“自性【じしょう】”に還元されていく。自性とは、この世を構成している物質的な根源で“地”“水”“火”“風”の四つのエレメントからできている。
初めに、肉体が地のエレメントに分解される。このときは、自分の体がぶよぶよになるというか、何となく変な感じだ。そして、それを感じているのは、今ま での自分ではない。もう一人の自分――、つまり魂がそれを感じているのだ。また、この過程では、黒と黄色の混ざったような色を見ることができる。
次に、血液や体液が水のエレメントに分解される。このときには、鼻汁が出たり体がむくんだりする。血液の流れもこのときに止まってしまうのだ。ヴィジョンとしては、「水に映る白い月」というイメージの色がパッ、パッ、パッときらめいている。
さて、今度は、体温が火のエレメントに分解されていく番だ。下腹部から冷えてきて、その冷たさは背中を伝わって全身に広がっていく。体が冷たくなって、 動きがぎこちない。硬直しているのだろう。自分の体がまるで鉄になってしまったみたいだ。また、この過程では朱色が見え続けている。
最後に、息が風のエレメントに分解される。このときは、呼吸しづらくなってしまって、息苦しい。呼吸したい。呼吸して生き続けたい。そういう生命に対す る抑え難い執着が、一気に表面化する。愛している人と別れるのは嫌だ。死ぬのは怖い! すでに、肉体的な痛みや苦痛はないが、死ぬことに対するひどい恐怖を感じるのは決して避けられない。わたしはそれを経験した。嫌だと思った。でも、わたし の気持ちなどにはお構いなしに、死ぬための手続きは進んでいってしまった。魂は、青緑色を見ている。呼吸が少しせわしくなったかと思うと、最期に長い息を 吐き出す。……そして、すべてが終了した。こうやってわたしは死んだ。
◎前世のカルマの終焉
死んだ後も、魂はしばらくの間心臓にとどまり、この世の清算を受ける。そのために、まず天から真っ白な光が降りてくる。その光は少し甘みを伴っている。 光が甘いというのも、生きている間は感じることはできないが、ここでは魂が感じるのである。この光は、父親の精液の象徴だ。次にへそのあたりから、赤黒い エネルギーが上昇していく。それは、いろいろな煩悩を伴っていて、母親の経血を象徴している。
白い光も赤黒いエネルギーも、胸にあるアナハタ・チァクラの内側に吸収されていく。わたしは、これは両親から受け継いだ遺伝子に関係するカルマが、自性 に還元されていく過程なのではないかと思っている。もし精子と卵子が結合した瞬間が、この世への誕生だとすれば、そのときに受け継いだものを自性に返し終 わったときが本当の死であろう。
もう一つ、誕生時にすでに持っていたカルマがあった。それは前世でつくったカルマである。前世のカルマによって今生を生きる。だから死ぬときには、それ も自性に返さなくてはならない。これが最後に行なわれる手続きなのである。天界から真っ黒い光でできた一本の道が降りてくる。下位の世界である人間界のけ がれたカルマが、この黒によって象徴されているのだ。これも、アナハタ・チァクラの内側に吸収されていく。
こうして、両親から受け継いだものと、自分の前世のカルマが自性に帰ってしまったとき、この世との縁が切れる。魂は肉体を離れ、今度はたった今生きていた世界でつくったカルマによって、転生の準備を始めるのである。
◎修行者の死
魂は透明で明るい死後の世界へ飛び込んでいく。この一瞬に、修行者だった魂で資格あるものは、ニルヴァーナ(涅槃【ねはん】)に入ることができるのだ。その資格とは、生前の修行でほとんど完成しているということである。
もし、完全に完成している解脱者であったなら、全く違う過程をたどるので少し触れておこう。
解脱者は自分で自在に死をコントロールできるようになっている。まず、死期を自分で選べる。要するに、この世での役目が終わったとき自由に肉体を捨てる ことができるのだ。そのときは、先程述べたような死のプロセスは必要ない。カルマは修行で消滅してしまっているし、魂は簡単に肉体から飛び出せる。肉体を 持っている状態から、死の状態に意識を移し変えるだけですんでしまうのだ。これは、“意識を移し変えるヨーガ”の応用である。これについては後で述べよ う。解脱者の魂は直接明るい死後の世界に飛び込める。そこから、ニルヴァーナへ入れるし、特別に望むなら、人間界やその他の世界に生まれ変わることもでき るのである。死後の世界でも自由になるのだ。
◎光に飛び込め!
では、修行していなかった普通の人間は、死後の世界に入った後どうなるのであろうか。最初にとてもまぶしい透明光が射し込んでくるだろう。そのゾッとす るような美しさ、強烈さにほとんどの魂は恐怖し、動けなくなるだろう。もし、それに飛び込むことができたら、無色界と呼ばれるニルヴァーナに次ぐ素晴らし い世界に行くことができるだろうに。そこに飛び込めるのは、生きている間に心の浄化ができ、かつ完璧に真の宗教心を培った人である。そこは、光だけで構成 された高い精神状態の世界である。そこに生まれ変わると、光の身体を持ち、寿命は数千億年といわれている。仏教で法界と呼ばれているところである。わたし はよくここを訪ねる。そして、サーリプッタ(釈迦牟尼仏の第一の弟子)から仏教の精神的な理論を学ぶことが多い。
この光は、半日から一日続くが、この光に飛び込めなかった魂には、次の光が射してくる。その光は透明に近い白銀光だ。この光に飛び込めば色界に生まれ変 わることができる。仏教で報界と呼ばれている世界である。そこは、絶妙の物質で構成されている。ここの食物は光である。衣服も光でできている。もちろん、 普通の魂にはまぶし過ぎて飛び込めない。飛び込めるのは、宗教上の功徳が非常に高かった人の魂のみである。
やがて白銀光は消え、代わって美しい赤紫の光が射してくる。赤紫といっても、ムーラダーラ・チァクラから立ち昇る、精力を表わすエネルギーの赤紫とは異 質の色で、大変美しい。その光に入れるのは、衆生(すべての生き物)に対する愛の強い人だ。その世界は、変化身の住む世界であり、天界の中でも高次元にあ る。仏教では、応界と呼ばれている。マイトレーヤ(弥勒菩薩【みろくぼさつ】)が住んでいることで有名な兜率天【とそつてん】がここの中心である。釈迦牟 尼仏も実はここから人間界に降りてこられた。チベット仏教の総帥であるダライ・ラマもここから降誕された。実は、このわたしもそうである。また、ここに生 まれ変わると、天龍になったり、修行者を励ます天女になったりする。
わたしが解脱する前、ヒマラヤ山中で修行しているときのことである。くじけそうになると決まって、パールヴァティー女神が励ましてくれた。女神は応界に住んでおられ、赤紫色の光線に乗って、人間界で修行中のわたしのところに来てくださった。とても優しい方であった。
◎生前のカルマが転生を決める
普通の人間は、応界にも入っていけないだろう。したがって次の光を待つことになる。そして、光からだんだん具体的なヴィジョンへと移っていき、それぞれ の魂は自分に合った世界へと飛び込んでいくのだ。死んでから四十九日目が最後の世界である。飛び込んだ後は、吸い込まれるように落ちていく。たいていの場 合、性交のヴィジョンが見え、無意識にそこへ飛び込んでしまう。すると、落ち着く先が子宮であったり、卵の中であったりというわけだ。だから、長くとも四 十九日後には新しい世界で生を受けていることになる。
ここで留意していてほしいことがある。それは、死ぬ前が人間だったからといって、人間界に生まれ変わるとはいえないということである。第一日目から次第 に次元が落ちていき、人間界はずーっと下なので四十三日目くらいに回ってくる。四十五日くらいになると、動物界だ。一番最後の四十九日は、地獄である。一 般に「地獄に落ちる」と言うが、魂がそのまま地獄に落ちるのではなくて、地獄に生まれ変わるのである。
わたしは、バルドのヨーガによって、すべての世界の転生を体験している。しかし、量が多いので、今回は全部は載せられない。そこで、現存する書物に書か れていないことを、ここに書いてみた。したがって、他の書物でもわかる箇所は省いてある。興味のある人は、『チベット・死者の書』を読んでみるといいと思 う。あとは思い浮かばないなあ。みんな死後の世界について、嘘ばかり書いてあるから。だいたい、「ただ信じていれば死後幸せになれる」という類いの宗教が 多過ぎる。そんなに甘いものではないはずなんだけれどね。それを信じてしまうのも、まさにカルマとしかいいようがないだろう。
◎バルドのヨーガが知らしめるもの
このバルドのヨーガは次のような結果を生む。
①死後の世界の存在を確認できる
②転生の秘密を知る
③功徳(よいカルマ)と修行の必要性を理解する
④功徳と修行以外が無力であることを知る
すると、この世のすべてのものが幻影であると感じるようになる。そのことで、執着から離れることができる。これが解脱への大きな布石となるのだ。
◎夢見のヨーガ――あなたが世界の創造主
“バルドのヨーガ”の次にわたしは、“夢見のヨーガ”の段階に入った。これは、アナハタ・チァクラに精神集中し、イメージし続けることから始まる。そし て、この世と全く違う世界をつくり出して、そこに遊ぶことができるのである。その場合の主人公は必ず自分だ。その世界では、触れることも、見ることもでき る。聞くことも、におうことも、味わうこともできる。その上考えることもできるのである。あなたも自分がつくり出したイメージの世界で、思うがままの体験 ができたら素晴らしいと思うのではないかな。決して普通の夢とは違う。テレビを見たり、本を読んだりする追体験とも違う。この世で体験するのと同じ実体験 をするのだ。
現実同様、イメージでつくり出した世界でも実体験ができる。だったら「この世」だと思っている世界も、実際はイメージでつくっているだけなのではないだ ろうか……。イメージの世界に入っていけるレベルになった修行者は、やがてこの歴然たる事実に気づく。これは体験した者でないとわからないのだが、イメー ジの世界でも、アストラル体(異次元)でも、この世と全く変わらない自分を存在させることができるのだ。しかも、そのあらゆる世界への出入りは自由だ。そ れだけではない。行が進むと、この世にいてさえ、自分の思いどおりにすべてを操ることができる。要するに、この世と他の世界との間に、隔たりがないのであ る。この世も幻影、異次元も幻影、このヨーガによってそのことを悟るのである。
それでは、幻影でない世界はあるのだろうか。たった一つだけあるのだ。それが、ニルヴァーナである。
◎幻身のヨーガ――時空を超える
“夢見のヨーガ”が完成したころ、わたしはヴィシュッダ・チァクラを開発しようと思って、ビバリータ・カラニーというムドラーを始めた。一日に三時間ず つ、五カ月間これを続けた。すると四カ月ほど経ったころ、ある変化が現われたのだ。ビバリータ・カラニーが終わった後は、長時間のシャヴァアーサナという アーサナをとらなければならない。その間に瞑想していると、二時間くらい経ってブーンというハチの羽音のような音が聞こえてくるようになった。しばらくし て、周囲の様子が一変してしまう。そして、自分が時や空間を超えた場所に移動してしまっていることを知るのだ。自分が育った当時の家に行っていたり、我が 家の一階から二階に移動していたこともあった。シヴァ大神の神殿に飛んでいたこともあった。テレポーテーションである。これは幻覚でも嘘でもない。そのう ちに、テレポーテーションしたわたしを目撃したという人も現われた。
ある日、R子さんというOLが、渋谷のバス停でわたしを見かけたという。挨拶【あいさつ】をしようと思って声をかけたが、返事をしない。それどころか、 すぐ目の前にいる彼女が目には入らないようだった。わたしが歩き出したので、つられるように後を追ったがどんどん先に行ってしまう。そして、とうとう見 失ってしまったのだという。
後でこの一件を聞いたのだが、わたしはその時間にはビバリータ・カラニーをやり過ぎて、気絶していた。いうなれば、深い瞑想(虚空三昧【こくうざんまい】)状態である。その間無意識にテレポーテーションしてしまったらしい。
またこのころは、会う人会う人がわたしを見るなり「今日は顔がいつもと違いますね」とか「今日はいやに身長が高いですね」と言うのであった。わたしの体つきとか顔が、瞬間的に変わってしまうのだ。
このようなことを通じてわたしは、時も空間も、そして自分自身さえも幻影だったのだと思うようになった。わたしはこのヨーガを“幻身のヨーガ”と呼ぶことにした。
◎光のヨーガ――神が送る光のサイン
やがて三昧においての最後のヨーガである“光のヨーガ”の段階に入る。このヨーガによってこの世や異次元を構成している光の意味を知るようになる。これ は例を挙げないとわかりづらいので、わたしが見た順に説明していこう。これらは、解脱直前のヒマラヤ山中や富士山麓での修行中に起こったことである。
◎わたしは宇宙神素を見た
わたしは、眉間【みけん】のアージュニァー・チァクラに精神集中をし、宇宙神素【うちゅうしんそ】を見た。宇宙神素とは、宇宙の根源的なものからの伝達 で、アーカーシック・レコードとも呼ばれている。それは巨大な球体光で、わたしはそれに溶け込んでいた。ところで、このときは溶け込んだのだと思ったが、 本当は違っていた。修行が進んでわかったことだが、ブラフマ・ランドラ(頭頂)と心臓から二本の赤紫の光線が出て、宇宙神素と結ばれるのであった。いずれ にしろ、あまりにもそれが巨大だったので、一度に形状をつかむのは困難だった。だから以下に述べるのは、その後何回も宇宙神素に溶け込んだ結果、わたしが 推察したものである。中心は透明で、その周りが青、青紫、赤紫と色が混ざり合いながら変化し、一番外側が赤である。中心の透明な部分には、細かい点が無数 にうごめいている。その点は、中心に行くほど白くなり、外側に行くほど黒っぽくなっている。その一粒一粒が情報である。例えば、中心の白い点は宇宙的なレ ベルの情報で、外側に行くほど個人的な情報になる。わたしが人に頼まれて予言したりするときは、ここから情報を得るのである。
◎アージュニァー・チァクラの崩壊
初めて宇宙神素の光を知った数日後、わたしは一段と上の段階に上がった。この日を境に、アージュニァー・チァクラへの精神集中がなくとも、絶えず光の中にいられるようになった。そのためには、アージュニァー・チァクラの崩壊が必要だったらしい。
そのときわたしはシャヴァアーサナをしていた。気づくと寒さのために体をねじっている。これが頭が熱くて体が寒い状態か。わたしはあるヨーガ行者に言われたことを思い出した。体を真っすぐに直すと、クンダリニーが突き上げてきてアージュニァー・チァクラの所で止まった。
わたしはアージュニァー・チァクラに精神集中をしてみた。しばらくの間、わたしはアストラル体で劇を演じていた。それが終わると、わたしの周りで四人の小人がうるさく騒ぎ始めた。
「うるさいなあ。集中できないじゃないか。」
アストラル体にあるわたしの意識がそう思っている。
「自分はここにいるんだ。」
瞑想のときいつも出てくる意識が、肉体にくっついたままこう思っている。このときわたしは二つの意識を同時に持っていたわけである。ここで少し触れておく と、人間は四つの意識を持っているのだ。わたしがこのとき使っていた意識の他に、日常的な活動をしているときの意識と熟睡時の意識がある。
さて次の瞬間、ものすごい圧力がアージュニァー・チァクラにかかった。
「目をやられるのではないか。脳をやられるのではないか。」
そういう恐怖を感じるほど、強い圧力だった。しかしそれと同時に、
「わたしはこれを――眉間に穴を開けられるのを、数百年の間待っていたんだ。耐えてみよう。」
という思いもわき上がってきた。わたしはさらに精神集中を続けた。すると、ボーンという大きな爆発音とともに、わたしのアージュニァー・チァクラが崩壊したのである。このとき、わたしの“光のヨーガ”が完成した。
◎すべては光でつくられる
わたしはいつも光の世界にいるようになった。自分のアージュニァー・チァクラが光り輝き、炎のように見えた。
あるときは、瞑想中に空元素を見た。スカイブルーの光で構成され、形は一カ所が切れている円形である。ぐるぐると左回りに回転しながら、わたしのアー ジュニァー・チァクラに近づいてくる。近くまで来たとき、それが右側に何かを引っ張っているのがわかった。空元素はアージュニァー・チァクラに吸い込まれ ていった。そのとき、引っ張られてきたのが、心臓内のヴィジョンであったことを知った。心臓内のヴィジョンとは、コーザル体(原因体)と呼ばれる生の源の ことである。これは心臓に存在しているのだ。
コーザル体は、六つの光球から成り立っている。それは、真我【しんが】、神素、我執、微細生気、微細根本自性、絶対者ブラフマンの六つである。真我は湖 面に映るダイヤモンドのような光である。神素はライトブルー、我執は青緑、微細生気はバラ色、微細根本自性はミカン色である。そして、絶対者ブラフマンの 光球は白である。コーザル体の説明は、光の色についてだけにしておこう。今回は、“光のヨーガ”に関連して少々触れてみただけなので、詳しいことは後の機 会に譲りたいと思う。
ある日は、人の感情も光によって表わされることに気がついた。頭頂にあるブラフマ・ランドラを霊視すると、感情の状態によって、その中にある「意思球」 と「イメージ球」の色が変化するのである。それは、自分の場合でも他人の場合でも同じである。例えば、情欲があるときは、その光球は赤黒くなって波打つの だ。
最終的には、全宇宙の構成物質の中で、一番高レベルのものが光であることを知る(全宇宙は、光、音のヴァイブレーション、粗雑物質でできている)。
そろそろ“三昧”の段階に修行すべき、五種類のヨーガについての説明を終わることにしよう。これらは皆、解脱のための重要なジャンプ台だ。そして、最後 の瞬間に用いるのが残りの一つ“意識を移し変えるヨーガ”なのである。これについては、解脱の項で述べよう。なお、“バルドのヨーガ”“夢見のヨーガ” “幻身のヨーガ”“光のヨーガ”についてはとても奥が深く、とてもここですべてを書くことができなかった。そのことをお断りしておかねばならない。
4.そして解脱へ――
◎如実知見――真実の世界を知る
“三昧”がクリアできると、“如実知見”の段階に入ることができる。だが、その前に“三昧”でわたしが到達した考えをお話ししよう。整理して書くと次のようになる。
①諸行は無常である。
全宇宙、全次元の万物は流転するものであり、決して元の形をとどめることはない。
②諸法は無我である。
もろもろの観念・社会通念は、真我(本当の自分)の所有物ではない。
③存在が悪業を積む。
人間も含めて生き物は、存在している(生きている)こと自体が悪業の源となってしまう。例えば、殺生や嘘が悪業に含まれる。
そして、「いっさいが苦である」という結論を得た。これが“如実知見”である。“三昧”によってすべてを知ってしまうと、“如実知見”が生じるのである。皆さんもこの状態に至ると、必ずそれを感じるはずだ。
◎遠離と離貪――心の解放
ところで、ここまで来たら、一時的にでも社会生活から離れた方がよいだろう。弟子や友人からも離れなければならない。なぜなら、このころになると見る世 界、感じる世界が普通の人と違ってしまうからだ。考え方にも隔たりがあって、うまく合わせることなどできなくなるだろう。そういうことが積み重なると、精 神的に異常を来す恐れがあるし、自分でも他人を避けるようになってくる。それだけでなく、この期間は自分を確立するためにも離れなければならない。今まで の過程を通ることによって、全く違う自分になっているので、何の影響も受けないようにして確立しなければならないのである。これが“遠離”の段階である。 わたしはこの時期、ヒマラヤ山中などで修行していた。だれにもわずらわされずに修行に没頭できたのは、後にも先にもこの時期だけである。なにしろ、日本に いては逃れられない電話さえないのだから。
さて、新しい自分を確立するためには“離貪”の行を進めなければならない。“離貪”の行としては、特殊な瞑想が有効である。その瞑想は、心、体、物質などのすべてをグルに差し出すというものである。
◎解脱はニルヴァーナへのパスポート
この行を終え、心が消滅し真我が何の影響も受けなくなると、いわゆる唯我独存の状態が訪れる。これが解脱なのだ。生きていながらにして、苦のない状態で ある。また、好きなときに肉体を捨てて、ニルヴァーナに入ることが可能になっている。ただ、ニルヴァーナに入ってしまうと、二度とこの世には帰れない(帰 る必要がない)ので、その時期は慎重に選ばなくてはならない。
ニルヴァーナに入った後は、意識も体も不滅となる。つまり、四大苦といわれている生老病死が存在しない。しかも、真我は永久に歓喜状態である。ここに真の幸福があるのだ。
しかし、わたしは解脱はしたがニルヴァーナには入らないつもりだ。この世の生を終えても、また人間界に生まれ変わるつもりだ。何回でも何回でも生まれ変 わって、すべての魂をニルヴァーナに送るのがわたしの使命なのだから。これが、わたしが前世において解脱してもニルヴァーナに入っていない理由である。
もしこのわたしが、この世の体を捨てたとする。何もしないでいると、自動的にニルヴァーナへ入ってしまう。これはわたしの本意ではない。そこで“意識を 移し変えるヨーガ”が必要となる。これはいわば、自由に転生するための練習である。何もわたしだけとは限らない。大乗の仏陀(大救世主)に必要なヨーガで ある。大乗の仏陀は、何回も生まれ変わって人々を救済し続けているからだ。
◎意識を移し変えるヨーガ――ポワ
では、最後の修行となる“意識を移し変えるヨーガ”について述べよう。これは瞑想で三昧に入って意識を移し変えながら、あらゆる転生を体験して転生を知 り尽くすのだ。これをやっておくと、死んだ瞬間に自分の望む世界に意識を移し変えることができるのである。わたしが死後の世界を熟知しているのも、この ヨーガをやったからである。
それでは、次の章でクンダリニー覚醒などの具体的なテクニックを書くことにしよう。
■第二章 実践テクニック
四カ月楽々クンダリニー覚醒法
1.アーサナがすべての基礎だ
第二章では、行法をご紹介する。いずれもクンダリニー覚醒を主眼としたものである。きちんと修行をすれば、初心者の場合でも、四カ月程度でクンダリニー覚醒にまでこぎ着くことができるだろう。
第一章でも述べたように、クンダリニー覚醒は、解脱への重要な第一歩である。それ以降は解脱者が直接相手にコピーしなければならないので、本書には書く ことができない。その点をどうかご了承願いたい。もしこの段階に到達した人で、わたしからのコピーを希望する人はご連絡を――。
では、調気法や瞑想を行なうにあたって、必ずマスターしなければならない基本座法五種から始めよう。
★ヴァジラアーサナ(金剛座)
これは、いわゆる正座である。膝頭【ひざがしら】をそろえ、背すじを伸ばす。肩の力を抜き、顎【あご】を引く。足の親指は、軽く触れ合うようにする。手は膝に置く。
★ヴィラアーサナ(英雄座)
最初に金剛座で座る。次に両脚を尻の両側にずらし、尻を床につける。両脚はつけておく。手は膝に置く。
★スワスティカアーサナ(吉祥座【きっしょうざ】)
①両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。
②左脚を折り曲げ、踵【かかと】を右の太もものつけ根につける。足の裏は、太ももにつけておく。
③手を使って、右脚を折り曲げ、踵を左もものつけ根につける。足先は、太ももと、ふくらはぎの間に入れる。左右の親指だけが見える状態がよい。
④手は、自然な形で膝に置く。
(つらくなったら、左右の足を組み替える。)
★シッダアーサナ(達人座)
①両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。
②左脚を折り曲げて、踵を会陰【えいん】につける。足の裏は太ももにつける。
③手を使って右脚を折り曲げて、踵を恥骨の前に置く。足先は左脚の太ももとふくらはぎの間に差し込む。
④手は、自然な形で膝に置く。
(つらくなったら、左右の脚を組み替える。)
★パドマアーサナ(蓮華座【れんげざ】)
①両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。
②手を使って左脚を右もものつけ根に乗せる。
③右脚を左もものつけ根に乗せる。
④手は膝に置く。
(つらくなったら、左右の脚を組み替える。)
五種の座法を覚えたところで、標準的な修行プログラムを知っていただきたい。
修行期間の四カ月は、一カ月ごと四期に分けられる。第一カ月目は一時間、二カ月目は二時間、三カ月目は三時間、四カ月目は四時間の修行時間が必要である。修行内容は、以下のとおりである。
独習の場合は、危険を冒さないためにも、このプログラムで行なうこと。また、このプログラムどおりでやってみても、心身に変調を来したときは、必ず問い 合わせること。特に、効果の高い行法を選んであるので、決して無理をせず、自分の状態に合わせて行なうことが大切である。
プログラムの期間はあくまでも目安であって、それ以上かかっても構わない。
それでは、全期を通して行なうアーサナから入ろう。アーサナは普通の体操と違い、呼吸法、精神集中、保持(体を一定の形に保つ)が含まれている体 位法である。大きく分けると、①前屈、②伸展、③ねじり、④首を柔軟にし強化する、の四種のアーサナがある。本書では多くのアーサナを載せてあるが、それ ぞれの種類から、二、三のアーサナを選んでほしい。それを毎日一時間ずつ続けるのである。
疲れたら必ず、次に挙げる「シャヴァアーサナ」をして休むこと。
★シャヴァアーサナ
①仰向けになり、脚は一五度に開く。腕は体から少し離して、手のひらを上へ向けて自然に床に置く。目は軽く閉じる。
②体の末端である指先、足先から心臓へと向かってゆったりと弛緩していく状態を意識する。
③全身を緩め、リラックスした状態を保つ。
(写真6)
※注意……ヨーガは、ただがむしゃらにやれば効果があるというものでもない。緊張と弛緩も重要なポイントである。そのためには、全身をリラックスさせる 「シャヴァアーサナ」に熟達しなければならない。また、このアーサナを終えて起き上がるときには、その前に手足を曲げて一度力を入れてからにするとよい。
◎前屈のアーサナ
★ガス抜きのアーサナ
①体を真っすぐにして、仰向けになる。
②左脚は、力を抜いて自然に伸ばしたままで、右脚を折って、組み合わせた手で押さえる。
③息をいっぱいに吸い、ゆっくりと吐きながら腕で右脚を引き寄せ、それとともに上半身を持ち上げていき顎を膝につける。そのまま普通に呼吸をして二十秒から三十秒間保つ。
④息を吸いながら、脚と上半身を元の状態に戻していき、②の姿勢に戻る。
⑤②から④までを三回繰り返して、①の姿勢に戻り、次に反対の脚で同様に三回繰り返す。
⑥⑤までが終わったら、両脚で同様に行ない、①の姿勢に戻って終了する。
※注意……曲げた脚が外側を向いてしまう人が多いので、必ず体の真上に来るように気をつける。
★鷺【さぎ】のアーサナ
①両脚をそろえて、前に伸ばして座る。
②背すじを伸ばしたまま、左膝を立てて両手で足首を持って踵を脚のつけ根につける。
③左足を少し上げて、組んだ両手で左足の裏を持つ。
④ゆっくりと息を吸いながら、膝を伸ばしていき脚を持ち上げる。脚が伸びきったら息を止め、左脚の親指を見つめ五秒間保つ。
⑤ゆっくりと息を吐きながら、左脚をいっそう上げて額につける。息を止め五秒間保つ。
⑥ゆっくりと息を吸いながら、左脚を額から離して④の姿勢へと戻る。
⑦ゆっくりと息を吐きながら、左脚を曲げて③②①と逆に戻っていく。①に戻ったら反対の脚で同じことを行なう。
※注意……常に背すじは真っすぐに伸ばしておく。額に脚がつかなくても、背中を丸めてつけるのでは意味がない。つかなくても、練習を重ねて完成に近づけていくことが大切である。
★頭を膝につけるアーサナ
①両足を前に伸ばして座る。
②左脚を曲げて、踵を会陰部につける。曲げた左脚は床につけておく。
③両腕を伸ばし、右手の人さし指と親指で右足の親指をつかむ。次に左手の同じ指で重ねるようにつかむ。右膝が曲がらないように、注意する。
④③の状態で下腹を引き締めて息を吐き、次に緩めて息を吸う。
⑤ゆっくりと息を吸いながら、腰を引きつけ顎を上げて背中を反らせる。十分に息を吸ったら、五秒間そのまま保持する。
⑥ゆっくりと息を吐きながら、顎、背中、腰を緩めるように前に倒していき、額を右膝につける。このとき、両膝の外側をはさんだ両肘【ひじ】は床につけ、背中は、丸くなっている。
⑦なおも息を吐きながら上半身を前に倒していき、両手で右足の親指を引き寄せ、額を膝から足首の方へ滑らせていく。それとともに胸、腹は右脚につき、背中は伸びる。上半身がぴったりと右脚についたところで吐く息を止め、その姿勢を十秒保つ。
⑧ゆっくりと息を吸いながら、頭を膝まで戻していき、上半身を起こして③の姿勢に戻る。両手を右足の親指からゆっくり離して元に戻る。
⑨少し休んだ後、反対の脚で同様に行なう。
※注意……全部を通して、伸ばした方の脚は膝が曲がらないようにする。もし脚の親指がつかめなかったら、膝でも足首でも、つかめるところから始めて、徐々に親指にまで持っていくようにすること。
★背中を伸ばして前屈するアーサナ
①両脚を前に伸ばして座る。
②左脚を曲げて、足の甲を右の太ももの上に深く乗せる。
③左手を背中側から回して、左足の親指をつかむ。
④右手は人さし指と親指で右足の親指をつかむ。このとき、左膝が床から離れないように注意し、両肩と右足の親指で二等辺三角形を描くようにする。特に肩が床に傾かないように注意する。
⑤ゆっくりと息を吸いながら、背すじを伸ばして五秒保つ。
⑥ゆっくりと息を吐きながら、上半身を倒していき、顔、胸、腹の順に右脚につけ、十秒間そのまま保持する。
⑦息を吸いながら、ゆっくりと上半身を起こしていき、右手を離す。次に左手を離し、左脚をゆっくり前に伸ばす。①の姿勢に戻って少し休み、反対の脚に替えて同様のことを行なう。
※注意……「頭を膝につけるアーサナ」と違い、背すじは常に伸ばすように心がける。
★カエルのアーサナ
①金剛座で座り、次に英雄座へ移る。両膝がついているように気をつける。
②手のひらを膝の前に置く。そのままゆっくりと息を吐きながら、上半身を前に倒していき、肘を床につけ、胸は膝につける。
③次に、ゆっくりと息を吸って保持しながら、顔を斜め上へ向ける。このとき、首に力を入れて反るようにする。
④三十秒ほどそれを保持した後、ゆっくりと息を吐き出す。
⑤①から④を二、三回繰り返す。
※注意……背中を丸くしないで、腰から曲げるようにする。太っている人はやりづらいだろうが、根気よく練習すれば、できるようになる。
★膝に鼻をつけるアーサナ
①両足をそろえて前に伸ばして座る。
②膝を腰の後ろにもっていき、手のひらを床に置く。
③息を吐く。
④息を吸いながら、ゆっくりと両脚を伸ばしたまま上げていく。
⑤次に頭を前に出し、鼻を膝につける。
⑥そのままの姿勢で、五、六回普通呼吸をする。
⑦ゆっくり息を吸いながら中間まで脚を下げ、次に吐きながら②の姿勢に戻る。
⑧これをもう二回繰り返す。
★黒蜂のアーサナ
①金剛座で座る。
②息をいっぱいに吸って五秒間保持する。
③ゆっくりと息を吐きながら、上半身を前に倒していく。そして、肘を膝の前の床につける。
④次に軽く頭を上に上げ、口から息をいっぱいに吸う。そのまま自分の限界まで息と姿勢を保持する。
⑤我慢できなくなったら、その姿勢のまま鼻から息を出す。そのときハミングをして、蜂の羽音に似た音が出るようにする。再び口から息を入れ、これを三回繰り返す。
⑥⑤を三回繰り返した後、口から息を入れながら金剛座に戻る。
*前屈のアーサナの効果
①各部分の関節や筋肉を緩め、柔軟にする。
②心を落ち着かせ、瞑想に入りやすくする。
③眠りを深くする。
◎伸展のアーサナ
★バッタのアーサナ(片脚)
①うつぶせになる。腕は体の横に伸ばしておき、手のひらを床につける。
②顎を精いっぱい前へ出す。
③ゆっくりと息を入れながら、右脚を伸ばしたまま、上げていく。このとき、骨盤が床から離れないように気をつける。
④十分に右脚を上げたら、膝や足先を意識的に伸ばし、息を止めて十秒間この姿勢を保つ。
⑤ゆっくりと息を吐きながら、右脚をゆっくりと静かに下げていき、脚が床についたら全身をゆったりとさせる。
⑥顔を横に向けて床につけ、少し休んだら左脚で同様のことを行なう。
★バッタのアーサナ(両脚)
①うつぶせになる。額を床につけ、両腕はこぶしを握って床に置く。
②ゆっくりと息を吸いながら、両脚をそろえて伸ばしたまま上へ上げていく。
③十分に上がったら、息を止めて十秒間この姿勢を保つ。
④ゆっくりと息を吐きながら、上げていた両脚を静かにゆっくりと下げていく。脚が床についたら全身をゆったりとさせ、力を抜く。
⑤少し休んでから同じことを繰り返し、全部で三回行なう。
★バッタのアーサナ(全身)
①うつぶせになる。両腕は前方へ真っすぐに伸ばし床につける。
②ゆっくりと息を吸いながら、両腕、そろえた両脚を一緒に上げていく。
③全身を腹で支えるような状態まで両腕、両脚を上げて体を反らせたら、普通呼吸をして二十秒間その姿勢を保つ。
④ゆっくりと息を吐きながら、両腕、両脚を同時にゆっくりと下げていく。
⑤両腕、両脚が床についたら、全身をゆったりとさせ、力を抜く。
⑥少し休んだら同じことを繰り返し、全部で三回行なう。
★コブラのアーサナ
①うつぶせになる。額は床につけ、腕を曲げて、手のひらが胸の横の床につくようにする。肘は立てて腕を脇につける。
②ゆっくりと息を吸いながら、額、鼻、顎の順に床にこするようにして頭を持ち上げていき、胸が床についている程度に背中を反らす。
③次に両手で上半身を支えるようにして、さらに強く反らせる(腹が床から離れない程度)。
④両腕を伸ばし、恥骨が床につくほどに体を反らせる。
⑤最後に思いきり反らせ、②から吸い続けていた息を止め、肛門を引き締め、五秒間その姿勢を保つ。
⑥ゆっくりと息を吐きながら、今までと逆の順序で元に戻っていく。
★弓のアーサナ
①うつぶせになる。両腕は体に沿って伸ばして床に置く。顎は床につけておく。
②膝を少し開いて折り曲げ、踵を尻につける。それぞれの足首をそれぞれの手で外側から握る。
③四秒間かけてゆっくりと息を吸う。それと同時に、腕で足首を引っ張り、体全体を反らせる。両脚はなるべくつけるようにする。
④③の姿勢を保ったまま、二十秒間普通呼吸をする。
⑤八秒かけてゆっくりと息を吐きながら、体を緩めて①に戻る。
⑥顔を横にして休んでから、もう一度行なう。
※注意……痛みのあるところか、尾てい骨に精神を集中する。
★ラクダのアーサナ
①金剛座で座る。膝は少し離しておく。
②腰を伸ばして膝で立つ。
③息を吸いながら、両足首をそれぞれの手で握り、腰をできるだけ前に突き出す。普通呼吸を三、四回繰り返す。
④息を吸いながら、②の姿勢に戻る。
⑤少し休んでから、もう一度繰り返す。
★壁を使って体を反らすアーサナ
①壁に背を向けて、壁から六〇センチほど離れて立つ。足は肩幅に開く。
②息を吸いながら、両手を伸ばしたまま上げていき、頭上を通り越して後方の壁に手のひらをつける。
③その姿勢を保ったまま、普通呼吸を三、四回繰り返す。
④息を吸いながら、①の姿勢に戻る。少し休んでから、もう一度繰り返す。
*伸展のアーサナの効果
①心身共にエネルギッシュにする。
②勇気、決断力を与える。
③強い精神集中力が得られる。
◎ねじりのアーサナ
★ワニのアーサナ(両脚)
①仰向けになる。
②足先をそろえて脚を伸ばしたまま、ゆっくり息を吸いながら静かに両脚を上げていく。脚は床と垂直になる。
③息を吐きながら、脚を右手の指先に向かって倒していき、床につける。それとともに顔は反対方向へ向けていき、左手の指先を見る。その姿勢を三秒間保つ。
④ゆっくりと息を吸いながら、②の姿勢へ戻る。
⑤両脚を上げたまま、今度は左へ倒していきながら、同様のことを行なう。
⑥息を吐きながら、垂直に脚を伸ばしたまま下ろし、①の姿勢に戻る。
※注意……背すじはできるだけ両手に垂直にしたまま保持する。
★ワニのアーサナ(片脚)
①仰向けになる。
②ゆっくりと息を吸いながら、左脚を伸ばしたまま上げていき、床と垂直にする。
③息を吐きながら、脚を右へ真横になるように倒していき、床につける。それとともに顔は左を向く。左手の指先を見て、三秒間その姿勢を保つ。
④ゆっくりと息を吸いながら、脚を垂直に戻す。同時に顔を戻す。次に息を吐きながら、①の姿勢に戻す。
⑤少し休んだら、反対の脚で同様のことを行なう。
★背骨をねじるアーサナ
①両脚を伸ばして座る。
②左膝を曲げて床につけたまま、踵を尻の右側につける。
③右膝を曲げて、右足を両手を使って左の太ももの横に置く。立てた右脚はできるだけ自分の方へ引き寄せておく。
④右手は尻の右側の床に置く。次に左脇の下を右脚の太ももにつけて腕を伸ばして右脚の土踏まずをつかむ。それができたら、右手を床から離して右脇腹に手のひらを当てる。
⑤息をゆっくりと吐きながら、顔を初め上半身を右の方へねじっていく。このとき顎は引き、背すじを伸ばす。十分ねじれて息を出しきったら、その姿勢を十秒間保つ。
⑥ゆっくりと息を吸いながら、上半身を元に戻していき、④の姿勢に戻る。次に左手を右足の土踏まずから離して正面を向く。最後は①の姿勢に戻る。
⑦少し休んだら、今度は反対側で同様のことを行なう。
★ねじりのある三角のアーサナ
①直立をする。両脚を広く開く。
②ゆっくりと息を吸いながら、両腕を真っすぐに伸ばしたまま、肩の高さにまで上げていく。手のひらは下向きにしておき、左右の指先を結ぶ線が一直線になるようにする。
③ゆっくりと息を吐きながら、上体を左へねじりながら倒していく。最後には、右手を左足の外側の床につける。両腕を結んだ線が一直線になるように気をつける。左指先を見る。
④息を吐ききったまま息を止め、③の姿勢を十秒間保つ。
⑤ゆっくりと息を吸いながら②の姿勢に戻していく。
⑥②の姿勢に戻ったら、今度はゆっくりと息を吐きながら、①の直立の姿勢に戻る。
⑦少し休んでから、反対側にねじって同様のことを行なう。
★前屈してねじるアーサナ
①両脚をそろえて、伸ばしたまま座る。
②手を使って、左膝を折り曲げて左足の踵を会陰にしっかりとつける。右脚は伸ばしたまま、両脚を十分に開く。左膝は床につけておくこと。
③右手で右足の親指をつかむ。つかみ方は、手のひらを上へ向け、右足の内側(親指側から)つかむ。左手は、左太ももの上に置いておく。背すじは伸ばす。
④息をいっぱいに吸う。次にゆっくりと息を吐きながら、上半身を前に倒していく。最後には、右肘が右膝の内側の床につく。
⑤その姿勢のまま、左手を頭上を越えて前へもっていき、右足の外側(小指側)をつかむ。
⑥今度は、息を吸い、⑤の姿勢を保ったまま普通呼吸を三回する。
⑦最後に息を吸ったら、次はゆっくりと息を出しながら、上半身をねじりながら右脚に近づけていく。顔は上を向ける。
⑧上半身をできる限り、右脚に近づけたら(できる人はつけてもよい)普通呼吸をしながら五秒間この姿勢を保つ。
⑨ゆっくりと息を吸いながら、次第に上半身を起こしていき、②の姿勢に戻ってから、①の姿勢に戻る。
⑩十分に休んでから、反対側で同様のことを行なう。
*ねじりのアーサナの効果
①これは、背骨のずれを修正するので、スシュムナー管が真っすぐになる。そのため、スシュムナー管を通るクンダリニーが上昇しやすくなる。
②内臓の充血を取り除くので、肝臓・脾臓【ひぞう】の病気にも効果がある。
③精神が安定するので、長時間の瞑想が可能になる。
◎首を柔軟にし強化するアーー【※“ー”は2つも要らない】サナ
★鋤のアーサナ
①仰向けになる。手のひらは下向き。
②ゆっくりと息を吸いながら、脚を真っすぐに伸ばしたまま上へ上げていく。
③脚が床に対して垂直になるまで上がったら、今度は息を出しながら、背中を床から離し、足先を頭上の床につくように持っていく。
④手を背中に当ててバランスをとり、普通呼吸をしながら三十秒から一分この姿勢を保つ。
⑤両腕を元に戻し、手のひらを床につける。
⑥ゆっくりと息を吸いながら、静かに脚が床と垂直になるまで戻していく。
⑦脚が床と垂直になったら、今度は息を出しながら脚を下げていき、①の姿勢に戻る。
⑧「シャヴァアーサナ」を二分程度とる。
★鋤のアーサナの変形(1)
①「鋤のアーサナ」の①から④を行なう。
②普通呼吸が終わったら、息を吐きながら、片脚ずつ頭上の床の左側へ持っていく。
③息を吸いながら、片脚ずつ元に戻す。
反対側で行なう。
④「鋤のアーサナ」のやり方に従って元に戻し、二分間「シャヴァアーサナ」をとる。
★鋤のアーサナの変形(2)
①「鋤のアーサナ」の①から④を行なう。
②普通呼吸が終わったら、手でそれぞれの足の指をつかみ、息を吸いながら、脚を開いていく。できる限り開いたら、その姿勢を保ったまま三十秒から一分普通呼吸をする。
③ゆっくりと息を吸いながら、脚を元に戻していき、腰に手を当てる。
④「鋤のアーサナ」のやり方に従って元に戻す。
★ビバリータ・カラニー
①仰向けになる。腕を体の両側に伸ばし、手のひらは床につける。
②両脚をそろえたまま、ゆっくりと息を吸いながら上げていく。床と直角になったら息を止め、五秒から十秒間その姿勢を保つ(足首には力を入れないようにする)。
③息を吐きながら、上げていくときの二倍くらいの時間をかけて脚を下ろす。
④両脚が床に静かについたら、全身を緩める。少し休んでから、もう一度②、③を行なう。
⑤今度は、床の上の手のひらに力を入れ、息を吐きながら、腰を床から上げていく。
⑥次に両手を腰に当てて支え、体が「く」の字になるようにする。
⑦その姿勢を一分間保持し、ゆっくりと息を吐きながら元の姿勢に戻り、そのまま休む。休む時間は、⑥の姿勢を保持した時間と同じか倍までとする。
※注意……⑥の姿勢の保持は、一分間から始めて一日に一分間ずつ増やして、一カ月後には三十分になるようにする。もちろん、その後の休む時間もそれに応じて長くする。休むときには必ず「シャヴァアーサナ」をとる。
逆転している時間が長くなるにつれ、腰の痛みや胃の痛みが出てくると思うが、これは生体反応が過敏になっているためなので、我慢してそのまま続けること。このアーサナを始める前には、準備運動として、首を左右にゆっくりと三回ずつ回しておく。
*首を柔軟にし強化するアーサナの効果
首から上の血液交換を十分に行なうことによって、
①ストレスや精神的な疲労を速やかに取り除く。
②ホルモンのバランスを整え、若返らせる。
③神経系統の働きを整え、静める。
④“幻身のヨーガ”“光のヨーガ”と密接な関係がある。
◎全期を通じてアーサナの効果【→ねらい】
①異常な興奮や無気力を取り除く。
②筋肉・関節を緩め、かつ強めることによって、長時間の瞑想に耐えられる体をつくる。
③大脳・神経・ホルモンのバランスを整え若返らせる。
④背骨を修正し、クンダリニーの通り道であるスシュムナー管を浄化する。これがクンダリニーの覚醒を促す。
⑤体を健康にし、内臓を強化する。これがハードな調気法の準備となる。
さあ、準備段階という色彩の濃い一カ月目の修行をやり遂げたら、二カ月目の修行へと入ろう。二カ月目は、アーサナに加えて調気法の実習を行なう。 これは、イダー管・ピンガラ管・スシュムナー管の浄化を行なうので、クンダリニーが覚醒しやすくなる。早い人では、この修行中にクンダリニーの覚醒が起こ るだろう。また、この修行を終えたころには、超能力を得るに足る心身ができ上がるはずである。しかし、超能力については本書の主旨ではないので説明は省か せていただく。
なお、調気法はほとんど本邦初公開の行法を取り入れてみた。
2.超能力が目覚める調気法
★アヌローマ・ヴィローマ・プラーナーヤーマ
①好きな座法で座る。
②下腹を引き締め、両鼻孔から息を吐き出す。
③右手の人さし指を眉間【みけん】に当て、親指で右の鼻孔をふさぎ、左鼻孔から息を素早く吐ききり、左鼻孔から息を入れる。
④息をいっぱいに入れたら、苦しくならない程度に保息する。
⑤保息が終わったら、中指と薬指で左鼻孔を押さえ、右鼻孔から息を吐ききる。
⑥同じ右鼻孔から息を入れ、保息し、反対の鼻孔から吐く。
⑦このようにして左右交互に繰り返すが、回数は自分の肉体的条件によって決める。苦しくなったら、左右同じ回数のところで止める。
※注意……呼吸(入息・保息・出息)に精神集中を行なう。慣れてきたら、入息・保息・出息の長さを一対一対一から一対四対二にする。つまり例を挙げると、最終的には、入息・保息・出息が四秒対十六秒対八秒のようになる。
*効果
①体を若返らせる。
②気を強化する。
③肺と鼻を浄化する。
④心が穏やかになり健康になる。
⑤意識を鮮明にし、心を透明にする。
★ナディ・シュッディ・プラーナーヤーマ
①蓮華座を組む。
②下腹を引き締め、両鼻孔から息を吐き出す。
③右手の人さし指を眉間に当て、親指で右の鼻孔を押さえ、左鼻孔からゆっくりと息を入れる。そのときには、息がスシュムナー管を通って尾てい骨のムーラダーラ・チァクラに届くような気持ちで行なう(保息はしない)。
④次に中指と薬指で左鼻孔をふさいで、右鼻孔から息を吐く。その息がスシュムナー管を通って帰っていくような気持ちで行なう。
⑤そのまま、右鼻孔から息を吸い、左鼻孔から吐く。このように左右交互に続ける。
⑥回数は肉体的条件によって決める。
*効果
①イダー管とピンガラ管を浄化し、クンダリニーを速やかに覚醒させる。
②ムーラダーラ・チァクラを開発する。これによって甘い香りを感じるようになる。
③手足の動きが軽快になる。
④安定した集中力が身につく。
⑤呼吸の回数が減少する。それによって長寿を得られる。
⑥血液を浄化する。
(この調気法は、瞑想を取り入れたもので、わたしの好きな調気法の一つである)
★アグニ・プラディプタ・プラーナーヤーマ
①蓮華座を組む。
②下腹を引き締め、両鼻孔から息を吐ききる。
③右手の人さし指を眉間に当て、親指で右鼻孔を閉じる。
④左鼻孔から、首から尾てい骨にかけてのスシュムナー管に息が満ちることを意識して息を吸う。
⑤おなかに力を込めて、顔が赤くなるまで保息をする(初めは軽く保息する程度から始める)。
⑥苦しくて耐えられなくなったら、中指と薬指で左鼻孔をふさぎ、右鼻孔から息を吐き出す。
⑦今度は、右鼻孔から息を吸い、同様に保息をした後、左鼻孔から吐き出す。このように左右交互にそれぞれ三回ずつ繰り返す。
※注意……心臓病の人は絶対にやってはならない。
保息のとき、気が首から上に上昇しないように気をつけないと、気絶してしまう。危険を除くためにも、二人以上で行なった方がよい。
*効果
①クンダリニーを覚醒させる。
②ムーラダーラ・チァクラとマニプーラ・チァクラを開発する。
③気力を充実させる。
④体の動きが軽快になる。
⑤軽い病気をすべて治す。
⑥発汗を促進する。
⑦寒さに強くなる。
★ディルガ・シュワサ・プラシュワサ・プラーナーヤーマ
①好きな座法で座る。
②両鼻孔から息を長く力強く吸う。このときに、腹は使わず胸式の呼吸になるようにする。
③吸い終わったらすぐに、長く力強く息を吐き出す。
④①から③を肉体的条件に応じて繰り返す。入息・出息時間が、いっそう長くなるように練習する。
※注意……これは、歩きながら行なってもよい(わたしはよく歩きながら行なう)。
*効果
①オーロビントは、この調気法に熟達して空中浮揚ができるようになった。空中浮揚までいかなくても、体が浮いたような感覚を得る。
②健康になり、寿命が延びる。
③アナハタ・チァクラを開発する。
④鼻と肺を浄化する。
⑤胃と肝臓を強くし、消化力を増進させる。
★シャンムキ・レーチャカ・プラーナーヤーマ
①吉祥座で座る。
②右手の人さし指を眉間に当て、右鼻孔を押さえて左鼻孔から息を吐き出す。このとき腹部をへこませて、横隔膜を引き上げるようにして息を吐き出すとよい。
③耳を親指で、目を人さし指で、鼻を中指で、口を薬指と小指でそれぞれふさぐ。
④ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)をして、息を吐ききったまま、できるだけ長く保持する。このとき眉間に精神集中をしておく。
⑤息を吸うときは、左鼻孔だけ中指を離してゆっくりと行なう。
⑥息を吸ったら、保息しないですぐに吐き出す。
⑦反対の鼻で同様のことを行ない、自分の状態に応じて繰り返す。
*効果
①真智(インスピレーションによって真実を知る力)を得る。
②透視能力を得る。
③アージュニァー・チァクラとヴィシュッダ・チァクラを開発する。
④心が不動となる。
★サルヴァ・ドゥワラ・バッダ・プラーナーヤーマ
①蓮華座を組む。
②両鼻孔から息を吐き出す。
③次に、腹と胸に力を入れて、尾てい骨から喉にかけて、息を満たすようなつもりで息を吸う。
④息をいっぱいに吸ったら保息する。このとき、親指で耳を、人さし指で目を、中指で鼻孔を、薬指と小指で口をそれぞれふさぎ、眉間に精神集中をしておく。
⑤我慢できるだけ保息した後、中指を鼻孔から離して息を吐く。
⑥③から⑤を五回繰り返す。
*効果
①クンダリニーが覚醒する。
②解脱に対して大変有効である。
③後は前述のシャンムキ・レーチャカ・プラーナーヤーマ同様の効果を持つ。
★ヴァヤヴィヤ・クンバカ・プラーナーヤーマ
①蓮華座を組む。このとき、首と背中は真っすぐにして座る。
②手のひらを膝に置き、眉間に精神集中をする。
③両鼻孔で素早く二十五回の呼吸を繰り返す。
④完全に息を吐き出した後、ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を行なう。息を吐ききったまま、できる限りそれを保持する。
⑤我慢できなくなったら、両鼻孔で息を吸う。そして、できる限り保持する。
⑥我慢できなくなったら、両鼻孔で勢いよく息を吐き出す。
⑦肉体的条件によって、回数を決めて繰り返す。しかし、四十回以上繰り返してはならない。
*効果
①速やかにクンダリニーを覚醒させる。
②知能が高くなる。
③体重を減らし、体を細く強くする。
④若返る。
⑤慢性化した風邪を治し、痰を取り除く。
※備考……これは他の調気法と違い、三昧に至るためのものである。これを行じることによって、数々の神秘体験をするであろう。
★ブラーマリー・プラーナヤーマ
①吉祥座で座る。
②右手の人さし指を眉間にあて、右の鼻孔を親指で閉じる。
③息が尾てい骨にまで達するような気持ちで、左鼻孔で息を吸う。
④しばらく保息する。
⑤ゆっくりと息を吐きながら、ハチの羽音のような音をハミングで出す。吐息は長ければ長いほどよい。
*効果
①集中力を増し、速やかに三昧に入る。
②ナーダ音(アナハタ・チァクラで出している神秘の音)が聞こえるようになる。
③この音によって“幻身のヨーガ”に入れるようになる。
④心を落ち着かせる。
3.神に近づくムドラー
三カ月目にはムドラーを加える。ムドラーの実践によって、確実にクンダリニーを覚醒させ、解脱への準備を進めることができる。しかし、効果がある反面、肉体を傷つけやすいので、十分な注意を要する。
★マハー・プーラカ・ムドラー
①両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。
②左膝を折り曲げて、左足の踵を会陰にしっかりとつける。左膝は床につけておく。
③右脚を伸ばしたまま、右足の親指を右手の人さし指と親指でつかむ。次に左手で重ねてつかむ。このとき、右足先に真っすぐに上半身を向ける。背すじを伸ばし、肩は床に対して水平を保つ。
④下腹を引き締めて息を吐き出し、次に下腹をゆるめて息を入れる。
⑤さらにゆっくりと胸に息を入れながら、顎を上げて背中を反らせる。
⑥息が胸をいっぱいに満たしたら、ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を 相次いで行ない、三つのバンダを同時に保持する。息を止めたまま、限界までこれを続ける。このときムーラダーラ・チァクラ(尾てい骨)に精神集中をしてお く。
⑦ウディヤーナ・バンダ、ムーラ・バンダの順に緩め、ゆっくりと息を吐き出す。吐ききったら、ジャーランダラ・バンダを緩めてゆっくりと①の姿勢に戻る。
⑧十分に休んだら脚を替え、同様のことを繰り返す。ただし、このときは精神集中をアージュニァー・チァクラへと変える。
★マハー・レーチャカ・ムドラー
①両脚をそろえ、伸ばしたまま座る。
②左膝を折り曲げて、左足の踵を会陰にしっかりとつける。左膝は床につけておく。
③右脚を伸ばしたまま、右足の親指を右手の人さし指でつかむ。次に左手で重ねてつかむ。このとき、右足先に真っすぐに上半身を向ける。背すじを伸ばし、肩は床に対して水平を保つ。
④ゆっくりと腹をへこませ、横隔膜を引き上げるようにして、息を吐ききる。顎を上げて背中を反らせる。
⑤ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を相次いで行ない、三つのバンダを 同時に保持する。息を止めたまま、限界までこれを続ける。このときムーラダーラ・チァクラ(尾てい骨)に精神集中をしておく。
⑥ウディヤーナ・バンダ、ムーラ・バンダの順に緩め、ゆっくりと息を吸う。
⑦息を吸い終わったら、ジャーランダラ・バンダを緩めて、ゆっくりと脚を伸ばして座った姿勢に戻る。
⑧十分に休んだら、脚を替えて同様のことを繰り返す。ただし、このときは精神集中をアージュニァー・チァクラに変える。
★マハー・プーラカ・バンダ・ムドラー
①蓮華座を組む。手は膝に置く。
②背すじを伸ばして普通呼吸を数回行なう。
③息が入ったところで息を止め、ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を相次いで行ない、三つのバンダを同時に保持する。このとき、ムーラダーラ・チァクラ(尾てい骨)に精神集中をする。
④限界まで保持してから、ウディヤーナ・バンダ、ムーラ・バンダの順に緩め、ゆっくりと息を吐き出す。吐ききったら、ジャーランダラ・バンダを緩めて①の姿勢に戻る。
⑤十分に休んでからもう一度繰り返す。ただし二回目はアージュニァー・チァクラ(眉間)に精神集中を行なう。
★マハー・レーチャカ・バンダ・ムドラー
①蓮華座を組む。手は膝に置く。
②背すじを伸ばして普通呼吸を数回行なう。
③息を吐ききったところで息を止め、ジャーランダラ・バンダ(喉の引き締め)、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディヤーナ・バンダ(腹の引き締め)を相次いで行ない、三つのバンダを同時に保持する。このとき、ムーラダーラ・チァクラ(尾てい骨)に意識を集中する。
④限界まで保持してから、ウディヤーナ・バンダ、ムーラ・バンダの順に緩め、息を吸い込んだところでジャーランダラ・バンダを緩めて①の姿勢に戻る。
⑤十分に休んでから、もう一度繰り返す。ただし、このときは、アージュニァー・チァクラ(眉間)に精神集中を行なう。
以上四種類のムドラーを挙げたが、ムドラーはアーサナ、調気法と違い、この中から選ぶというのではなく、全部を行ずる必要がある。また、時間の取れる人は、毎食前に一時間ずつ行ずると数十倍の効果が得られる。
ムドラーだけでも長期間やれば、必ず三昧に入れるだろう。それだけの効果を持つ行法である。わたしは、ムドラーを一日十時間以上行じた時期があった。
標準修行プログラム
修行期間 修行内容 合計
第一期(1カ月目) アーサナ 1時間 1時間
第二期(2カ月目) アーサナ 1時間 2時間
調気法 1時間
第三期(3カ月目) アーサナ 1時間 3時間
調気法 1時間
ムドラー 1時間
第四期(4カ月目) アーサナ 1時間 4時間
調気法 1時間
ムドラー 1時間
瞑想 1時間
4.瞑想――四つの幸福の扉
★幸福をもたらす瞑想
いよいよ最後の修行に入るときが来た。アーサナ、調気法、ムドラーに加えて瞑想を取り入れる。ここでは、わたしが解脱するために用いた「四つの記憶修習の現象化」の瞑想をご紹介しよう。
ここまで修行を続けられたあなたは、アーサナによって瞑想が可能になっているだろうし、調気法とムドラーによって数々の神秘体験をしていることだろう。 しかし、まだ心の幸福感はもたらされてないはずだ。これは、肉体・心・感覚・観念に対する愛着が強いからである。それを取り除くのが「四つの記憶修習の現 象化」の瞑想の目的である。この瞑想が成就したなら、真我(本当の自分)がもろもろの束縛から解き放たれて、本来の姿に戻ることができる。これができた人 には、もはやグルは必要ないのだ。
◎四つの記憶修習の現象化の瞑想
Ⅰ 我が身これ不浄なり
「真我」というものは、純粋で清らかである。そのため、不浄なものを嫌っている。だが、あなたも含め、だれ一人そのことに気づいていないのが現状だ。そこでこの瞑想が必要となる。
この瞑想を行なうと、自分の肉体が不浄のものであるということを、真我に観照させることができる。それによって真我は肉体に対する執着から離れられるのである。
――我が身これ不浄なり――
例えば、お風呂に一カ月もの間入らなかったとしよう。当然体中がかゆくなり、じめじめとして異臭を放つようになるだろう。アカにもまみれるだろう。また、運動したとしたら、汗をかき、通常よりも早く体が汚れていくだろう。
このように、肉体は汚いものなのだ。何もしないで自然になるように任せていると自ら汚くなっていく。それはもともと不浄だからである。
おいしく飲んだり食べたりしたものも、最後にはキタナイとされている便や尿となって体外へと排出される。便や尿がキタナイのだったら、それらを体内で作るこの肉体もキタナイのはもちろんのことである。
それだけではない。肉体は病気にもなれば老化もする。清浄・純粋なものだったら、そんなことが起こり得るはずがないだろう。
このように、肉体は清浄・純粋なものではない。不浄・不純なのだ。その上、病気や老化などの“苦”の原因ともなっている。そんな自分の肉体に「これはわたしです。これはわたしのものです」などといって執着することに何の意味があろうか。
真我は肉体への執着から離れなければならない。これが「四つの記憶修習の現象化」の瞑想の第一、「我が身これ不浄なり」が行き着かなければならないところである。
なお、「四つの記憶修習の現象化」は、「プラティヤーハーラ(制感)」に属する瞑想法である。プラティヤーハーラとは、五感と意識を外界から自分の内面 (この一番奥に真我がある)に向けていく行である。これを行なうと、外界の変化や事物に惑わされなくなり、強い精神集中力を身につけることができる。
【瞑想の仕方】
肉体について、様々な状態を思い浮かべ、不浄であることを理解することに努める。
Ⅱ 受は苦なり
受とはすべての感覚器官のことである。すなわち、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を総称している。これらは、わたしたち人間にとっては重要な器官であるはずなのだが、実は皆幻影なのだ。そのことに気づかなければならない。そのための瞑想が「受は苦なり」なのである。
◆第一段階……今までの感覚が、弱くなったりなくなったりしたときの苦しみを知る
【瞑想の仕方】
まず、自分の目が見えなくなったと強く思い込む。美しい風景も、恋人も、テレビも、新聞も、マンガもすべてが突然見えなくなったのだ。当然、この目で見たいという欲求が起こってくるだろう。その欲求はあなたを苦しめるだろう。苦しくてたまらない。
↓
この状態になるまで瞑想を続ける。すると最終的にあなたは次のことに気づくはずである。
↓
今まで楽しみであったはずのものが、苦しみの原因となっている。執着していたものから離れなければならない苦である。さらに、このまま自分が死んで感覚 が消滅してしまったとしても、永久に残る真我はものすごい苦を負うことになるだろう。それだったら、一刻も早くこの執着から離れなければならないのではな いか。
そう気づいたらしめたものである。同じようにこの瞑想を続ければ、感覚に対する執着から離れることができるだろう。それは、感覚があっても当たり前、なくても当たり前という境地に至ることである。
◆第二段階……物事の移ろいを知る苦しみ
【瞑想の仕方】
愛する者または物を一つ取り上げる。例えば、夫、妻、子供、恋人、ペットなどである。それらの人が、ひどいやけどを負ったとしたらどうだろうか。ただれ たケロイドが、今まで一番好きだった顔に残ってしまったとしたら、どうだろうか。あなたは、今までと変わらぬ愛情を持ち続けることができるか、否か。
そのことについて瞑想し続けてみよう。それによって、移ろいを知る感覚器官が苦の原因であることに気づくであろう。それに気づいたら、前述の第一段階、 「今までの感覚が、弱くなったりなくなったりしたときの苦しみ」の場合と同様に、感覚器官に対する執着から離れるまで瞑想を続けてみてほしい。
◆第三段階……嫌なものを、見たり聞いたりする苦しみ
だれでも、嫌なものを見たり聞いたりするのは嫌であろう。嫌いなことを、否応なしに受けなければならないのも感覚器官があるからである。そのことを瞑想によって悟り、感覚器官からの執着から離れるのが、ここでの目標である。
これら第一段階から第三段階までを完全にマスターすることによって、
「受は苦なり。苦なるがゆえに無我である(真我ではない)。」
という真実を自分のものにすることができるだろう。
Ⅲ 心は無常なり
この瞑想は次のプロセスをたどる。
心は無常なり
↓
無常なるがゆえに苦なり
↓
苦なるがゆえに無我である(真我ではない)
↓
無我なるがゆえに、それを脱却して解脱しなければならない(心と真我を切り離さなければならない)
ここでのポイントは、瞑想によって「心は無常なり」を悟ることである。これを悟らない限り、次へと移れないし、反対に悟ることができたら、以後はスムーズに進むはずである。
では、実際にはどのように修行を進めたらよいだろうか。まず、真我を心から切り離すことの意味について考えてみよう。
真我は、純粋観照者である。純粋観照者とは、他の事物と全く関係を持たない、独立した存在であるということだ。
ところが、真我は心が自分だと錯覚してしまっている。つまり、心が傷つき悲しんでいたりすると、真我は自分がそうなっていると思い込んでしまうのである。これが人間の苦悩や悲しみの根源なのだ。
それはまだいい。もっと大変なのは、愛着の場合である。心が何かに対して愛着していて、真我が自分の愛着だと錯覚していると、輪廻・災禍に巻き込まれてしまう原因となる。
例えば、ある代議士が権力欲の塊であったとしよう。彼は死ぬ瞬間まで権力に心を残していることだろう。もし、そのまま死んでしまったらどうなるか。彼 が、力だけで権力を持とうとするタイプであったら、次に生まれ変わるときには、集団生活をしている動物、それも力関係でボスが決まるサルなどに生まれ変 わってしまうだろう。反対に頭を使って権力を持つタイプであったら、人間以上の生き物に生まれ変わって、権力を集中させ続けるだろう。
つまり、真我が愛着というものを錯覚することによって、それを再び表わそうという方向へ動いてしまうのである。そのため、永久に輪廻の輪の中で苦しまねばならなくなってしまうわけだ。
そうならないようにするには、真我を心から切り離して、錯覚をなくし、本来の姿に戻してやらなければならない。
【瞑想の仕方】
まず、自分が愛着(執着)している事物を知る。そして、瞑想でそれと自分の関係の変化を追う。
例えば、好きな異性がいたとする。その場合、
恋愛
↓
結婚
↓
家庭生活
↓
死別・生別
という過程を繰り返し瞑想する。特に、愛着していながら別れなければならない、という最後の場面を重点的に行なう。それを繰り返し、繰り返し行なうことに よって、真我の経験となっていく。真我は心の動きを見ることによって、自分の経験としていくのである。そして、いずれ真我は「心の動きが無常であり、苦の 原因である」と悟るだろう。そのとき真我はその心の状態から離れていくのである。
しかし、真我を完全に心から切り離すには、これではまだまだ足りない。この他にも多くの愛着が残っているからだ。だから、その自分の愛着を一つずつ取り上げて、同様に瞑想を行なわなければならない。
そして、そのすべての愛着を消滅させることができたときに、真我は完全に心から離れるのだ。ここまで来たら、かなりのレベルである。心が起因となる苦しみを全く受けつけなくなっているはずだ。
Ⅳ 法は無我なり
この瞑想の目的は、いっさいの観念やイメージが虚構であることを悟り、真実の世界(ニルヴァーナ)へ入ることである。この世では、あまりにも観念やイメージに縛りつけられているので、何が真実かということを見失ってしまっている。
例として、身近な出来事を挙げてみよう。
オウム真理教の信徒にI君がいる。I君は修行に打ち込みたいがために仕事を辞めて、それまでの貯えで修行生活をし始めた。
ところが、それを伝え聞いた両親は上京し、I君の所に怒鳴り込んできた。I君は気丈な母親に数発の平手打ちをくらった。母親は言った。
「ちゃんと仕事をしろ! 豊かな生活をして、肉魚も食べろ。子供の豊かな生活を見るのが親の楽しみなのだから。」
ここで問題となるのは、両親の思い込みである。I君は、人間として生まれた目的は何か、どうすれば苦しみや悲しみをなくすことができるか――ということを考えた末に、修行をして解脱を目指す人生を選んだ。
ところが、両親は、豊かな生活=幸福だと思い込んでいるのである。その上、そういう自分の価値観を息子に押しつけているわけだ。I君の両親は、戦中・戦 後を体験している。そのころ、だれもが強いられた悲惨な生活体験が、現在の価値観をつくり上げたということが考えられるだろう。
だったら、当然時代や体験が違ったら、その価値観というものも違ってくることを考えなければなるまい。このように、観念は変わるものである。したがって真実からは程遠い。
教育にしてもそうである。終戦日まで、天皇は神として教えられていた。その神のために死んでいくのが、国民の義務であった。
ところがどうだ。今度はアメリカの占領政策とともに入ってきた民主主義が、現代人の気風をつくり上げた。新しい価値観をつくり上げたのだ。
人は、こんなに変わりやすい観念やイメージに左右されているのである。一刻も早くそのことに気づき、そこから脱却しなければならない。真我の錯覚を取り除かない限り、人間の苦しみの生は永遠に続くのである。
【瞑想の仕方】
では、真我の錯覚を取り除くポイントを書くにあたって、先程のI君を例に挙げて進めてみよう。
まず、幸福とは何か――ということについて考えてみる。母親が言うように、おいしい食べ物を食べる。豊かな生活をする、お金がある――これらが幸福をつくり上げる必要条件かを考えてみる。
まず、息子のI君にとって、それが幸福でなかったことに注目しよう。彼はわたしに会うまでわりと豊かな、母親に言わせると「幸福」な生活をしていたので ある。しかし、それが真の幸福でなかったから、彼はその生活に満足できなかった。それゆえ、その生活を捨てて、修行生活に入ったのだ。ここで既に、豊かな 生活=幸福であるという観念はもろくも崩れ去る。
また、こうも考えてみよう。母親にとって今の世が続く限り、豊かな生活=幸福かもしれない。しかし、必ず死はやってくるものだ。魂は生き続けるが、肉体 は滅する。したがって、豊かな生活も、食べ物も、お金も必要なくなってしまうのである。つまり、幸福の条件だと思っていたことが、何一つなくなってしまう のである。
このように、一つずつ観念を否定しながら、真我の錯覚を取り除いていく。これが、「法は無我なり」の瞑想である。
あなたも、自分が今関心を持っていることを取り上げてこの瞑想を行なってほしい。それは、愛情、地位、名誉、権力、嗜好【しこう】等いろいろあるだろう。それらが永遠に続く真実であるかどうか考えるのだ。
では最後に、「四つの記憶修習の現象化」の瞑想の目的を確認しておこう。その目的とは、永遠に生き続ける真我(魂)の錯覚を取り除き、永遠に幸福な真実の世界(ニルヴァーナ)へ真我を導くことなのである。
『阿含経典【あごんきょうてん】』から、釈迦牟尼の言葉を引用してみよう。
「わたしは、すべてを経験し尽くした。これ以上何を経験する必要があるだろうか。わたしの迷いの生はこれで終わった。すべての苦は滅尽したのである。さあ、わたしは絶対自由で幸福なニルヴァーナへ入ろう。もはやこの世に再生することはないであろう。」
■第三章 覚醒から解脱へ
最終解脱に至るプロセス
この章は、体験談を載せるようにした。それは、以下のような点を考えてである。
①独力で修行した場合に、自分のレベルを知るための参考
②壁にぶつかったときに、抜け出す手がかりとして
③第二章での修行を終えて、シャクティーパットを受けた場合の変化の目安
④グルの重要性を認識する(特に“喜”の段階以上では、グルの意識を弟子にコピーすることが必要となる)
◎すべての土台――信
第一番目には、その真理の教えに対しての信を持つことから始まる。つまり、苦しみありて信ありなのである。そして信を持つことにより、わたしたちが高い世界を経験するためのクンダリニーの覚醒をしてもらえるように、グルに対して帰依をするわけである。
次の四人の体験は、グル(この場合はわたし)のそばで功徳を積みながら修行した結果である。この場合、功徳というのは「神とグルに対する布施と奉仕」そ れのみである。これを実践できるのは、ほんの一握りの人間であろう。それほどに功徳というものは、心の問題が難しい。修行の素質というものは、全く関係な い。確固たる“信”を持つというのが第一条件なのだ。信がなかったら、いくら功徳を積んでいるつもりでも、何にもならないだろう。
残念なことだが、わたしのそばで功徳を積みたいという人の中には、心の中に、それとは裏腹の望みを持っている人もいる。わたしの弟子集団の中で、権力を 持ちたいという望みである。これは現世的な欲望であり、修行においてはマイナス要因である。気をつけなければならないことだ。
また、途中から野心を持ったり、功徳の心をなくしてしまった場合、今まで積み重ねてきた修行もあっさりと崩れてしまう。この点にも留意していただきたい。
わたしは功徳が最も大切だと思っている。例えば、修行が進んで異次元とつながったとき、功徳のある人は修行の助けとなるような次元とつながる。したがって、修行は滞ることなく進んでいく。反対に、功徳がなければ魔境に落ち込んでしまうからである。
◎覚醒――それは異次元への門
四人、全員が前世で修行者だった。
前世でもクンダリニーが覚醒していたので、今生でも簡単に覚醒している。
このグループの特徴は、ヴィジョンをよく見ることと、アストラル・トリップをしやすいことだろう。しかし、解脱の前にはそういうイメージが邪魔になる。 大変だろうが、それらを無視する訓練をしていかねばならないのだ。行としては、第二章で書かれている「四つの記憶修習の現象化」の瞑想が最適だろう。それ を繰り返すうちに、イメージを構成している心や観念が崩壊し、イメージは消える。そうしたら、“幻身のヨーガ”あたりに入っていけることだろう。
◎恐怖と戦慄の魔境
次は、魔境に入って苦しんだ人の体験だ。魔境の内容については、読めばおわかりになるだろうが、原因は異次元のエネルギーを受けてしまうことである。と ころで、魔境に入りやすい人のタイプはわりとはっきりしている。念が強く、超能力を持ちやすい人や霊能者的素質がある人である。このタイプの人は自分の殻 が堅く、また、意識の浄化をすることで修行が進みやすい。一概に魔境が悪いとはいえないと思う。エネルギーの弱い人は入ることもできないからだ。
問題は、どうやって魔境から抜け出すかだろう。次のことを実践すれば、すぐに抜け出すことができるはずである。
1.正しいグルを持つ
正しいグルとは、解脱し、かつ大乗思想を持った指導者である。
2.功徳を積む
この功徳とは、前述のように「神とグルに対する布施と奉仕」である。
3.強い信を持つ
4.行の種類を少なくする
もしあなたが魔境に入ってしまったら、決して焦らずに今挙げたことを実践することだ。
◎体を貫く強烈なエクスタシー――第一静慮・歓喜
クンダリニーを覚醒させ、戒を確立し、修行を進めていくと、わたしたちは四つの静慮【じょうりょ】に入る。
その第一段階は、思索により種々の愛欲から離れることから始まる。このときの思索を、仏典では熟考と吟味という言葉を使っているわけだが、この熟考とは 何かというと、原因についてあれやこれやと考えることである。吟味とは、その結果について考えることである。そして、その結果から、次にどのような因を生 じさせるのかを考える。そして、完全に捨断するのである。このとき、慈愛の達成によって、わたしたちは喜びの身体、喜びの瞑想を得ることができる。
◎心の底からわき上がる喜と楽――第二静慮・喜
第二段階に入ると、思索を完全に止めてしまう。また、逆の言い方をすれば、思索が止まった段階、何も考えていないような状態、これが第二段階なのであ る。このとき、雑念から完全に解放されているから、心の中は落ち着き、そして精神は一点に集中するようになる。このときは真我はより深い状態に入り、熟 考、吟味を完全にやめてしまっている状態である。この状態によって喜と楽が生起している状態、これが第二段階なのである。この静慮の段階で、わたしたちは 悲哀の実践を行なう。これによって、わたしたちは光と音の祝福を受けるようになる。
◎完全なるリラックスの境地――第三静慮・静【+寂】、楽
第三段階では、心の喜びから離れることにより、諸現象に対して無頓着となる。そして、完全に肉体がリラックスの状態に至る。
この第三静慮によって、わたしたちは美しい世界の経験を始めるようになる。
◎ピュアな意識状態と呼吸停止――第四静慮
第三静慮の次は、いよいよ第四静慮に入っていく。感覚というものは楽の裏側には苦しみが存在するので、最終的には平坦な水、波立たない水のように楽を捨 断しない限り、苦しみも捨断できないわけであるが、この第四静慮においては、楽と苦しみを完全に捨断することになる。そして、楽と苦しみが捨断されたがゆ えに、以前の幸福と落胆とを完全に全滅することとなる。つまり、この段階において経験の構成が静止したかのように見えるのである。
このときの意識の状態は不苦不楽である。不苦不楽なるがゆえに、完全なる無頓着の状態が生じ、ただ記憶修習のみが存在している。そして、意識状態は純粋でピュアな状態を形成している。
このときわたしたちの呼吸は完全に停止し、感覚も完全に止まることとなる。
◎化身で変幻自在に――神足通
四つの静慮を通過すると、五つの神通がつく。そして、最初につく神通が神足通である。
この段階で、わたしたちの頭頂から別の身体が抜け出す。このときの身体は、幻影の身体ともあるいは化身とも呼ばれる身体である。そして、この身体はこの 大地に足を着けることもできるし、大地から足を離すこともできるし、行きたいところに自由に行くことのできる身体である。そして、姿・形を心の働きによっ て自在に変化させることのできる身体なのである。
この身体の特徴は、一つの形がいろいろな形に変化したり、あるいはテレポーテーションをしたり、あるいは城壁や塀【へい】や山やあるいはビルや、すべて のものを自在に超えることができることである。そして、この身体はいっさいのものと接触をしない。よって、例えば壁を通り抜けるときも、それはちょうど空 間のような状態で通り抜けるのである。そして、この大地についても同じで、この大地の中に潜ることもできるし、あるいは大地の上へ浮き上がることもでき る。これは、ちょうど水の上のような状態なのである。また、水上を歩くこともできるし、空中を自在に飛行することができるのである。また、この身体はその 世界に存在する月や太陽についても直接触れることができ、すべての世界に対して、例えば形状界の世界に対してまでも自在に至ることができるのである。これ が、初めに備わる神通なのである。
わたしの場合も、渋谷で修行していたときにこの状態を経験した。実際に肉体の頭頂から身体が抜け出し、そしてドアを通り抜け、壁を通り抜けるのである。また、行きたいところへ自在に行けるのである。
◎神々の声を聞く――天耳通
次に生じる神通は、天耳世界の精通である。これは、その人の持っている表象が完全に浄化されたときに起きる状態で、その浄化によってこの世界やあるいは 天耳世界が完全にクリアとなり、天の神々や人間、あるいは近くや遠くのいろいろな声をまさに間近で聞くことができるのである。
この段階の感覚器官は、耳ではなく、喉を使う。他の部分で聞こえる声、これはわたしたちに正しい示唆を与えないが、喉で聞こえる声、正確にいうと喉と頭上で聞こえる声、この二つがわたしたちに正しい示唆を与えるのである。
◎人の心をズバリ見抜く――他心通
次に生じるもの、これは他心通である。この状態は、例えば他の生命体や他の魂の心の働きを、その発するヴァイブレーションによって認識し、理解するので ある。ここで検討しなければならないことは、他心通イコール、何となく相手の心がわかるというのでは他心通とはいえない。ここでの他心通は、相手の心が はっきり把握できるだけではなく、視覚的にとらえられなければならないのだ。つまり、相手の煩悩を色としてしっかりとらえられてこそ、初めて正確な他心通 ということができるのである。
◎過去世を知る――宿命通
次は、宿命通である。宿命通とは、わたしたちの前生を知る力である。これはもちろん、個人の前生をまず知る力であり、派生して他人の前生をも知ることができる力ということになる。
このときわたしたちは、この現象界のスピードより大変早いスピードで、そのときの前世の経験を単に思い出すだけではなく、アナウンスメントされた形で聞 くことができる。例えば、一分間の間に、わたしたちは生まれてから死ぬまでの一生を、サマディの世界では経験できるのである。
わたしも実際、多くの生を思い出している。そして、このときはその状態と、そして光り輝く空間と説明との三つが存在しているのである。
◎来世を知る――死生智
この宿命通まで終わると、次は死生智【ししょうち】へと至る。この死生智とは何かというと、自分のカルマがどのようなふうに現われ、そして来世が形成されるのかということを理解する力ということになる。
このとき、わたしたちは、今生の要素の蓄積によって、まず次の生の光を見、その光をスクリーンとして、その世界の導きのヴィジョンを見ることとなる。これらの経験の後、わたしたちは本当にこの人生が苦であることを認識することができるようになるわけである。
◎相手の煩悩を完全に理解する――漏尽通
死生智まで到達すると、魂は、当然この現実生活がわたしたちにとって悪業を蓄積するものであるということを理解するようになる。つまり、ここで生じてく るのが現世否定なのである。そして、偏った愛著、とらわれは、わたしたちをこの愛欲の世界へと縛りつけ、あるいは上位形状界への道を捨断するということが 理解できるようになる。それによって、現世否定、離愛著の状態が生じ、そして漏尽の状態へと至るのである。離解脱は別名漏尽ともいえる。
では、漏尽通について説明をしよう。この離解脱には二つのプロセスがある。
第一のプロセスは、智慧の離解脱である。智慧の離解脱というのは、まず心において現世否定、離愛著をなすのである。つまり、この現世否定、離愛著の記憶 修習を徹底的に行ない、心に生起したものを一つ一つ精神集中によって破壊するのである。これによって生じる解脱、これが智慧の離解脱なのである。
そして、その後に来る心の離解脱は、完全にその心の中にあるけがれが破壊されてしまい、けがれが破壊されるがゆえに、心は完全に絶対的な空を経験するの である。これが、心の離解脱なのである。そして、この心の離解脱まで到達した魂を最終解脱者と呼ぶのである。ここでは、わたしの体験談を紹介しよう。
T君という子がいた。T君は東大生で大変優秀であった。彼は、専門分野でその学年でトップに立つぐらいの成績を修めていた。そのT君は、学業において大 変まじめで、そして論理的に追求する心も人並外れて持ち合わせていた。しかし、彼は貪りのカルマをなかなか切ることができず悩んでいた。つまり、食べ物に 対する執着があり、その執着を切ることができず悩んでいたのである。
わたしはT君に対してその好きな物、一つ一つを言いなさいという話をした。彼は好きな物を列挙した。わたしはそのすべてを大量に用意し、そしてそれを厭 逆【えんぎゃく】させながら、彼に食べさせることにした。彼は、それを食べたことにより、食べ物に対して、その大量に食べることが本質的には苦しみなんだ ということを理解し、それを数度経験し、その後食の煩悩から離れることができた。
これは、彼がもともと論理的な思考をなすことができる人であり、そして修行に対してしっかりと目的意識を持ち、グルに対してある程度の帰依ができている という条件を備えていたからこのようなことができたのである。もし、彼に帰依の心が弱ければ、食べなさいといってもわたしは食べたくないということで結局 彼は煩悩を持ち続け、その煩悩を超えることができなかったであろう。
次は、U君の場合である。彼は、ムーディストであり、転輪聖王願望が強かった。わたしは、それを彼のエネルギーと彼の心が発している光の色を見て知った。
そこで、「徳を積むことによって、それがかなうんだ」というアドバイスをしたのである。むろん、わたしの本意は彼の望みをかなえることではなく、功徳を 積ませて修行を進めさせることであった。彼はといえば、いくら否定したとしても、潜在意識にそれがあったので、黙々と功徳を積むようになった。
これはサキャ神賢(釈迦牟尼)が、いとこのナンダに修行をさせようとしてとった方法と同じである。サキャ神賢はナンダを天界へと連れていき、美しい天女たちを見せて言ったのである。
「修行すれば天界に生まれ変わり、この美しい天女たちを自分のものにできるのだ。」
と。
その後、サキャ神賢はナンダを真の修行者へと導いていくわけだが、それはさておき、功徳を積んできたUは、その功徳によって今は大変美しい女性たちにかしずかれている。
そして、その状態を味わわせた上で、それは苦であると教えていっているのであるが、まだ完全にそういう心を捨断し切れず、マハー・ムドラーの成就には至っていない。
なお、多くの女性にかしずかれることによる苦とは、女性間の嫉妬によっての影響や、修行に対する欲求を女性によって妨げられたりすることなのである。
これらはすべて漏尽に属する。漏尽は実際に心の発する光の色を見るという状態、視覚的に見るという状態、あるいは、声によって相手の煩悩を聞き分けると いう状態、実際に匂いで相手の煩悩を嗅【か】ぎ分けるという状態、そして触れて相手の煩悩を知るという状態、心の部分と直接コンタクトをとることにより、 つまり、相手の心と自分の心を合わせて煩悩を知るという状態等いろんな状態がある。
他の神通力との違いは、これらの煩悩は自分の内側に入ってきても、すべてその煩悩が自分のものでないということがはっきりわかるということである。つま り、煩悩と真我との区別がはっきりとしている、これが漏尽の状態なのである。ところが、他心通、あるいは宿命通、死生智などの場合、その中に没入している ときは、その没入した世界とそれから見ている自分との区別がつきづらい。ここに、大きな違いが存在している。
◎タントラ・ヨーガについて
次に紹介するのは、前世からのタントラ・ヨーガの修行者だ。タントラとは密儀マントラ・ヨーガのことで、その特長としては、速やかに魂を最終ステージに到達させることが挙げられよう。
しかし、その反面危険を伴ってしまうことは避けられない。というのは、タントラでは煩悩を止滅(弱めていった上でなくすこと)させるのではなくて、昇華 させていくからである。昇華させるためには、煩悩を逆に強めていった上で、身体にある重要な管を通してサハスラーラから逃がさなければならない。もし、逃 がすことができなかったら、発狂したり狂い死にしたりしてしまう危険がある。
これらタントラの修行者は、あえてその危険な道を歩もうとしているのである。
さて、タントラ修行者の特徴を挙げておこう。一言で言えば大変エネルギッシュであり、一流の才能を持っているということである。それは、強い煩悩のエネ ルギーが、必ずどこかで引っかかっていて、そこの部分で才能を発揮しているからである。ちなみに、どこにも引っかかるところがなかったら、その人はもう成 就しているということだ。
また、タントラの修行者はその才能の裏返しとして、欠点も併せ持っている。例を挙げるならば、喉で引っかかっている人は、そこのチァクラの特性として口が悪い。が、リーダーとしては抜群の才能を持っているということである。
さて、最後にタントラ修行者にとっての必要な条件を書いておく。
それは、完璧な帰依、強い求道心、どんな障害をも乗り越えることのできる強い意志の三つである。
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