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悪魔か、神か!? 『哭声/コクソン』に込められた謎を徹底解明!!!

日本では2017年の3月に公開された怪作中の怪作。
レンタル始まっていたのでみた。

国村隼がふんどし一丁で山の中を駆けずり回ったかと思いきや、『八墓村』のような田舎の猟奇殺人事件あり、『ゾンビ』のような感染パニックホラー要素があり、なぜかオカルトバトルが勃発し、合間に挟まれるブラックなユーモアで癒される、そんな作品だった。正直、劇場で見なかったことを後悔もしたのだけど、同時に「これ劇場で見なくて正解だったな」とも思った。情報量が多すぎて疲れる疲れる。

何を言ってるのかよくわからん、と思った方はまずはレンタルでも何でもいいので本作を観賞して欲しい。

これから書くのは完全に観賞済み方に向けての『哭声/コクソン』の解説記事だからだ。
当然ネタバレ前回で書いていくので、そこだけは留意して欲しいと思います。

今回はこれをシンボルに込められた象徴から読み解いていこうと思う。
色々と謎の多い話だし、読み解いていく際のお手伝いが出来れば幸いだ。

では下記からネタバレ全開で。

あ、その前に映画の情報を。

哭声/コクソン
곡성(哭聲)

監督 ナ・ホンジン
脚本 ナ・ホンジン
出演者 クァク・ドウォン
ファン・ジョンミン
國村隼
チョン・ウヒ
キム・ファニ
音楽 チャン・ヨンギュ
タルパラン
撮影 ホン・ギョンピョ
編集 キム・ソンミン
配給 クロック・ワークス
公開 2017年3月11日
上映時間 156分
製作国 韓国
言語 朝鮮語

結論

日本人→キリスト
祈祷師→キリスト教使徒
白い女→土着の宗教
なぜ殺人事件が起こるのか→キリスト教徒は異教徒を虐殺するものだから
なぜ主人公一家が狙われたのか→主人公が信仰心を持たないから
何の映画だったのか→神様同士が主人公を取り合ってぼこぼこに殴りあい、最終的に主人公がキリスト教徒になる話。

以上のことをこれから解説していこうと思う。


前提1:アジア的なメタファーとキリスト教的メタファーが混在している
 この映画がややこしいのは2つの思想に基づくメタファーがミックスされて使用されているから。普通の映画は大概作られてた国・あるいは思想に基づいて1つだけの知識体系が使用される。欧米の映画なら正月は1月。だけど中国映画なら2月の旧正月で盛大にお祝いしたりする。

 これはごくごく当たり前のことなので普段意識することはないし、しなくて良い。しかし、この映画の場合意図的にアジア的な知識とキリスト教的な知識をミックスしてミスリードとして使用しているのでややこしい。

 わかりやすい例が、服の色。日本人、祈祷師、白い女はどれも白い服を着用する。しかし、これらは意味合いがまったく異なる。日本人・祈祷師は法衣として着用している。彼らは宗教的な儀式を行うときだけ白い服を着ている。これはカトリックの神父がミサのときだけ白い服を着るのと同じ。

 一方で白い女は常に白い服を着ている。彼女はアジアのしかも韓国の神様なので意味合いが大きく異なる。死装束である。特に韓国では喪服に白い着物を着る習慣がある(韓国映画ではよく見る)
同じように白い服を着ているからといって意味合いまで同じとは限らない。
この映画ではいったいどちらのコンテクストでメタファーや象徴が使用されているのか区別をつけないと意味を取り違えてしまう(カラス、犬、など動物の描写がそうだ)


前提2:誰の視点に寄り添っているのかによって描写が変化する(客観的な映画ではない)
 この映画はドキュメントではないし、事実を淡々と描写する客観的な映画ではない。メタファーや寓意などがふんだんに使用された映画である。また主人公は存在するが、主人公の視点に寄り添った映画ではない。
つまりどういうことかというと、主人公が直接見聞きしていない話は別の誰かの視点を映像化したものになる。

 一番わかりやすいのは日本人の描写。最初はふんどし一丁で野山を駆けずり回り死肉を食らう化け物として描写されている。しかし、主人公が始めて彼に対面するときや、市場で雄鶏を購入しているときは普通の変わったオジさん程度の描写だ。最後、岩屋で通訳と相対するときにはまさしく悪魔、といった風貌で登場する。

 これは場面によって視点が異なり、それぞれの登場人物の色眼鏡がかかった状態が表現されているに過ぎない。ただし本質は1つ。日本人がいうように「私は私」なのだ。


前提3:登場人物はキリスト者、土着宗教信仰者に分かれる。
 映画内で読み取れる描写から以下のように分類してみた。

 キリスト教徒:日本人、祈祷師、通訳、神父、主人公の同僚(十字架をつけているシーンがある)、主人公の娘、惨劇の加害者達
 土着神信仰:その他全員


前提4:悪魔とは異教の神のことである

 この映画では悪魔悪魔と連呼されるがそもそも悪魔とはなんだろう。
悪魔(これがそもそもすごくキリスト教的な概念であるとは思う)とは神の教えに挑戦し、人間を堕落させる存在。しかし、一方で歴史的に見ればキリスト教の悪魔とは、侵略した地域の土着の神が由来であることが多い。一種のネガティブキャンペーンみたいなもので悪魔にさせられた元神が大勢いる(どの悪魔がどの神様だったかみたいなことは調べてみると面白い)。

 宗教によって戒律は異なるので、何でもないことがほかの宗教では戒律的にNG(堕落した人間の行い!!)とされることはよくあることだ。例えばイスラム教徒からすれば司祭がぶどう酒を飲むキリスト教なんて堕落も良い所だろうね。
要するにほかの宗教を信じるということそれ自体が堕落ということになるし、それならば他宗教の神は悪魔という発想にいたるのもまま納得できる論理展開ではある。

 それとおんなじことがこの映画内で起こっている。どちらの神が善か悪かという価値判断は無意味。お互いがお互いの神を悪魔だと認識しているという図式が成り立っている。
だので、例えば「白い女は主人公を守ろうとしている良い神様」「日本人は悪魔!」という判断は禁物。
どちらも信者にとっては善だし、異教徒からしたら悪魔なのだ。
 

本論

① 日本人がキリストであると判断する理由
 国村隼演じる謎の日本人はまず間違いなくキリストだ。これだけは多分、普通に映画を見ていてもわかる。
まず映画冒頭に聖書の言葉が引用されている。これは福音書に記された言葉で、福音書というのは使徒(キリストの偉い弟子たちだ)がキリストの言動を記録したもので、そこに記された言葉はまさに神の言葉と同じ(だから祝福された音、福音なんだね)。
そして劇中でその言葉を発するのは、そう日本人なのだ。

 またキリストは無実(証拠がない)のまま、ユダヤ教のパリサイ派の人たちに捕まりそのままイスラエルの行政官だったピラト総督に引き渡される。ピラトはキリストを裁く気にならないが、「死刑を!!」という民衆の声に逆らえず、死刑を宣告。キリストは十字架の上で死んだ。
そう、これは劇中における日本人の描写に酷似している。彼が何かを手を下したという証拠は1つも無いのにもかかわらず、怒れる村人の手によりリンチにあい、死んだ。似ている。

 またダメ押しのもう一点は、死後、岩屋で復活したところだ。おまけに手には十字架に掛けられた際の釘の痕まで残っている。これでキリストでなかったら詐欺だ。日本人は悪魔ではない、キリストなのだ。

彼が何を目的としているかはあとでまた詳しく説明する。


② 祈祷師はキリストの使徒(悪い言い方をすれば、日本人とグル)と判断する理由
 ふんどし。それだけで多分十分。
ただし最初からグルなのかどうかは判断しづらい。使徒の中にはヨハネのように最初はユダヤ教徒(別に当時はキリストもユダヤ教徒だが、わかりやすいのでこう書く)だったが、のちにキリストに心酔し転向したものもいるからだ。

 明確に祈祷師が日本人と結託していると取れるのは「白い蛾の大群」の描写以降で、それまで彼がキリスト教に近いユダヤ教の信者を象徴していたのか、最初からキリスト教だったのかは不明。


③ 白い女
 白い女は土着の神様だろう。理由は先述の着物の描写。
またその上から死者の服を纏っていたりと、キリスト教とは明らかに違う思想で動いているように思えるからだ。
多分山の神様(山とか海の神様はだいたいどこの国でも女性なのだ!!)

 ちなみに彼女の使い魔はカラス。カラスは中華圏においては神、あるいは神の使いとして知られている(日本にもヤタガラスがいる!!)。祈祷師の家をカラスが襲う描写から彼女がカラスを使役していることがわかる。山に入ったら上空でカラスが旋回しているのは、日本人が偵察を出したからではなく、彼女が見張っているからだ。
 
なぜカラスを使い魔に選んだのかは、作劇上の理由もある。カラス=黒魔術のイメージが西洋には確かにあって、そこから日本人=悪魔を連想させ、観客をミスリードさせようという狙いが多分ある。
ただし、カラスが彼女の使い魔である以上、西洋の文脈を用いるのは多分正しくない。
日本人とカラスは無関係だ。

あ、ということはだ。主人公の義母が漬けている醤油にカラスをぶち込んだのは……。そう彼女だ。
彼女はあの儀式を妨害したかったのだろう(その理由も後述)。


④ 村で殺人事件が起こる理由、日本人と祈祷師の狙い
 虐殺事件の加害者の特徴とはなんだろうか。そう、皮膚病だ。
 聖書の中にはいくつか皮膚病に関する描写が出てくる。例えばヨブ記では善良な信者であるヨブが思い皮膚病に冒される。これは神から与えられた試練の1つだった。
またキリストは触れるだけでたちまち皮膚病を癒すことができたという逸話も残っている。
 
 それをこの映画に当てはめると、加害者たちは皮膚病にかかりキリスト教の神(GODだ)から試練を与えられている。信仰心を試されているのだ。彼らに課せられた使命は異教徒を殺害すること。
 
 これに関しては聖書にそんなこと書いてないのだけど、ナ・ホンジン監督も信仰しているローマ・カトリック教会が何世紀にも渡って一大事業として楽しくわいわいやってきたことなので教理みたいなものである(この輝かしい伝統は中東の原理主義者たちに今も受け継がれている)。
まぁキリスト教の歴史というのは異教徒・異端の迫害・虐殺とは切っても切れないので、この映画でこのように扱われてもしょうがない。
 
 加害者達にとっての異教徒とは身近にいる土着神を信仰する家族たち。だから陰惨な殺人事件が相次いで発生する。日本人はそんな彼らに永遠の命を与えるために死人再生の儀式(儀式合戦のシーン、良く見ると日本人の祭壇に祭ってあるのは主人公の娘ではなく車で死んでた殺人犯の写真だ)をねんごろに執り行っているというわけだ。
 
 多分具体的な流れとしては、信仰に目覚めた信者が皮膚病になる。祈祷師が除霊と称して儀式を行い虐殺を誘導(わかりにくいが劇中、虐殺現場において祈祷師が使用したであろう儀式の道具が散乱しているのが見える)。その後病院などで皮膚病が原因が死亡。日本人が再生させ、永遠の命を得て、めでたしめでたし。しかし本編ではそうはならない。永遠の命を得るはずがゾンビとして不完全に甦ってしまう(この辺が監督の趣味が悪いところで最高)。

 ちなみになんで一度死ぬ必要があるかというと、キリスト教における天国は死なないとたどり着けないから。だから一度死ぬ必要がある。多分、本編のあと主人公の同僚も、主人公の娘も死にますね。


⑤ なぜ駄目な警官である父親が主人公なのか
 女の狙いについて書く前に主人公について話をしなければならない。なぜ彼が主人公なのだろうか。
この映画はオカルトチックな神と神の戦いであるが、なぜ主人公は中年のオジサンなのだろうか。
それは彼がどちらの神も信仰していないからだ。
 
 彼はうだつは上がらないかもしれないが、実は物語がスタートした時点では、名信も宗教も信じていない。
例えば日本人の怪しい噂や事件のおかしな憶測を聞いても「アホらしい」と一蹴。科学的な分析による「キノコが全部悪い」という説明を受け入れている。
また娘が体調を崩した際も「なぜ病院に連れていかなったんだ!!」と怒りをあらわにするなど、西洋医学を信じている。(その彼と対比の描写が雷にうたれたけど漢方薬のおかげで助かったというシーンだ。あれは村人達が東洋医学をひいては民間信仰を信じているということを面白おかしく説明したシーン)

 主人公は合理主義者だったのだ。だからこそ、日本人と白い女は彼を取り合ってぼかすかと殴り合いをする羽目になる。
この映画はどちらの神が主人公の信仰を勝ち得るのかという映画だ。
 
 まぁかなり根拠のない類推になるけど、多分彼は一般的な韓国人のメタファー。駄目な父親かもしれないけど、家族思いで仕事もまじめにこなす。土着の宗教も新しい宗教も信じていない。なんとなく科学的だと思われることを信じて生きている。それが揺らぐ怖さを描いている映画でもある。


⑥ 白い女の狙い
徹頭徹尾、日本人・祈祷師の妨害だ。信者が減ると困るので。そして彼女は村で多分唯一ぐらいの信仰心のない男をキリスト教徒にしたくないのだ。
 だから主人公の夢に現れて、日本人と接触する前に不信感を植え付けた。また国村隼の死人再生の儀式も妨害し、失敗に終わらせた。キリスト教信者を根絶やしにして自分の信仰を守ろうとしているのだと思われる。これまでも加害者が自殺したりしてるのは彼女の妨害のせいだと思われる。うまく行ってたら再生してるはずなので。
 祈祷師が最後のほうで主人公の家の敷居をまたげないのは彼女が作ったであろう結界(逆さまになった花束が玄関先に吊るしてある)。祈祷師は鼻血と吐血とゲロを盛大に撒き散らしてすごすごと退散するしかなかった(このとき祈祷師は完全に心が折れてるくさい)。
 また山の中で日本人を追い掛け回して車に引かれるように誘導したもの明らかに彼女。
 最後の雄鶏のやり取りについては次の項目で詳しく述べる。

⑦ 女が仕掛けた最後のトラップ、雄鶏問答の意味は
 娘があぶない!!と自宅に向かう主人公の前に姿を現した白い女。「雄鶏が3回鳴くまで我慢しろ。家族が助からないぞ」女はそう告げる。

 この問いかけの意味は何なんだろう。
 
 雄鶏、3回といえば聖書に有名なエピソードがある。
「雄鶏が鳴くまでにお前は3回私を知らないと言うだろう」とキリストが使途であるペトロに告げる。「そんなことはありえない」と軽く流すペトロ。しかしキリストが逮捕され、群集に詰め寄られると恐怖からペトロは「あの人のことなんて知らない」とキリストとの関与を3回否定。そして鶏が鳴き、彼は自分が師を裏切ったことに気付き、愕然とする。という話。
これは確か福音のどれかに載ってる。
 
 さて、この話を少し改変したのが劇中における問いかけである。これが実は女が巧妙に仕掛けた罠だった。
これ3回待ったらアウト。絶対に駄目。待たずに家に戻って正解です。
 
 キリスト教圏において、朝を告げる雄鶏は新しい信仰を切り拓いたキリストと同一視するという考え方がある。またそこから派生して、三度の雄鶏の鳴き声というのは自身の思いあがりを正し、信仰を目覚めさせる象徴なんだとか(初期キリスト教では石棺に雄鶏が刻まれたりしていたようだ)。
 
 劇中でこの問いかけが意味するものとは、キリストを信じるのか、土着神を信じるのかという問いなのだ。
 雄鶏はキリストからの呼びかけにほかならず、これを3回無視するとペトロと同じようにキリストを裏切ったことになる。なので、主人公は3度目の雄鶏が鳴く前に自宅に戻って正解だった。
 これは切羽詰った白い女が仕掛けた最後の罠だった。だから失敗したあと女はうなだれている。
 
 これにより主人公は救われることになった。
 え?主人公の家族は死んでいるから救われていないじゃないかって?救われていますよ、主人公だけは娘に殺されずに済んでるでしょ?
 彼はキリストを選んだのだから、娘と生きていくことができる。
 
 あ、ちなみに雄鶏といえば、死人再生の儀式のときも国村隼は雄鶏を購入している!!あれは多分己の信仰心を高めて悪魔=白い女からの妨害を寄せ付けないようにするためのものだと思われる。大して意味は無かったようだけど。


⑧ 通訳を行う若い神父の役割は?
 「神の言葉を学ぶものは神の声を聞く」というのはキリスト教界隈ではよく言われる言葉だ。要するに聖書をしっかりと勉強していけば、信仰に目覚めることができますよというスローガンみたいなものだと思っている。

 さて、劇中の神父の役割は日本人=キリスト=神(ここでは三位一体説をとることにする)の言葉を聞き、理解し、周りに伝えるという役割だ(預言者とも言える?)。彼は神の言葉=日本語を理解し、主人公と日本人の橋渡しを行っている。

 ただし、劇中彼の日本語力は正確にすべての言葉を伝え広めるほど高くはないことが示されている。これは彼が本当の意味ではキリストを信じきれてはいないことを表しているのではないかと考える。
その証拠に彼はキリストである日本人が最後には悪魔に見えてしまっている。彼は結局は韓国の土着の信仰から抜け出せていないのかもしれない。あるいは余りに苛烈に異教徒の排除を行おうとするキリスト教が信じられなくなってしまったのかもしれない。あるいはキリストの復活を目の前にしても、幽霊が現れたのだと恐れおののいた使途たちと同じ様に一時的に信仰を見失っているだけかも。

 ただ、老神父が冷静なのに対して、若い神父は日本人が「悪魔なのでは?」と早い段階で疑いを持っていることから、最初から余りキリストを信じられていないのだと思う。

以上の論拠を持って

日本人→キリスト
祈祷師→キリスト教使徒
白い女→土着の宗教
なぜ殺人事件が起こるのか→キリスト教徒は異教徒を虐殺するものだから
なぜ主人公一家が狙われたのか→主人公が信仰心を持たないから
何の映画だったのか→神様同士が主人公を取り合ってぼこぼこに殴りあい、最終的に主人公がキリスト教徒になる話。
という結論に至りたいと思う。

本論終り。


さて、以下は細かな描写の補足説明だ。

① なぜ主人公の娘は魚をむさぼるように食べるようになるか。
 主人公の娘が、おかしくなっていく……という描写の1つに大量の魚を貪り食うというシーンがある。別に肉でもよさそうなものなのに、なぜか魚だ。これには多分ちゃんとした意味がある。これがキリスト教に関する映画であるという上記の結論がヒントになる。

 キリスト教において魚とは非常に重要な象徴の1つである。キリストは魚を増やし、信者達の飢えを満たすことができたし、使徒達に漁師が多いので漁にまつわるエピソードが聖書にも多く出てくる(水の上を歩くとか、魚が大量に採れたとか)。

 魚を意味するギリシア語のつづりは「ichthys」となるのだが、これが「Iesous Chiristos Theou Hyios Soter(イエス・キリスト、神の子、救世主)」という神学における概念の頭文字を繋いだ言葉になるので、キリスト教信者たちのあいだの秘密のシンボルとして使われていたらしい(手持ちのシンボル時点からの引用)。

 パンとともに描かれる魚は聖餐のシンボルでもあるらしく、劇中での魚を食う描写=キリスト教徒であるということ示す重要なメタファーなのだと思う。


② 日本人は学者かもしれないと言及される理由
 古来、畑仕事をするわけでもなく、日中書斎にこもりきりで、なのになんだか良い生活をしている学者という職業は、民衆から悪魔の手先として考えられることもあったと言う。そうした民間信仰から悪魔と契約をした学者、ファウスト博士が生まれたのかもしれない。神に成り代わって真理を探究しようとする姿勢は、アンチ・キリストの悪魔のように見えると言うのもあるかもね。

 さて、劇中の日本人も学者かもしれないと言及されるのはこの学者と悪魔の近しさゆえだろう。多分。


③ なぜ山で鹿を食べているのか。
 劇中でも鮮烈な印象を残す名シーンの1つが、ふんどし一丁の国村隼が四つんばいで鹿を貪り食うところだ。あの絵づらの怖さというか滑稽さというか、なんとも不思議な味わいは忘れがたい。

 さて、何で鹿なのだろう。別に山にいる動物だった鹿でなくても良いわけだが、なぜか鹿だ。

 これは個人的な見解でしかないので、そこまで深い意味があるのかは不明だが、いちおう。
鹿は概ね、どこの文化圏でも神聖な生き物として一定の信仰を集めている。日本でも奈良の鹿とかそうだし、『もののけ姫』のシシガミ様だって鹿のお化けだ。

劇中での鹿はそういった神聖なもの、というイメージが重ねられているのだと思う。それを裸で食ってるわけだから、野蛮もいいところ。また鹿は健康な若者を表すシンボルでもあるので、あるいは若者を食い物にする日本人というイメージなのかもしれない。

 さて、以上が映画の意味内容についての解説だ。
これで、多分どのような映画なのかはわかってもらえると思う。
そして、こうしたストーリーからナ・ホンジン監督がどういったことを描こうとしているのか、ということは実際に映画を見た各個人が考えるのがいいと思う。

 僕は寛容とか不寛容といった月並みなことしかいえないので。

 ではでは、長くなってしまった解説を終わる。
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今青ショーヘイ

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映画を見ることだけが生きがいになりつつります。最近ライター業を始めました。

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