2019/1/22 15:40
現在は自転車に跨がって県道を第2駐車場から下流方向へ移動中。
出発直後に大滝橋を渡り、その先でも九竜橋、曙橋、親不知橋など、山腹の出入を短絡する大きな橋が続々と現われる。これらの橋で木戸川との間隔をほぼ一定に保った直線的な快走路を実現している。渓谷沿いとは思えないほど解放的な車窓がここにはある。
言うまでもないが、これらの全ての橋に対して橋を渡らない山腹の旧道があり、その旧道のラインは大体が林鉄に由来したものだと思う。
それらをこれから探索するが、まず一旦全てを素通りし、今回の探索区間の端を目指すことにした。(探索スタート直後に前回紹介した廃隧道を見つけて探索したのはイレギュラーで、当初計画はこのように動くつもりだった。探索区間の途中から探索をはじめるというのは、レポが分かりにくくなるからね…苦笑)
15:46 《現在地》
第2駐車場から1.6km進むと、初めてトンネルが現われる。
平成7(1995)年竣工、全長283m、新芝坂トンネルだ。(手前の橋は七色橋という)
竣工年から予想できると思うが、トンネルは木戸ダムの工事用道路として整備されており、工事終了後に県道となった。
そしてこの名前から分かるように「新」が付かない旧の「芝坂隧道」が存在し、現存もしている。画像の右の辺りにぼんやりと黒く見える部分がそれだ。
チェンジ後の画像は平成18(2006)年12月の同ポジ写真となる。今ほど樹木が育っていなかったので、旧隧道がよく見えていた。典型的な新旧トンネル横並びの風景だ。
この芝坂というトンネル名は、トンネルのこちら側を占める国有林の名前である。木戸川林鉄が昭和8(1933)年に竣工した時点の終点もこの近くにあったが、翌年にはさらに5km奥地まで伸び、現在の木戸ダムより上流に達した。
旧隧道に通じる旧林道(&軌道跡)は、直前の七色橋の袂より入る。
そこには取って付けた感じの「通行止」の標識があるが、旧道の路肩にはなぜか擬木コンクリートの転落防止柵が“新設”されていて、修景の気配が感じられる。でも廃道なのである。
これが芝坂隧道だ。
いかにも林道由来らしい、全く飾り気がないコンクリート坑門のトンネルで、1台ずつなら大型車も通れる断面サイズがある。
ここに最初の隧道を開通させたのは木戸川林鉄だが、いまの姿は昭和8年の開通当初のものではなく、昭和36年の林鉄廃止後まもなく林道化された際に、大々的な拡幅整備を受けている。そのため、木戸川林鉄を取り扱っている『鉄道廃線跡を歩く』や『トワイライトゾ~ンマニュアル vol.6』などの文献も、ここを林鉄の遺構としては紹介していない。だが、空間の継承ということまで遺構という言葉の意味を拡幅すれば、最も目立つ“遺構”だといえるだろう。
それはそうと、この断面の形、【さっきの廃隧道】と少し似ている。
間違いなく林鉄時代のものではないのだが、似ている。
これは全くの偶然なのか、それとも拡幅改良されてこの姿になる前の林鉄時代の隧道が、先ほどの隧道と同じ断面をしていて、それが念頭にあったから似たような断面になったのか。
この隧道を単体で見ても、そこまで個性的な断面だとは思わないのだが、前回の隧道を知った後だと、関係の有無が気になるところ。
この隧道は、木戸川林鉄にいくつもあった隧道の中で最も下流に位置している。そして単にそれだけではなく、人里と国有林を隔てる象徴的な意味も感じられる、まさに木戸川山岳地帯の玄関口ともいうべき隧道である。それだけに、林鉄時代の写真が残っていても良さそうなのだが、まだ見たことがない。
崩れかけた工事用フェンスで雑に封鎖されている入口より中を覗くと、出口の小さな光が闇の中に浮かんでいた。新トンネルは滑らかにカーブしているが、こちらはいかにも古い直線の隧道である。正確な全長は記録がなく分からない。だが、地図上での計測では170m程度である。
対して、同じ位置にあった林鉄時代の隧道については、「福島の森林鉄道WEB史料室」の記述から、昭和8年の開通当初に全長252.3mだったと考えられる。現状とは結構な差があるので、林道化時に長さの短縮も行われた可能性が高い。
この隧道内部については、平成18(2006)年12月の木戸川林鉄第1次探索時に探索しており、今回大きな変化はなさそうだったので奥まで行かなかった。でも読者諸兄は反対側まで見たいと思うので、次の写真から少しのあいだ、平成18年の探索写真をご覧いただこう。当時まだダムの工事中だったが既に新トンネルが使われていて、旧隧道は封鎖されていた。
西口から少し入ったあたりの写真だ。
サイズ感は1.5倍くらい違うが、高さの大半を占める垂直な側壁の上に天井のアーチが乗っている縦長のスタイルは、前回の廃隧道を思い出させる。
ただ、こちらの天井は欠円アーチというほど扁平でない。このような形をした縦長の断面は、クレーン付き運材トラックの通行を念頭に置いた自動車道の林道ではたまに目にする。
洞床は砂利敷きで、ダム工事以前の木戸川林道の路面状況を継承していると思う。
平成7年まで連日多数のダム工事用車両が行き交っていたのであり、廃止された今でも車の轍があまり風化せず鮮明に残っていた。崩れたりもしていないので、現役さながらの風景だ。
チェンジ後の画像は西口から50mほど進んだところである。この辺りまで進むと、コンクリートが吹付けられた素掘りの断面に変わっている。サイズ感は変化なし。
洞内は直線だが、西口から東口に向かって緩やかに下る勾配があった。照明の類は全くなく、反射材もないので、洞奥はライトを点けないと壁の位置も分からないほど暗かった。
やがて東口が近づいてくると、再び内壁はコンクリートの覆工を得た。だが、勾配に対して水捌けが追いついていないらしく、最後の方は水深20cm程度で広い範囲が水没していた。
洞内を通過して東口へ。
坑口前には頑丈そうな谷積の石垣で守られた長い切り通しが伸びている。これは徐々に浅くなりながら50m以上続いており、林鉄時代はこの一部も隧道だったのだと思う。林道化時に開削して明り区間にしたために、隧道が短くなったのだろう。切り通し内は水捌けが悪く、泥濘んでいた。
チェンジ後の画像は、少し離れた所から振り返った隧道東口。
工事用フェンスで塞がれていたが、おとな一人が通れる【隙間】はあった。
西口同様、小さな扁額があるくらいで飾り気の乏しい坑門だったが、控えめな工事用銘板を見つけた。
これが東口の坑門に取り付けられていた工事用銘板……というのかなこれ。坑門によく設置されている竣工年や全長などのデータが記録されたプレート類を工事用銘板というのだが、このプレートに書かれているのは、施工者に関する情報だけだ。
「施工者 広野町 山田組」
この場所は楢葉町なので、なぜ隣の広野町が出てくるのかと思ったが、施工者である山田組が広野町に所在しているという意味だろう。施工者だけで発注者は書かれてはいないが、木戸川林鉄、そして木戸川林道を生み出した、富岡営林署に違いない。
坑口から50m以上離れたところに、通行止のバリケードが設置されていた。
坑門にも、25m離れた位置にも、それぞれバリケードがあった。
隧道自体は、水が少し溜まっているくらいで、崩れもなく比較的良好な状況に見えたが、隣に完全上位互換の新トンネルがある以上、もう使われることはないのだろう。
バリケードの傍らには、国有林林道特有のアイテムである「落石注意」という文字が書かれた(オリジナル)警戒標識が残っていた。他に錆びきった「徐行」の規制標識(こちらは本式のもの)と「郭公山鳥獣保護区」の古ぼけた案内板もあった。
バリケードから50mほどで、女平集落の最も上手にある民家の前で、現県道と合流する。
チェンジ後の画像は隧道方向を振り返って撮影した。
以上が、平成18年12月に探索した旧芝坂隧道の様子である。
木戸川林鉄にとっては、この隧道の貫通によって初めて国有林に到達し出材を開始できたというエポックメイキングな存在だった。
さらに、前作の机上調査編で取り上げた、木戸川林鉄より前に計画された木戸川軌道や双葉軌道においても、この辺りに隧道を掘る計画を有していたように見受けられる。
木戸川流域の林業史に器械運材の夜明を告げる、そういう重大な意義を持った隧道だったのである。
2019年1月22日の旧芝坂隧道西口へとレポートの時空を戻した。
ここで折り返し、第2駐車場を目指しながら、途中にある全ての旧道を探索するぞ。
果たして、林道化に伴う破壊と上書きを逃れた林鉄時代の遺構は存在するのだろうか。