■「九〇年代の日本外交と国連-小和田氏は何をしたのか-」
『軍縮問題資料』2001年10月号
河辺一郎
http://www.geocities.jp/kawabe_ichiro/papers/048.html
■青年の旗 185号(1993年3月15日)
http://assert.jp/data/1993/18503.htm
■岡田克也
2006年8月29日週刊ビデオメッセージ
日韓フォーラム
実はこれから、淡路島に出掛けます。淡路島で今日から「日韓フォーラム」というものが開催されます。
この日韓フォーラムというのは、日本と韓国の有識者、政治家であったり経済人であったり、
あるいは学者であったり、日韓のそういう有識者が集まって、日韓の課題について議論するということで、
大変権威のある、そして中身のある会議です。
私は数年前までこの会議に毎年参加していました。日本と韓国で交互に開催されてきたわけです。
当時、日本側の議長は外務省OBの小和田さん、
皇太子妃雅子さまのお父さんが非常にリーダーシップを発揮されて、
中身のある会議が開催されていました。少し前になりますけれども、
ワールドカップサッカーの日韓共催を最初に提案したのも、この会議の場です。
しばらく忙しくて遠ざかっていましたが、久し振りに参加させていただき、
日韓を取り巻くいろいろな問題、例えば国民感情の問題、あるいは領土の問題、
そして共に世界のために協力できる分野、そういったことについて、
率直に意見交換をしてきたいと思っています。
この結果は、後ほど皆さんにこの場でもご報告したいと思います。
http://www.katsuya.net/message/2006/08/29.html
■2007.8/17朝日
大使公邸「35億円大使公邸 お荷物?」
日本政府が99年に35億円で入購入した「国連大使公邸」老朽化で修繕に膨大な費用がかかる上、
地理的な使い勝手が悪いとして前大島大使が外務省に意見書を送ったが外務の反応は消極的。
これは、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指す日本にふさわしい建物をと
小和田恒・元大使の在任当時に購入を決断。
24億円で購入し、11億円かけて改修した。
他国が実用性重視のビルを所有しているのに比べ、この公邸はあまりにも不便。
購入当時も実用性ビルを購入の話は出たが、予算の関係上、
「実用性よりもステータス」を重視する決定が下されたという。
■ゲンダイネット2007年8月18日掲載記事
35億円大使公邸は幽霊ビル
かねて「幽霊ビルに35億円!」と批判を浴びていた
ニューヨークの「国連大使公邸」に対し、とうとう身内からも「売却すべきだ」という声が上がり始めた。
日本政府が99年に購入した国連大使公邸は、改修費を合わせると総額35億円の大豪邸。
朝日新聞によると、今月退任したばかりの大島賢三前大使が
「売却を検討すべきだ」という意見書を外務省に送ったという。
国連大使公邸は、鉄骨石造りの地上5階、地下2階建て。
99年1月、当時、住宅では史上最高額の2100万ドル(24億円)で購入した。
その後、11億円かけて改修している。
ところが、地元では“幽霊ビル”と呼ばれているという。
「建物は築100年以上。配管が腐っていたため買い手がつかず、10年以上も売れずに放置されていた。
それを『歴史的な建物だ』と相場の2割高で購入したのです」(関係者)
老朽化で修繕費に膨大なカネがかかるうえ、国連本部からも遠いため人が寄りつかず、
利便性や活用性が極端に低い。とうとう大島前大使は今年春、
外務省の塩尻官房長に「不便が多々あり、客足も鈍りがち」
「当時の関係者の判断に強く疑問を感じる」
「売却するオプションを排除すべきではない」と意見書を送ったという。
当時の国連大使は小和田恒氏だ。
外務省は「大島前大使から文書が送られたかどうか、お答えできません」というが
事実だとしたら、とんでもない税金のムダ遣いじゃないか。
■雑誌正論2008年1月号
佐々淳行
カンボジア総選挙国際監視団に日本の文民警察を派遣するとき、装備として拳銃と若干の小銃、
それに防弾チョッキを持たせようと提案したら、外務省の小和田恒が、
「丸腰で行け! 装備をもたせると、帰るときに売っぱらい、武器輸出三原則に違反するから」と言い放った。
日本の警察をバカにしたような発言に驚いた。
「皆がお前(小和田)と同じことをやってると思ってんのかっ!!」
■防衛省OB太田述正メルマガ
「小和田恆さんいい加減にしなさい。」
皇太子殿下の嫁の実父という立場にある君は恐れ多くも、皇太子殿下を利用し、
次から次と悪事を働いて来ましたね。
ある時は、後藤田正晴氏と組んで想像も付かないような恐ろしい悪事を企てましたね、
元日銀総裁の三重野康氏を使って実行した事は日本国の信用を著しく損ねたのみならず、
皇室の尊厳を著しく傷つけました。
それに懲りずに今度は武藤敏郎日銀副総裁(当時)、飯島勲(元小泉総理秘書)、等と組んで
小泉純一郎氏を巻き込み某国の大統領にまで手を延ばして、恐ろしい事をしましたね、
その時も恐れ多くも、皇太子殿下を欺いて利用しましたね。
http://archive.mag2.com/0000101909/index.html
■↑と同じ内容
第32報 小和田恒さんいい加減にしなさい。
君は外務事務次官を退官した後国連大使になりましたね、
外務次官経験者は恒例として駐米大使になることになっていたのに異例の事と受け止められました。
この時から既に君はある恐ろしい野望を持っていたのですね。
この事は、その後君がオランダハーグの国際司法裁判所の判事に強引になった事でも裏付けられました。
この時は既に日本は安全保障理事会の非常任理事国のポストが決まっていたのを横槍を容れ、
それを放棄させ引き換えに奪い取ったポストでしたね。
皇太子殿下の嫁の実父という立場にある君は恐れ多くも、皇太子殿下を利用し、次から次と悪事を働いて来ましたね。
ある時は、後藤田正晴氏と組んで想像も付かないような恐ろしい悪事を企てましたね、
元日銀総裁の三重野康氏を使って実行した事は日本国の信用を著しく損ねたのみならず、
皇室の尊厳を著しく傷つけました。
それに懲りずに今度は武藤敏郎日銀副総裁(当時)、飯島勲(元小泉総理秘書)、等と組んで
小泉純一郎氏を巻き込み某国の大統領にまで手を延ばして、恐ろしい事をしましたね、
その時も恐れ多くも、皇太子殿下を欺いて利用しましたね。
この辺で誠実で純心無垢な皇太子殿下を悪用する事を止めないと君に天誅が下ると思いますよ。
山路信義
http://blogs.yahoo.co.jp/yamajinobuyoshi/4718714.html
■「日銀総裁の座を狙っていた小和田恆氏」
何故小和田氏は日銀総裁の座を狙ったのか、それは国連大使、
オランダハーグの国際司法裁判所判事と歩んできた最後の仕上げであった。
今、小和田氏は武藤総裁を実現して最後の賭けに出ようとしている、
これは皇室に災難をもたらす、あまりにも無謀な恐ろしい暴挙であると
言わざるを得ない。小和田氏自身のみならず皇太子殿下にも災難が及ばないとも限らない。
美智子皇后の御尊父の爪の垢でも飲ませたいものです。
このうえは天皇陛下の御英断を煩わせる他にないのか?
小和田氏はかねてソヴィエットロシアの大使館に勤務していた時、北朝鮮の工作員と接触しましたが、
その時利益供与を受けたという疑いが某国の諜報機関に持たれています。
いづれにしても、小和田氏の信用と評価はアメリカでは最悪であり、
EU諸国に於いても最低だと言われています。
自らの立場を猛省されて身を処されたらよいのではないか。
http://yamaji.iza.ne.jp/blog/entry/520966/
■罠にはまった小和田氏?
チャンネル桜にて瀧澤一郎氏がそれらしい事をほのめかす
平成のはじめ頃ロシアが貧窮して国民生活が脅かされてるという事がよく報道されていたが、
氏がロシア国内をバイクでくまなく回ったところ、
全くそういう事はなく、誰一人飢えている人はいなかった。
これはロシアに国際援助を引き出す為の工作であり、NHKが積極的に宣伝した。
当時は某国立大の教授が「ロシアからボートピープルが来るかもしれない。
その前に援助した方が安上がりだ」と中央公論に書いたりもした。
そして小和田外務次官も積極的にその宣伝工作をやっていた。
■新潮
OVOD=小和田氏が行為を撮影された。
>OVODというコードネームを持つ外務省職員の記述は生々しい。
>モスクワ勤務時代、彼は二回ハニトラに引っかかり工作員にされた。
>誘惑したのはロシア語教師。これで私は一生KGBから逃げられませんね、と語った。
スパイになってしまった日本人にコードネームが付けられていると書かれている。
(アナグラム)
佐藤保はATOS、伊藤茂はGRACE、石田博英はHOOVERなど
■産経 正論
産経ニュース「正論」2008.10.10
政治家・官僚にお願いしたい事 上智大学名誉教授・渡部昇一
(一部)
戦後を体験した人間として不思議に思うのは、
敗戦直後の日本の政治家が、チャイナやコリアに卑屈でなかったことである。
それが講和条約締結から時間が経(た)つにつれて、だんだん卑屈度が増してきているという印象があるのだ。
その理由としては、ハニー・トラップやマネー・トラップ(女性やお金の誘惑)が
利いているのだと推測する人も少なくない。
それも少なからぬ効果を発揮しているのだろうが、もっと深いところで、
サンフランシスコ講和条約第11条についての外務省の解釈がいつの間にか変わってきたことに、
日本政府を卑屈にさせる根本原因があると考えられるのである。
「裁判」と「判決」の混同
その第11条は、「日本は東京裁判の諸判決(Judgments)を受諾し、
それを遂行する」という主旨(しゅし)のものである。
ところが、外務省はいつの間にか「裁判」と「判決」を混同し、それを政治家にレクチャーし続けているのだ。
たとえば今を遡(さかのぼ)ること23年前の昭和60年11月8日の衆議院の外務委員会において、
外務省見解を代表した形で、小和田恒氏(当時の条約局長)は土井たか子議員の質問にこう答えている。
「…ここで裁判(極東国際軍事裁判=東京裁判)を受諾しているわけでございますから、
その裁判の内容をそういうものとして受けとめる、そういうものとして承諾するということでございます」
この時点で日本の外務省の正式見解は、裁判と判決をごっちゃにしているという
致命的な誤りを犯しているのである。
例の第11条を読んでみたまえ。そこには「諸判決Judgments)を遂行する」としている。
もしJudgmentsを「判決」でなく「裁判」と訳したら、日本政府が遂行できるわけはないではないか。
東京裁判を遂行したのは連合国である。その裁判所は死刑の他に無期刑やら有期刑の諸判決を下した。
その諸判決の期間が終わらないうちに講和条約が成立し、
日本が独立したので、「その刑期だけはちゃんと果たさせなさいよ」ということである。
東京裁判は、いわゆるA級戦犯の誰も受諾、つまり納得していない。
たとえば東条英機被告の『宣誓口述書』を見よ。受諾したのは判決のみである。
他の被告も同じだ。これは敗戦国の指導者たちとして捕虜状態にあるのだから逃げるわけにゆかないのだ。
東京裁判の誤った評価
裁判と判決の区別を小和田氏はしていない。
小和田氏を代表とする外務省の見解は日本政府の見解として、政治家を縛っているのだ。
裁判受諾と判決受諾は全く別物であることを示している古典的な例で言えば、
岩波文庫にも入っている『ソクラテスの弁明』である。
東京裁判はマッカーサーの条例で行われたものであるが、
後になって彼自身がアメリカ上院で日本人が戦争に突入したのは主として
「自衛」のためだったと証言しているから、「侵略」戦争の共同謀議という
A級戦犯の罪状のカテゴリー自体も消えていることを外務省に知ってもらいたい。
■WiLL2009年8月号増刊
「村山談話」は「外務省談話」だ
渡部昇一 上智大学名誉教授
P232―P233
小和田発言から始まった
(略)
真珠湾五十周年の国会決議案は幻となって消えましたが、これは「村山談話」と同じ主旨ですから、
つまりは「村山談話」は外務省の下書きと一致しているということになります。
そしてその外務省の「日本断罪」史観はいつ始まったかと考えると、
それは『WiLL』11月号に谷沢永一氏が詳しく述べられたように
昭和60年11月の政府委員としての小和田恒氏の発言です。
その頃から、外務省は「日本断罪」、つまり東京裁判の検事側の論告を丸飲みしていたということです。
その中で小和田氏は「東京裁判を受諾して日本は国際社会に復帰した」という主旨の表現に終始しています。
しかし、東京裁判というのはキーナン主席検事が何度も言っていたように、日本人や日本国を裁くものではなく、
“日本国を悪に導いた”個人を裁くものでした。個人は死刑になったり無期禁固刑になったりしましたが、
これは後に無茶な判決であったということで、サンフランシスコ講和条約11条後半の条文に基づき、
みな無罪になっています。死刑になった人は生きかえらせることができなかっただけです。
東京裁判の個人に対する判決はこの一事を見てもわかるように内容のないものでした。
いわんや、日本国は最初から裁かないと言っているのです。
一番わかりやすい例を一つだけ挙げると、A級戦犯として判決を受けた重光葵氏は鳩山内閣で外務大臣に復帰し、
日本が国連に加盟した時に出かけていって「日本は東西の架け橋になる」という有名な演説をして喝采を浴びました。
重光氏は帰国して間もなく亡くなりましたが、それを聞いた国連は黙祷したのです。
こんなことも当時の外務省は知らなかったのか。無視したのか、不思議で仕方がない。
ともあれ、小和田恒氏の発言以来、外務省は「反日」と言えるほどの韓国、中国べったりの意見を言い、
政治家は「外務省の言うことだから」とそれを政府の意見としてしまう悪習が続いている。
そして「村山談話」を出した時には、外務省は全ての大使館に対して、「これは閣議決定であるから
重視するように。そのつもりで各国に説明するように」という主旨の指示を出しているのです。
私は「村山談話」は「外務省談話」と言ってもいいと思います。
全文
■読売新聞2014年7月2日
時代の証言者
日本外交とともに 岡崎久彦 22
(略)
《天皇、皇后両陛下が即位後初めての海外訪問として、
91年秋東南アジア諸国を 歴訪されることが決まった。最初の訪問国がタイになった》
外務省本省から、バンコクで予定されていた天皇陛下のお言葉として、
真っ先に先の戦争で日本のした行為を謝罪する案が来た。私は反対でした。
タイには日本に謝罪を求める気持ちなどないことを知っていましたから。
タイ外務省に確認し、何も謝ってもらう必要はない、とのタイ側の意思を本省に伝達しました。
抵抗していたら小和田恒次官が、これで勘弁してくれって言ってきたのは、
天皇陛下が、まず日本とタイがいかに仲がよかったかと、お言葉をずっと述べられる。
そして最後に、全東南アジアに向けての発言として、
「先の誠に不幸な戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう平和国家として生きることを決意」
という言葉を述べていただくことにした、という。
この箇所は、タイではなく全東南アジアに向かって言う部分なのだから、タイ大使としては反対しにくい。
私は一時、、辞表を書いて抵抗することも考えたけれど、それで黙っちゃった。
最初の案を書き直させただけでも意味があったのかなあ。
(編集委員 三好範英)
■[054/112] 103 - 衆 - 外務委員会 - 1号
昭和60年11月8日
○小和田政府委員 極東国際軍事裁判所の条例で「平和に対する罪」というものが規定されまして、
それに基づいて被告が起訴されたわけでございますけれども、
その中で訴因の第二十七というのがそれに当たりますが、中国に対して侵略戦争が行われた、
これが「平和に対する罪」を構成するという規定がございます。
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■国際司法裁判所:所長に小和田恒氏
2009年2月7日
国際司法裁判所:所長に小和田恒氏 日本人初
外務省は6日、オランダ・ハーグにある国連の国際司法裁判所(ICJ)所長に小
和田恒(おわだひさし)判事(76)が互選で選出されたと発表した。
任期は同日から3年間で、日本人がICJ所長に就任するのは初めて。
ICJは国連憲章で1945年に設立が決まった。
国連総会と安全保障理事会で選ばれた15人の裁判官(任期9年)が国際法に基づき、
国家間の紛争の平和的解決を図る目的で活動している。
提訴は国家に限られ、08年8月にはグルジア政府がロシアによるグルジア人迫害の
即時停止を求める仮保全措置を申請。
96年には核兵器の違法性について「使用と威嚇は国際法の原則に一般的に反する」
と判断しつつ、「極端な状況下での国家の自衛のための核使用・威嚇は
合法か違法かの結論は出せない」と最終判断を回避した。
小和田氏は外務事務次官や国連大使などを歴任し、03年2月からICJ判事。
長女は皇太子妃雅子さま。
日本出身のICJ判事は小和田氏のほかに、
海洋法の専門家で76~03年に務めた東北大名誉教授の小田滋氏
▽61~70年に務めた元最高裁長官、田中耕太郎氏の2人がいる。
戦前の国際連盟時代、ICJの前身にあたる常設国際司法裁判所(PCIJ)では、
外務省出身の安達峰一郎判事が1931年から3年間、所長を務めた。
(毎日)
国際司法裁判所長に小和田氏
2月6日22時26分
オランダにある国際司法裁判所の所長に外務省の元事務次官の小和田恒氏が、
日本人として初めて選ばれました。
中曽根外務大臣は「小和田氏のさらなる活躍を期待する」という談話を発表しました。
国家間の紛争を平和的に解決する国際司法裁判所は、
国際社会で最も権威のある国連の司法機関で、所長選挙は、日本時間の6日、
15人の裁判官による投票で行われ、小和田恒氏が過半数を得て、日本人として初めて所長に選ばれました。
小和田氏は76歳。外務省の条約局長や事務次官を経て、
平成14年から、国際司法裁判所の裁判官を務めており、所長としての任期は3年間です。
これについて、中曽根外務大臣は「小和田氏の今後のさらなる活躍を期待する。
日本は、今後も国際社会における法の支配の推進に積極的に貢献していきたい」という談話を発表しました。
(NHK)
■小和田氏の後任決まる 国際司法裁判所長にトムカ氏
2012年2月8日0時9分
オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)は6日、
小和田恒所長(79)の任期の満了に伴う互選投票を行い、
後任にスロバキアのペテル・トムカ副所長(55)を選んだ。任期は3年。小和田氏は昨年11月、
ICJ裁判官選挙で再選(任期9年)しており、引き続きICJの裁判官を務める。
小和田氏は皇太子妃雅子さまの父親で、外務事務次官などを経た後、2003年からICJ裁判官。
09年2月、日本人初のICJ所長となった。
ICJは国家間の紛争を裁くための国連の主要な司法機関。(ブリュッセル)
http://www.asahi.com/international/update/0207/TKY201202070688.html
■雅子妃が皇后になるというタイミングで退任
雅子さまの父・小和田 恒氏、国際司法裁判所判事を退任へ
02/05 15:52
皇太子妃・雅子さまの父・小和田 恒さんが近く、オランダにある国際司法裁判所の判事を退任し、
帰国する方向であることがわかった。
小和田氏は、外務省の事務次官などを歴任し、2003年から、
オランダのハーグにある国際司法裁判所の判事を務めている。
任期は2021年までだが、2019年の天皇陛下の退位と皇太子さまの即位にともない、
雅子さまが皇后になられるのを控え、日本政府としても、
小和田氏が退任するのが適当だと判断したものとみられる。
国際選挙で選ばれる後任の判事には、日本として、アジア開発銀行行政裁判所の裁判官などを歴任した、
岩沢雄司東大教授を推すことが有力となっている。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00384037.html
雅子さまの父、ICJの小和田恒裁判官が退任へ
2018年02月06日 15時08分
オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)の小和田恒ひさし裁判官(85)が
退任の意向を固めたことが分かった。
小和田氏は皇太子妃雅子さまの父。外務省出身で、外務次官や国連大使を経て、
2003年にICJ裁判官に就任した。09~12年にはICJ所長を務めた。
任期は21年までだが、19年の天皇陛下の退位と皇太子さまの即位により、
雅子さまが皇后になられる見通しであることを考慮したとみられる。
政府は小和田氏の後任に、岩沢雄司東大教授(国際法)を推す方向だ。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20180206-OYT1T50060.html
人生懸け「法の支配」追求 小和田恒氏、国際司法裁判所退任
[2018/06/07]
【ハーグ共同】皇太子妃雅子さまの父で国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)に
15年在職した小和田恒裁判官(85)が7日退任、6日の共同通信のインタビューで、
人生で平和な世界づくりのため法の支配実現を目指す仕事を追求でき「幸せだった」と語った。
一方、法の支配を逸脱する傾向を強める大国の行動は「非常に危険」と警鐘を鳴らした。
小和田氏は外務事務次官や国連大使を務めた後、2003年に70歳でICJ裁判官に就任。
09年から3年間、ICJ所長も務めた。キャリアの出発点は中学時代の敗戦体験だと振り返った。
https://www.jomo-news.co.jp/news/domestic/international/57599
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■生誕の地に立て札
■国連司法裁判所所長安達峰一郎のゆかりの地に石碑
■論文紛失
ニューヨーク大学での対談形式でのレクチャーのマニュスクリプトP8
ケンブリッジ大学が賞をくれて、その上で博士号コースを続けていた3年目。
ケンブリツジを離れる頃には論文をほとんど書き上げていたけど、
もう少しいいものにして、それから提出したいと思った。
そこで、日本に戻ってから仕上げようと決めた。
いずれにしろ私は(日本)政府から派遣された身で、その時はもう日本に戻らなければならなかったから。
当時は全て船便で送らなければならない時代だったから、
私も自分の物を船便で送ったら港でトランクが1つ紛失。
それには服や本などと一緒に大事な学位論文の原稿が入っていた。
トランクは二度と見つからず、ゆえに私は博士号を取る機会を失ってしまったのです。
■入院の秘密
http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2000/cambodia.html
一月一八日の朝日新聞は「担当外交官が回顧録を出版」という見出しで、
カンボジア和平実現に外務省の一課長としてかかわった
河野雅治氏(現アジア局審議官)が舞台裏の真相を描いた
『和平工作 対カンボジア外交の証言』(岩波書店)を出版した伝えた。
第一五章に「医療外交」として、河野氏ら外務省官僚が違法なことをしたと堂々と自白している。
[《日本政府が承認していないヘン・サムリン政権の「首相」》の
「病気治療という人道目的の訪日」を実現するため、報道陣に知られることのないように、
「対外的に不公表とし、いわば極秘裏に進める」ことになったという。
九一年四月、順天堂病院に入院する際、《このオペレーションが外部に漏れないようにするため、
念には念を入れ、フンセンは「山内一郎」の偽名を使って入院した。
この事実は、当時医院関係者の間でもごく一部にしか知らされていなかった》というのだ。
「外務省は、フンセンの左目義眼をプラスティック製の軽くて新しいものに作り替えてあげた」。
またフンセン首相は3泊4日の日程で入院したのだが、
小和田恒外務審議官(皇太子妃の父)も全く同じ期間、偶然にもすぐ上の部屋に入院し、
二人が退院した夜、フンセン首相を囲む夕食会が開かれ、カンボジア和平の進め方について、
非公式に話し合ったと書かれている。](浅野要約)
(中略)
喜岡氏は「税金を使って、秘かに招待し、偽名で病院で治療を受けさせるというのは違法だ。(以下略)
■週刊ダイヤモンド1994年8月13・20日合併号
小沢一郎氏がニューヨークでこっそり小和田国連大使と話し合った“内容”
村山政権の誕生で、その権勢にもいくらかかげりの見える小沢一郎氏がこの7月24日、
ひっそりとニューヨーク入りした。
今回の訪米の目的はワシントンでの講演で、ニューヨーク滞在は1泊2日とごく短いもの。
ところがこの1泊2日は、単なる「時差ボケ解消」のための滞在ではなかった。
関係筋によると、小沢氏は小和田恒国連大使と懇談の場を持ったというのだ。
小沢氏は駐米大使の栗山氏とはソリが合わないものもの。小和田氏とはかねてから
昵懇の間柄。これに小和田、栗山両氏の確執を重ね合わせると、小沢-小和田会談で
小沢氏の外交戦略、そして国連戦略がじっくり語られたとみて間違いない。
■蕎麦屋にサインを残す小和田ご夫妻
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20071205225022.jpg
■ブランドの紙袋を犬の糞用に持ち歩く小和田恒さん
ザ・テレビジョン1993年6月11日
皇太子さま・小和田雅子さまご結婚記念大特集号
武藤まき子
思い出深い取材は、皇室会議の日、雅子さまがされていた真珠の購入先をスクープしたこと。
お店の袋をお父さまが愛犬ショコラの汚物袋に使っていたのですが、
何回もVTRを見直しているうちに、ふと袋が気になり調べたのがきっかけ。
恒さんが手にしていたショコラの糞袋でお店を特定できた
■ショコラをポイッ そして隙間から覗く雅子さま?
週刊ポスト2012年3月9日号
白川浩司「遥かなる『文藝春秋』」
応接間に入った途端にショコラが尻尾を振りながら寄ってきて、
恒さんがインタビューの邪魔になると思ったのかヒョイと抱きあげて隣りの部屋に放り込んだ。
決して乱暴ではなかったが、それは文字通り放り込むという感じだった。
ぱたんと閉じた引き戸が勢いあまって少し開き、その隙間から髪の長い女性がこちらを見ているのが見えた。
見られているな、と一瞬、緊張したことをハッキリ憶えている。
■人生最後の食事
>Professor Weiler(ワイラー教授)
>And are you willing to share with us what you will have as your last supper?
それでは人生最後の食事(「最後の晩餐」)には何を食べたいか、教えていただけますか?
>Judge Owada(小和田判事)
>Well, being someone who comes from Japan, I would like to have my last supper in Japan at the
>best restaurant in Japan
えー、私は日本出身ですから、やはり最後の食事は日本の最高レベルのレストランで取りたいですね。
>Professor Weiler
>Which is what?
それはどのようなもので?
>Judge Owada:
>It is got to be a really good, very expensive restaurant,
本当に上質で、とても高級な(高価な)レストランでなければなりません。
>but you know, as a judge,
I have to be very careful in particular in being specific on this question.
しかし皆さんご存知のように、私は判事ですから、
このような質問に関してはあまり特定情報を出さないよう注意をしなければならないのですよ。
■入院記事に対して宮内庁東宮職を使って抗議訂正させる
週刊現代2008年12月13日号
雅子さま、公務復帰決意の陰に悲壮「父が脳梗塞闘病」
今年春~夏にかけて軽い脳梗塞を起こし、都内複数病院で入院治療し軽井沢別荘静養していた
↑
この記事について、恒氏は東宮大夫(かつての部下)に抗議させた
週刊文春2008年12月18日号
雅子妃父「脳梗塞」に「申し入れ」
恒氏が野村一成東宮大夫に国際電話をかけてきて、
週刊現代の自分の入院記事は「事実無根のデタラメ」と強く怒り定例会見で、それを否定するよう指示。
※定例会見は皇族の一週間のご活動や近況を公表するためのものである。
■テーミス2009年3月号
小和田恒氏の国連司法裁判所所長就任について
就任時の小和田会見
「背景には日本という国に対する国際社会の信頼があってのことだと思う。
日本の名を恥ずかしめないように仕事をしていきたい。」
外務省は“歓迎”よりも“困惑”
困惑の理由として外務省幹部の発言
小和田氏が所長として推されてもおかしくないだけの実績を持っているし、それまでの経歴も申し分ない。
しかし、その輝かしい経歴に“皇太子妃の父”という肩書きが加わると、
外務省の範疇をはるかに越えた存在になってしまう。そのことを本人がよく分かっていないようだ。
小和田氏はむしろ皇太子妃の父親という立場を利用することが日本の国益につながるという
「独特の考え」を持っている。有能な外交官であることは多くの関係者が認めているが、
「日本の皇室につらなる無言の権威でものごとを有利に運ぼうとしている。
ハンディキャップ国家論の展開=軍事面で国際貢献できないからカネで賄う。
'92年の両陛下訪中時の外務事務次官であり、中国側が天安門事件のマイナスイメージを払拭するために
「両陛下を政治利用したのではないか」という見方がひろがった。
いずれにせよ、小和田氏の存在は日本外交にとってあまりにも大きく、
再びその立場が国際的に高まったことは、日本にとっても痛し痒し。
■テーミス2009年4月号
・全国紙政治部のベテラン記者
小和田氏は、何かいつも生臭い。常にエリートでいたいという思いがあって、それを実現してきた。
小和田氏世代の外交官には“毛並み”という問題がある。2世、3世がゴロゴロいる。
そんな中で、田舎の教師の息子が出世していくのは、野心に裏打ちされた不断の努力があったからこそ
・外交官僚OB
小和田氏は確かに能力があると自他共に認められているが、
講釈を垂れる癖があり、しかも話がくどいのでみんな敬遠していた。
優秀だったので出世コースを歩んだが、ある意味孤立無援。
松永信雄元駐米大使の派閥ではなかったので、駐米大使になれなかった。
・浅井基文/広島市立大学広島平和研究所所長の話
しっかり組み立てしてから小和田氏に説明に行かないと調べていないところを指摘されて怒られてしまう。
・福田赳夫総理時代の秘書官の一人
元秘書官同士、年1回ぐらい集まっているが、小和田氏に声をかけても、出てきたためしがない。
・田久保忠衛・外交評論家の話
ハンディキャップ国家論の提唱は、戦後レジームの中に埋没してしまって、
それでよしとしている。それはおかしい。
・谷沢永一・関西大学名誉教授
小和田氏は東大で国際法を担当した横田喜三郎教授の系譜をひき、自虐史観である。
このような状況での長女・雅子妃の皇室入りは小和田氏に訪れたチャンス。
小和田氏の先輩の柳谷氏が相当尽力したと聞いている。
小和田氏は雅子妃に対して、皇室に入ることは大変なことだということを言わなかった。
小和田氏は、小和田家を本当のエリート階級に引き上げたかったのではないか。
・別の外務官僚OB
適齢期の娘がいる外務官僚は、海外から賓客が来日してレセプションが開かれる時、
上司に娘も参加させたらどうかと声をかけられる。
これが女性と知り合う機会の少ない皇太子殿下との出会いの場をつくることになる。
たいていは本当に娘を皇室に嫁がせることになったら大変だから断るが、小和田氏は違っていた。
むしろ積極的にそういう場に連れて行った。
宮内庁の要職に外務官僚が就任することが多くなった。
すべて小和田氏の差し金とは言わないが、全く関係ない、偶然の結果ということでもあるまい。
小和田氏の努力は中流階級の美徳を超えた。
■週刊新潮2013年9月26日
追えども去らず「煩悩の犬」
後進に道を譲らない雅子妃の父「小和田恒」判事に噴き上がる悪評
あらためて振り返ると、小和田恒氏の長女である雅子妃が皇太子さまとご成婚された1993年6月、
父君はすでに外務事務次官の地位にあった。同年8月退官し、翌年には国連大使に。
途中、安保理の議長にも就任し、98年に退官したのちが日本国際問題研究所理事長や
ハーバード大客員教授などを経て、03年2月、オランダ・ハーグにある国際司法裁判所判事に就任した。
09年から3年間は所長を務め、12年2月には判事に再任されているため、
現在は21年まで任期9年のさなかにある。
今なお、国際社会における最重要人物の一人に数えられることは言うまでもなかろう。
が、あろうことかその小和田氏に、古巣から不満の声が上がっているのだ。
さる外務省幹部が明かすには、「昨年再任されたばかりとはいえ、このまま任期まで務めれば88歳。
過去にICJ判事を務めた日本人はいずれも80歳前後で退任しています。
物事の判断力や反射神経も当然衰えていくわけで、常識で考えればあまりにも長すぎます」
そもそも、候補者の人選には外務省が深く関わるというのだが、
「12年に再任されたのは、何よりご本人が変わらず意欲を見せていたから。まさか妃殿下のお父上で、
キャリアも十分の小和田さんに、“そろそろ…”などとは切り出せません。ところが、
そのおかげで他に適任者はいても後任に推すことができず、
省内の人事にも支障が出始めているのです」(同)
何しろ小和田氏といえば、国連大使時代にも定年63歳という不文律をたやすく破り、
3年超越して勤め上げたほどの意欲の持ち主である。この時も、
「いつまでも“辞める”とは仰らないので後任人事が乱れ、玉突き異動が発生しました。そして、
その頃にはすでに“03年にポストが空くICJの判事に立候補したい”との意向を口にしていました」(同)
この時は何と、人事にまるわる怪文書まで流れている。
その内容は、〈外務省幹部が、前任者の日本人判事に強要し、
“途中で退任してしかるべき時期に小和田氏にポストを譲ります”という誓約書を書かせていた〉というもの。
“関係者”と目された人たちは、揃って関与を否定したものの、「こうした騒動が起きること自体、
国際官僚として長らくコミットしたいという小和田さんの志向がに実に表れています」(同)
ともあれ、つつがなく当選して希望のポストを手に入れた小和田氏。ブーイングの前に、2期18年という
長期化の責任の一端は古巣にもあるわけで、その経緯をいま一度尋ねてみると、
「ICJの裁判官の候補者になるには、政府が任命する国別裁判官団によって
指名される必要はあります」(外務省報道課)
再任にあたり候補者に選出された際の国別裁判官団は4名。が、なんと当の小和田氏がメンバーだったのだから、
お手盛りの極み。他のメンバーによれば、「方針は外務省が決め、“異議はありません”と我々が
承認するというのが現実の形です。その際、小和田さんの年齢に関する話は一切なかったし、
“外務省が推したのだから、当然ご本人の続投する意思が前提なのだろう”と我々は考えていました」
(安藤仁介。元国連規約人権委員会委員)
実際に外務省も、「小和田裁判官は現在ICJの激務を十全にこなしています。
同裁判官は一流の国際法学者でもあり、その識見、実務経験のいずれをとっても相応しく、
その仕事ぶりは高く評価されています」(前出・報道課)
自画自賛するばかりで、諌言など望むべくもない。
生じうる“不利益”とは
「“ご自身の名誉のためにも後進に道を”と進言できる人が皆無なのに加え、周囲がネガティブな情報を
一切遮断しているから、小和田さんには批判が全く届いていません」そう指摘するのは、外務省OBである。
「小和田さんは、次官経験者のコースである駐米大使を考えていたのですが、
皇太子妃の父という点がネックでした。
当時の両国間には経済摩擦もあり、大きな外交案件で責任問題となる局面が出てくる可能性もあったため、
回避する力が働いた。代わりに就いた国連大使ポストは、本人が不完全燃焼。
それで、ICJ判事とセットで“埋め合わせ”をした形になったのです。
その上、面倒ごとを避けたがる省内の体質と相まって、誰もこの件に手をつけようとしない。
そうした“不作為”の結果がこのような事態を招いているのです」
陛下のご学友でジャーナリストの橋本明氏が言う。
「小和田氏は、娘さんが皇室に入った以上、一刻も早く公職を去るべきでした。
清廉潔白にじっと過ごされるのが、お立場としての務めだと思います。
国際官僚のポストに拘泥するのも、その地位に伴う周囲からの
“尊敬の念”を、容易に捨て去ることができないからなのでしょう」
これまでも小和田氏は「名誉欲」というフレーズで括られることがあった。
評論家の西尾幹二氏も、「88歳までとは、呆れるばかりです。皇后さまの御父上である正田英三郎氏は、
娘が嫁いだあとは夜の会合さえも控えるようになったと言います。小和田氏にはそうした慎み深さが
決定的に欠けているように思えてなりません」
としながら、今後生じうる“不利益”についても懸念するのだ。
「仮に、竹島の領有権問題を解決しようと、日本政府がICJに訴えを起こすとします。
裁判所が正しい判断を下しても、韓国は容易に納得しないでしょうし、その際、判事に
小和田氏が含まれていることで批判の矛先が皇室に向けられる可能性も出てきます。
さらに最近では、韓国人の戦時徴用の賠償を巡っても政府がICJに提訴する可能性が出てきた。
このように東アジアにおいて政争が頻発している時期に、小和田氏のような皇室関係者が
その職にあること自体、災いになるばかりです」
まさしく国益に反するおそれあり、というのだ。
■週刊文春2014年3月27日号
ある外務省関係者
小和田恒氏の外務事務次官時代の話が忘れられない。
「海外広報課では両陛下が海外訪問されるときは両陛下のプロフィールや
訪問国との関係を先方に紹介する外国語で書かれた冊子を毎回作る。
その前段に、日本の皇室や伊勢神宮、出雲大社や八百万の神について解説を入れることになった。
担当者が『伊勢神宮と出雲大社をどう書くべきでしょうか』と聞いた所
小和田氏は『そういうことには興味がない』と冷たく言い放った。」
■家庭ではトイレ掃除
週刊朝日2013年11月1日号
雅子さまは東京生まれ。父は、周知のとおり、外務次官まで上り詰めた小和田恒氏だ。
幼少期は父の赴任で旧ソビエト連邦、スイスで過ごしたが、
本国勤務の間は、都内の3DKの公務員官舎で暮らした時期もある。
ダイアナと違い、家族の結びつきは深かった。
「役所では厳格で知られる小和田さんですが、
家ではトイレ掃除のお手伝いまでするマイホームパパでした」(知人)
http://astand.asahi.com/webshinsho/asahipub/weeklyasahi/product/2013102800001.html