報 道 被 害 の 現 場
Ⅰ.〈なぜNHKに訂正放送を命じたか──放送レポート2001年11月号 173号より〉 弁護士 梓澤和幸 7月18日、判決当日の法廷に記者の姿はなかった。 東京高裁の大きめの法廷には定刻前から、NHK側の弁護士と法務担当者が行儀よくすわっていた。 ひょっとすると負けは覚悟しているのかも知れなかった。 実は口頭弁論終結から1年もたっていた。待ちに待った判決言い渡しだが、言い渡し期日の知らせは間近かになってからだった。 予定をやりくりしながら、原告の女性も駆けつけてきた。弁護団からは私しか都合が付かなかった。 廷吏さんから起立と言う声がかかった。裁判官三名が法廷にはいってきた。今年の7月は我慢のならない暑さが続いていた。 しかし裁判長の顔には気力がみなぎっていた。 この瞬間私は、ちょっとした判決になりそうだと直感した。しかし不安も同時に錯綜した。 裁判長が主文を朗読した。 完全敗訴した一審判決はくつがえり、原告女性の勝訴となった。 主文の内容は次の通りである。 1、NHKは原告女性に慰謝料100万円、弁護士費用30万円を支払え 2、NHKは、生活ホットモーニングが放映されていたのと同じ土曜日の午前8時半に、判決に添付された訂正謝罪文を2回朗読せよ。 離婚の経過についてNHKが間違った放送をしたのは1996年6月8日である。 原告はすぐに訂正をもとめて交渉を開始しているが、もう五年の歳月が流れていた。 廊下に出た原告女性は本当に勝利したのかいぶかしむような表情をしていたが、私が大勝利ですよと言うと顔を一瞬輝かせた。 事件の概要 1996年6月8日、朝8時半 「おはようホットモーニング」 という番組で離婚を取り上げる企画があった。 この日のタイトルは 「妻達の絶縁状──突然の別れに戸惑う夫たち」 とされていた。 何組かの離婚の経緯と夫の側が離婚をいかに受け止めたかというビデオ取材が放送され、 スタジオにいるコメンテーターがそれについて話し合うという番組だった。 ディレクターは、何組かのカップルにインタビューをこころみていた。夫は承諾したが妻が断るというケースもあった。 この女性の夫は出演を承諾した。しかし女性の言い分を聞くのなら出ないと言い張った。 NHKはこの条件を呑んだ。あろうことか夫はモザイクをかけることもなくそのままの顔でヴィデオ出演し、 彼の側からみた一方的な離婚の経過を語った。 また放送のナレーションでは、 「この50代の男性は結婚生活21年目のある朝、妻から突然離婚してほしいと宣言されました。 この男性は---妻が突然離婚を切り出し、長女をつれて出てゆきました」。としたうえ、 夫が「その当時をふりかえっても本当にわからないんですねえ」と述べるなど夫の側からの事実と異なる離婚事情が放送され、 女性の名誉とプライヴァシーが侵害された。 原告女性は訂正と謝罪を求めてNHKと交渉したが誠実な対応がなく、損害賠償と訂正放送をもとめて提訴したが、 一審は敗訴した。その控訴審の結論が前述の判決である。 放送と取材のどこが問題か。 判決は、放送は次の虚偽事実を摘示して名誉毀損したとする。 1、結婚21年目にして夫は突然離婚をもちだされたが、夫には離婚後四年たってもまだ理由がわからない、 2、妻は突然離婚をきりだした、3、妻は夫が忙しい部署に転勤になったことに理解を示さず、ささいなことに細かい注文をつけ、 夫と食事をすることをさけるようになった、4、妻はあらかじめ離婚の決意をかため、その準備を整えたうえ、急に離婚をせまり、 夫は妻のいう理由を理解できないまま離婚させられた。 判決は離婚に至るプロセスについてきわめて詳しい事実認定をし、名誉毀損性をうきぼりにした。 2、プライヴァシー侵害 この夫婦は市井の人々である。その人々の離婚にいたる経緯、離婚の事実それ自体が人に知られたくない事柄である。 NHKは離婚という現象をとりあげることは公共性があるとした。 しかしある特定の夫婦の離婚の経過,離婚原因がプライヴァシーに属することは、 離婚の調停が公開されていないことからもわかりやすい。ましてこれは一私人の離婚である。 判決は放送をプライヴァシー侵害だとした。 3、なぜ間違った事実が放送されたのか。── 一方的な取材 夫は高裁で証言した。証言では妻から反対取材するのであれば、NHKに協力せず、出演もしないと伝えたと述べた。 判決はこの点をきわめて重視した。そして離婚事件のように関係当事者の認識、言い分が鋭く対立し、 しかもそれが無名の一私人の事件では、と限定したうえ次の指摘した。 「この放送によって当事者が特定されないような方法をとるか、そうでない場合には関係当事者の承諾を得、 双方からの取材をつくし、できるだけ真実の把握に努めることを要する。 ──夫が妻からの反対取材を拒否したことは一方的な発言になることを意味するから、 夫の反対があっても反対取材をするか、この件については放送を中止すべきだった」とNHKの取材姿勢を批判した。 (判決94頁) これは放送関係者によく吟味してほしい指摘である。 取材とは本来、企画段階の仮説がこわされ、仮説以上に豊かな現実を発見するものであるはずである。 あらかじめたてた予定やストーリーにはめこむことのできない現実、確認できない事実がでてきたときには仮説を果断にすて、 ストーリーをたてなおすか、別の素材に取り組む柔軟さとスピード感覚がもとめられているのではないか。 そうはいっても企画は実現しなければ、という姿勢では人権感覚のするどいこの時代にはやって行けない。 特に一私人の対立する事例で一方当事者の言い分しか取材できないときには強く自制が求められる。 4、放送による損害と回復措置──訂正放送 訂正放送がこの判決で一番注目された結論である。 その前提として放送による損害がいかなるものだったのか触れたい。 原告女性は埼玉県のある町で学習塾を経営しており、テニスや地域活動でも知人,友人の多い女性だった。 長年離婚を準備し、突然納得できる理由もしめさず夫と長男を残して出奔した女性という虚偽の事実指摘と その印象は女性に決定的な損害を与えた。 女性の学習塾経営の信念は、塾はただ教科を教えるのでなく、生徒や両親と全人格をかけてつきあい、 人生の出来事の相談にものるというものであった。口コミが最良の広報手段であった。一度入塾すると五年から八年は在籍したという。 夫婦の不和が眼にみえたことと放送によって離婚の事実、経緯があきらかにされたことで、塾からやめてゆく生徒も出てきた。 友人、知人からは冷酷でエゴイズムにかたまった女性という非難の手紙もよせられ、会っても視線をさける友人もでた。 私は何件かの名誉毀損訴訟で原告側代理人をつめている。その訴える被害は共通である。 人は幼いときの家族体験、思春期の葛藤、職業生活の蓄積、恋愛、結婚、育児、友人との交際、 をへて自らのアイデンティティーを獲得している。 名誉毀損の無慈悲なところは、この自己認識、アイデンティティーを破壊するところにある。 「自分が責任をもてない自分が何万人の記憶に残っているのは耐えられない。」 「私は精神的に死を宣告されたようだ」 という原告がいた。ある報道被害調査では自殺を考えたとうったえるひとが少なからずいた。 こういう被害に対して、被害回復のための最良の措置は加害者に名誉回復の措置をとらせることである、 と私は考える。実は損害賠償は損害の回復という点では補助的な効果しか持たない。 判決が命じた訂正放送の内容は具体的である。放送の真実でない箇所を具体的にあげ、 妻は一方的に突然離婚を申し出たのでなく、放送より9年前に離婚を申し出て、何度も離婚を求め、 顔をあわせることもさけ夫も離婚の申し出と理由を認識していたこと、真実と異なる放送をしたのは、 NHKが妻の側への取材をせず事実を認識しないまま放送してしまったことによること、 これによって妻の側を深く傷つけたことを謝罪するという内容である。 しかも判決は放送と同じ時間にこの訂正文を2回読むようにというものであった。 放送法を根拠として訂正放送を命ずるはじめての判決であった。 放送法四条は真実でない放送をしたとき本人から三ヶ月以内に請求があったときは 真実でないことが判明したときから2日以内に訂正放送をしなければならないと規定している。 この義務規定の命ずるところは明確である。しかし、この義務に違反した場合放送事業者に及ぶ効果については、 罰則の定めしかない。私法上いかなる請求ができるかについて規定はない。 四条三項に損害賠償の請求を妨げるものではないとあるだけである。 解釈によって判決は私法上訂正放送を請求できるとした。 もし私人と放送局が交渉し、局がしかるべき対応をしないときに、 私人は何もとる手段がないとするとこの規定は死文化してしまう。 (当時はBROもなかった。) よって判決の結論は適切だと考える。 5、損害賠償額 130万円 (うち30万円は弁護士費用) の認定であった。低額にすぎると考えている。 原告は陳述書を四通も書いた。うち一通はタイプで70枚にもなる長大なものである。 弁護団とのうちあわせ、証拠集めに要した時間は膨大である。 かかる低額しか得られないことがわかっていても原告は立ち上がる。 前述のような被害の深刻さから、いままでの自分、本来の自分のままで生きてゆくためには、 立ち上がらざるをえないから訴訟をおこすのである。 裁判所にもメデイアにも裁判にもちこんだ原告側の心境を理解してほしいと考える。 交渉に求められるジャーナリストらしさ はじめ交渉に出てきたNHK関係者は、一方的取材はまずかったことを認めていた。 訂正放送の用意があるとの明言もあった。 その態度は途中で変わった。交渉態度は必ずしも謙虚ではなかった。 かくして原告は訴訟提起に負いこまれた。 報道被害の訴えがあったときに、求められるのは、誠実さと、ジャーナリストらしい公の立場に立つ態度である。 取材関係者の自己弁護、放送局の官僚体制擁護の姿勢であってはならない。 ジャーナリズム全体の立場にたってここはどう対処すべきかを自問してほしい。 同時にそのように対応できる組織体制も必要であろう。 NHKは上告した。舞台は最高裁にうつることになった。 (この事件の成果は、原告女性と坂井真、緑川由香、中村秀一、筆者で構成される弁護団の集団的力量によって獲得された。 原審の担当代理人のご努力も土台となっている。このことを特に記しておきたい。) Ⅱ.〈判 決 主 文〉 1.原判決を次のとおり変更する。 (1)被控訴人は、控訴人に対し、金130万円及びこれに対する平成8年12月28日から支払い済みまで 年5分の割合による金員を支払え。 (2)被控訴人は、控訴人に対し、本判決確定の日から1週間以内に、 被控訴人の放送するNHK総合テレビジョンの番組 「生活ほっとモーニング」 の土曜日の放送時間帯において、 土曜日に右番組の放送が行われていないときは他の曜日の右番組の放送時間帯において、 右番組の放送が廃止されているときは土曜日の右番組が放送されていたと同じ時間帯において、 別紙記載の文章を二回くり返して読み上げる方法により、訂正放送をせよ。 (3)控訴人のその余の請求を棄却する。 2.訴訟費用は、第一、二審を通じて、これを二分し、その一を控訴人の、その余を被控訴人の各負担とする。 3.この判決は、1.(1)に限り、仮に執行することができる。 〈訂正放送〉 放送法4条に基づく訂正放送をいたします。 NHK総合テレビジョンで、平成8年6月8日土曜日午前8時30分からの時間帯に、 「妻からの離縁状 突然の別れに戸惑う夫たち」 と題して放送致しましたインタビューに答え、 大学生のご子息も素顔のままその男性とともにインタビューに答えるビデオが流されました。 そして、その中で、男性に対するインタビューとともに、 「この五〇代の男性は、結婚生活21年目のある朝、 妻から、突然 『離婚してほしい』 と宣言されました。それから4年。なぜ妻は離婚に踏み切ったのか。 今でも思い当たる理由が見つかりません。」、「結婚生活21年目で離婚したこの50代の男性は、大手企業の管理職です。 4年前に妻が突然離婚を切り出し、長女を連れて家を出て行きました。 今は、大学生の長男と二人暮らしです。」、「そんな妻との関係がぎくしゃくしてきたのは、8年前。 会社で忙しい部署に配置され、帰宅時間が深夜になることが増え始めたころでした。」、 「夫の説得にもかかわらず、妻は苛立ちをつのらせていきました。 夫の行動一つ一つに細かく注文をつけるようになったのです。」、 「妻は、どんなメッセージを伝えたいのか? 二人は、何度も話し合いの場を持ちました。 しかし、そのたびにくり返される妻の言い分が、夫にはささいなことにしか聞こえませんでした。 妻の本当の気持ちが分からないまま、夫は、離婚に同意しました。」 等のナレーションを流し、 この夫婦が離婚するに至った経過について、この夫婦は近所でも評判の仲の良い夫婦であった。 8年前に仕事の関係で夫の帰りが遅くなるようになってから、夫婦の仲がぎくしゃくしだした、 夫は妻にきちんと説明をし、説得もしたが、妻は理解しようとせず、苛立ちをつのらせるばかりであった。 何回も話し合いをしたが、夫には妻の言い分が些細なことにしか聞こえなかった、 妻は夫の知らない間に離婚の準備を進めていて、夫に対して突然一方的に離婚を要求した。 この男性は妻の本当の気持ちが分からないまま離婚に同意した。 妻のメッセージに深い意味を感じなかったことが夫婦仲を悪化させた。以上のような趣旨の放送をいたしました。 そして、この放送により、この男性とその妻の離婚の経過と離婚原因が明らかにされ、 そのプライバシーが公表されるとともに、その妻が夫に対する思いやりのない、自己中心的で、 冷たい人間性に欠ける女性であるとの印象を与えてしまい、しかも、この男性とその息子を素顔で出演させたため、 この男性の妻が同人を知るもの達に特定される結果となりました。 しかし、この妻は、この放送があった9年前に夫に明確に離婚を申し出たのをはじめ、 その後も、何度も離婚を求め、約7年前からは家庭内で顔を合わせることも避け、 夫も妻からの離婚に応じようとしないため、妻は、離婚調停の申立をし、その後、家を出たのでした。 約1年間の離婚調停の後、離婚調停が成立しました。また、この妻は、専業主婦ではなく、 結婚以来仕事を続けて家計を支えてきたのです。この夫婦は、物の考え方や価値観の相違が離婚の原因となった夫婦でありました。 このような真実と異なる放送になったのは、NHKが妻側への取材をせず、事実を充分に確認しないまま放送してしまったためです。 ここに訂正の放送をするとともに、このような誤った事実を放送し、元妻のプライバシーを公表してしまったのもならず、 その名誉を傷つける結果となってしまったことについて、深くおわびいたします。 |