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ニューアーク国際空港からヘルサレムズ・ロットへの直行バスに乗ったナマエ・ミョウジは、段々と霧がかってきた外を眺めていた。耳につけたBluetoothのイヤフォンから流れているのはお気に入りのバンドの待ちに待った新しいアルバムだが、どの曲も脳の皺を滑るように頭蓋骨の外へすり抜けていく。もう何時間こうして立ち往生を食らっているのだろう。橋へ着いたときは地平線の彼方に気配すら見せていなかった太陽が、随分と高くなっていた。
ナマエとハイスクールで共に青春を過ごした友人同士が婚約したのは一年ほど前。そしてこの度ようやく式を挙げることになったと連絡を受け、一体どうやって機能しているのかわからないヘルサレムズ・ロットの郵便システムをくぐりぬけて、彼らからの招待状は無事ナマエのもとへ辿り着いた。
ナマエは一週間悩んだ末に、招待状のYESに丸をつけて返送した。そうしてナマエは三年ぶり──つまり大崩落により紐育がヘルサレムズ・ロットとなってから、初めて霧の向こうへ出ることになった。
大崩落が起きたとき、ナマエは働き始めて間もない新米社会人だった。どうにか生き延びて再び目にしたゴッサムの変わり果てた姿を、ナマエは一生忘れることができないだろう。
今ほど無秩序に近い秩序はなく、乱雑と紙一重の整備もされていなかった。産声を上げたばかりのヘルサレムズ・ロットは、まさにカオスだった。
人間界を震撼させた大崩落の後、ニューヨークにあった企業のほとんどは潰れるか機能を停止し、一握りだけが霧の外へ逃げ出した。恐らくそこで働いていた人間の九割以上も、命を落としていない限り同じく他所へ避難したに違いない。残りのごく少数はこの新たな異境都市の荒波を乗り切ろうと必死にもがき、またその多くも散っていった。
結果として、ナマエを雇った会社は「大崩落を経験して」ヘルサレムズ・ロットで生き残ることに成功した数少ない企業になった。ただその前に同期はナマエ以外全員外へ逃げたし、先輩や上司も同様だった。亡くなったのは勿論、未だ生死がわからないままの社員も少なからずいる。
けれどナマエは、一度もヘルサレムズ・ロットを出なかった。帰ってこいと言い続ける親に直接顔を見せることすらしなかった。
たった一回でも外へ出てしまえば、もう二度とこの霧の中へ戻ろうとは思わないことをナマエは知っていたから。
それなりの勇気を出して三年ぶりに訪れた外界は、一言で言えば懐かしかった。永遠に読めるようになる気がしない異界語の看板も、四六時中どこかで鳴っているHLPDのサイレンも、あの最悪で災厄のフェムトの高笑いも、何もない。生まれてから三年前まで五感で感じてきたものがそこにはあった。
そしてナマエは、少しだけ怖かった。その理由はずっとわからなかったのだが、帰りのバスに乗り異界語のアナウンスが流れたときにナマエはようやく気づいた。「人間しかいない世界」が、怖かったのである。
……怖いと言えば、数年ぶりに会う家族や友人たちの反応もだった。たかが三年、されど三年だ。ヘルサレムズ・ロットが外界でどのように見られているのかは度々ネットニュースで流れてくる。果たして以前のように受け入れてもらえるのかが不安だった。
幸いなことに、両親は怒るよりも久しぶりに見た娘の顔に安心しておいおいと泣き続けた。友人たちもヘルサレムズ・ロットというある意味では世界一「ホット」な街から帰還したナマエに話を聞きたがる者が大半だった。(中にはただの顔見知りで、話したこともないような人間もいたけれど。)
ただ彼らは皆、口を揃えてナマエに言った。「あの恐ろしい街へ戻るのはやめろ」と。ナマエはそれに曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
また予想通り、顔を合わせた親戚や結婚式の招待客の中には、ヘルサレムズ・ロットからやって来たナマエをモンスター扱いして口さがないことを言う者もいた。しかしそれに関しては、ナマエはあまり気にしないように努めた。
人は自分とは違うものに恐れを抱く生き物だ。ナマエもヘルサレムズ・ロットにいなければ──大崩落を経験しなければ、彼らと同じように考えることもあったかもしれない。この世に「絶対」なんてないということを、ナマエは身を以て知っている。
とはいえやはり、元々人生の半分以上住んでいた世界に馴染むのはあっという間で。家族水入らずの食事も、親友とのナイトアウトも、好きだったショップでの買い物も、久しぶりに水着を着たことも、とびきり着飾って大事な仲間の結婚を祝えたのも。全て、楽しい思い出になった。
だからほんの少しだけ、思った。帰るのをやめようかと。
長らく停車していたバスがゆっくりと発進し、あちこちで上がっていたヒューマーや異界人からの文句の声が小さくなった。果たしてどう書くのかわからない異界語がイヤフォンの向こう側から聞こえてきて、ナマエはふと笑みが零れる。そしてたった三年でこうなるかと、欠伸を噛み殺しながら自嘲した。
一体何周目なのかもわからないアルバム中盤の一曲が、突然ブツリと途切れた。何事かと思ってイヤフォンを見れば、充電がなくなってしまったらしい。ナマエは舌打ちしたい気持ちを抑えてイヤフォンをケースにしまった。ゆるゆると動き始めたバスは、少しずつ濃くなっていく霧を切って進んでいる。
昨日SNSのDMでレオに言った通り、ナマエは予定では昨夜ヘルサレムズ・ロットに着くはずだった。ところがヘルサレムズ・ロット側のバスターミナルスタッフ主導でストライキが起きて、バスの出発時刻が大幅に遅れたのである。その上厄日なのか、事故による渋滞や緊急車両配備のための交通規制その他諸々に巻き込まれてしまった。
ヘルサレムズ・ロットと外を繋ぐ唯一の橋は、レル・デミソスとバンライ・ミナミガタという二人の男(だと言われているが真相は定かではない)によって二十四時間三百六十五日監視されている。とは言っても、頂上にいる彼らからの指摘を受けなければそれでオールオッケー、高速のインターチェンジの如く通り抜けられるというわけではない。彼らの眼下をお咎めなしで通ることができても、橋を渡る人間や荷物、外からの輸入品は関門橋の職員たちによってチェックされることになっていた。
ナマエが外へ出たのは初めてなので知る由もなかったのだが、ターミナルの労働者たちは度々ストライキを起こすらしい。関門橋のスタッフがわざとチェック作業を遅らせたりすることもよくあるそうだ。橋に着いてから動かなくなってしまったバスにナマエが戸惑っていると、斜め前に座っている乗客がそう教えてくれた。一時間前に運転手から出たアナウンスによれば、ターミナル側のストライキは走行中に収束したものの、前の輸送トラックの渡橋チェックに時間がかかっているとか。
長距離用のバスでそれなりにきちんとした座席とはいえ、流石にこう何時間も座っていると尻が痛むのも当然のこと。ナマエはもう随分と前から尻が四つに割れるのではないかと心配している。そんなことを言えばザップは「おーそりゃヤベえな俺っちが診てやろうついでに二つにくっつくようマッサージしてやろうぐへへ」とかなんとか、くだらないことを言うのだろう。
一瞬でそんなことを考えてしまった自分に苛立ち、ナマエは短く息を吐いた。
……ザップは、どうしているだろうか。霧越しに柔らかく目をさす朝日を見ながら、ふとナマエは思った。
この一週間、ナマエはザップとほとんど連絡を取らなかった。唯一送ったのは昨日の朝、「夜帰る」というメッセージだけ。すぐに既読はついたものの、未だ返事は来ていない。
ナマエが一瞬でも帰るのをやめようと思ったのは、ザップのことも原因だった。
このままナマエが戻らなければ、ザップは必死に自分の行方を追うだろうとナマエはわかっていた。真性クズ人間世界代表であるザップ・レンフロは、誰もが認めるクズではあるが非情ではない。あれでいて案外面倒見がよく、冷酷になり切れない面も持ち合わせている。ザップのそういう人間臭いところがナマエは好きだった。
けれどザップがナマエを捜したとしても、それが長くは続かないであろうこともナマエは知っていた。来る者と行く者を選んで去る者は執拗に追いかける──次に興味がうつるまで。ザップの“恋人”であるナマエは彼が一体どういう風に女性とかかわってきたのか知らないが、そういう男だった……いや、なのだろうとナマエは思っている。
実家で行きよりも増えた荷物を眺めながら、ナマエは少しだけ考えた。すぐに癒えるとはいえ、一瞬でもザップの人生に嫌な傷を残すことを。考えてから──やめた。
どうせ終わるなら、これまでの不満を全て一つずつぶちまけて奴のメンタルを砂の如くすり潰し、一発ブン殴ってからにしてやろう。ナマエはザップという人間と付き合い始めてから、並みの人間よりも逞しくなっていた。
*
ほどなくして、ナマエの乗るバスはヘルサレムズ・ロット一大きいバスターミナルに到着した。恐らくストライキで負傷したのであろう包帯グルグル巻きの異界人スタッフが、バスの中から大型の荷物を次々に運び出している。
パンパンに詰めたボストンバッグを肩にかけ大きな紙袋を持ったナマエは、荷物の大群から自分のキャリーケースを見つけた。わかりやすいようにと買った真っ赤なボディには、ザップに似ているという理由で選んだ猿のステッカーが貼ってある。こういうことすると別れたときに困るんだよなーと、ナマエは大学生ぶりに思い出すのだった。
重量オーバーして空港で追加料金を払ったキャリーケースを引き取り、ナマエはそれを押すようにして歩き始めた。両タイヤつきにした過去の自分を褒めてやりたい気分だ。これを引きずって歩いたら筋肉痛どころでは済まなかっただろう。ゲートを抜けてタクシー乗り場を探そうとしたとき、ナマエは乗客を待つ家族や友人の群れの中に銀髪頭を見つけた。
ザップが立っていた。寝不足なのか目の下に特大のクマができている。着ている服もズタボロで、ほとんど柱に体重を預けているような状態だった。
ナマエが驚きのあまりその場に立ち尽くしていると、何度か瞬きをして焦点を合わせたザップがナマエを見た。やや虚ろな薄い色の瞳と視線がかち合った。
ナマエはのろのろとキャリーを押してザップに近づき、少し手前で止まった。どうして、と、ナマエは聞くことができなかった。ごめんとも言えなかった。喉が張りついて言葉が出てこない。ザップはじっとナマエを見ている。
ナマエがザップに伝えたのは、「夜に帰る」という曖昧な情報だけ。どうせ仕事で家を空けるか、何もなければ不貞腐れて寝ているだろうと、出発の遅れどころか到着の予定時間やバスの名前さえ言わなかった。
つまりザップがここにいるということは、夜通しナマエがこのゲートをくぐるのを待っていたということだ。
黙りこくるナマエにザップが深い溜め息を吐いた。ツカツカと歩み寄ってナマエが肩にかけているボストンバッグと紙袋を奪い、キャリーケースを押し始める。「オッモ! んだこれ鉛でも入ってんのか? 金塊じゃないと許せん」とザップが呟くのが聞こえた。
「ザップ、あの」
「うるせえ帰んぞ」
無駄に長い脚にしては小さい歩幅で歩きながらザップが言った。すぐに追いついたナマエは目を見開きザップを見上げる。
「帰んぞ」
ただ一言、ザップはそう繰り返した。
*
一週間ぶりの我が家は、ナマエが出て行ったときよりも少し綺麗になっていた。もしやザップが掃除したのだろうか? 罪滅ぼし作戦の一環としてならあり得る。しかしザップは最後にここでナマエと話したとき、一度だって謝らなかった。ならば単にナマエの「ゴミは捨てて」という言いつけを守っただけだろう。聞いておかないと後で面倒なことになるのを、ザップは身を以て経験しているはずだ。
斗流血法の応用(悪用?)で紙袋を背負いボストンを肩にかけたザップは、手伝おうとしたナマエを押し退け、一度で階段を上がりキャリーケースを運んだ。寝室にキャリーを入れて紙袋とボストンバッグをベッドへ投げた今は、「腰死んだ」と尻だけ突き上げて床に伏している。
ナマエは冷蔵庫から缶ビールを二本取り出すと、片方でザップの頬をぺちぺちと叩いた。「つっめてえ何すんだコラ」と飛び上がり、その反動でまた痛んだらしい腰を押さえて倒れるザップにビールを差し出す。ザップは少し驚いたような顔をした後、「……オウ」とだけ言ってそれを受け取った。そしてお互い何を言うわけでもなく、煙草とライターも手にしてベランダへ出た。
ぷしゅっという炭酸特有の音が、また騒がしいであろう一日を始めたヘルサレムズ・ロットに小さく溶けた。一口飲んで缶を膝の上に置いたナマエとは反対に、ザップは喉を鳴らしてビールを飲み干した。先に火をつけたナマエが煙を吐く横で、ザップも新しい煙草を取り出す。ナマエとは違う銘柄の煙が鼻をくすぐり、ザップはやけに美味しそうに「美味え」とだけ呟いた。
正直に言って、ナマエがザップに抱いていた怒りはこの一週間でほとんど消えていた。そもそもヘルサレムズ・ロットを出る前も、烈火の如く激怒していたわけではない。あのとき感じたのも、今大きくなっている感情も、どちらかと言うとそれは失望の類に近かった。
確かにモールでザップを見つけたとき、ナマエは「五日も音沙汰なしのくせにこんなところで呑気に買い物とはなんたる」と苛立ちを覚えた。思わず名前を呼んでしまったものの遅れてレオがいることに気づき、成る程仕事中かと少し納得した。レオはザップと比較的仲が悪くはない(良くもない)ライブラのメンバーだとナマエは思っているが、プライベートで会うほどではないはずだ。
明らかに「マズった」という顔をしているザップの傍らに見知らぬ少女がいると認識したのは、彼女が「パパ? どうしたの?」と言ったときだった。
──パパ。聞こえてきた言葉に、ナマエはその場の空気が凍りつくのを感じた。いや正しくは自分のせいで凍りついた。そして、音を立ててひび割れた。
耳に入った単語を頭の中で反芻してみる。「パパ」……誰が? 少女はザップを見上げている。誰の? やはり少女はザップを見ている。
──ザップが、この女の子の、パパ。ナマエの脳がそれを理解するまで、コンマ数秒だった。
そこからのことはあまり覚えていない。話しかけてはいけない状況なのだろうと察したのか、それとも話したくもないと思ったのか。恐らくは両方で、気持ちとしては後者の方が強かっただろう。とにかくナマエは、ザップを一瞥してその場を立ち去った。
そしてその夜もザップからの連絡はなかった。朝方に通知音が鳴り寝ぼけ眼でロックを解除すると、もうすぐ帰るというシンプルなメッセージが届いていた。出発のために嫌々ながらかけたアラームが鳴るにはかなり早い時間だったが、ナマエはそのまま起きて行動を開始した。
一服して朝食を食べ、また一服して。化粧が終わって着替えてもザップはまだ帰ってこない。何度かベランダと寝室を行き来しながら荷物を一通り確認し、朝日をお供にその日何本目かわからない煙草を吸い始めたとき、ようやくザップは帰宅したのだった。
物思いに耽りながら煙草の火を消したナマエは、ビールを片手に中へ戻った。ベランダにいる間二人とも無言で、ザップは既に二本目を吸い終わる頃だった。もしやターミナルで待っている間、一度も喫煙所に行かなかったのだろうか? あのヘビースモーカーのザップが?
ナマエがどのバスに乗っているか知らないザップが、いつ出てくるかわからない自分を待ってゲートの前を離れなかった可能性は……なくはなかった。
ナマエとザップの共通点の一つに、「意地を張ったらテコでも曲げない」というのがある。この話をレオにすれば「言えばいいし聞きゃあよかったじゃないすか」と言われるだろう。しかし頑固で負けず嫌いで意地っ張りなナマエたちは、それができなかった。あえてしなかった。
バカである。自分も、ザップも。ナマエはようやく、一晩中あの場にいたであろうザップに申し訳なさを抱いた。カーテンの向こうでは、朝日を受けたザップがまだ紫煙をくゆらせている。
内容は全く関係ないですが、お誕生日おめでとうの気持ちと愛を込めて!
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