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煙をくゆらせながらタンタンタンと靴底を響かせて階段を上がる。本部を出たときよりも太陽は少し高くなっているが、時間としてはまだ早朝の部類だ。
たった十分前に機甲デコトラに轢かれたばかりのザップ・レンフロは、悲鳴どころか阿鼻叫喚を上げている全身に鞭打って一段一段を踏みしめていた。家が近づくにつれ意識が遠退いているのは、恐らく気のせいではない。それでもザップは病院をすすめてくる新人に唾を吐き散らし、真っ直ぐ帰路へついた。彼にはどうしても帰らねばならない理由があった。
どうにか階段を上がり切り、ザップはやや重い足取りで鍵を取り出しながら通路を進む。今どきエレベーターのない建物は建築法とかそういうのに違反しているのではないかとザップは思うが、ここは異境と融合した都市ヘルサレムズ・ロット。区画くじやらなんやらと外界ではあり得ないルールがまかり通っているこの街で、人間の定めた法律がマトモに機能していることは少なかった。危険指数が比較的低いこのエリアで最上階の角部屋だし、文句は言えまい。
そもそも家賃を払っているのは恋人であるナマエなので、ザップにはその権利などないのだが。
そう、ナマエである。付き合って一年と少しが経つザップの恋人。今日は休日で、彼女がこんな朝早くに起きることは滅多にない。いつもならザップと並びガーガーいびきをかいて寝ている時間だ。
だがザップは超動物的な勘と経験則をもってして、ナマエが起きているであろうことを予感していた。一週間ほど過ごした部屋の片付けを終えた時点で、ナマエにはもうすぐ帰るというメッセージを送ってある。返事はなかったものの、既読がついているのをザップはとっくに確認していた。
ナマエが目覚めているならば、恐らく足音でザップの気配に気づいているだろう。足音だけで誰かわかるなんてフィクションじみているが、自分も似たことができるので強く否定はできない。ザップは玄関を開けて部屋の空気を感じるだけで……時には金属製の鍵を差し込むだけで、家の中にいるナマエの機嫌がわかった。
じゃらじゃらと音を立てて鍵を入れ、ザップは身震いした。今日は後者であった。本当は静かに錠を開けてこっそり中へ入りたいところだが、起きているはずのナマエが自分を不審者だと勘違いしてしまう可能性がある。
まだ付き合って間もない頃、パトリックと飲み明かして帰宅が真夜中になり、怒られるのを回避しようとほとんど無音で家に滑り込んだら、ナマエがザップの頭めがけてスチールラックを振りかぶってきたことがあった。曰く、「泥棒だと思った」と。当時よりもお互いをよく知った今ならそんな心配はないと思いつつも、ザップはあえて普段通り鍵を開けて家へ入った。
廊下は薄暗かったが、扉についた磨りガラスの窓の向こうからは、太陽ではない人工的な明かりがさしていた。やはり起きている。ところがナマエがひょこりと顔を出すことはなく、ザップはそのまま廊下を抜けた。
キッチンとの境目がないかわりにそこそこ広いリビングはもぬけの殻だった。約一週間前にここを出たときよりいくらか荒れているのが怖い。ナマエの心境を表しているようでならない。テーブルの上に置かれているはずの煙草とライターがないので、ナマエはベランダで一服しているのだとザップは気づいた。
中途半端に開いたカーテンの隙間から、窓越しにナマエがちらりと顔を覗かせた。いつもならここで、冷蔵庫からビールを取り出したザップを迎え入れるために窓を開けるはずだ。しかしナマエは一瞬安心したような様子を見せた後、無表情でザップを一瞥しまたカーテンの陰へ消えた。朝日に照らされたナマエの背中が乳白色の布の向こうに透けている。
お怒りである。確実に、それも相当。ザップには心当たりしかない。
これから始まるであろう激戦のことを考え、ザップはうんざりした顔で冷蔵庫を開けた。容量の三分の一を占めた缶ビールは、どれも冷たく冷えていた。
*
体感的には昨日──正確には一昨日、ザップは同僚であるレオナルド・ウォッチと、十歳の少女バレリー・バーマとともに大型のショッピングモールで買い出しをしていた。少女を守るという名目でレオとともに余儀なくされた共同生活が始まって五日目のことである。
詳細は省くが、バレリー・バーマは十年後の未来から来た「自称ザップの娘」であった。後に遺伝子鑑定の結果が出て二人の間に血縁関係がないことは証明されたものの、そのときはまだ未確定だった。
ライブラの資金でバレリーがよそ行きのドレスや靴を一式揃え、ザップに荷物を持たせ、レオに言われた「三番目に欲しいもの」であるクロッキー帳の売り場へ向かい始めたときだ。
「ザップ?」
ヒューマーや異界人でごった返している通路の交差点で、ザップは確かに自分の名を呼ぶ声を聞いた。レオやバレリーには聞こえなかったようだが、ザップの耳はその声が届くようにできていた。恐らくあれが分裂して再構築されたセントラルパークの一角やゴッサム一大きい横断歩道の向こう側であったとしても、同じだったに違いない。そういう根拠のない自信がザップにはあった。
ナマエが立っていた。お気に入りのショップの袋を片手に、目を丸くしてザップを見ている。
マズった、とザップは思った。
ライブラが用意した4LDKのマンションでレオとバレリーとの生活を始めてから、ザップは一度も家に帰っていなかった。「仕事でしばらく帰れねェ」というメッセージだけ送って、ナマエに電話もしなかった。二人がいたというのもあるが、安易にバレリーの話をするわけにはいかなかったからである。
とはいえそれはザップ側の事情だ。理由を知らないナマエからすれば、突然帰ってこなくなった恋人が同僚と見知らぬ少女を引き連れて呑気に買い物をしているようにしか見えなかっただろう。運の悪いことにザップはバレリーの荷物を持って──持たされて──いた。
そして、突然足を止めたザップを不審に思ったバレリーが発した言葉は、彼をことさら窮地に追い込んだ。
「パパ? どうしたの?」
ピシリと、ザップとナマエを隔てる数メートルの間に亀裂が入る音がした。比喩ではあるがとにかくザップはそんな気がした。唯一の救いはバレリーがちょうど、ナマエに背を向けていたことである。そこでようやく(と言っても数秒の出来事だったが)レオが「あっ」と声を上げてナマエの存在に気づいた。
ナマエはレオを見てザップが仕事中であるとわかったようだった。焦ったような困ったような顔でアタフタするレオの様子から、話しかけてはならない状況だとも判断したらしい。
尋常ではない量の冷や汗をかいて青褪めているザップの視線の先を辿ろうとバレリーが振り返ったときには、ナマエは素知らぬ顔で歩き出していた──ほんの一瞬だけ、ジャパンにいるという妖怪・雪女も真っ青になりそうなほど冷たい視線をザップへ向けてから。
*
椅子に座ったザップが二本目の缶ビールを飲み終わろうかという頃、ようやくナマエがベランダから戻ってきた。休日、しかも早朝だというのにナマエは化粧をしており、部屋着用の上下ちぐはぐなスウェットではなく、伸縮性のいい黒のバイカーパンツとグレーのパーカーを着ている。(あえてなのはわかっているが、オーバーサイズで尻を隠しているのが残念だとザップは思った。)
リップを塗ればいつでも出かけられるという格好のナマエを見て、ザップは一瞬怪訝な顔をした。そしてこれから浴びせられるであろう罵倒の数々に応戦しようと椅子に座り直した。
「おかえり」
「オウ」
ところがナマエはそれだけ言って、ザップのそばを通り過ぎようとした。予想外の展開にザップが慌てて「おい」とナマエの腕を掴むと、上から「……何」と面倒臭そうな視線が向けられる。いつも通り口喧嘩が始まると思っていたザップは、まさかそれを言うわけにもいかず「あーっと……どっか行くのか?」と、とりあえず思いついた疑問を口にした。瞬間、ナマエの顔が歪んで、ザップは何かマズいことを言ったらしいと悟った。
「……ハイスクールの友達の結婚式に出るって言ったでしょ。有休取って一週間ぐらい実家帰るって、ちゃんと話したはずだけど」
言った。そういや言ってた、それも結構前から、何回か。とても嬉しそうに「みんなに会うの久しぶりだなあ」と呟くナマエの表情の端に、フクザツな色が浮かんでいたのをザップは思い出した。ナマエがヘルサレムズ・ロットを出るのは、大崩落以来初めてのはずだった。
自分で自分の首を締めたことに気づき、ザップはナマエの腕を離して頭を掻いた。
……しかし、だ。ザップは思った。この態度はなんなのだ。「仕事」での朝帰りなんて今に始まったことではないし、ザップの記憶力が(自分で言うのもアレだが)基本鳩並みなのはナマエもわかっているはずだ。なのにこうもつっけんどんにされては、多少の申し訳なさを感じていたザップも段々とムカついてくる。
いやわかっている。確かにバレリーの件はよくなかった。……ただ、わかっていても腹が立ってしまうのが、ザップ・レンフロという人間だった。
「まァだ怒ってんのかよ」
やや苛立ちを滲ませた声でザップが言うと、ナマエがぴくりと反応した。「アレは仕事だって見たらわかんだろ、わかったから帰ったんじゃねーのかよ」とザップが続けても、引き止められたままに突っ立っているナマエは何も言わない。
ザップは面倒だという気持ちを隠そうともせず溜め息を吐き、「あのな、あんま詳しく言えねーけどあのガキは俺とは血ぃ繋がってねえの。保護する必要があったから、レオと一緒にあのガキのお守してたんだよ。そんで帰れなかった」と言ってすっかり温くなったビールを飲み干した。
「……で?」
降ってきた短い聞き返しにザップは思いきり顔をしかめた。普段なら耳を塞ぎたくなるほどの勢いで言い返してくるのに、ナマエの声には第一声から変わらず温度がなかった。
「ア? 『で?』ってなんだ『で?』って。こっちが『で?』だわオメーの番だろ」
「……もういい」
諦めたような呆れたような顔をして、ナマエはまた部屋を出て行こうとした。今度こそはっきりと怒りを覚えたザップが「あンだ言いたいことあんなら言えよ」と、先ほどよりも強い力でナマエの腕を掴む。痛み故かナマエは少し眉根を寄せたが、声を上げることはしなかった。かわりにザップよりも深く息を吐いて口を開いた。
「あの女の子は、ザップのこと『パパ』だって思ってるんでしょ」
ナマエの言葉にザップは目を見張った。「ザップがなんて言おうと、あの子はそう思ってるんでしょ」とさらに言い、ナマエは視線を逸らして俯いた。
「そう思う理由が、あるんじゃないの。あの子には」
いつの間にかザップの手から力が抜けていた。ナマエがゆっくりとがさついた手を払う。
「もう行くから。冷蔵庫のものは好きにしていいよ。風呂も勝手にどうぞ。ゴミだけちゃんと捨ててよ」
ナマエが淡々と言った。慌てて「ならターミナルまで」と立ち上がったザップに「いい。タクシー呼んだ。ずっと仕事だったんでしょ、ゆっくり休みなよ」と言い、ナマエは今度こそ部屋を出て行く。
ザップが追いかけると、ナマエは寝室から中型のキャリーケースとパンパンに膨らんだボストンバッグを引っ張り出していた。一人でその荷物を持ってバスターミナルへ行くと言うのか。エレベーターもないのに。そんな無茶なと思うのに、ザップの口からは喉がはりついたように声が出ない。
ナマエは粛々と支度を済ませ、ご丁寧に片耳にBluetoothのイヤフォンまでつけてから、ようやくザップの方を振り返った。
「じゃ、」
たった一言、そう告げて。ザップが口を開く前に、もう片方のイヤフォンを耳に入れナマエは出て行った。
ガチャンと玄関の扉が閉まる。ザップがいるにもかかわらず鍵がかけられ、それから少し不規則なスニーカーの足音が遠ざかっていく。
一人取り残されたザップは、苦い顔で廊下の壁を殴るしかなかった。
「……ろくでもねえよ、本当に」
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