私はだ~れ?
この瞑想は、肉体、感覚、心、観念に対して行うものである。
神仙の会時代には、信徒向けの集中セミナーで6時間連続でこの瞑想をやらせている。
この事について麻原は、昔に比べれば随分楽になった。
昔は地獄の特訓と呼ばれるほど厳しいものだったと述べている。
まあ、この時代の信徒はその先辞めるか出家するかしているので、悟るか狂うかはオウムの昔からの伝統であることは確かだ。
実践においては、身体と心についてだけ考えれば良い。
感覚というものは、肉体に付随し心がその善悪を判断している。
ベースになるのが肉体と心なのだから、感覚だけを別にする実践は効果的ではない。
観念についても同様で、様々な観念の中で最も大きな障害となるのは、私を身体と同一視することであり、私を心と同一視することである。
したがって、身体と心についてのみ実践を行えばいいという事になる。
五蘊無我だとか六識・六処だとかいう専門用語は全く必要ない。
悟りを得るためには、現代の日本語があれば十分である。