みかんは普通は皮をむいて食べる。
まあ、皮ごと食べる人もなかにはいる。
逆に、キンカンの場合は皮ごと食べるのが普通である。
ま、農薬の問題もあり、人それぞれ好きにすればいい話ではあるが。
皮をむいて中身の実だけになった状態がわたしはあるである。
残った皮が生存渇愛。
これがわたしはあるから生存渇愛を切り離したということになる。
切り離したらもう元には戻らない。
めでたしめでたし。
で、話はここから。
ヨーガつまり真我から見た場合、わたしはある→生存渇愛であり、原始仏教つまりエゴから見た場合、生存渇愛→わたしはあるである。
皮をむいた状態、わたしはあるならば、すでに生存渇愛はなく、生存渇愛があるのならばまだ皮はむかれておらず、それはわたしはあるではない。
つまり、わたしはあるから生存渇愛を切り離すとは、皮をむいたみかんから、むいてしまったみかんの皮をむくということになる。
これは絶対に不可能であり、矛盾した文章である。
皮をむいてもむかなくても、みかんの実はその状態に関係なく存在している。
ところが原始仏教はエゴの視点からすべてを語っているために、説明が回りくどくしかも分かりづらい。
てか、間違った答えに誘導しようとしている作りになっているように見える。
そんなものはさっさと捨てて、釈迦牟尼と同じようにヨーガを実践すべきである。