真我とは何かを理解しなければ解脱できない。
何故なら、解脱とは真我独存であるからだ。
無常である苦しみの世界から抜け出し絶対へと至る事を目的としながら、無我だの非我だのという相対の世界に囚われ続けているのでは、永遠に迷妄の中をさまよい続けるだけだ。
そんな人達を大量に生み出し続けている。
それが原始仏典の抱える最大の罪だと言える。
原始仏典は釈迦牟尼の教えではない。
原始仏典はアーナンダの教えである。
1日も早く、その事に気づいて欲しいと思う。
教団内部でタターガタ・アビダンマの評価が高かったが、その理由は南伝大蔵経が優れているからというわけではなく、翻訳が素晴らしいというわけでもなく、麻原が成就者の立場から監修し間違っている部分を正し、足りない部分を補ったからに他ならない。
で、
>わたしはある」の状態から生存渇愛を切り離すことが
である。
新しい言葉を憶えれば、単語を記憶すればそれで試験には合格するかもしれないが、意味を理解しなければ修行には何の役にも立たない。
>わたしはあるの状態。
これは日本語としておかしい。
なので、この後の文章が全く成り立っていない。
わたしはあるは状態ではない。
状態とは変化するものである。
つまり、前はAであったものが、今はBである。
とか、前はAでなかったものが、今はBでない。
などのように、必ず変化するものである。
私はあるは不変である。
私が起きている状態。
私が眠っている状態。
私が夢を見ている状態。
それらのいずれの状態においても、わたしはあるはそのままである。