私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」増改2/5
中央公論新社 2004年6月
私の見立て ★★★☆☆ 広範な学識をもとにした労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2014/05/24 増改 2023/01/04
私の見立て ★★★☆☆ 広範な学識をもとにした労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2014/05/24 増改 2023/01/04
*裴注の意義誤解
*「三国志散佚」の怪
「(劉)宋の429年」に、史官裴松之の注釈が「大量」追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈は、大変な見当違いです。正史・陳寿「三国志」は西晋末期に史書として完成したのが妥当な見方と思います。
鳥越氏が、このように無謀な異説を唱えるのなら、「裴注の付注された「三国志」を「正史」とする」と言う断定的な主張が、広く支持されていなければなりません。「言ったもん勝ち」で逃げずに、世の審判を受けなければならないのです。
因みに、陳寿「三国志」は、ほぼ二千年以前に知られ、広く批判、検証された古典著作ですから、今さら、遙か後世の東夷であり、無教養の鳥越氏が新説を展開する趣旨が不明です。
先人の所説の先人による評価に依拠し、時に改訂するのが学問の道です。丁寧に言うと、先人は中国教養人であり、後世東夷の無学、無教養な輩は含まれないのです。
先人の所説の先人による評価に依拠し、時に改訂するのが学問の道です。丁寧に言うと、先人は中国教養人であり、後世東夷の無学、無教養な輩は含まれないのです。
*「三国志散佚」の怪
「南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立した」との不可解な論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨が、余りに唐突で、混乱しています。写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書「三国志」は、「散佚」せず健全に継承されたとするのが妥当な見方と思います。「神がかり」でもしたのでしょうか。
鳥越氏は、「散佚」の意味を十分理解せず矛先を振るったと思えるのです。現存最古の「三国志」の最有力な巻本は、宮内庁書陵部が管理している南宋刊本ですが、第一巻から第三巻が逸失しているものの、それ以外の全巻は、健全に継承されているので、とても、散佚とは言えないのです。そして、陳寿の時代から、南宋刊本に至る長い期間、歴代王朝の至宝として最善の管理・保全が施されていて、大きな損失が生じていないことは、確証されています。
鳥越氏は、専門外の倭人伝史料考察に於いて、斯界権威者の助言を仰ぎ、そのために、諸所で助言を丸呑みし余儀なく追従したものかも知れませんが、結果として、借り着、お仕着せの「先入観」に囚われ、氏の著書として大変な暴言を公開したのは、氏ほどの権威の持ち主としては、大変勿体ないことです。
鳥越氏は、専門外の倭人伝史料考察に於いて、斯界権威者の助言を仰ぎ、そのために、諸所で助言を丸呑みし余儀なく追従したものかも知れませんが、結果として、借り着、お仕着せの「先入観」に囚われ、氏の著書として大変な暴言を公開したのは、氏ほどの権威の持ち主としては、大変勿体ないことです。
*裴注の真価
随分誤解が出回っていて、いたましいのですが、裴松之の深意は、陳寿「三国志」に不法に改竄、加筆したのでは「絶対に」なく、あくまで参考として、陳寿が採用しなかった野史、卑史の類いの史料を追加して、明確に陳寿に賛意を示したものです。
いわば、正史を損壊する「蛇足」の誹りを覚悟したものです。いくら不本意でも、その時点の天子劉宋皇帝が、素人考えで、もっと史談として膨らませろと指示したのに従わざるを得なかったものであり、その主旨は明示されています。
*陳寿の「西域伝」割愛談義
ついでに言うと、陳寿が排除した「西域伝」相当蛮夷伝が成立しなかった証左として、魚豢「西戎伝」を丸ごと添付していますが、素人目にも、その内容は後漢代記事ばかりで、それを除けば、薄っぺらで、陳寿が魏朝の恥になるから割愛した事情がわかるのです。
何しろ、陳寿は、巻末に「東京」、つまり、「洛陽史官が西羌伝を編纂した」と書いているので、魚豢「西戎伝」そのものかどうかは別として、概要を把握していたと示されています。
陳寿は、史官の職分に基づき、高度な判断で西域伝を割愛したのであり、後世の無教養な東夷が勘違いして述べ立てているような、低俗な司馬氏追従などではなかったのです。岡田英弘氏に始まる、史実を誤解した「風評」論義が蔓延していて、「倭人伝」毀損論義に利用されていますが、岡田氏の名声にふさわしくない早計な誤解が、一人歩きしているのは、残念です。
随分誤解が出回っていて、いたましいのですが、裴松之の深意は、陳寿「三国志」に不法に改竄、加筆したのでは「絶対に」なく、あくまで参考として、陳寿が採用しなかった野史、卑史の類いの史料を追加して、明確に陳寿に賛意を示したものです。
いわば、正史を損壊する「蛇足」の誹りを覚悟したものです。いくら不本意でも、その時点の天子劉宋皇帝が、素人考えで、もっと史談として膨らませろと指示したのに従わざるを得なかったものであり、その主旨は明示されています。
*陳寿の「西域伝」割愛談義
ついでに言うと、陳寿が排除した「西域伝」相当蛮夷伝が成立しなかった証左として、魚豢「西戎伝」を丸ごと添付していますが、素人目にも、その内容は後漢代記事ばかりで、それを除けば、薄っぺらで、陳寿が魏朝の恥になるから割愛した事情がわかるのです。
何しろ、陳寿は、巻末に「東京」、つまり、「洛陽史官が西羌伝を編纂した」と書いているので、魚豢「西戎伝」そのものかどうかは別として、概要を把握していたと示されています。
陳寿は、史官の職分に基づき、高度な判断で西域伝を割愛したのであり、後世の無教養な東夷が勘違いして述べ立てているような、低俗な司馬氏追従などではなかったのです。岡田英弘氏に始まる、史実を誤解した「風評」論義が蔓延していて、「倭人伝」毀損論義に利用されていますが、岡田氏の名声にふさわしくない早計な誤解が、一人歩きしているのは、残念です。
*「それ以前」談義の迷走
「それ以前」とは、陳寿「三国志」の編纂以前と思われますが、その時点で「魏略」が史書の体を成していたかどうかの議論とは別に(史書として成立していた可能性が高い)、「魏略」が世に知られていたという根拠は不明です。正式に晋朝に上梓され、皇帝が嘉納していたら正史に記録が残るはずです。
もちろん、魚豢は、魏の氏官職にあり公文書庫に出入りを許されていたから、公務の傍ら「魏略」を編纂したと見えます。(公文書盗用は死罪)
陳寿が「魏志」編纂に魚豢「魏略」を参照したかどうかは、別議ですが、史官として知り得ていたはずだとの議論は成立します。とは言え、陳寿は、「魏代を記録する史書」として、公文書に記録された「史実」に基づいて「魏志」を編纂することを公務としたので、魏志編纂に「魏略」を参考にしても、それが「編纂」の本務でしょう。
未完
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