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樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』(新潮文庫)を読みました。
樋口一葉の小説には、賞賛の声が数多く寄せられています。それは、ほとんど絶賛と言ってよいものです。
そして、5千円札になったほどの作家ですから、樋口一葉の小説を読んでみたいと思っている方もたくさんいらっしゃることでしょう。
ただ、これはぼくも含めてですが、素晴らしさがどうこう以前の問題として、やはり読みづらさや難解さを感じてしまいがちな作家だろうと思います。
そうした現代からすると読みづらい点にこそ、樋口一葉の特徴があり魅力がありますから、まずはそうした読みづらさについて、文体、内容という2つの観点から考えていきたいと思います。
まずは文体ですが、雅文体や擬古文などと呼ばれるものです。つまり、平安時代の古文のような文章で書かれたものでして、文末は「ーた」ではなく、「ーけり」などになります。
雅文体で書いた作家は、尾崎紅葉や森鷗外など他にもいますが、樋口一葉の文体は他の作家と比べてもやや独特です。
たとえば、森鷗外の「舞姫」などと読み比べてみると面白いと思いますけれど、森鷗外の雅文体は一文が短いんです。つまり、文末の助動詞を少し意識すれば、わりとすらすら読んでいきやすいんですね。そして、印象としては、わりとかたい感じの文章です。
一方、樋口一葉の文章というのは、一文が長いのが特徴的です。文章は読点(、)でずらずら続いていき、句点(。)は驚くほど少ないです。
会話文は鍵カッコ(「 」)が使われず、地の文に溶け込ませて書いてあります。極めて古文に近いスタイルですね。そして、印象としては、わりとやわらかい感じの文章です。
では、「にごりえ」から一節を抜き出してみます。ちょっと読んでみてください。
今宵もいたく更けぬ、下坐敷の人はいつか帰りて表の雨戸をたてると言ふに、朝之助おどろきて帰り支度するを、お力はどうでも泊らすといふ、いつしか下駄をも蔵させたれば、足を取られて幽霊ならぬ身の戸のすき間より出る事もなるまじとて今宵は此処に泊る事となりぬ、雨戸を鎖す音一しきり賑はしく、後には透きもる燈火のかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。(38~39ページ)
これで一文です。ずいぶん長いですよね。ここに出て来ているのは、酌婦(男に体を売る職業)のお力とお客の朝之助です。お力は朝之助を帰したくないので、下駄を隠してしまうんですね。
足のない幽霊ではないので、履物がなければ、外へは出ていけませんよね。そこでそのまま泊まることになります。雨戸を閉める音が響いた後は、明かりが消えて、巡査の足音のみが響くという場面です。
少しずつ読んでいけば、文章的にはそれほど難しくはないと思うんですが、どうでしょうか。全く意味不明ということはないだろうと思います。
「おどろきて」は「おどろいて」、「泊る事となりぬ」は「泊まる事となった」、「高かりき」は「高かった」という風に、なんとなくのニュアンスで、現代っぽく置き換えていければ大丈夫です。
文章として、たしかにとっつきづらさはあるものの、じっくり読んでいけば、わりと読んでいけるのではないかと思います。樋口一葉の小説の読みづらさは、やはり文体よりも内容にあります。
では続いては内容としての特徴について。樋口一葉の小説の素晴らしさはストーリーにあるのではなく、感情的なものを含んだ場の空間を巧みに作り出したことにあると思います。
代表作「たけくらべ」のよさというのは、言葉ではうまく説明できません。登場人物のそれぞれの気持ちが読者に伝わって来て、それがじんわりとした余韻を残すのがいいんですが、その気持ちというのは理解はできても、感想として言語化するのは極めて難しいです。
そうした言語化できない登場人物の気持ちを、樋口一葉がどのようにして描き出しているかというと、ああいう特徴的な文体ですから、心理描写によってではありません。
近代的な心理描写もなくはないのですが、人物の行動を描くことによって、その行動の裏に隠された心理を自然と描き出すという手法が多く使われています。そして重要なのは、登場人物をばらばらの場面で描いていることです。
「たけくらべ」では美登利と信如が中心の人物になりますが、この2人が同時に出ている場面というのは、実はとても少ないのです。同じ場面にいる人物2人の心理を描くのではなく、美登利に寄り添った場面、信如に寄り添った場面という風に、ばらばらの場面として描かれていきます。
「たけくらべ」はいわば、美登利の章と信如の章に分かれていて、普通の小説のように、「誰かの感情が物事を変化させる」という一方向に進んでいく物語ではなく、「それぞれ別々に持っている感情がいつまでも平行線のままであり続ける」物語です。
その要素を読みづらさに引き寄せて別の言い方をすると、場面転換がかなり激しい小説だということです。美登利について書かれ、次は信如、その次はまた美登利という風に繰り返されていきます。どちらかに偏った書き方が交互にされていくわけですね。
なので、現在の場面が誰を中心にして、何が語られているのかをとらえるのがなかなか大変なんです。これが樋口一葉の一番の読みづらさだろうと思います。
しかし、この読みづらさこそが樋口一葉の最も大きな魅力でもあるんです。色のついたセロファンをイメージしてみてください。
それぞれの登場人物の心理が手に取るように分かるということは、いわば様々な色のセロファンを重ねるようなもので、普通は汚い色になるか、真っ黒になってしまいます。
ところが樋口一葉の小説は、ばらばらに描かれた登場人物の感情が重なりあった時、決して濁った色にならず、虹色とまでは言いませんが、それぞれが邪魔をしない、とても澄んだ色になるんですね。
それはお互いの感情がぶつかり合ったり、混じり合ったりするのではなく、いわば違う層にあるということを意味してもいるんですが、本来なら崩れてしまいそうなバランスのものを、あの独特な文体で極めて巧みに成立させているんです。
そうすると、物語の場の空間が単なる空間ではなく、様々な感情的なものが重なり合った特別なものになります。そこにいるすべての人の感情が分かり、分かるにもかかわらず、どうすることもできない状況というものが、読者の前に提示されます。
その感情的な場の空間のすごさにこそ、他の作家にはない樋口一葉の特徴があり、魅力があるとぼくは思います。
作品のあらすじ
では、各編のあらすじを簡単に紹介しますね。
『にごりえ・たけくらべ』には、「にごりえ」「十三夜」「たけくらべ」「大つごもり」「ゆく雲」「うつせみ」「われから」「わかれ道」の8編が収録されています。
「にごりえ」
人気のある酌婦お力に、結城朝之助といういいお客がつきます。男ぶりはいいですし、独身ですし、お金もたくさん持っていそうです。しかし、お力はいつもなんだか浮かない様子なんですね。朝之助が尋ねると、お力はかつての馴染みだった源七という男の話をします。
源七は蒲団屋をしていたんですが、お力に入れ込みすぎて商売をしくじり、今は食うや食わずの生活をしています。源七は、今もお力に会いに来ますが、お力は決して会おうとはしません。
源七は源七で、このままではよくない、お力を思い切ろうと思いますが、どうしても思い切ることが出来ないんですね。妻も子供もいる源七は様々な思いに苦しんで・・・。
「十三夜」
実家へやって来たお関。いつもとは様子が違います。普段は豪勢な黒ぬりの人力車でやって来るんですが、今日は途中で拾った人力車に乗って、しかも夜に突然やって来ました。入口の前でお関は迷います。「戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我良人のもとに戻らうか、あの鬼の、鬼の良人のもとへ、ゑゑ厭や厭や」(49ページ)と。おほほと無理に明るく笑って両親に会うお関。
実はお関は結婚して7年になる夫とうまくいっていないんです。貧しい家の出のお関は、裕福な夫とはいわば身分違いの結婚です。美貌を見初められて結婚したんですが、今では飽きられてしまい、教養がないなどと執拗にいびられる苦しい暮らしです。
子供が1人いるので、我慢に我慢を重ねていたんですが、到頭耐えきれなくなってしまいました。子供を捨てる覚悟で、離縁状を書いてもらいに実家へやって来たというわけなんです。はたして・・・。
「たけくらべ」
横町と表町で、それぞれガキ大将のようなものがいます。横町のガキ大将の長吉は、友達でお坊さんの息子の藤本信如に加勢を頼みます。信如は勉強が出来るので、一目置かれているんですね。ちなみに15歳です。争いの嫌いな信如ですが、しぶしぶ引き受けます。
一方の表町を代表するのが、正太郎です。この正太郎の友達が14歳の美登利。元々は田舎で暮らしていましたが、美登利のお姉さんが遊女になったので、お姉さんについて一家そろってやって来ました。両親も遊廓にまつわる仕事をしています。
祭りの夜のこと。横町と表町で争いになります。長吉は「姉の跡つぎの乞食め、手前の相手にはこれが相応だ」(89ページ)と言って、美登利に泥草履を投げつけます。信如はその場にはいなかったんですが、長吉は「此方には龍華寺の藤本がついてゐるぞ」(89ページ)と叫びます。
信如と美登利は育英舎という、同じ学校に通っていたんですが、腹を立てた美登利はそれきり学校に行かなくなってしまいました。
かつて、運動会で信如が転んだ時、美登利はハンカチを貸してあげたり、美登利が取って欲しいという花の枝を信如は折って渡してやったこともありました。
しかし、周りにひやかされるので、段々2人は疎遠になってしまったんですね。「唯いつとなく二人の中に大川一つ横たはりて、舟も筏も此処には御法度、岸に添ふておもひおもひの道をあるきぬ」(97ページ)と書かれています。
いつしか距離が生まれ、そうした小さな事件もあり、今はいわば敵同士といってもよい2人です。ある雨の降る日、信如は下駄の鼻緒を切ってしまいます。どうにかして直さないと、もう歩けません。
それがたまたま美登利の家の前だったんですね。信如が困っているのを見て、ざまあみろとあざ笑ってもいい場面です。しかし美登利は、格子の陰に隠れていつもと違う様子でどうしようか迷いながら、「唯うぢうぢと胸とどろか」(117ページ)していたんです。
はたして、信如と美登利の淡い恋の行方は・・・?
「大つごもり」
「大つごもり」というのは、大晦日のことです。下女に対して厳しいことで有名な山村家で下女をしているお峯。お峯の両親は亡くなってしまったんですが、伯父さんがいます。この伯父さんが病気になってしまい、伯父さん一家の生活が非常に苦しくなってしまうんです。
大晦日までに2両あればなんとかなるから、雇い主になんとか頼んでみてくれないかと言われたお峯は承知します。ところが肝心の大晦日の日、一旦は貸すと約束してくれた奥さんに、「それはお前が何ぞの聞違へ、私は毛頭も覚えの無き事」(143ページ)と言われてしまいます。
お峯からお金をもらおうと伯父さんの子供がやって来ます。一体どうしたらいいかと迷うお峯。その時お峯は、たまたまお金のある所を知っていて・・・。
「ゆく雲」
東京で勉強している野沢桂次。故郷から養父の具合が悪いから帰って来いという知らせが来ます。桂次は養子の身の上なので、帰らないわけにはいきません。奥さんとなる人はもう決まっていて、帰るとなると、それでもう桂次の人生はすべて決まったようなものです。裕福な造り酒屋の跡を継ぐのはいいものの、周りの目が厳しくてお金は自由に使えません。まさに籠の中の鳥です。
恋愛的な意味とは少し違っているんですが、桂次は下宿先の娘のお縫に好意を寄せています。お縫は継母と一緒に暮らしているので、とても肩身が狭いんです。同じく窮屈な境遇の仲間として見ているんですね。
「我れがいよいよ帰国したと成つたならば、あなたは何と思ふて下さろう」(160ページ)と熱意を込めて語る桂次ですが、お縫の態度はどこか冷めたもので・・・。
「うつせみ」
小石川の植物園の近くにある貸家に人が入ります。そして、「十八か、九には未だと思はるるやうの病美人、顔にも手足にも血の気といふものが少しもなく、透きとほるやうに蒼白きがいたましく見え」(173ページ)る女性がこっそり運ばれてきます。井戸には蓋がされ、ハサミなど刃物は女性の目のつく所からは隠されます。この女性は雪子というんですが、どこか様子がおかしいんです。ぶつぶつとよく分からないことを呟いていたりします。
裕福な家のお嬢さんらしき雪子。一体、雪子の身になにが起こったのか?
「われから」
この短編は、額縁小説のような構造をしています。「現在ー過去ー現在」という感じです。まず「現在」で語られるのが、ある奥さんの話です。旦那さんはどうやら女遊びをしているようで帰って来ません。
家には書生(置いてもらうかわりに勉強の合間に、雑用などをする)の千葉がいます。奥さんは千葉に「成べく早く休むやうにお為」(196ページ)などとやさしい言葉をかけてやります。
奥さんの父親はもう亡くなっていますが、赤鬼の与四郎と呼ばれていたほどの人で、金の亡者のようになって一代で富を築きあげた人です。この与四郎の妻、つまり奥さんの母親の話が「過去」で語られていくことになります。
与四郎は美尾という妻をとても愛していました。ところが、実家に病人が出たからと言って帰って来ない日があったり、「さながら恋に心をうばはれて空虚に成し人の如く」(205ページ)ぼんやりした様子なんですね。
なぜ与四郎は赤鬼と呼ばれるほど仕事に打ち込むようになったのでしょうか。「過去」の話が終わると、また「現在」の話に戻ります。夫を愛さなかった母と、夫に愛されなかった娘を対照的に描き出した短編です。
「わかれ道」
針仕事をして生計を立てているお京の所へ、傘屋の吉がやって来ます。吉は16歳ですが、体が小さく、一寸法師というあだ名で呼ばれています。吉はお腹がすいたので、お餅を食べに来たんです。吉はほとんど捨て子のようだったのを、先代の傘屋のおかみさんに拾われました。天涯孤独の身の上の吉ですが、やさしくしてくれるお京をお姉さんのように慕っています。
ところがある時、お京は引っ越しすることになったと言って・・・。
とまあそんな8編が収録された短編集です。では、ぼくの感想などを少し。
ぼくが一番好きだったのは、「大つごもり」です。この短編のラストはわりと自由に解釈できるようなものなので、必ずしも人情話とは言えないかもしれませんが、人情話として非常にベタかつ面白いものです。こういうのぼくは好きですね。
うまいなあと思わされたのは、「十三夜」です。あらすじ紹介では、重要な要素を一つ省いているので、実際に読んでもらわないと分からないと思いますが、人間関係のもつれというか、過去の回想と「もしかしたら、あったかもしれない未来」をうまく混ぜ合わせた、非常に印象深い短編です。
月の夜のどこか静かな雰囲気に、何人かの登場人物の感情が加わって、しみじみとした余韻が残ります。いいですね。シンプルな話なので、「たけくらべ」が難しいようなら、「十三夜」から読むというのもありかもしれません。テーマ的な類似が多少あります。
みなさんも興味を持った短編があれば、ぜひ実際に読んでみてくださいね。短編集のよいところは、どこからでも読めることです。
明日は、三浦しをん『舟を編む』を紹介する予定です。