Colaboバッシングが起こったときから、私は既視感に襲われている。数年前の尹美香&挺対協バッシングにそっくりだからだ。尹美香さんと挺対協にかけられた嫌疑もただのデマだったと裁判で次々と明らかになっているが、一度貼り付いたイメージはなかなか落ちない。↓
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会話
返信先: さん
ことに日本においてはリベラルと言われる人たちも、挺対協が利権を食い物にしてきたようなイメージを未だに持っている。バッシングというのは事実がどうかということは実はあまり関係がない。悪く思いたい人たちが心地よければそれでいいのだ。↓
リベラルの人も「民主主義的に日本が優れている」と思いたい人たちは大勢いる。フェミもそう。韓国のフェミニズムを悪く言うフェミニストは、少なからずいるらしい。民主主義もフェミニズム運動も韓国のほうがずっと進んでいるのにな。日本が優れているという差別意識は右翼の特権ではない。↓
Colaboバッシングが起こったとき、多くの人がColaboに連帯して発言していたから「挺対協のようなことにはならないだろう」と思っていた。挺対協バッシングでは自殺者まで出たからね。けれどこのところのバッシングの苛烈さをみると、そうもいっていられなくなったと感じる。↓
バッシングにおいて事実が何かということはあまり関係がない。バッシングの遂行者は正しさなど気にしない。だから正しさだけではだめなのだ。正しさだけでは、バッシングされる当事者は、自分の正しさを実感できない。(私もそれは身をもって知っている。)↓
たくさんの人が支えること。たくさんの人が闘うこと。仁藤さんあなたは間違っていないと、大声で叫ぶこと。連帯だけがバッシングされる人を助けることができる。
あなたも私も傍観者ではいられない。傍観者的態度などなんの役にも立たない。
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