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    こちらは北部九州にある盆地「日田」です
    生まれ育った大分県日田市んコツを書いていこうと思おチョリます。素人が書きヨリますから、間違ごうちょるカン知れんですm(__)m
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    日田んもん

    Author:日田んもん
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    日田彦山線を彦山まで 第34回 大行司駅~筑前岩屋駅2
    鉄道ファンの中で、日田彦山線の有名な撮影ポイントとして大行司駅~筑前岩屋駅間のアーチ橋があります。
    地元の方などはめがね橋とも呼ばれているようです。
    このアーチ橋は大行司駅~筑前岩屋駅間に3ヶ所あり、いずれも福岡県道52号八女香春線を北上すると右側に路上から見る事ができます。

    大行司駅に近い方から紹介していきます。

    第二大行司橋梁
    第二大行司橋梁

    まずは通称・松尾橋とも呼ばれる第二大行司橋梁です。
    全長54.9m、橋脚の間、径間といいますが径間14mの4連アーチ橋です。
    山で隠れているので短く見えますが、全長は意外と長いのです。
    3ヶ所のアーチ橋の中では一番見落としがちな橋になりますのでご注意を。
    ちなみに、第一大行司橋梁が何処にあるのかは分かりませんでした( ;∀;)

    [第二大行司橋梁]
    住所 福岡県朝倉郡東峰村大字宝珠山798-3
    地図 



    第二大行司橋梁から約1Kmほど北上すると次のアーチ橋があります。

    宝珠山橋梁
    宝珠山橋梁

    次は通称・奈良尾橋と呼ばれる宝珠山橋梁です。
    全長79.2m、径間14mの5連アーチ橋で3つのアーチ橋の中では最も全長が長い橋になります。
    手前にある民家と比べても大きさがわかります。
    全高が20mあって迫力があります!

    [宝珠山橋梁]
    住所 福岡県朝倉郡東峰村大字宝珠山1870-3
    地図



    宝珠山橋梁から更に約1.2Kmほど北上すると最後になる3つ目のアーチ橋があります。

    栗木野橋梁
    栗木野橋梁

    最後は通称・金剛野橋と呼ばれる栗木野橋梁です。
    全長71.20m、径間10mが2つと径間14mが3連と並ぶ5連アーチ橋で、その姿が最も美しいと1番人気のアーチ橋です。
    民家などの人工物が少なくて、橋脚が下から視界に入り、両サイドも遮るものが少なく、アーチ橋全体が視界に入る点が大きいのでしょう。
    全高は宝珠山橋梁と同じく20mあります。

    引いた絵の栗木野橋梁
    引いた絵の栗木野橋梁

    少し引いた写真を。
    コンクリート製の人工構造物ですが、山の緑と青空と溶け込んで、違和感がありません。
    これで、水田に水を張っていたり、稲があるともっと見応えがあるでしょう。

    [栗木野橋梁]
    住所 福岡県朝倉郡東峰村大字宝珠山3230-2
    地図



    3つのアーチ橋群は土木遺産に登録されており、更に宝珠山橋梁が経済産業省認定する近代化産業遺産産炭地域の特性に応じた近代技術の導入など九州・山口の石炭産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群と長いですが、この構成遺産の一つになっています。

    さて、この3つのアーチ橋は昭和13年(1938)に完成しており、いずれも無筋コンクリート多径間連続充腹アーチ橋という構造で建設されています。
    専門的な言葉を使わずに書くと鉄筋を使わないコンクリートで橋を造りアーチが連続し内部に土砂を詰める構造となります。

    鉄筋コンクリート 鉄筋コンクリート(ウィキペディアより)

    素人の私でも鉄筋を使わないコンクリート構造物というのを考えられません!
    なぜ、鉄筋が必要かというとコンクリートは圧縮する力には強いのですが、引っ張られる力には弱いという特性があります。
    それを補完するために逆の特性を持ち粘り強い鉄筋を使用します。
    上の写真はウィキペディアに掲載されていた鉄筋コンクリートの写真です。
    ちなみに鉄筋コンクリートは別名RC(Reinforced Concrete)と呼ばれます。
    写真にある鉄筋コンクリートはコンクリートの内部に整然と多くの鉄筋が配され如何にも丈夫そうですね。
    鉄筋を使わないコンクリートだけの弱点を補う為にアーチ橋としたワケです。
    皆さんもご存知の様に円は非常に堅固な形状です。
    トンネルの断面が円形だったり、ガスタンクが球状だったり、飛行機の機体が円筒形なのはそういう理由からです。

    今は無き筏場眼鏡橋  小月橋
    今は無き筏場眼鏡橋                    小月橋

    アーチ橋は江戸時代に造られた石橋に見られます。
    平成29年7月九州北部豪雨で完全に流出してしまった筏場眼鏡橋ですが、平成24年7月九州北部豪雨では上部構造物が流出しましたが、主体部のアーチ部分は生き残りました。
    筏場眼鏡橋小月橋の様に上部は平らで歩いて渡る事が出来ました。
    筏場眼鏡橋の上部が流出したという事は、橋自体は完全に水没したと思われますが、それでもアーチ部分は残ったワケですからそれだけ堅固だった事の証明といえます。
    日田彦山線のアーチ橋は無筋の脆弱さを補う為に主体部をアーチ構造にし、この円の上部に壁を作って土砂でその内部を埋めて線路を敷くというヤヤコシイ充腹という工法を採用しています。
    土砂とかで埋めないで、コンクリートで埋めりゃいいじゃん?と私も思うのですが、、、
    無筋のコンクリートでは上部を重い列車が走ると、ヒビ(クラックともいいます)が入りやすいのが欠点です。
    鉄筋コンクリートでもクラック問題は付きまとう欠点です。
    しかし、上部を土砂で埋める事でクッションの役目を果たすので下部の橋脚への負担も軽くしますし、上部はクラック問題とはサヨナラ出来ます。
    線路は定期的メンテナンスで砕石を加えたり、土砂の偏りを修正できるのも利点です。

    第二大行司橋梁を下から  第二大行司橋梁の上部
    第二大行司橋梁を下から                  第二大行司橋梁の上部

    第二大行司橋梁に接近してみました。
    下から見上げると、水が流れ出ている場所があります。
    この水抜きの部分は橋脚と上部の境にあります。
    この水抜きのある箇所から上部が壁の内側が土砂で埋められていると思われます。
    横から見ると、コンクリートの色が違うのでアーチ部分とその下部になる橋脚部分と上部の壁部分がわかります。
    横方向に縞模様があります。
    昔はコンクリートを流し込む前に、コンクリートが流れ出さない様に型枠を作りますが、普通の板で作っていました。
    その為に、板の跡が残って縞模様の様になっています。
    今では畳の大きさ位の合板製のコンクリートパネル、俗に言うコンパネや鉄製のパネルを使うので綺麗な表面をしています。
    最近は工場であらかじめ作って現場に持ち込む事も多くなっています。
    第二大行司橋梁はクラックも爆裂箇所や欠落箇所もなく、健全な状態を保っていますね、驚きです。

    よく見ると  レール?
    よく見ると…                          レールが埋められてる

    よく見るとレールが埋め込まれている様です。
    壁が横に膨らむのを防ぐためでしょうか?

    第二大行司橋梁の路盤  第二大行司橋梁の壁
    第二大行司橋梁の路盤                   第二大行司橋梁の壁

    山を登ると第二大行司橋梁に出る事ができました。
    日田彦山線が走っていた、と思われる痕跡は無くなっていました。
    レールも枕木もありません。
    路盤の砕石だけが残されています。
    土砂を留めている壁も確認できます。
    意外と厚みは薄いな~と思いますが、埋まっている部分は下に行くほど厚みが増す様になっているようです。
    壁の右側はメンテナンス用の足場と鉄柵があります。

    宮原線・幸野川橋梁  久大本線・玖珠川第五橋梁
    宮原線・幸野川橋梁                     久大本線・玖珠川第五橋梁

    日田彦山線の3つのアーチ橋は同時期に完成してまして、昭和13年(1938)の完成ですから83年も経過していることになります!
    同時期に完成したアーチ橋として有名なのは、すでに廃線となっている宮原線の小国町にある幸野川橋梁こうのがわきょうりょうですが、竹筋コンクリート製という事で有名ですね。
    そう、鉄筋の代わりに植物の竹を使用しているのです!
    竹筋コンクリートは鉄筋コンクリートと比べると約6割の強度があるそうです。
    完成は昭和14年(1939)ですから日田彦山線のアーチ橋群と同時期の完成になります。
    全長は116m、高さ24m、径間20mの6連アーチ橋です。
    平成16年(2004)に国指定の登録有形文化財に登録されました。
    日田彦山線のアーチ橋群も言われてはいませんが竹筋を使っている可能性が高いと私は思っています。

    さて、左上の写真は久大本線の玖珠川に架かる鉄橋です。
    橋があるのは豊後中川駅~天ヶ瀬駅間にあります。
    この区間の開業は昭和9年(1934)です。
    橋の構造は鉄板で桁を作り、それを組み合わせたプレートガーター橋と言います。
    そう、鉄板を使用しているのが特徴です。

    日田彦山線のアーチ橋群が完成したのが昭和13年(1938)に完成ですから、久大本線の鉄橋の方が古い事になります。
    なぜ、日田彦山線の橋はコンクリート製より頑丈は鉄橋にならなかったのでしょう。
    それは日本の鉄事情に関係しています。
    昭和6年(1931)から昭和7年(1932)にかけて満州事変が勃発し、昭和8年(1933)には国際連盟を脱退します。
    国家財政における軍事費の比率の変化を確認してみます。
    平成25年(2013)の統計では5.1%でした。
    昭和3年(1928)~昭和5年(1930)までは28%台を維持していました。
    それでも、現代と比べると桁違いの軍事費ですね。
    それが、国際連盟脱退を表明した昭和8年(1933)には39.1%に跳ね上がり、昭和9年(1934)には43.8%と国家財政の4割以上を軍事費にあてるという異常な状況になっています。
    つまりは、国を挙げて軍事力強化の道を突き進んでいたのです。
    そこで、できるだけ鉄は軍事目的に廻す事になり、鉄道用の橋梁は鉄を使用するプレートガーター橋から無筋又は竹筋コンクリート橋へと変わっていかざるをえなかったのです。
    宮原線は太平洋戦争中に、一度敷設されたレールを撤去されてしまうという憂き目にあいました。

    日田彦山線のアーチ橋群は戦争の影響を見る事が出来る遺産と言えるかもしれません。

    栗木野橋梁のライトアップ1  栗木野橋梁のライトアップ2
    栗木野橋梁のライトアップ

    以前は栗木野橋梁と宝珠山橋梁で年末年始にライトアップをしていました。
    列車が不通となってもライトアップをしています。
    今年の12月もライトアップしてくれるかな。

    参考
    土木遺産 in 九州 http://dobokuisan.qscpua2.com/
    トーホースタイル http://toho-info.com/ cont/sitemap.html
    ちくご観光案内所  https://kankou.chikugolife.jp/pages/top/
    経済産業省 https://www.meti.go.jp/
    公益社団法人土木学会西部支部 http://www.jsce.or.jp/branch/seibu/index.html
    帝国書院 https://www.teikokushoin.co.jp/
    充腹識コンクリートアーチ橋の計画と設計/小野正二・丸山峯男
    コンクリートアーチと廃線・未成線/河野靖彦
    現存する竹筋コンクリート造を求めて/玉井孝幸・嵩英雄
    ウィキペディア

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    テーマ:福岡 - ジャンル:地域情報

    日田彦山線を彦山まで 第33回 大行司駅~筑前岩屋駅1
    さて、次は筑前岩屋駅を目指します。
    筑前岩駅までの間には、足が止まってしまうネタが沢山転がっています・・・

    宝珠山中学校跡  宝珠山中学校跡

    大行司駅のホームからも少し見える元宝珠山中学校の木造校舎が残っています。
    現在では利用されていません。
    白いペンキで塗られた校舎は哀愁が漂っています。
    満開の桜と相まってとても綺麗に映りました。
    人が居たので1階部分を入れずに撮影したので、、次は1階も含めて全体を撮っておきたい建物です。

    さて、福岡県道52号八女香春線を北上して筑前岩屋駅を目指すところですが、チョット目を凝らしながらゆっくり進みます。
    と、、これかな?見つけました!

    これこれ  探していた穴
    探していた穴

    これが、探していたです。
    実は、かつて宝珠山炭鉱の石炭を大行司駅で積み込むためにトロッコの線路が敷設されていて、日田彦山線の線路の土盛りに穴を掘って、私が立っている西側から通して東側にだして、大行司駅に上り坂を使って構内まで運んでいたそうなのです。

    それで、大行司駅の線路跡を歩いて、その遺構を確認したかったのですが、工事をされていたので諦めたのです。
    まぁ、工事現場に関係者以外が立ち入るのは問題があるのですが(*´Д`)

    とりあえず、見つけた穴がトロッコ跡なのか確認してみましょう。

    里道を歩くと  穴の入口に
    里道を歩くと                         穴の入口に

    民家と田んぼの間にある里道をヨボヨボと歩くと穴の入口にたどり着きました。

    入口を遠くから  入口を近くから
    穴の入口

    穴の正面に立ちました。
    周囲には機械類が設置されていた感じはありません。
    問題なのが、どう見ても穴には金網が張られている事です。。。

    金網から覗くと  通れそうです
    金網から覗くと                       通れそう

    金網から覗くと、床はコンクリート板が敷かれ、天井も痛んではないようです。
    出口には石積みが見えます。
    金網の下を見ると、、持ち上げられるじゃん♪
    この金網は猪や鹿から田んぼを守る為の金網のようです。
    それでは、突入しましょう。
    何故か、懐かしい川口浩探検隊を思い出しました。

    スグの上り坂  その先にある上り坂
    スグにある上り坂                      少し先にある上り坂

    穴を潜り抜けるとスグに右へと上る坂がありました。
    しかし、石炭を積んで重量のあるトロッコが通るには、少しカーブがきつ過ぎる感じがします。
    確かに方角は大行司駅に向かってはいるのですが・・・
    さらに、先に進むと違う上り坂がありました。
    これも大行司駅に向かっていますが、道は山林の作業用と思われます。

    廃墟が  廃墟と日田彦山線の土盛り
    朽ち果て廃墟となった民家と日田彦山線の土盛り

    帰っていると、朽ち果て廃墟となった民家が目に入りました。
    かつて民家があって、トロッコが通っていたとは考え難いですね…
    この穴は里道を確保する為に作られたのでしょう。

    車に戻っていると、地元の方がおられてトロッコ跡はまだ大行司駅側の南側にあるとの事!

    この辺りだと  ちょっと移動して再確認
    この辺りだと                          移動して再確認

    車に戻って教えて頂いた場所を確認します。
    民家の向こうに見える藪の辺りだと教えて頂きました。
    左上の写真でビニールハウスが写っていますが、先程の里道用トンネルを紹介する時にも写っています。
    という事は近いですね。
    良く見えないので、少し大行司駅側に移動して再確認します。
    あ~ここなら藪が良く見えます。
    右手に見える建物は元宝珠山小学校です。
    田んぼの畦道を歩いて藪に向かって行く事にします。

    ほんと藪だけど  金網が張られている
    遠目から見ると藪                     藪を取り巻く金網

    藪に向かって歩を進めるのはいいのですが、どう見てもタダの藪にしか見えません。
    どうにか辿り着くと、藪は金網で囲われていました。
    よく見ると・・・

    穴だ! 穴がありました

    四角いトンネルがありました。
    これがトロッコ跡でしょう。

    トロッコトンネルと日田彦山線  トロッコが通ったと思われる
    トロッコトンネルと日田彦山線               トロッコが通ったと思われる

    先程の里道トンネルと比べ四角形でトンネルが作られ簡素化されています。
    少し後ろに下がって位置関係を見ると、すぐ上を日田彦山線が通っています。
    先程の里道と比べると高低差が少ないのでトロッコの経路としてはコチラでしょうね。
    トロッコが通ったと思われる経路は一面の田んぼとなっていて形跡がハッキリしませんが右上の写真で中央に色の薄い細長い箇所がありますが、ソコがトロッコ跡の可能性があります。

    昭和22年の航空写真  注記を書き足し
    昭和22年(1947)米軍撮影の航空写真(国土地理院ホームページより

    国土地理院のホームページより昭和22年(1947)11月21日に米軍が撮影した航空写真がありましたので、お借りしました。
    その写真に私が文字を記入しました。
    左上の写真が航空写真そのもの。
    右上は私が記入したものです。
    なんで小豆色にしたのか、小豆色が日田彦山線。黒色がトロッコ線です。
    石炭積込場で石炭はトロッコに積まれ、馬に曳かれて大行司駅の構内へと運ばれました。
    現在の福岡県道52号八女香春線を通って行き、右への曲がる場所に積替所が設置されていたようです。
    そこで積み替えられたトロッコは宝珠山川を渡って田んぼの中を走り、日田彦山線の下を潜って大行司駅ホームの北側に設置された貨車への積込用ポケットへと運ばれました。
    トロッコが走った大行司商店街の道は零れ落ちた石炭によって真っ黒になっていたそうです。

    トロッコを走らせるためには2本のレールが必要です。
    日田彦山線の下をトロッコを走らせるのですから、日田彦山線の設計時点でトロッコを走らせること、大行司駅で石炭の積込を行う事を織り込み済みだった事がわかります。

    さて、今度こそ筑前岩屋駅を目指しましょう!
    怪しいですが( *´艸`)

    参考
    宝珠山村誌/宝珠山村誌刊行委員会
    ウィキペディア
    国土地理院ホームページ https://www.gsi.go.jp/

    テーマ:福岡 - ジャンル:地域情報

    日田彦山線を彦山まで 第30回 宝珠山炭鉱5
    第一坑口の説明板によると、この近くに第三抗口があるようです。
    探してみましょう。

    三坑跡  案内していただいた女性
    三坑跡

    ウロウロしていたら、散歩中の女性にお会いしまして。
    ご挨拶しましたら、三坑跡へご案内していただけることに(´ω`*)
    無駄足をせずに助かりました。
    スグに三抗跡に到着しました。

    三坑の入り口  塞がれている
    三坑入口

    第三坑の入り口です。
    こちらも第一坑跡と同じく綺麗に整備されています。
    ので、昔の面影は残っていません。
    坑道への入口もコンクリートで塞がれています。
    一坑の上には銘板がありましたが、こちらにはありません。

    第三坑の説明板  三坑説明版にある地図
    三坑の説明版

    三坑にも説明版があったので書き写します。
    ただ、他の説明板には通し番号があったのですが、これに番号が振られていません。

    宝珠山炭鉱の坑口・三坑跡
    宝珠山炭鉱三坑は、宝珠山炭鉱北部の下層群の炭層採掘を目的として計画され、昭和二十三(一九四八)年二月に主要幹線坑道が完成し、昭和二十六(一九五一)年に出炭を開始しました。将来を期待された坑口でした。
    しかし、炭界不況の影響で出炭制限となり、昭和二十九(一九五四)年四月、わずか三年の創業で三坑は閉鎖となりました。
    鈔出炭量は32930トンでした。
    その後の操業再開を期待して維持管理がなされましたが、昭和三十八(一九六三)年に完全閉山により、再開されることはありませんでした。一坑口上部にあるコンクリートの建造物は、三坑のトロッコを抗外に出す巻場の跡です。


    なんと、三坑は僅か3年の操業で役目を終えたのですか!
    さらに驚いたが、一坑口上にあったコンクリート製の構造物は三坑用だったとは!!

    三坑説明板にある地図にいぶき館とあります。

    いぶき館  いぶき館を遠目から
    いぶき館

    いぶき館は宝珠山炭鉱の社交場であった宝珠山クラブを平成16年(2004)に旧宝珠山村が復元した施設です。
    内部は、宝珠山炭鉱をはじめとした資料を展示しています。
    特に宝珠山炭鉱では俳優の高倉健さん(2014年11月10日(83歳没))の父親が働いていたので、高倉健さん関連の特別展がよく行われているようで、通常でもゆかりの品が展示されています。
    高倉健さんは昭和6年(1931)に福岡県中間市の裕福な家に生まれました。
    お父様は元日本海軍の軍人で、なんと宝珠山炭鉱で働いていました。
    しかも、炭鉱の幹部として炭鉱夫の取りまとめをしていたそうです。
    父親に会いに子供だった高倉健さんが中間から汽車に乗って宝珠山駅まで行っていたようです。
    当時から中間市は筑前垣生筑前垣生(はぶ)駅と中間駅がありましたが、宝珠山駅には現在だと筑豊本線、今は福北ゆたか線と呼ばれていますが、新飯塚駅まで行って後藤寺線に乗り換えて田川後藤寺駅から日田彦山線で宝珠山駅にいけますが、当時は筑豊本線を南下して鹿児島本線の原田(はるだ)駅に出て、久留米駅まで南下して久大本線に乗り換えて夜明駅に行って彦山線、現在の日田彦山線ですが、乗り換えてやっと宝珠山駅まで行けるという、凄い大回りでの移動となっていたと思います。
    いぶき館には第三坑口にあった銘板が展示されています。
    銘板の石には寶珠山礦業所 第参坑と彫られています。

    参考
    ウィキペディア

    [いぶき館]
    住所 福岡県朝倉郡東峰村福井2296−1
    開館時間 9:00~17:00
    休館日   火曜日((火曜日が祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
    入館料   大人 300円、小中高生 150円 (15人以上は団体割引あり)
    電話    0946-72-2232
    地図



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    日田彦山線を彦山まで 第29回 宝珠山炭鉱4
    さて、広場にある説明板に近づいてみましょう。

    説明版に  接近しました
    説明版に近づきました

    いつもの様に説明文を転記します。

    宝珠山炭坑の坑口・一坑跡
    18世紀末江戸時代寛政年間以来、村民が燃料としていた宝珠山の石炭は、明治になると産業化され、明治四十五(一九一二)年には、石炭王・伊藤伝右ヱ門による買収で伊藤合名会社宝珠山炭坑となり、本格的な開発が始まり、大正五(一九一六)年、ここ大字福井川曲地区に延長730メートルの第一坑が開坑されました。
    周囲には、三抗、選炭機、事務所、鉱員・職員住宅、診療所、浴場などの施設が点在し、昭和二十六(一九五一)年4月には、1866トン、宝珠山炭坑の31%を出炭しました。
    正負両面を宝珠山に与え、日本近代化の一翼を担った日本炭業宝珠山鉱業所は、エネルギー革命により、昭和三十八(一九六三)年、完全閉山しました。


    とあります。
    ここは第一抗跡なのです。
    正負両面を宝珠山に与えという言葉に考えさせられるものがあります。

    宝珠山炭坑地図  一坑・三坑地図
    左下 宝珠山炭坑地図                   右下 一坑・三坑地図

    説明版には2つの地図が掲載されています。
    左下には宝珠山炭鉱全体の地図のようです。
    下の宝珠山駅付近に先にご紹介した二抗跡が書かれています。
    右下にはこの付近の地図が掲載されています。
    第一抗口の位置を中心に昭和20年代の坑外地図が書かれています。
    すぐ近くに第三坑口があるようですね~

    さて、説明版の左側に通路があります。
    そこを通ると・・・

    第一坑口跡  アップで
    第一坑口跡

    第一坑口跡がありました。
    坑道の奥に露出を合わせたので、外部が露出オーバーになってしまい見にくい写真になりました(>_<)
    奥からは茶色に濁った水が出ています。
    第二抗と開口の広さはあまり変わらないようです。
    私的には狭い印象です。

    反対側からも  撮ってみた
    反対側からも撮ってみた

    反対側に回り込んで撮影してみました。
    史跡として整備する為に、近年になってコンクリートで坑道の外を嵩上げし、内部に入られぬよう、排水路に転落しない様にフェンスを増設されたようです。
    しかも、かなりの部分が土中に埋まっているようです。
    ですので、当時の姿を偲ぶことはできません。

    坑道上にある  銘板
    坑道上にある銘板

    坑道の上には石製の銘板があり寶珠山炭礦 HOSYUYAMA COALMINEと書かれているように見えますが、、、ハズレてるかな…

    説明版の上に  コンクリート製の構造物

    坑道の上にある山中にはコンクリート製の構造物があります。
    大肥川に残っていた支柱と関係ある遺構だと思われます。
    トロッコ等のケーブル巻き上げ用に設置されたのでしょう。

    泥水は  大肥川へと
    泥水は大肥川へと

    泥水は大肥川へと流れ出ている様に見えます。
    途中に沈殿槽か浄化装置がある事を祈ります。

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    日田彦山線を彦山まで 第28回 宝珠山炭鉱3
    宝珠山駅を出発して、大行司駅を目指すワケですが、先程見かけた福井橋梁跡に回り込もうと思います。

    福井橋梁跡から宝珠山駅を  福井橋梁跡から大行司駅側を
    福井橋梁跡から宝珠山駅を                 福井橋梁跡から大行司駅側を

    福井橋梁跡に着きました。
    宝珠山駅を見ると、鉄道があったとは思えません。
    大行司駅側を見ると、主を失った場所は綺麗な菜の花がまだ撤去されていないレールを隠しています。
    左手の高台には村営住宅らしき建物が並んでいますので、ここも炭鉱関係の跡地になるのでしょう。

    福井県道踏切から  大行司駅方面を
    福井県道踏切から大行司駅方面を

    宝珠山駅へ行く時に通った福井県道踏切に戻って大行司駅方面を見てみました。
    線路を車で走りたい気持ちを抑えて、車のアクセルを踏みハンドルを切りました。
    もちろん国道に向けてです。

    やはり寄り道 大肥川です
    大肥川に寄り道

    さて、何故か(;^ω^)大肥川に到着しました。
    場所は、東峰村宝珠山庁舎の西側になります。
    はい、途中にある宝珠山交差点手前にある交差点を大行司駅へと右折せずに直進してしまいました(笑)

    この大肥川には宝珠山炭鉱の遺構が残っているのです。
    正確には「残っていた」でしょうか。

    宝珠山庁舎は元炭鉱施設があった場所に建っています。
    この近くにある第一抗の選炭機と第三抗の水洗機がありました。
    坑道からこの場所に運ぶためには大肥川を渡る必要があるので、コンクリート製の支柱が立っていました。

    これが  支柱跡
    これが支柱跡

    川底に僅かに見えるのが支柱跡です。
    平成29年九州北部豪雨により一部が流出してしまい、大きく破損した為に、安全を優先して撤去されました。
    コンクリートの破断面が確認できます。
    昔のコンクリート構造物ですね、鉄筋は確認できません。
    グーグルマップのストリートビューには健在していた時の姿が残されていました。


    googleマップ ストリートビューより

    正面に見える建物は東峰村保健福祉センターいずみ館で、その向こう側に宝珠山庁舎があります。
    ストリートビューにはその姿が残されていますね。
    狭い川幅に3脚の支柱が立っていたんですね。
    この支柱の上にコンベアかトロッコが通っていたのでしょう。
    ほんとストリートビューは便利ですね~~

    右をみると  何やら説明版が
    橋脚跡から右をみると説明版が見えます

    橋梁跡から右を見ると、大肥川の向こうに説明版が見えます。

    歩いて移動してきました  慰霊碑
    歩いて移動                           慰霊碑

    大肥川の両岸に遊歩道が整備されていて、楽に歩いて移動ができます。
    説明版のある広場に到着しました。
    最初に目に入ったのは、説明版より右手前にある慰霊碑です。

    明治45年(1912)に伊藤伝右衛門が買収を積み重ね、大正4年(1915)に土師炭鉱から宝珠山炭鉱と改称し経営していました。
    宝珠山鉱業株式会社から昭和15年(1940)7月28日に日本炭業株式会社に売却されるまで、事故での死亡者は皆無でした。
    これは炭鉱経営では非常に珍しい事だと思います。
    経営者が変わった宝珠山炭鉱は安全第一、従業員第一だった社風は一変しました。
    伊藤伝右衛門時代は抗員への福利厚生は充実しており、炭鉱夫用住宅も快適な造りとなってました。
    当時としては珍しく環境対策もすばらしいものでshちあ。
    川の水を汚さない様に、汚水浄化装置を設置し、更には浄化装置で浄化した水を川に流すのではなく、炭鉱内で循環させ石炭を洗う水として再利用されていました。
    筑豊で真っ黒に汚染された川とは大違いで、大肥川は綺麗な水が流れ泳ぐ事ができました。
    しかし、経営権が伊藤伝右衛門の手から経営が離れると、浄化装置が壊れたのか川の水は真っ黒に汚れ泳ぐことができなくなりました。
    昭和12年(1937)から始まった日中戦争により、日本国内の労働力不足が問題となります。
    その結果、併合した朝鮮から労働力を募集する事になります。
    太平洋戦争に突入すると更に労働力不足が深刻化し、朝鮮の地域ごとに人数を割り当て日本に送り込ませるようになります。
    強制連行と呼ばれる政策です。
    宝珠山炭鉱にも朝鮮人が送り込まれます。
    宝珠山炭鉱に割り振られた地域は主に朝鮮半島中部の忠清南道(チュンチョンナムド)と江原道(カンウオンド)でした。
    炭鉱での労働者は常時1,000~1,200人でしたが、日本人が4割程度で残りは朝鮮人が占めていました。
    昭和21年(1946)年の調査では17人の朝鮮人が死亡しています。

    慰霊碑の裏 慰霊碑の裏

    炭鉱の拡大は国策でした。
    仕事を求め多くの人が宝珠山村に集まり、村自体も賑わいました。
    しかし、国策により炭鉱で多くの人が苦しみ、炭鉱により土地も奪われ、人生を狂わされ、強制労働を強いられ、亡くなる人も少なくありませんでした。
    エネルギー政策の転換などにより昭和38年(1963)までに宝珠山炭鉱の役目は終わりを告げました。
    閉山後、宝珠山村からは多くの人々が仕事を求めて転出していきました。
    昭和15年(1940)の宝珠山村の人口は5,460人、昭和25年(1947)は6,238人にのぼりましたが、昭和35年(1960)に5,933人、昭和40年(1965)には3,138人に減少し、平成12年(2000)には1,729人と最盛期の3分の1以下となりました。
    鉱山で亡くなったのは炭鉱での事故だけではなく、昭和21年(1945)8月2日に行われた宝珠山炭鉱労組の臨時大会で、組合員を2分する争いとなり、組合長派の組員が演壇上にいた反組合長派の前組合長を凶器で襲撃し即死させるという事件も発生しました。

    宝珠山村が東峰村に合併した後の平成18年(2006)8月に宝珠山炭鉱慰霊塔が建立されました。
    慰霊碑の裏に書かれた碑文には

    明治四十五年宝珠山炭鉱開坑以降、昭和三十八年の閉山に至るまでの間、抗内外の変災により、不幸にして殉職した犠牲者を弔い冥福を祈念するため、ここに塔を建立する

    とあります。

    参考
    宝珠山村誌/宝珠山村誌刊行委員会
    ウィキペディア
    東峰村公式ホームページ http://vill.toho-info.com/



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