日本驚異の技術力! 江戸期に考案されたとは思えぬ「複合機械」とは何か
Merkmal1/5(木)12:20
東京・三鷹市の東京都指定有形民俗文化財「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」。通称は「新車」(画像:写真AC)
独自の動力技術革新を重ねてきた日本
東京都三鷹市の郊外、田園地帯の中に1軒の大きな古い農家がある。
地域での通称は「新車(しんぐるま)」。これは水車を意味する古い呼称であり、この農家の敷地内に大きな水車とそれに付随するさまざまな作業機があることから、そう呼ばれることとなったと言われている。
この建物の正式な名称を「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」(東京都指定有形民俗文化財としての呼称)、もしくは「旧峰岸水車場」(日本機械学会認定機械遺産としての呼称)と言う。
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中世から近世、そして近代にかけて、日本の農商工業は時代ごとに独自の動力技術革新を行ってきた。
最初は人力、そして畜力。中でも水力を利用した水車は、最初に基本となる構造物をしっかりとした設計とともに建設してしまえば、その後必要なのは定期的な保守と点検のみというもの。
しっかりした装置であれば、長期間にわたって安定した運転を行うことも難しいことではなく、水車とそれに付随する搗臼(つきうす)や挽臼(ひきうす)などの作業機はいずれも現代でいうところの自動運転が可能だった。
農業に欠かせない動力源だった水車
水車とその作業機は、米や麦の脱穀、籾(もみ)すり、精米、製粉といった庶民の生活に密着した業種を中心に多用されたほか、水田などへの揚水などにも大きく貢献した、信頼性の高い動力源だった。
そうした水車が大きく進化したのは江戸時代後半のこと。
それまで単機能だった水車に対して、複雑かつ精密な一種の「からくり仕掛け」を付加することで、数種類の作業を同時かつ自動でこなすことができる、いわゆる集中動力複合作業機械が完成されたのである。
旧峯岸水車場に設置された機器類は、まさにこうした複合機械の典型と言って良いだろう。
その構造の進化を順に説明する。
まず基本的な新車(しんぐるま/水車本体)が設置されたのは、江戸時代においても庶民文化が盛んだった文化文政年間の文化5年(1808年)頃のこと。
当初の水車は現在のものよりも小さく、接続されていた作業機も少なかったと言われているが、原型の新車自体の設計が良かったこともあり、接続駆動される付属装置は次第に増えていったという。
江戸から昭和40年代まで活躍した実用機
その結果、江戸、明治、大正の各時代にわたって、新車本体、付属の作業機の全てに対して時代ごとの改良を重ね、実に1968(昭和43)年まで実用機として稼働するという息の長い機械として地域の人々の役に立つこととなる。
最終的に現在の形となったのは、大正時代の大改造以降とも言われている。すでに蒸気機関やガス機関が普及し始めていた大正時代においても、動力源としての水車の重要性が決して失われていなかったという事実が興味深い。
ここで旧峰岸水車場の仕組みを詳細に観察してみよう。
それは当時の職人の英知の集大成というべき精密なものであり、まずメインの新車/水車から導き出された動力は、万力と称されていた複数の木製歯車で各部に振り分けられていたのだが、その数は実に19個というもの。
これらによって同時に駆動される作業機は、脱穀・籾すり用の搗臼14個(四斗張り12個/二斗張り2個)、製粉用挽臼2個、完成し挽き終わった粉とふすまを分けるやっこ篩(ふる)い1台、穀物を挽臼にまで持ち上げる「せり上げ(昇降機)」2台というもの。
これらが連携し整然と稼働する様は、当時のこの地にとって、ある種の産業革命に等しかったことは想像に難くない。
欧米の産業革命と一線画す奇跡の複合作業機
ちなみに新車本体を構成する部品の中で最重要部品とも言えた心棒(駆動軸)、軸受け、万力(歯車)などには、それぞれ時代をへるごとに多くの工夫がなされ、追加されていた。
特に、最も消耗が激しかった心棒とそれを支える軸受け(石材)には、独自の工作として軸受けに接触する心棒の表面には巻き板と称する特に堅く丈夫な樫材を張った二重構造としていたこと。
巻き板は合計12枚で心棒の周囲を覆う形となっており、その巻き板同士の間には菜種油を染み込ませた米ぬかを詰めることで、軸受けとの間の潤滑油の保持を良くしていた。
そして同時に、消耗に伴って摩耗した際には、巻き板の交換だけでその性能をよみがえらせることができるといった設計は、極めて優れていたと言っていいだろう。
なお新車本体の心棒は、当初は欅(けやき)材が使われていたが、おそらく大正時代の大改修時に鉄材へと変更されている。
ただし、その他の部分の心棒は欅材と巻き板が使われている。同じくせり上げも当初は木製だったが、これも改修時に鉄製へと変更されている。
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旧峯岸水車場の一連の機械群は、欧米の産業革命と一線を画していた近世日本における、奇跡の複合作業機に他ならなかった。
基本設計がいわゆる産業革命以前のものにもかかわらず、日本機械学会によって機械遺産に認定されたのも、当然というべき見事な装置である。