地球の端を南極とか北極とか呼ぶように、「極」は「きわみ」とか「果て」とかいう意味がる。
平安挙にも東西南北に「極」があり、それぞれの果てを「東京極」「西京極」「北京極」「南京極」と呼ばれていた。
しかし地名として残っているのは「西京極」にもである。
何故、その他の「京極」は消滅したのだろうか。

01寺町通mid
平安京の東の果てを「東京極大路」と云い、現在の寺町通にあたり、当時は30mもの道幅があったという。
平安京は造営される前から、右京の地は湿地帯で住むのに適さず、左京が平安京の中心となってゆき、右京は段々と寂れてゆくのである。
その為に、いつしか東京極は東が取れて「京極」と呼ばれるようになる。
さらに豊臣秀吉の京都改造で、西京極大路に寺院が集められ、寺町通となる。
明治になり、東京遷都で沈んだ京都に活気を取り戻す為に、寺町通の一筋東に「新京極」という一大、歓楽街を作るのである。

02一条通mid
また南北の果ては、北を北京極大路、南が南京極大路ではなく、北は「一条大路」、南を「九条大路」と呼び、この通りが南北の果てであり、南北もまた京極の名は残らなかったのである。

03桂川(1)mid
では何故、西京極だけが残ったかというと、残ったのではなく、一度消滅したものが復活したというのが正しいと云える。
西京極は平安京の右京にあたる地域で桂川の手前、阪急京都線と国道9号線が通る周辺である。
もとは平安京の西の果て西京極大路に由来するのだが、現在その通りは正確に特定されてはいない。

04桂川(2)mid
明治22年(1889)に市町村制が施行された時に、平安京の左京であり、京都でも有数の繁華街となった京極は京都市に組み込まれたのだが、西京極は葛野(かどの)郡京極村となるのである。
ところが昭和6年(1931)に京極村が京都市に編入されると、左京の京極と右京の京極の二つの京極が存在することとなり、後から編入された右京の京極を「西京極」としたのである。
それが西京極の名が、今に残った(復活)した理由なのである。