感動への需要が低下している

- -
かつて人々は感動を求めていた。これがだんだんと影を潜めている。大衆はそれなりに冷めている。さて感動とはなんぞやというと美化が伴う。なかなか素の状態では感動できないので、美化、要するに話を膨らませているわけだ。聖徳太子の超人的エピソードの大半は、昨今では大半の人が作り話と受け止めているが、以前はそうではなかった。本気で信じていたし、やはり信じたかったのである。あるいは戦前に「太平記は史学に益なし」と言った久米邦武(1839~1931)が酷い目に合わされたのも、やはり人々の感動を妨げた報いである。そもそも現在の天皇は北朝なのだから、太平記を有難がるのは不思議であるし、北朝が兄なら南朝は弟のようなものであるから、南朝なんぞクソ生意気にしか思えないが、おそらく皇位継承の争いはロマンというか野心というか、愚衆の心を揺さぶったのである。2.26事件の将校は秩父宮が大好きだったようだが、そういう下剋上精神である。では最近の人は物語的な感動(話を膨らませた感動)を避けているのかというと、それは明確には示せないが、フェイクニュース云々が盛んに言われるのは、それなりの冷静さがあるのだと思う。いろいろ検証して感動に水を差すのは以前ほどには怒られない。嘘でもいいから感動的な物語を信じたいという人間の欲求は弱まっている。われわれは等身大のみすぼらしい自分に馴染んでおり、物語(話を膨らませた物語)の力は低下している。たとえばネッシーのようなオカルトを信じたくても難しくなっている。プロレスが真剣勝負ではない、と露見したのはミスター高橋ひとりのせいか、というと、なんとも言えない。なにかしら検証されてしまうし、冷めているのである。美談を差し出されても、話が盛られているのではないか、と警戒する習性を身に着け始めている。神話は必ず崩壊してしまう。そもそも感動というのは、他人事に首を突っ込んで涙を流したりすることである。日本が金メダルを取っても自分の人生には無関係。他人の活躍は自分の活躍ではない、そういう個人主義の影響もある。
ページトップ