夏目漱石が英語の「I love you」を「月がきれいですね」と翻訳したという逸話は、複数の研究者がさがしても原典が見つからない。
夏目漱石がI love youを「月がきれいですね」と訳した説はガセ?出典をめぐる検証が興味深い - Togetter
逸話が語られはじめたのも1970年代の後半からしか見つからず、しかも「月がとっても青いから」と翻訳したことになっていたという。
他に夏目漱石は登場しなかったり、英語ではなくドイツ語だった、という変化球もあるという。
こうした経緯から、おそらく都市伝説だろうと考えられている。
この「月がきれいですね」の初出について、先日と同じように国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索を活用してみた。
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まず先行研究で指摘されているように、夏目漱石のつかった言葉としては引っかからなかった。「月が綺麗ですね」のような表記ゆれもいくつか試したが、同様の結果に終わった。
興味深いのが、1962年に英語ではなくドイツ語の書籍にそれらしい文章があること。上記ツイートで杉村喜光氏が紹介した山下洋輔『ピアノ弾き翔んだ』の元ネタだろうか。
ブロークン・ドイッチュ : ドイツ語知らずのドイツ旅行
図書
早川東三 著 白水社, 1962
61: .みな詩人だからね.月がきれいですねぇ,と言うのさ」と教えてやったが,実際に利用したかどうかはわから
送信サービスで確認してみると、ノンブル116頁から117頁にかけて、下記のようなくだりが書かれていた。
日本の女性に惚れたドイツ青年が「日本語で“Ich liebe dich.”(イヒ・リーベ・ディヒ アイ・ラブ・ユー)はなんと言うのかね?」とセツなそうにきくから,「日本人はそんな散文的なことは言わないのだよ.みな詩人だからね.月がきれいですねぇ,と言うのさ」と教えてやったが,実際に利用したかどうかはわからない.
すぐ後に「これは冗談だけれども」とも断っているが、逸話そのものが冗談というより、教えた内容が冗談半分ということだろうと思う。
厳密には翻訳ではないし、過去におこなわれた翻訳かその逸話を応用した冗談なのかもしれないが、これが逸話の原型という可能性も感じられる。外国語っぽさを残しつつ理解しやすくするためか、わざわざ英語をカタカナ表記でならべたため、夏目漱石の逸話へと変化していったのかもしれない。
いずれにせよ抽象的な表現を選ぶ日本人は外国人に深みを感じさせるという内容は、きっと誤解に困るそぶりで読者の自尊心をくすぐったことだろう。
ちなみに、検索で引っかかった前後の書籍に目をとおすと、そもそも「月がきれいですね」という言葉が恋人の会話の定型句となっていたことがうかがえる。
戦後作家研究
図書
佐古純一郎, 三好行雄 編 誠信書房, 1958
137: 小説は、恋人たちが「月がきれいですね」と話すかわりに、「米ソ戦がはじまりそうですね」とい
英会話のすすめ 上 (講談社現代新書)
図書
田崎清忠 著 講談社, 1965
34: 手に腰をおろして、「月がきれいですね。」などといいます。これは公式みたいな
前者は、堀田善衛の小説では恋人たちが「米ソ戦がはじまりそうですね」と会話しそうだという揶揄めいた匿名評の紹介だった。
後者は、英語における天気の話題は軽い意味だと説明するために、日本語の似た話題で重い意味の定型句を対比している。
このふたつ以外にも同じように定型句と認識する書籍が引っかかる。むしろ当時から安易な位置づけをされていたのではないか、という印象が残った。