◆村田兆治さん(11月11日逝去、享年72歳)
2022年も多くの著名人の方々が鬼籍に入られました。スポーツ報知では、身近な人の証言や知られざるエピソードとともに、故人をしのびます。
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兆治が死んだ実感がいまだにない。もともとコロナ禍で昔の仲間と会える機会が少なくなっていた。12月10日の沖縄での名球会イベントは4年ぶりの開催で懐かしい顔にたくさん会えた。兆治ともそのうち会えると思っていた。
たくさんの思い出がある。2003年にはイチローが所属していたマリナーズの「ジャパニーズ・デー」に2人で招待された。兆治が取り組んでいた「離島甲子園」では、長崎・五島列島で子供たちを一緒に教えた。フォークボールを投げるために鍛えた人さし指と中指の2本で、一升瓶を挟んで酒をついでくれた。
マウンドから気迫が伝わる投手やった。左足を高く上げて、右腕を投げ下ろす「マサカリ投法」は恐怖を感じるほど迫力があり、速くて重いストレートはバットが押し返されるほど威力があった。でも、盗塁はタダやった。「お前の背中を見たら分かる。ホームに投げる時は背中が硬いけど、けん制の時は柔らかい」と引退後に種明かしすると驚いていた。
最後に会ったのは、コロナ禍前の大阪のラジオ局。アナウンサーにフォークの投げ方を聞かれると、ブースの中でいきなり投げてみせた。危ないとか、リスナーには伝わらないとか関係ない。「昭和生まれの明治男」と言われた頑固な性格で、熱くなると、周りが見えないところがあった。それが長所であり短所。9月に羽田空港の保安検査場で女性検査員とトラブルになったのは、その性格が悪い方に出たのかもしれん。
火災で死去って、「何でや」とモヤモヤが残ったまま。年齢が2つ下やのに早すぎる。もっと野球の話がしたかった。(阪急OB・福本 豊)
◆村田 兆治(むらた・ちょうじ)1949年11月27日、広島県生まれ。67年に福山電波工(現・近大広島高福山)から東京オリオンズ(現ロッテ)にドラフト1位で入団。71年に初の2ケタ勝利となる12勝。75年には最多セーブと最優秀防御率。81年に19勝で最多勝。90年引退。95年から3年間、ダイエー投手コーチ。通算604試合に登板、215勝177敗33セーブ、防御率3.24。148暴投は歴代最多。右投右打。