節穴から鬼を見ようとした婆
「サグメ様~」
「なんじゃ!? あまり大声出すでない!」
青銅の馬に乗ってアメノサグメは部下の天邪鬼らを統率する。まるで幽鬼のような馬だ。
今日は節分。表向きは人間が豆で鬼を追い払う日なのだ。しかし……夜は……人間が支配する時ではない。節分の夜は百鬼夜行の日なのだ。つまり外は鬼が多数いるという意味である。
――本当は国津神、つまり鬼こそがこの国を作って来たはずなのに
サグメは大国主……つまり国津神のトップから天邪鬼らを守る命を下されている。と……同時に部下が人間に危害を加えないかを監視してるのだ。条件付きで。
「あまり人間を脅かすなよ?」
神有月と違って節分の場合は周辺の天邪鬼らが大社に集う日なのである。その帰り道なのだ。
――気配!?
なんと人間が節穴からこちらを見ているではないか!
素早くサグメは懐から取り出した極小の矢で射貫く。その速さは神業であった。
家から悲鳴が聞こえる。節穴の内側に命中した。
「お前ら、今日の夜は人間に外の世界を見るなと伝えているな」
「「伝えてますよ~」」
それを聞くとサグメは掌から火の珠を出した。
珠はふっと空に浮かぶ。
「やむを得ん……約束を破った人間が悪い。お前らも少し脅かしてやれ」
それを聞くと天邪鬼らは一斉に火の珠を作り出した。
――おおおおおおおおおおおおおお!
サグメが発した声は幽鬼そのものであった。
人間はこの声を聴いて震え上がる。
節分の夜は鬼が追われる日なのではない。百鬼……つまり国津神が支配する刻なのだ。
なぜ節分の夜に外を見てはならないのか。それはかつての国造りの神々が追われたみじめな姿をさらしたくないからなのだ。
――特に、出雲では
アメノサグメ。この神は高天原から攻めて来たアマノワカヒコを説得し国津神側に着かせ、シテタルヒメと結婚させた大国主。サグメはそんなワカヒコノの監視役である。ワカヒコは8年もの間幸せに……平和に暮らして来た。なのに「なぜ高天原に戻らない、お前はこの国を征服する天命を背負った神のはず」と言ってきたナキメなる鳥がいた。ワカヒコを……そして愛すべき国を守るように……「あの鳥は不吉です……射貫いてしまいなさい」と言ってワカヒコをその通りにさせた。なのに……本当のことを言っただけなのにサグメは邪神扱いにされ……天邪鬼の祖とされたのだ。ワカヒコは返し矢で絶命した。サグメはシテタルヒメと共に慟哭した。
サグメは思わずあの時のことを思い出した。
――あの時、自分で弓でナキメを射抜いていればよかったのじゃ
「どうしたでやんすか?」
部下が心配そうに寄って来る。
「大丈夫じゃ……なんでもない」
部下の天邪鬼はサグメが元気ないので励まそうとまるでうなり声のような声でさらに人を驚かせた。
「お前ら……本当にすまんな」
「いいえ、当然のことをしたまでっすよ!」
翌日、好奇心のあまり節穴から除いた婆は小さな矢が眼に刺さったせいで片目を失明してしまった。以来節分の夜の百鬼夜行を見てはならないという教訓を出雲の人々は得たのである。
(終)
『節分の晩には出雲に鬼が来るので、出雲の神様は弓を持って青銅の馬に乗り鬼を追って歩く。この日は出雲の人は家を締め切り、決して外を覗いて見ない。昔、お婆さんが節穴から覗いていたら、神様が弓でその目を射った。』
(大庭良美「節分のこと」『島根民俗』1巻4号 1939年 p2 採録地:津和野町・旧鹿足郡日原村)
ってことで出雲の神様つまり大国主側は鬼を退治する側じゃないどころか間違いなく百鬼夜行してます。そして引き連れてるのは天邪鬼のリーダーであるアメノサグメをはじめとする天邪鬼らです。やっぱり国津神というのは鬼の側なのです。タケミナカタなんて鬼として岩手(※岩で取った手形の事。敗北と出禁の証になる。念のため)を信州で取られていますし。
益田市の南にあるのが津和野町です。出雲か?と言われると実は違うんですが。ここは石見国と言われる場所です。よって参考文献からして間違ってます。ただ出雲国の村々と隣接してるので実は隣村の伝承を持ってきたという可能性も大きいので極めて微妙です。まあ「出雲」ということにしましょう。
でも、今の島根県民が「節分の日の夜は絶対に外を見ない」という風習を維持してるかというとそんなわけがなく普通にコンビニも深夜営業のスーパーもあるわけです。でも私は思います。たとえ迷信だと分かっていても先祖代々続いて来た風習は大事にしてほしい。1939年というのはもうとっくに昭和の時代です。しかも太平洋戦争の直前です。当時の人はそんな緊急時でも風習を大事にしてたのです。それが「民俗」というものの重みなんだから。ましてや神話の里なんだし。
ここで重要なのは鬼ではなくそっと節穴から覗いたお婆さんの方……つまり人間が眼を射られるということです。もちろん「見るなのタブー」って奴ですが
「青銅の馬に乗り鬼を追って歩く」って事で明らかに尋常な姿じゃないです。幽鬼そのものです。追ってるって鬼を本当に追い詰めてるのであろうか。むしろ「待ってー」とばかりに集まろうとしてるのではなかろうか。
では、次に節分は百鬼夜行の日なのか。そうなのである。
『以前は節分・大晦日・庚申の夜の他に夜行日があった。この日は夜行さんが首の切れた馬に乗って徘徊するという。この首切れ馬に出会うと、投げられるあるいは蹴り殺されるという。草鞋を頭に乗せて、地に伏していればいいと言っていたという。夜行日は拾芥抄にある「百鬼夜行日」のことだろう。正月は子の日、二月は午の日など、月ごとに日が定まっていた。』
(柳田國男「妖怪名彙(六)」『民間伝承』4巻6号 1939 p16.)
ということで実は百鬼夜行日というものは決められていたんです。ということで節分もそうだったんです。だからこの出雲の説話は下手すると大国主が先頭になって歩く百鬼夜行だったのかもしれません。
この説話を創作するに至りました。なぜかというと民俗風習というものは残すものと筆者は思うからです。