外食業界が本格的に「産業」として発展しはじめたのは1960年代。それまでは水商売と言われていた外食業が、今も人気のファミリーレストランやファストフードの創業に伴い、爆発的に市場を広げた。振り返るとまだ60年ほどと「若い」外食産業は現在、人手不足や原材料高など多くの課題を抱えて苦しんでいる。外食産業を救うために何が必要なのかを考えるために、歴史を振り返ってみよう。


 日経ビジネスはコロナ禍で苦しみ、今も苦境にあえぐ外食産業が向き合うべき構造課題を解きほぐした書籍「外食を救うのは誰か」を発行しました。書籍から内容を厳選してお届けする本連載。今回は「外食産業60年史」の第1弾です。多くの人にとって身近な存在の外食産業ですが、実は若い産業であることはあまり知られていません。外食業はいかに産業として発展したのか。3回に分けて振り返ります。

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大阪万博に出店したロイヤルのカフェテリア(写真:ロイヤルホールディングス提供)
大阪万博に出店したロイヤルのカフェテリア(写真:ロイヤルホールディングス提供)

 日本で店舗型の外食業が始まったのは江戸時代前期。1657年の「明暦の大火」以降とされている。江戸は火事と隣り合わせの街だった。密集した木造の建物に火が燃え広がり、大火事になりやすかった。本郷丸山本妙寺(現在の文京区)から出火して屋敷に広がった明暦の大火は、死者が6万人に上ったとされる。江戸史上、最大の火事だった。

 外食業はその火事からの復興とともに勃興した。幕府から復興の役割を課せられた諸大名たちは、江戸城や武家屋敷の再建、火事の延焼を防ぐための建物の移築を進めることになった。その力となったのが、全国から集まった作業員、主に独身男性たちだ。加えて、参勤交代により妻子を故郷に置いたまま江戸に滞在する武士も多かった。こうした人たちの食の需要に応えるべく、まずは屋台や行商人が商売を開始。その後、店舗型の外食店も登場した。外食業は空腹を満たす「給食」としての役割から始まった。

 江戸時代前期の文化人、井原西鶴が著した『西鶴置土産』には、浅草金竜山に奈良茶飯(奈良県の郷土料理、炊き込みご飯)を売る店があると紹介されている。この奈良茶飯は外食店の起源と言われることが多い。

『外食を救うのは誰か』(鷲尾龍一著、日経BP)
『外食を救うのは誰か』(鷲尾龍一著、日経BP)

 1630年代に15万人規模だった江戸の町人人口は、50年代には30万人弱まで拡大。その後、武士も加えると100万人を超える世界でもまれな規模の都市となった。人が増えれば、食の多様化も進む。江戸時代後期になると、料理書を出したことで知られる「八百善」のような高級料亭が出てきた。しょうゆやみりんなど調味料の普及を背景に、にぎりずしやてんぷらなど現代に連なる日本料理が生まれた。

 19世紀初頭は「グルメ時代」として知られ、料理屋は数千軒まで増えたという。明治に入って西洋の文化が流入すると、外食はさらに多彩になる。1860年代に洋食屋や牛鍋屋が生まれ、その後に中華料理屋も登場。鎖国中に国内で熟成してきた和食文化に海外文化が加わった。大正から昭和前期にかけては、すき焼きやカレーなど現代でも人気があるメニューも増え、料理店の「番付」も登場したほどだった。

 その後、戦時の統制下に「外食券制」が実施されて「外食」という言葉が広まったとされる。戦後はしばらく食糧難が続いたが、生活水準が回復するにつれて外食店も徐々に増加。冠婚葬祭の食事を提供する料亭、百貨店・ホテルのレストラン、駅前の大衆食堂などが人々の生活に定着していった。とはいえ、当時の料亭やレストランは特別な意味合いを持つときの食事で、利用する機会は少なかった。大衆食堂は日常的な存在だが、品質やサービスは十分ではなかった。

大阪万博でセントラルキッチンが活躍

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 コロナ禍で大きな打撃を受けた外食産業。採算性の低さや人手不足は表層的な問題にすぎない。真の問題はコロナ禍前から変わっていなかった。
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